第1話

文字数 96,399文字

旅人からの
 メッセージ「平成から令和へと、被災地を訪れて」
   目      次
はじめに
一九九八年八月七日兵庫県明石海峡大橋 その一「北淡震災記念公園」(阪神淡路一)
二〇〇四年十一月二十三日 新潟県長岡市  その二「山古志村へ」(中越地震一)
二〇〇四年十二月二十六日(日)兵庫県 その三「第十回神戸ルミナリエ」(阪神二)
二〇〇五年七月二十七日北海道奥尻島 その四「北海道南西沖地震」
二〇一一年三月二十五日(金)東北道で  その五「ガソリンは、ありません・・・」
二〇一一年三月二十六日(土)宮城県 その六「ためらい」
二〇一一年四月二日(土)岩手県 その七「三陸海岸の思い出」
二〇一一年六月四日(土)岩手県大槌   その八「焼け跡になびく、日の丸の旗」
二〇一一年八月六日(土)陸前高田市 その九「うごく七夕まつり」
二〇一一年八月十一日(木)越喜来  その十「被災地の夜」
二〇一一年九月十日(土)石巻市雄勝 その十一「真実を伝えてほしい」
二〇一一年九月十日(土)雄勝 その十二「移動販売車」
二〇一一年九月十一日(日)釜石市鵜住居 その十三「敷地の範囲が分からなくなる?」
二〇一一年九月二十四日(土)奈良県   その十四「たどり着けなかった十津川村」一
二〇一一年十月八日(土)女川 その十五「献花台」と「墓石」
二〇一一年十一月二十五日(金)夜の東北道 その十六「渋滞」
二〇一一年十一月二十六日(土)陸前高田市 その十七「更地の中に献花」
二〇一一年十二月二十八日(水)宮城県 その十八「イルミネーション」
二〇一二年一月十四日(土)陸前高田市 その十九「幸せの黄色いハンカチ」
二〇一二年二月二十五日(土)石巻市大川 その二十「子まもり」
二〇一二年三月十一日(日)陸前高田 その二十一「一本松の願い」
二〇一二年四月一日(日)閖上 その二十二「消えずに残るメッセージ」
二〇一二年四月十九日(木)仙台市荒浜 その二十三「不審者」
二〇一二年四月十九日(木)東松島 その二十四「青い鯉のぼり」
二〇一二年五月八日茨城県つくば市 その二十五「竜巻」
二〇一二年六月八日(金)石巻 その二十六「灯火」
二〇一二年八月十日(金)南相馬市小高 その二十七「コンビニ移動者」
二〇一二年九月二十五日(火)奈良県十津川その二十八「たどり着いた十津川村」水害(二)
二〇一二年十月六日(土)大槌 その二十九「おはぎ」
二〇一二年十一月八日(木)閖上 その三十「復興桜」
二〇一二年十一月十日(土)飯舘村 その三十一「迂回路」
二〇一二年十一月十日(土)いわき市豊間 その三十二「最後の垂れ幕」
二〇一三年一月十二(土)気仙沼市岩井崎 その三十三「いのりの広場」
二〇一三年一月十二(土)気仙沼市 その三十四「気仙沼復興商店街のだるま」
二〇一三年二月十二日(火)大船渡市越喜来 その三十五「奇跡の階段」
二〇一三年三月二十一日(木)大船渡 その三十六「新しい交通システム」
二〇一三年三月二十四日(日)石巻市 その三十七「残った校舎」
二〇一三年四月十八日(木)気仙沼市大谷 その三十八「復興の丘に追憶の碑」
二〇一三年四月十九日(金)岩手県大槌 その三十九「希望の灯り」
二〇一三年四月十九日(金)岩手県田野畑村 その四十「カンパネラ田野畑駅舎」
二〇一三年四月二十二日(月)気仙沼大島 その四十一「絆 心を一つに」
二〇一三年四月二十二日(月)石巻市 その四十二「流されずに残った震災の碑」
二〇一三年六月十七日(月)山本町 その四十三「一一八二人の思い出」
二〇一三年六月十七日(月)岩沼市 その四十四「千年希望の丘」
二〇一三年七月三日(水)千葉県旭市 その四十五「津波被災の碑」
二〇一三年七月二十三日(火)北茨城市 その四十六「鮟鱇」
二〇一三年十月三日(木)陸前高田 その四十七「再建」
二〇一三年十一月二十七日(水)石巻女川 その四十八「女川いのちの石碑」
二〇一三年十一月二十七日(水)石巻大川 その四十九「返答に困ってしまったこと」
二〇一三年十二月二十九日(日)鵜住居 その五十「鵜住居地区防災センター」
二〇一三年十二月二十九日(日)陸前高田 その五十一「希望のかけ橋」
二〇一四年一月二十二日(水)相馬市 その五十二「鹿嶋の一本松」
二〇一四年一月二十三日(木)大船渡 その五十三「無料の温泉」
二〇一四年二月十日(月)飯舘村 その五十四「雪の中に仮設小学校」
二〇一四年二月十一日(火)大川 その五十五「オペラ歌手?」
二〇一四年二月十三日(木)大槌町赤浜 その五十六「伝えたいこと」
二〇一四年三月十五日(土)東松島 その五十七「人間に・・考え直す機会を・」
二〇一四年三月十七日(月)大槌 その五十八「青いペンキの文字」
二〇一四年四月十七日(木)いわき市四倉 その五十九「除線作業による渋滞」
二〇一四年四月十七日(木)福島県富岡 その六十「夜の森」
二〇一四年五月二十一日(水)長崎県島原市 その六十一「雲仙普賢岳」
二〇一四年七月三〇日 (水)新潟県山古志村 その六十二「震災から十年」
二〇一四年八月二十五日(月)広島県広島市 その六十三「タンスの話」(広島豪雨一)
二〇一四年九月十八日(木)福島県国道六号線その六十四「国道六号線全線通行可」
二〇一四年十一月十日長野県木曽福島 その六十五「御嶽山」
二〇一四年十二月十二日(金)長野県白馬村 その六十六「白馬」
二〇一五年四月十八日(日)広島県広島市 その六十七「感謝の梅」(広島豪雨二)
二〇一五年五月十七日(日)長野県栄村 その六十八「長野県北部地震」
二〇一五年五月二十五日(月)紀伊半島 その六十九「紀伊半島大水害」(水害三)
二〇一五年六月十日(水)相馬市 その七十「相馬市伝承鎮魂祈念館」
二〇一五年六月十日(水)東松島市 その七十一「仙石線」
二〇一五年六月十二日(金)岩手県・宮城県 その七十二「岩手・宮城内陸地震」
二〇一五年六月十九日(金)女川 その七十三「七十七銀行女川支店慰霊碑」
二〇一五年八月二十六日(水)北海道洞爺湖 その七十四「再び噴火した有珠山」
二〇一五年九月一日(火)仙台市蒲生 その七十五「継続は力なり」
二〇一五年九月十一日(金)茨城県常総市 その七十六「水害」
二〇一六年一月七日(木)飯舘村 その七十七「コンビニ」
二〇一六年一月八日(金)南三陸 その七十八「嵩上げ工事」
二〇一六年三月十一日(金)気仙沼市  その七十九「変化する県道」
二〇一六年三月十二日(土)南三陸 その八十「モアイ最中」
二〇一六年四月十五日(金)福島県富岡 その八十一「除線の駅」(一)
二〇一六年五月九日(月)熊本県阿蘇市 その八十二「生命線、ミルクロード」熊一
二〇一六年五月十四日(土)熊本県宇土市 その八十三「宇土市役所」(熊本震災二)
二〇一六年六月十九日(日)宮城県南三陸  その八十四「おかえりポストくん」
二〇一六年十月一日(土)広島県広島市 その八十五「復興交流館モンドラゴン」
二〇一六年十月二日(日)熊本県南阿蘇村  その八十六「南阿蘇鉄道」(熊本震災三)
二〇一六年十月四日(火)熊本県阿蘇市   その八十七「草千里」(熊本震災四)
