第1話

文字数 1,994文字

 痩せ細った三日月が、鋭く尖っている。
 まるで、日照りと飢えとで肉が削れた我らのようだな。
 自嘲しながら、尼子勝久は昔を思い出していた。
 今宵の月とは対照的に、豊満な月夜のことだ。国崩しが吼える声もまだ知らなかった勝久の元に、その男はやってきた。
 寺のそばの藪からぬっ、と姿を現した男は、勝久の姿を目に留めるや、その場で崩れるように膝をついた。
「どうか、私と共に」
 月明りに包まれるような夜に似つかわしくない、腹の底から響いてくるような声だった。
 男の名は山中幸盛といった。聞けば、勝久を総大将とし、再び尼子の名を世に轟かせるのが望みだと言う。
 願いが聞き届けられるまでは動かぬ、とでもいうような声で、そんな夢物語を語った。
「私は」
 喉の奥で、声が丸まった。
 男の異様な存在感に飲まれかけて、しかし何とか声を絞り出す。
「私は、家の名を背負えるほどの者ではなく……見ての通り。一介の僧に過ぎない」
「けれども貴殿の体には尼子の血が流れている」
 間髪入れずに、男は答える。
「そこに尼子が居る」
 男の声に、体の内側から飲み込まれそうになった。たった一言が、異様に重い。
 血などという、目に見えぬ不確かなものに縋ることができるのは、武であるが故なのだろうか。だとしたら、ここまで飲まれかけていながら、この男の言うことが自分の腑に落ちていかないのも頷ける。
 頭を垂れることでしか、意志を伝えられなかった。
「申し訳ない」
「どうしても、ですか」
「お引き取りを」
「どうしてもと仰せならば」
 意外とあっさりしているな、と下げていた頭を上げて、ぎょっとした。
 笑っている。
「私は、腹を切りましょう」
「は?」
 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「あなたの望みは……尼子家の再興なのでしょう。死ねば、再興も何もあったもんじゃない」
「ええ。ですが私は尼子家を再興するまでは死にませぬぞ。腹を切り、腸を引きずり出し、そして再び貴殿に問いましょう。共に参らん、と」
 雷に打たれたように、背筋が伸びた。この男は、私という人間を理解っている。
 腹を切る、という本気。こちらがそれをさせられないことを分かった上で、その本気を見せつける。つまりは、こちらの善意につけ入ろうとしているのだ。
「山中殿……随分賢しい方のようで」
「全ては尼子家のため。私は貴殿が山陰の覇者となるまで、腕が飛ぼうが顔面に鉄砲玉を喰らおうが死にませぬ」
 男の尼子への執着は、明らかに常軌を逸している。
 恐怖とは別の、もう少し明るい、純粋な好奇心のようなものが湧くのを、勝久は確かに感じた。
 あの日、好奇心のままに幸盛の手を取った。そこに後悔はない。
 勝久は「鹿介をこれへ」と近習に伝え、瞼を下ろした。息を細く吐き出すと、目頭から熱が逃げていった。
 ここ数日、鎧を片時も解かずにいた幸盛は、顔を固くさせながらやってきた。言わんとしていることが分かっているのだろう。
 城を開け渡す。
 兵の命の代わりに、私の首を差し出す。
 短く意志をを伝えると、幸盛も短く「いけませぬ」と返した。
「ならぬ。言う事が聞けぬか、鹿介」
 言うと、一瞬だが幸盛の目元が小さく痙攣した。ひるんだようにも見えた。
「今のは誠久様……勝久様の御父上様に、よう似ておられました」
「父上、か……」
「ええ。やはり貴方の中には、確かに尼子が居た。勝久様……」
「すまぬ」
 幸盛の口からこぼれ出かけた言葉を、勝久が先に口にした。
「最期まで苦労をかける」
「……私も共に」
「いや。お前は尼子を再興するまで、腕の一本になろうと鉛玉に顔を砕かれようと死なぬのだろう? そう申したはお前だ、鹿介」
 そうして、勝久は年若い青年らしい微笑を浮かべた。
「まるで2人分の人生を歩んだようであった。二十数年生きただけではあったが……」
 そうだ。まだ貴方は二十年もそこそこしか生きていない。
 これからだ。まだ、これからなのだ。
 幸盛は心の中で絶叫したが、全て声にはならなかった。
 目に見えぬ渦に首を絞められているような心地がして、それが無意識下で堪えていた嗚咽のせいであるのだと、目の前の御大将の目から流れていくものを見て漸く気づいた。
「お前たちのために命を捨てられるこの瞬間が、私の生きた時間の中、最も誇り高い時だ。そう思えたのは、お前たちとの日々があってこそなんだ」
 斯様なことは申されるなと、言えるはずがなかった。
「だから鹿介よ。今この時、私の誇りそのものを奪わないでくれ。頼むよ、私は何も怖くない。尼子はいつの日かお前が再興すると信じている」
 幸盛は、血が出そうなほど握り込んだ拳で、幾度も自身の膝を殴った。
 せめて今宵くらいは、月だけでも優しくあってほしかったと、勝久はひっそりと胸の内で嘆いた。
 まるで、山中幸盛という男の悔恨や、声にならない絶叫ばかりを増長させるような三日月が、静かに二人を見下ろしていた。
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