文字数 1,993文字

 俺は、ようやく見つけた座れる場所に腰を降ろすと、スケッチブックを拡げた。
 ようやく、である。

 俺があのレストランに行ったのには、理由がある。



 俺は絵を描くのが好きである。
 目の前にある、自分の心が動いた物を描くことは快感以外の何物でもない。
 しかし、ある時、絵を最後まで描き切る頻度が減っている事に気がついた。

 飽きてしまう。

 静物であれ、風景であれ、人物であれ、途中で、いや、最初から全く興味が湧かないのだ。そんな状態で描けば途中で筆が止まるのは当たり前だ。
 一体どうした事か?
 絵を描くこと自体に飽きてしまったのか?
 いや、描きたい衝動はある。はち切れんばかりにあるのだ。
 では、一体どうしてなのだろうか? 親族及び、友人連中に絵を描く者はいない。だから一人で生まれて初めて絵を描くことについて、考えてみる。
 すると、あっさりと結論が出た。

 心を動かされることが無くなってきている。

 これは、どうしたことか?
 俺は二十代の大学生である。成長につれ、見聞が広がった所為だろうか? それとも、本式で絵を学んでいないからだろうか? それとも――
 悩んでいても仕方がない。
 俺の絵は我流であるから、美術教室に通ってみれば、前と同じように絵を描けるヒントが得られるのではないか、と考えた。

 美術教室の講師は、遠まわしに俺の絵は下手だと言った。
 それは判っている。
 バランスも配色もメチャクチャだ、と絵を逆さまにして講師は言った。まずはデッサンからだ、と。
 デッサンをやってみる。
 石膏やリンゴを前にして、あまりのくだらなさに溜息が出た。
 だが、基礎をしっかりやることにより、絵は飛躍的に上達する、と講師は頑なに言う。

 だから、そういうことを習いに来たのではない。最初にそう言ったではないか。俺は『心を動かされて絵が描ける状態にどうやったら戻れるか』のヒントを習いに来たのだ。
 絵を上手くなりたい、とは微塵も思わない。
 大体、絵の良し悪しを、何故他人が決めるんだ? 絵は人に見せる物か? 絵は自分の内面を通して世界を表現する事だろう?
 いや、それよりなにより、楽しいから絵を描くんだろう?

 講師は言う。
 絵は人に視てもらって初めて完成するものだ。そうやって、初めて絵は上達するのだ。
 だから! と俺は声を荒げた。
 上達する必要なんてあるのか? 誰かと競い合うわけでもないのに、上達する必要なんてあるのか?
 なるほど、と講師は言った。
 では、名作に触れてみるのはどうでしょうか? あなたの価値観が変わるかもしれません。

 かくして俺は、美術館に通い、美術書を読み漁った。
 だが――マティスだ、ピカソだ、ドラクロワだ。ビザンティンだ、ベル・エポックだ、バロックだ、とかなりの時間を費やしたが、何も変わらない。
 思い余って、旅行に行った。
 国内の名所を巡り、海外の名所を巡る。
 なのに、一ミリも心が動かない。
 成果といえば、美術教室のリンゴの産地が判るようになったくらいである。

 そこで俺は、ある小説を思い出した。
 芥川龍之介の『地獄変』。
 本棚から引っ張り出して、目を通す。
 地獄変は、宮仕えする絵描きが、自分の娘が焼かれる様を見ることによって作品を完成させ、自殺する話だ。
 彼は、本物を描くためには、本物を見なくては描けんと恐ろしい事を言ったがために、その結末に陥っていく。
 人によって、様々な解釈がなされる作品だが、俺の考えはこうだ。

 娘が焼かれた時、あの絵描きは『本当に心揺さぶられる物に今まで出会ったことが無かった』と悟ったのではないだろうか? 
 そして、『本当に心の奥底まで揺さぶられる物に出会ってしまった』からには、もう、『その先には何も無い』と悟ってしまったのではないか。
 だから首を吊ったのではないか。

 もしかすると、俺がやっていることは、『そういうこと』なのではないのか?

 描ければ、もう死んでもいいと思えるような『何か』を探し続ける。
 つまり、俺はあがけばあがくほどに、死に向かって走ることになっているのではないか? 

 上等である。 

 俺は走り出した。
 山に登り、滝を這いあがり、海に潜り、火事場を走り抜け、震災の跡地を歩く。
 だが、駄目だった。

 いよいよ人が死ぬ瞬間を見なくてはならないのか、とぼんやりと考えたが、それは最初から論外だと気がつく。
 なにしろ、両親が病気で他界する場面も見ているし、ネットでその手の動画は結構見ている。大学前で轢き逃げがあった時には、現場に出くわした上に、救急車を呼んだ。辺り一面血だらけで、轢かれた女性はその場でゆっくり死んでいった。
 それを描きたいとは、頭の隅にも浮かばなかったのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み