二〇一六年十月四日(火)熊本県熊本市   その八十八「熊本城」(熊本震災五)
二〇一六年十一月二十一日(月)宮城県仙台市その八十九「震災遺構荒浜小学校」
二〇一六年十一月二十一日(月)東松島市 その九十「駅前に新しい町並み」
二〇一六年十一月二十一日(月)宮城県南三陸その九十一「志津川IC」
二〇一六年十一月二十二日(火)岩手県 その九十二「新しい町並み、道の駅」
二〇一六年十二月二十七日(火)福島県富岡 その九十三「除線の駅」(二)
二〇一六年十二月二十七日(火)福島県小高 その九十四「営業再開」
二〇一六年十二月二十七日(火)宮城県坂元 その九十五「常磐線運転再開」
二〇一六年十二月三十一日(土)宮城県東松島その九十六「東松島市震災復興伝承館」
二〇一七年三月十二日(日)東北      その九十七「新校舎」
二〇一七年三月十二日(日)岩手県野田村  その九十八「十府ヶ浦海岸駅」
二〇一七年三月十二日(日)岩手県大槌   その九十九「木の慰霊碑」
二〇一七年三月十三日(月)宮城県南三陸  その一〇〇「復興商店街」
二〇一七年三月十三日(月)宮城県若林区  その一〇一「荒浜記憶の鐘」
二〇一七年三月十三日(月)宮城県山元町  その一〇二「献花台から慰霊碑へ」
二〇一七年三月十四日(火)福島県     その一〇三「帰還準備」
二〇一七年七月二九日(土)宮城県岩沼市  その一0四「想いは未来へ」
二〇一七年七月二九日(土)宮城県岩沼市閖上その一〇五「新しい閖上の町並み」
二〇一七年七月三十日(日)宮城県南三陸町 その一〇六「新しい国道沿いに、大型店」
二〇一七年七月三十日(日)宮城県陸前高田市その一〇七「アベッセタカダ」
二〇一七年七月三十日(日)岩手県釜石市  その一〇八「釜石市魚市場」
二〇一七年七月三十日(日)岩手県山田町  その一〇九「鯨と海の科学館」
二〇一七年七月三十一日(月)福島県小高  その一一〇「小高中は」
二〇一七年七月三十一日(月)茨城県大洗町 その一一一「大洗サンビーチ津波」
二〇一七年十月十日(火)岩手県野田村   その一一二「津浪震災碑」
二〇一七年十月十日(火)岩手県普代村   その一一三「きらうみ」
二〇一七年十月十日(火)岩手県田野畑村島越 その一一四「伝えつなぐ」
二〇一七年十月十日(火)岩手県岩泉町    その一一五「道の駅岩線、営業再開」
二〇一七年十月十二日(木)宮城県東松島市  その一一六「あおなみ」
二〇一七年十月十三日(金)福島県飯館村   その一一七「道の駅までい館」
二〇一七年十二月二七日(水)千葉県旭市   その一一八「防災資料館」
二〇一八年三月十五日(木)福島県いわき久之浜その一一九「久之浜防災緑地公園」
二〇一八年三月十五日(木)福島県富岡町   その一二〇「さくらステーションきのね」
二〇一八年三月十六日(金)宮城県石巻市北上 その一二一「北上観光物産センター」
二〇一八年三月十六日(金)宮城県南三陸町歌津その一二二「かもめ館」
二〇一八年三月十七日(土)岩手県大船渡   その一二三「大型ショッピングモール」
二〇一八年三月十七日(土)宮城県気仙沼市  その一二四「移設された慰霊碑」
二〇一八年三月十七日(土)宮城県東松島市  その一二五「震災復興メモリアルパーク」
二〇一八年三月十八日(日)宮城県仙台市蒲生 その一二六「更地になってしまった蒲生」
二〇一八年三月十八日(日)福島県      その一二七「懐かしい国道三九九号線」
二〇一八年三月二十六日(月)福岡県朝倉市  その一二八「朝倉の三連水車」水害
二〇一八年四月  九日(月)熊本県熊本市  その一二九「熊本城」(六)
二〇一八年四月  十日(火)熊本県阿蘇市  その一三〇「道路の補修が済んだ草千里」
二〇一八年四月  十日(火)熊本県南阿蘇村 その一三一「阿蘇長陽大橋」(八)
二〇一八年四月 十一日(木)熊本県益城町  その一三二「更地になった益城町」(九)
二〇一八年四月 十一日(金)島根県大田市  その一三三「島根地震」
二〇一八年七月二十六日(木)岩手県宮古市  その一三四「宮古港フェリーターミナル」
二〇一八年七月二十六日(木)岩手県野田村  その一三五「大津波記念碑」
二〇一八年七月二十七日(金)岩手県     その一三六「山田線からリアス線へ」
二〇一八年七月二十七日(金)岩手県大槌町  その一三七「大槌町に新しい交流館」
二〇一八年七月二十九日(日)宮城県仙台市蒲生その一三八「旧中野小学校跡地に」
二〇一八年七月二十九日(日)宮城県岩沼市  その一三九「南浜中央病院」
二〇一八年七月二十九日(日)福島県相馬市  その一四〇「相馬海岸海開き」
二〇一八年七月二十九日(日)福島県相馬市  その一四一「松川浦大橋通行可」
二〇一八年七月三十 日(月)福島県浪江町  その一四二「浪江町請戸地区」
二〇一八年七月三十 日(月)福島県楢葉町  その一四三「ここなら笑店街」
二〇一八年十月 二日(火)岩手県大槌町   その一四四「戻されている墓石」
二〇一八年十月 三日(水)北海道安平町~  その一四五「道道十号線」(胆振東部一)
二〇一八年十月 七日(日)北海道南富良野 その一四六「南富良野に残・・」(豪雨一)
二〇一八年十月 十日(水)北海道厚真町  その一四七「厚真町富里」(胆振東部二)
二〇一八年十月十五日(月)南富良野    その一四八「水害を受けた根室」(豪雨二)
二〇一八年十月十六日(火)北海道鵡川   その一四九「道の駅むかわ」(胆振東部三)
二〇一八年十月二十日(土)福島県葛尾村  その一五〇「葛尾村小中学校」
二〇一九年三月十二日(火)宮城県東松島市野蒜その一五一「野蒜小学校」
二〇一九年三月十三日(水)宮城県石巻市女川 その一五二「慰霊碑と献花台」
二〇一九年三月十三日(水)宮城県石巻市雄勝 その一五三「祈りの碑と雄勝病院慰霊碑」
二〇一九年三月十三日(水)宮城県石巻市雄勝 その一五四「雄勝ローズガーデン」
二〇一九年三月十三日(水)宮城県南三陸町  その一五五「モアーチョコと献花台」
二〇一九年三月十三日(水)宮城県気仙沼市岩井崎その一五六「大震災遺構・伝承館」
二〇一九年三月十三日(水)岩手県釜石市鵜住居その一五七「リアス線試験運転中」
二〇一九年三月十四日(木)岩手県山田町   その一五八「リアス線織笠駅」
二〇一九年三月十四日(木)岩手県島越   その一五九「町並みは出来ません」
二〇一九年三月十五日(金)宮城県石巻市  その一六〇「日和山幼稚園慰霊碑」
二〇一九年三月十五日(金)福島県浪江町  その一六一「映像から文章に」
二〇一九年四月二十三日(火)大阪府高槻・茨木その一六二「大阪府北部地震」
二〇一九年四月二十四日(水)岡山県真備町  その一六三「西日本豪雨(一)」
二〇一九年四月二十五日(木)広島県    その一六四「西日本豪雨(二)」
二〇一九年(令和元年)五月一日(水)熊本県その一六五「熊本震災三年が過ぎて」
二〇一九年(令和元年)五月五日(日)愛媛県その一六六「西日本豪雨(三)」
二〇一九年五月六日(月)兵庫県淡路島  その一六七「北淡震災記念公園 野島断層館」

はじめに
 東日本大震災の記録をまとめていたら、五年間で原稿用紙六〇〇枚以上になってしまいました。そんなにあったら、読むのが大変です。箇条書きにしてみたら短くなったのですが、内容が分からなくなりました。
月日だけが経ち、まとめようとすればするほど記録だけが膨らみ、ますます読みづらくなってしまいました。様々な震災関係の出版物があったので、読んでみました。やはり、写真だけのものがわかりやすいような気がしました。                 すでに「東日本大震災」に関係する多くの出版物が、書店に置いてあります。それらのことを考え、私は千葉から八戸まで定期的に撮影を行った行動力と、「私だけが書ける書き方」で記録することを考えました。「読みやすいこと」「心に残ること」を考えあれこれ考えて書き直していたら、「心に残った出来事」というエッセイのような通信を出していたことがあったので、エッセイ風にして書いてみました。すべてを書き出すのではなく、何気なく気になったこと書き留めておきたいことを書き出すことにしました。まとめることが出来たのですが、何か物足りなさを感じ、「熊本震災」を盛り込んでみました。登山家であった私は旅の記録も書き残しておいたので、題名を「旅人からのメッセージ」とし、書き方を旅のエッセイのようにしながら書いてみました。書き直していくと、今までの旅と災害を合体させたような書き方になりました。最後にやっとたどり着いた題名が、「旅人からのメッセージ」です。 
東日本大震災から八年目は、災害が多かった年として歴史に残りそうです。「平成三十年災害」などと言われることもあります。そんなことを書いていたら、「平成」から「令和」になってしまいました。私はこの「平成」から「令和」に移り変わろうとした期間に、再び旅に出ました。旅には、二つの目的がありました。一つは「大阪府北部地震・西日本豪雨」の記録です。秋に「北海道胆振東部地震」を訪れたので、西日本を訪れることが出来なかったからです。出来たら平成が終わる前に訪れたいと考えました。もう一つは「熊本震災・九州北部豪雨」の記録の継続でした。
旅の最後に、淡路島「北淡震災記念公園」を訪れました。二十一年ぶりに訪れた「野島断層記念館」では、特別企画展「平成の災害~新聞はどう伝えたか~」が開かれていました。「一九九一年(平成三年)雲仙普賢岳火砕流」から始まり、最後は「二〇十八年(平成三十年)大阪府北部地震 六月二十八日~七月八日西日本豪雨 九月四日平成三十年台風二一号 九月六日北海道胆振東部地震」で終わっていました。
旅が終わると、元号はすでに「令和」になっていました。

「記号の説明」                                 □東日本大震災  ■東日本大震災福島県相馬市~広野町 ◇その他の地震災害 ▼水害◎その他の災害  ◆場所   ☆自分の感想など  ○日程や行動など  △学校  *花  ●メッセージなど
◇一九九八年八月七日(金)◆兵庫県明石海峡大橋
その一「北淡震災記念公園 野島断層記念館」(阪神淡路大震災一)
☆私はカヌーをルーフキャリアにセットし、中部地方から中国地方、九州地方、四国地方 へと「カヌーの旅」を続けた。
○鳴門から淡路島へと渡った。淡路島と言えば、「灰谷健次郎」が生活しているところだった。もしあえるなら、彼にあって見たいと思っていた。なぜ教師を辞めたのか、本人の口から聞きたいと思っていた。淡路島は、初めてではなかった。まだ四国連絡橋が完成していなかった頃、工事をする場面を何度か撮影したことがあった。
淡路島に渡ると、「北淡震災記念公園」で震災の時できた断層を見ることが出来た。偶然通りかかっただけだったが、興味があったので立ち寄った。四国連絡橋である「明石海峡大橋」には、さらに興味があった。私は、パーキングから橋を見た。綺麗な橋だった。店内にはいると、夜景の写真があった。私は、その夜景の写真が気に入った。できたら、見たいという気持ちに代わった。
ちょうど昼食の時間に入ったので、昼食を食べながら「橋を渡るか」それとも夜景を見るために「このパーキングにとどまる」かを考えた。夜景を見るまでには、六時間ほど時間をつぶさなくてはならなかった。ここで時間をつぶすと言うことは、今後の日程にも影響が出てくる。とにかく、八月九日までには帰宅しなければならなかった。       私は、時間をつぶすにもそのことを考えなければいけなかった。そのとき急に天候が代わり、雷雨が鳴った。雷雨と共に、大粒の雨も・・・。私は、悪天候の中で淡路島を見学するのは無理と考えた。しかし、橋を渡ろうという気持ちにはなれなかった。あのライトアップの「明石海峡大橋」の写真が頭から離れないのだ。私は思い切ってここで休息をとり、夜景を見ることにした。
店内で昼食をとり終えると、私は雨の中駐車場に戻った。それからエンジンをスタートさせると、ポップアップルーフのスイッチをオンにした。ルーフはゆっくりと上がり、車の上にスペースができた。そのスペースで、休息をとった。
夕方、車から出るとライトアップが見える場所を探した。そこで、さらに時間をつぶした。午後七時を過ぎると、人が徐々に多くなり、午後七時半にはかなりの観光客が集まった。天気は曇り空だったが、ライトアップはとても綺麗だった。何枚かの写真を撮ると、これ以上景色に変化はないと思ったのか、駐車場に戻った。
駐車場に戻った私は、ここから神戸に渡り神戸の夜景を見ることにした。六甲山から見る神戸の夜景を何回か見ているが、多分この「明石海峡大橋」からの夜景の方が綺麗だと思った。
私は、ゆっくりと橋を渡った。そして、神戸に向かった。阪神淡路大震災の後、神戸は見事に復興した。自分の目で、その後どうなったのかを見たいという気持ちも強かった。大震災があってから神戸を訪れるのは、二度目だった。六甲山からの夜景は、綺麗だろうか?
☆結局、日程のことを考えこの後帰路についた。帰宅し記録を整理していると、私が通過した「明石海峡大橋」は今年完成したばかりの橋だった。阪神淡路大震災から四年目の出来事だった。

◇二〇〇四年十一月二十三日◆新潟県長岡市山古志
△その二「山古志村へ」(中越地震一)
○中越地震の時(二〇〇四年十月二十三日)、私は中学校の特別支援教室の担任だった。生徒数は五人だった。毎年この時期は、市内の特別支援教室で「作品展」を開催していた。特に中学生は、自分たちの作品を地域の人(保護者)に公開し、一部の作品を購入してもらった。このシステムは、実社会に出て来年から働く生徒もいることを考えて生まれた。
私のクラスでは毎年この売り上げで「クリスマス会」を行うのが恒例となっていたが、今年の学級会で「募金として、山古志村へ」となり、最終的には「直接持って行くのが望ましい」となった。「いや」とも言えない私は、生徒の募金を持って関越道を走行した。
関越道は、一車線通行だった。路面が小さく盛り上がったところもあった。私は、生徒の募金(売り上げ)を持って、山古志村へと向かっていた。金額にして、約千四百円ほどだったが・・・。アフリカツインでの走り慣れていた関越道は、(棚田の撮影のため頻繁に使用していた)苦痛ではなかった。
「山古志村」近くまではすんなりと到着したが、通行止めが多くなかなか山古志中にたどり着けなかった。人に尋ねるのが一番と思ったが、これもなかなか大変だった。人がいない?やっと出会った人に
「すいません。山古志中学校に行きたいのですが?」
と、尋ねると
「今、学校は山古志村にはないよ。長岡市内だ。」
との返答、私は慌てて長岡市内に向かった。
市内に到着しても、どこに行けばよいのか分からず、学校に向かうより(祝日だから)、教育委員会に向かった方がいいのかなと思い、教育委員会に向かった。長岡市役所で場所を尋ね、教育委員会に到着することが出来た。祝日にもかかわらず、女子職員の方が対応してくれた。私は、封筒に入った小銭をポケットから取り出すと
「茨城県の中学校から来ました。作品展の売り上げを生徒達が話し合って、こちらに募金したいと考え、私が代表として持ってきました。額は少ないのですが、本来ならクリスマス会に使用するところを・・・額でなく、生徒の気持ちを受け取ってください。」
と小銭の入った封筒を渡すと、突然対応した職員の目に涙が・・・。私も目のやり場に困り、下を向いて黙ってしまった。
 しばらくして女子職員が、
「わざわざ茨城から・・・、こんな遠くまで・・・、有り難く使わせてもらいます。本当に皆さまの暖かい気持ちが嬉しいです・・・。」
と、小さな声で言った。
その後私のクラスに、直筆のお礼の手紙が女子職員から届いた。更にしばらくしてから、山古志中生徒会からお礼の手紙が私のクラスに届いた。
☆棚田撮影で新潟県を訪れたときには、必ず山古志村にも足を伸ばすようにしています。その後何度か訪れましたが、この「勤労感謝の日」のことが一番心に残っています。

◇二〇〇四年十二月二十六日 (日)◆兵庫県神戸市
その三「第十回神戸ルミナリエ」(阪神淡路大震災二)
○ひかりで神戸に向かう。神戸を訪れるのは、五年ぶりかもしれない。午後一時過ぎに新神戸駅に到着、早速自転車を組み立てる。駅を出ると、すぐに坂道だった。下ると、左側にビジネスホテルがあった。あらかじめ新幹線とセットになっていたホテルだった。そこに荷物を置いて、神戸の町へ・・・。
「北の異人館」へ向かうが・・・坂道ばかりで・・・。結局自転車を乗らずに押していくことになる。坂道があったから自転車を押したと言うより、道が狭く人があまりにも多いので、自転車を押したという感じだった。
夕方近くなると、「神戸ルミナリエ」を見るために(参加するため)、「三の宮」に向かう。ここでは自転車を押すこともできないので、自転車を適当なところに止めて歩く。イルミネーション点灯の時間までにはまだまだ時間があったが、人の流れは会場へと向かっていた。今行かないと見られないかもしれないと思ってしまうような、流れだった。私は今日が最後だと知っていたので、その流れについていった。
人があまりにも多かったのか、入場制限や進路制限などがあり流れはスムーズではなかった。私はあまりにも時間に無駄が多いと思い、流れからぬけだし自分のルートでイルミネーションへと向かった。流れから遠ざかってみると、思っていたより混んでいなかった。
だいたいの流れや会場の様子が分かったので、私は点灯までの時間をつぶすことを考え早めの夕食を考えた。適当なレストランが見つからず、探すのに苦労してしまったが、どうにか夕食をとることができた。
 イルミネーション点灯の時間がきたので、私はレストランを出た。レストランから会場まではすぐだった。それよりも驚いたのは、レストランを出てすぐにイルミネーションが目の前に広がっていたことだった。それは、今までのどのイルミネーションよりも神秘的だった。このイルミネーションだけで、「阪神淡路大震災」への想いが伝わると思った。「神戸ルミナリエ」は、神聖な儀式だった。                    ☆自転車に乗ったホームレスが多いのにも驚いた?私は更に旅を続け、自転車でしまな海道を走行し四国へと渡り、瀬戸内海の島々を訪れた。

◇二〇〇五年七月二十七日◆北海道奥尻島(北海道南西沖地震)
その四「奥尻島津波館」
○毎年夏は、北海道を旅するのが私の恒例行事だった。山古志村を訪れたことがきっかけで自然災害に興味を持ち、今回は奥尻島を訪れることを旅の目的とした。
七月二十三日に東北道を北上し、二十四日には八戸港から北海道(苫小牧)港に上陸する。走り慣れた道東方面から道北方面を旅すると、日本海側を南下し二十七日に瀬棚からフェリーで初めて奥尻島を訪れた。地震発生から、十二年後のことだった。帰りのフェリーの時間を確認するとおよそ二時間ほどの滞在だが、小さな島なので問題はなかった。
時計回りに幹線道路を走行すると、「北海道南西沖地震」で大きな被害を受けた「青苗地区」に到着した。静かな地区だった。建物は、新しい建物が多かった。「青苗岬」に向かうと、右側に「奥尻島津波館」があった。迷わずにバイクを止め、入館料を支払うと誰もいない館内を一人見学した。
☆再びフェリーで北海道本島に渡ると、函館港から大間港に向かった。二十八日に本州に渡ると、二十九日に東北道を走行して帰路についた。
奥尻島に滞在したのは二時間ほどではあったが、一九九三年七月十二日に発生した「北海道南西沖地震」について知ることが出来た。ただ残念だったのは、奥尻島に渡り、「奥尻島津波館」を訪れる人が少ないと言うことだった。奥尻島内で死者行方不明者合わせて、一九九人の命が失われた事実をいったい何人の人が覚えているのだろうか?

□二〇一一年三月二十五日(金)◆東北道で
その五「ガソリンは、ありません・・・。」
○三月二十四日より、東北道が一般車にも解放された。関東では二週間ほどガソリンが手に入らなくて大変だったが、三週目からはどこでも手にはいるようになった。私は、燃料と食料、宿泊場所、トイレの問題が解決されれば問題ないだろうと考えていたので、東北行きを決行した。                                 本当なら二十四日(木)の夜から行きたかったが、二十五日(金)残務整理のため職員は全員出勤ということだったので本日になった。IC手前のコンビニで食料を買い込み、高速道路へと合流した。夜の東北道は、福島にはいると完全な雪になっていた。雪道を走ることの多い私は、十一月から四月までスタッドレスタイヤのままでいることが多いので問題はなかった。トイレも簡易トイレをセットし、キャンピングカーなので宿泊場所にも問題はなかった。唯一心配だったのは、燃料の問題だけだった。私は高速道路なのだから燃料がないと言うことはないだろうと確信していたので、現地での給油だけ心配しての決行だった。                                    高速道路でなるべく満タンにしてからICを降りるのがよいと思っていた私は、早速SAで給油するために、IC手前のSAでスタンドに立ち寄った。私がスタンドに車を乗り入れると、店員がすぐに車に近寄ってきた。私が窓を開けると、店員が
「申し訳ありませんが、ガソリンはすでにありません。軽油でしたら、まだございますが?また、なるべく多くのお客様に給油するため、上限は三千円まででお願いします。」
と、説明してくれた。
私の車は軽油だったので給油することが出来たが、ガソリン車だったらアウトだった。長者原SAでは、ガソリンを入れるための長蛇の列が。更に不幸なことに、被災地ではガソリンが給油できず困ってしまった。私は、燃費から帰宅する距離を計算して走行した。
☆「上限は三千円まで・・・。」と書きましたが、書き残したメモには四千円と書いてあり、保存してあったレシートは二千円でした。不安になりネクスコに問い合わせをしましたら、「各スタンドによって対応がまちまちでした。」との返答・・・?真ん中をとって、三千円と書かせてもらいました。                          便利な車も燃料がなければただの鉄の塊・・?燃料計を気にしながら走行、胃の痛くなる三日間でした。今思い起こすと、瓦礫の被災地を走行したことが思い出されます。

□二〇一一年三月二十六日(土)◆宮城県南三陸町
その六「ためらい」
○雪の降る国道三九八号線をゆっくりと下ると、南三陸の町が見えた。私は、瓦礫が撤去された国道の両側の光景に、言葉を失った。南三陸の町が瓦礫の山、かろうじて残されていたのは、鉄筋コンクリートの建物だけだった。カメラを手にしたが、シャッターを切ることをためらってしまった。
瓦礫の谷間谷間に、たたずむ高齢者の姿が見えた。そのまま国道四十五号線を走行し、女川の町へと向かった。自衛隊が国道の瓦礫を撤去している作業のじゃまにならないように走行し、女川病院の高台にたどり着いた。高台にある女川病院から見る町並みは、言葉では言い尽くせないものがあった。
女川から、仙台市方面へと向かう。道路は泥で覆われ、家の中には泥が流れ込んでいた。走り慣れた県道十号線を走行して、仙台市若林区方面へと向かった。市内の道路の両側は、車の墓場のようだった。とにかく、県道の両側には走行のじゃまにならないように、流された車が山積みになっていた。若林区周辺の田畑には、流された車と瓦礫が見えた。   県道をそれると、泥で走行できない道路があった。とにかく走行できる道路を流れに逆らわず走行し、どうにか「仙台東部道路」に合流することが出来た。驚いたことに、「仙台東部道路」の町側は津波の被害を受けていなかった。「仙台東部道路」の海側には、流された瓦礫や車があったが、町側には見られなかった。
☆シャッターが切れないまま三陸町に入り、撮影はしないつもりで三陸町を通りすぎる予定だったのが、途中で再び迷いが出てきた。しばらく考え込んで、引き返して撮影を行った。(私は報道関係者でもないし、この撮影で生計を立てている者でもありません。だから、ためらうことはありました。)
帰宅すると異動の決まっていた私は離任式に出席、体育館ステージの壇上で
「東北道は、雪でした。雪の降る東北道を北上し、被災地は・・。私がここで被災地の話をしている時間にも、世界のどこかで苦しい生活をしている人々がいると言うこと・・。」
と、マイクを片手に熱く語っていました。(NGO活動を行っていたので、パキスタンやアフガニスタンの難民キャンプの子ども達のことが頭に浮かんでしまいました。)    今思うと、離任式にふさわしくなかった内容だったと反省しています。ただ胸が熱くなり、「東日本大震災は日本で起きた災害であり、難民キャンプでの生活は終わることなく、地球上の何処かで今でも続けられているという現実」を、目の前にいる生徒達に伝えたかっただけなのです。

□二〇一一年四月二日(土)◆岩手県三陸海岸
その七「三陸海岸の思い出」
○東北道、八戸道とつなげて高速道を走行し、国道四十五号線を南下して野田村に到着する。この野田村に友人が勤めていたことがあったので、いつも待ち合わせに使っていた道の駅に向かった。思い出が多い道の駅でトイレ休憩のつもりが、トイレが使えず仮設トイレを使用する。                                  再び南下し、宮古市田老町へ到着する。万里の長城と言われた防潮堤は残ってはいるが、町は流されてしまった。何度か利用した食堂は、高台にあったので残ってはいたが営業はしていなかった。南下を続けると、砂漠地帯に突入?ちょっと大げさな書き方ですが、山田町が砂ぼこりでひどく、前が見えないうえに「迂回路」が多かった。その後、釜石市鵜住居・両石は車両通行止め、諦めて三陸道を走行し陸前高田の町へ・・・。陸前高田の町は、鉄筋ビルを残してすべて流されてしまっていた。
陸前高田から国道四十五号線が寸断されて通行困難となり南下は不可能、諦めて国道三四○号線を走行、仮高田市役所を右手に国道を下ると国道の両側が瓦礫の山。国道三四〇号線は瓦礫を見ながらの渋滞が続く、ふと去年の秋にこの国道を走行し「里山の風景」や「柿」の写真を撮っていたことが思いだされた。
☆この三陸海岸を何度バイクで走行したことだろうか、数えたらきりがない。一番の思い出はオートバイではなく、自転車で茨城から北海道へ向かったときにこの三陸海岸でバテてしまい、友人に迎えに来てもらったことだ。結局この三陸海岸を断念し友人に盛岡まで送ってもらい、国道四号線を北上して北海道に渡ったことが懐かしく思いだされた。

□二〇一一年六月四日(土)◆岩手県大槌町
その八「焼け跡になびく、日の丸の旗」
○山田町から、国道四十五号線を南下する。トンネルを抜けると、左側にコンビニがあった。国道を左折してコンビニに入り、トイレ休憩をとる。コンビニから県道二八〇号線沿いに左折をすると、被災した大槌の町並みが見えた。左側には焼け跡の残る建物が目についた。役場、寺、大槌小も校舎に焼け跡が・・・。仮役場になった大槌小の一階の所で作業をしているボランティア大学生は、汚れた写真をきれいに洗っていた。次から次へと汚れた写真を持ってくる大学生、それを丁寧に洗っている大学生、そしてそれを洗濯ばさみで丁寧に吊し、乾かしている大学生・・・。
焼け跡の残る建物が多い左側とは対照的に、海側である右側は更地になっていた。その更地に、日の丸の旗が風になびいていた。風になびく日の丸の旗、焼け跡の残る更地、さらに焼け残った枯れ木が印象深いワンシーンを作り出していた。
☆大槌町では、役場職員の半数が震災の犠牲になったと言うことだ。そして町長も・・。焼け跡の残る大槌小が仮役場、災害対策本部に・・・。(その後大槌小は、役場として復活しました。現在の大槌町役場は、小学校だったのです。役場になるまでの過程を見ている人は理解できると思いますが・・・。残念なことに、焼け跡に残る日の丸も撮影し続けていたのですが、現在はありません。)
☆その後(十月二十九日)、気仙沼市西みなと町に設置された歩道橋に日の丸の旗が掲げてあったのを発見した。焼けた歩道橋に何故かまぶしい日の丸の旗には、「がんばれ日本、がんばれ東北」の文字が見えた。震災から半年が過ぎ、被災地のところどころに日の丸の旗が風になびく光景が続く。
 また、新地で見つけた日の丸はぼろぼろになるまで風になびいていた。私はこれをきっかけに、被災地になびく日の丸をたくさん撮影した。

□二〇一一年八月六日(土)◆岩手県陸前高田市
その九「うごく七夕まつり」
○陸前高田で「うごく七夕まつり」が行われた。私も今回始めて見る七夕であり、今まで全く知らなかった。
陸前高田に伝わる祭で山車を地区ごとに引く祭なのだが、今回の津波で山車が流され祭を行うことは不可能と思われていたが、大石地区の山車が完全ではないが手直しすればどうにか祭に使えると考えられ、祭が行われることになったらしい。実際に祭りで山車は引かれたが、ボランティアの人が多いのには驚いた。特に、海外からのボランティアが多く参加して山車を引いていた。
☆山車は、大石公民館(復興の湯がある)から引かれ、瓦礫の山になった夕暮れの高田市内に消えていったが、瓦礫だらけの中に消えていく山車の姿は何とも言えないものがあった(被災した車が撤去されずに山積みになっていたことと、被災した鉄筋コンクリートの建物が解体されずに残っていた)。

□二〇一一年八月十一日(木)◆岩手県大船渡市越喜来
その十「被災地の夜」
○大船渡市越喜来で「復興花火大会」を見ようと夕方から待っていると、大型バスが数台到着した。辺りがだんだんと暗くなるにつれ、地元の人との会話が多くなってきた。バスから降りてきた人たちが、「暗くて何も見えない。」「真っ暗で何も見えないね。」と口々に言うと、私の隣にいた一人の老人が「震災の日から、街の灯りがなくなった。」と、小さくつぶやいた。       
そんな会話の中、「復興花火」が行われた。今回、東北八カ所で行われることになっていた。私は、道の駅「さんりく」で車中泊をしたり、バイクの時にはテントを張っていたので、今回は「越喜来」と決めていた。                       花火大会が終わり人々がいなくなると、辺りが真っ暗になった。その時、ふと老人のつぶやきが急に思い出された。
☆私は、その夜は空き地にテントを張って寝ました。真っ暗でした。その老人の言葉を耳にしてから、何度か被災地の夜の撮影をしてみました。真っ暗なのでぶれてしまい、使い物になりませんでした。これが、町灯りや車のライトの明かりが有れば、シャッターがおりるのですが・・・・。

□二〇一一年九月一〇日(土)◆岩手県石巻市雄勝
その十一「真実を伝えてほしい」
○雄勝で、被災した住宅地を撮影していた。建物からして、同じ建物が被災して並んでいたので、町営住宅だと思われるが?更に先に進むと、献花した花や遺品が置いてあった。そちらは一戸建てのようで、基礎だけが残り、建物は解体されたのか残っていなかった。基礎がいくつか残っており、どの基礎も大きさや形が違うので、ここに一戸建てが数軒あったと言うことだけは理解できた。                         私は、残された遺品と咲いている花をアップで撮影していた。すると、偶然献花する女性と目を合わせてしまった。私は知らない振りをして撮影を続けていたが、ひょんなことから会話になり、聞き役になってしまった。旦那さんが雄勝小の教員をしていて全員助かったが、ここに住んでいた母が逃げ遅れ、死亡したことを何度も繰り返し話していた。特に、ここで母親が生活していたことを強調していた。また、私を報道関係の人と勘違いして、「真実を伝えてほしい。」「真実を記録してほしい。」と、強調しながら話していた。
☆その後、この敷地に「雄勝ローズガーデン」が作られた。

□二〇一一年九月一〇日(土)◆岩手県石巻市雄勝
その十二「移動販売車」
○震災から半年が過ぎ、被災地にコンビニが開店したり、道路が復旧したりして、整備が進んできた。この雄勝も、国道三九八号線の復旧によって、女川からはいることが出来るようになった。そんな雄勝に、ピンクの移動販売車が登場した。
瓦礫の撤去作業前にある移動販売車に気づいた私は、早速ウーロン茶を購入しながら
「雄勝には飲み物を購入する場所がなかったから、この移動販売車は有り難い。」
と言いながらお金を支払うと、周りにいた作業員が笑っていた。           ☆被災地を訪れて一番困るのは、トイレの問題、二番は飲み物(食べ物)かな?その後、雄勝商店街が出来てからは、移動販売車を見かけることはなかった。

□二〇一一年九月十一日(日)◆岩手県釜石市鵜住居
その十三「敷地の範囲が分からなくなる?」
○被災した釜石市鵜住居で、基礎コンクリートに「界のコンクリートです解体不可」の文字を発見した。個人の敷地の範囲が分からなくなるから、基礎は壊さないでくださいという意味で書いたのかなと思われるほど、白インキで大きく分かるように書かれていた。 ☆この時期の被災地は、建物がドンドン解体され、基礎だけが残されている地域が多く見られましたが、直接基礎に文字を書いてある物を見たのはここだけでした。また、これをきっかけにして、何故基礎を解体しないのか、その理由が分かったような気もしました。

▼二〇一一年九月二十四日(土)◆奈良県国道一六八号線
その十四「たどり着けなかった、十津川村」(紀伊半島大水害一)
○早朝の大宇陀の町並を撮影し、仏隆寺の彼岸花を撮影すると、明日香へと向かう。仏隆寺は、彼岸花が相変わらずきれいだった。仏隆寺の階段の所で、おばちゃんグループの一人がつらそうな声で「次はいつ来られるかわからへんな」と、言っていた。年齢には勝てないなと思いながら聞いていた。                          明日香の棚田には、「絆」と「やまとなでしこ」の文字が多かった。それが、明日香のかかしには大きく現れていた。私はこの明日香の彼岸花と稲穂の棚田を満喫すると、十津川村へと向かった。国道一六八号線を走行して、十津川村に向かう。国道の所々が通行出来ないのか、「迂回」と「通行止め」の看板が多かった。何度かルートを探したのだが、どのルートも「迂回」と「通行止め」の看板で、前進することが難しくなってきた。   国道からそれて走行すればするほど、不安が大きくなってきた。とうとう「時間」と「燃料」の不安から、十津川村を訪れることはあきらめて四谷千枚田に向かった。四谷千枚田に着いたのは、午後四時過ぎだった。山間部なので、辺りは暗くなりかけていた。棚田の風景を目の前にすると、彼岸花が似合う棚田と言うことを改めて感じた。
☆私は、春は「桜」秋は「棚田と彼岸花」と、テーマを決めて撮影を行っていた。仏隆寺は、「桜と彼岸花」の撮影で何度か訪れていたが、この時の「次はいつ来られるかわからへんな」と言う言葉が強く心に残っている。私は、いつかは老いていく自分と照らし合わせながらおばちゃんグループの会話を耳にしていた。
☆明日香の棚田で行われていた「かかし祭」では、「東日本大震災」で生まれた「絆」とワールドカップ優勝で生まれた「なでしこジャパン」の言葉が多く使われていた。
またこの時、十津川村で水害(紀伊半島大水害)が起こったのでそちらに向かったのだが(今回の目的は十津川村に向かうことだったので、災害に強いアフリカツインで向かう)、迂回路が多すぎてたどり着けず、予定を変更して「四谷千枚田」に向かった。
□二〇一一年十月八日(土)◆宮城県石巻市女川
その十五「献花台」と「墓石」
○女川を訪れ、高台の病院に向かう。車を止めると、駐車場の所に出来た献花台に張り紙があった。
●皆様へのお願い
・火を使用した供養(ローソク又線香)は火災の恐れがあるので使用しないで下さい
・果物や食品又飲み物を封を開けて供えないで下さい
・病院の敷地内です。タバコの吸い殻やゴミのポイ捨ては絶対にしないで下さい
☆この高台は女川市内を見渡せるので、自然に献花台ができてしまったのだろう。一番印象に残ったのは、カーネーションの花が添えられたときだった。各被災地には、同じような献花台が自然に作られた。
分かったことは、遺族の方達は作られた献花台に献花するよりも、献花する「場所」にこだわるような気がする。亡くなった場所とか、本人が勤めていた場所(生活場所)などに・・・。場合によっては、公的機関が設置した献花台よりも、自然に発生した献花台の方が献花が多い。
☆この献花と並行して、この震災を境目にして「墓石」も変わった。「○○家」という墓石から、「故人」に関わりのある墓石に・・。「趣味」「ことば」などに・・・。例えば、故人の趣味が釣りだったら、墓石に魚の絵や釣り竿などを加える。あるいは、「好きな言葉」を加える。
墓石の形も、縦長から横になったり丸になったりと、様々な墓石が作られるようになった。「家」から「個人(故人)」に変化したような・・・。

□二〇一一年十一月二十五日(金)◆夜の東北道で                その十六「渋滞」
○東北道は、十月から「震災復旧工事」で渋滞が続く。白石から続く渋滞であり、深夜の復旧工事なので、私は「吾妻PA」で車中泊をした。
☆明け方だったら渋滞も緩和されるだろうと思っていた私は、早めに車中泊をして午前五時に再び運転を再開したが、緩和されていなかった。こんなことなら、眠くなるまで走行し、眠くなったら車中泊にすべきだったかな?
また、東北道で多く見かけた自衛隊車両も徐々に撤退し見かけなくなった。震災当時は、全国から応援に駆けつけた、「自衛隊」「警察」「消防」の車両が東北道で見られた。ナンバーを見ると、北から南まで揃っていた。自衛隊が撤退した後も、警察車両は多かった。
現在も警察車両は東北に来ているが、ほとんどが福島への応援車両だ。東北道での警察車両には、慣れるまで時間がかかった。やはり、警察車両を見ると、「ドキドキ」する。これは、私だけではないと思うが?

□二〇一一年十一月二十六日(土)◆岩手県陸前高田市           *その十七「更地の中に献花」
○更地が多くなった陸前高田市、今日も復興に向けて作業が続く。そんな復興作業を撮影していると、私はあることに気づいた。更地の中で、重機が献花をさけて作業を進めていたのだ。基礎が取り壊されて、更地になってしまい。私有地の範囲が分からないのに、献花が・・・。
☆作業している人からすれば、更地になってからの献花はじゃまになる。しかし、どの重機を見ても、「献花」をさけて作業を進めている。それが、牛乳瓶に入った花だったり、空き缶に入った花であっても、さけて作業を進めている。
その後も献花はされていたが、復興作業のじゃまにならないように献花されていた。

□二〇一一年十二月二十八日(水)◆宮城県
その十八「イルミネーション」
○年末になり、被災地にもイルミネーションが点灯された。私は年末の都会のイルミネーションに凝ってしまい。毎週お台場や横浜方面に出かけたことがある。今年は、仙台のイルミネーション撮影のために、東北を訪れた。
・女川町に「コンテナ村」とクリスマスツリー
・雄勝町「おがつ店こ屋街」、正面に「絆」のイルミネーション
△大川小学校慰霊碑前にクリスマスプレゼント、校舎内にもクリスマスプレゼント
・仙台市内にイルミネーション
☆仙台市内のイルミネーションは、今年は中止になる予定だったのが、「東京表参道イルミネーション」の支援を受けて開催されたそうです。私も、今回は仙台市内のイルミネーションを訪れました。一時期、年末になると都内のイルミネーションを撮影に頻繁に訪れたことがありますが、都内に劣らず仙台のイルミネーションはきれいでした。
日本全国で、年末に様々なイルミネーションが点灯されたことでしょうが、何故か大川小の校舎内に点灯されていたイルミネーションが、心に強く残っています。周りが真っ暗で、校舎内にイルミネーションだけが点灯しているのです。暗いところに子供を置き去りにしたくないという、親の気持ち?それが、私の心に強く残った?

□二〇一二年一月十四日(土)◆岩手県陸前高田
その十九「幸せの黄色いハンカチ」
○国道四十五号線を走行し、陸前高田に向かう。右折して仮気仙大橋を渡らずに、真っ直ぐ走行し気仙小方面に向かうと、道路の左側に黄色いハンカチが見える。
 岩手県陸前高田の更地に、黄色いハンカチが風になびく。メイン ポールに     ●「希望よ永遠に 山田洋次 二〇一一年八月二十一日」の文字
☆撤去された瓦礫が山になり、できた更地に映画「幸せの黄色いハンカチ」のワンシーン。嵩上げ工事に伴い、撤去されてしまったが・・・。この陸前高田の「黄色いハンカチ」をきっかけに、被災地に黄色いハンカチをなびかせる場所が多くなった。嵩上げ工事に伴い、この陸前高田の黄色いハンカチと同じように撤去されてしまった場所がほとんどだが、まだ残っている場所もある。
私は、この「黄色いハンカチ」が撤去されるまで、撮影し続けた。また、各被災地の「黄色いハンカチ」も撮影しました。そうせずには、いられませんでした?

□二〇一二年二月二十五日(土)◆宮城県石巻市大川
△その二〇「子まもり」
○この日は大雪だった。女川から国道三九八号線を雄勝に向けて、走行する。国道は真っ白で、誰も走行していなかった。雪の重みで垂れ下がっていた枝が、車の屋根に接触していた。それほど、雪が降り積もっていた。二十センチほどの積雪があり、人家のない国道を走行するのを少し躊躇し、いったん車を止めたが、再び雄勝に向かった。
被災した雄勝には、作業員と作業者だけがかすかに人の気配を感じさせていた。津波で流された大型バスが、撤去されずに乗り上げたままの状態で放置されていた。そのバスの横を左折して、大川地区に向かった。
大川地区にはいると、すぐ目の前に大川小学校が見えた。誰も来なかったのか、校庭は真っ白だった。車を止めて慰霊碑に向かうと、降りしきる雪の中に「子まもり」が寂しそうに見えた。手編みのマフラーと帽子が、真っ白になっていた。
この日の「子まもり」は、何かを私に訴えかけているような気もした。誰もいない降りしきる大川小学校の校庭に、私と「子まもり」だけがじっとしていた。
☆私が早期退職した二〇一二年は、大津の「いじめによる中学二年男子生徒の自殺」があった。教育長の弁解する姿が全国に流れ、非難を浴びた事件だった。私は教育関係の不祥事を聞くと、あの雪の日の「子まもり」を思い出してしまうようになってしまった。なぜなのだろう?最後に、また「大津のいじめ、自殺」の報道の場面が思い出された。残念ながら、あの大津の事件後も「いじめ、自殺」は無くなることはなかった。

□二〇一二年三月十一日(日)◆岩手県陸前高田
その二十一「一本松の願い」
○陸前高田市松原に唯一残った「奇跡の一本松」が枯れてしまった。高田市民は何とかこの一本松を後世に残したいと考えていたので、この松の木をどうするか市民で考えていた。最終的には、モニュメントとして残すことになった。そんな松の木の所に、立て看板が立ててあった。  ●一本松の願い                         「少し休みます。枯れても切らないでね、変わった形で甦ります」
 看板の近くにに、月桂冠が一本、その前に一枚の色紙、色紙に           ●「力と絆、そして希望をありがとう。高田の人々きっと美しい高田松原を再生してくれます。パワーをありがとう」
☆この日は震災から一年、たくさんの人がこの一本松を訪れ、献花していました。小雪混じりの陸前高田、一本松周辺にも雪がうっすらと積もっていました。

□二〇一二年四月一日(日)◆宮城県名取市閖上
△その二十二「消えずに残るメッセージ」
○県道十号線を北上して、閖上に向かった。真っ先に訪れたのが、閖上中学校だった。
●名取市立閖上中学校の机に書かれたメッセージ
あの日、大勢の人たちが津波から逃れるため、この閖上中を目指して走りました。町の復興は、とても大切なことです。でも、たくさんの人たちの命が今もここにあることを忘れないでほしい。死んだら終わりですか?生き残った私たちにできることを考えます。
閖上中の、大切な大切な仲間十四人が安らかな眠りにつけるよう、祈っています。津波は忘れても、十四人を忘れないでほしい。いつも一緒だよ
☆私は、この机上のメッセージを訪れるたびに撮影していました。そして、あることに気がつきました。何度訪れても、メッセージが消えずに残っていたのです。同じ文面で、色あせることなく・・・。その後、(二〇一三年十二月二十六日)にこの閖上中を訪れた時、献花している人がいたので、私は                         「机の文字が三年間消えずに残っているのですが・・、生徒が書いているのですかね?」と、尋ねました。すると                             「私が書いています。」                             と返答されて、私は驚きました。献花の人は、閖上中遺族会の会長も務めているそうです。私は、ずっとこの閖上中の生徒が、書いているものと思っていました。

□二〇一二年四月十九日(木)◆宮城県仙台市若林区荒浜
その二十三「不審者」
○仙台市若林区荒浜で、スイセンの花を発見する。私有地に咲くスイセンの花、たまたま私有地の持ち主かは分からないが、男の人がいたので、
「こんにちは、きれいなスイセンですね。」
と、挨拶をすると、突然
「何だね、あんたは!誰の許可をもらって被災地に入っているんだね。普通だったら、首から許可証を下げてるんだが、それも下がって無いが、許可はもらっているんだろうね!震災当時から、この地域では窃盗が多くて困っているんだ。不審者対策のためにも、被災地には勝手に入ってほしくないね。心配だから、あんたの写真を撮らせてもらうよ、いいね!」
と、突然怒鳴られてしまった。ひとまずこの場は私の方が悪いので、丁寧に謝罪をして、その場を立ち去った。
☆何度か訪れていた場所なので何事が起こったのか理解できなかったが、震災当時「窃盗」が多かったことだけは分かった。かなり被害は多かったのだが、震災によるものなのか「窃盗」によるものなのか特定できない物も多かったので、ニュースで多く報道されることがなかったらしい?なかには、死体が身につけていた高級品を専門に狙う、「窃盗」もあったらしい。

□二〇一二年四月十九日(木)◆宮城県東松島
その二十四「青い鯉のぼり」
○国道四十五号線を走行し、東松島市「自衛隊入口」の信号を右折して、県道二四七号線を走行。北上運河の通る、大曲地区に向かった。
瓦礫が撤去された跡地に、青い鯉のぼりが元気よく泳いでいた。全国から送られてきたそうだ。去年、被災地に鯉のぼりや日の丸が見られたが、今年は鯉のぼりが多く見られる。この東松島の鯉のぼりが数としては一番多いが、各被災地に鯉のぼりが見られるのはこの時期だけだ。書き出してみると                          ・復幸マルシェに鯉のぼり、鯉のぼりに「絆」の文字                △大川小の慰霊碑にも鯉のぼり
△名取市立閖上中、文字が書いてある机の脇に鯉のぼり
・閖上の丘に鯉のぼり
・陸前高田「黄色いハンカチ」に鯉のぼり
△大槌、桜の咲く赤浜小学校校庭に鯉のぼり
△大槌、北浜小学校復興商店街に鯉のぼり
・大槌、ふれあいドームに鯉のぼり
・釜石吉里吉里復興商店街に鯉のぼり
☆その後、この青い鯉のぼりの撮影を二〇一五年に行い、二〇一六年十二月三十一日(土)に「東松島市震災復興伝承館」を訪れたときに、詳しい内容を知ることが出来た。

二〇一二年五月八日◆茨城県つくば市北条
その二十五「竜巻」
○昨日、筑波山麓の国道一二五号線沿い「北条」で竜巻が発生した。私はカメラをバイクのパニアケースに入れると北条に向かった。思った通り、国道一二五号線は、渋滞していた。ガソリンスタンドの屋根が飛ばされていたり、電柱が曲がっていた。道路沿いには、建物から出された瓦礫などが、山積みになっていた。木造家屋が多かったので、瓦礫の山がいくつも出来ていた。国道沿いに建っている鉄筋コンクリート造りの住宅は、窓ガラスが割れているためブルーシートが目立った。田植えが終わった水田には、瓦礫が散らばっていた。アフリカツインで、竜巻が通った進路を撮影しながら移動した。竜巻の進路がハッキリと分かるほど、被害が大きかった。                     ☆本当に、竜巻の通ったところだけが被害に遭っていた。映画でたとえるなら、ゴジラの様な怪獣が通った跡のようだ。
翌年の九月に、埼玉と栃木では、「突風」が発生した。このころから、「災害」に対する危機意識が芽生えてきた。「災害」は、特定の地域で起こるのではなく、どこでも起こる可能性がある。

□二〇一二年六月八日(金)◆宮城県石巻
その二十六「灯火」
○瓦礫の撤去進む石巻市門脇「がんばろう石巻」に、小さな灯火、説明文を読んでみると
●「灯火」
 この火は、被災した石巻地域から木片を集め、それを種火としました。
 東日本大震災から一年、亡くなられた方への追憶の思い
生き残った私たちの「がんばろう」とする思い、心に残したく燈しました。
                           二〇一二年三月十一日
☆その後、この灯火の灯油を入れているボランティアの人を見かけたことがありました。私は思わず「ごくろうさまです。」と、声を掛けてしまいました。

■二〇一二年八月一〇日(金)◆福島県南相馬市小高
その二十七「コンビニ移動車」
○仙台から国道六号線を南下できるところまで南下したいと考えながら走行していると、右側に「ファミマ小高店移動販売車、本日の営業時間十四時まで」の看板を発見した。
ファミマの敷地に建物はあるのだが、移動販売車が営業していた。南相馬市内は、コンビニが通常営業していたが、「小高区」は、違っていた。小高から先は、通行規制があり入れないが、小高は大丈夫だった。昼間の立ち入りは許可されているが、夜の立ち入りが許可されていない地域なので、「移動販売車」なのか?
 更に市街地にはいると、ローソン小高店に「地震のため営業を終了しました」の張り紙を発見した。市内を走行して分かったことは、人の気配が無く、ところどころで見回りをしているパトカーと出会うぐらいだった。雰囲気的に、小高中に行くことは不審者と勘違いされるおそれがあるのでさけた。
帰路を飯舘村にすると、村内は除線作業と除線廃棄物が目に付いた。
☆今回、初めてコンビニの移動販売車を見た。移動販売車は、他のコンビニ店にも設置されているのだろうか?

▼二〇一二年九月二十五日(火)◆奈良県十津川村
その二十八「たどり着いた十津川村」(紀伊半島大水害二)
○御殿場から新東名、名張から国道一六五号線、国道一六九号線と南下する。去年の失敗を参考に事前に通行できるところを確認してから訪れたので、道に迷うことはなかった。去年は「迂回路」が多く本来のルートから離れてしまったが、今回はそれがなかった。
国道から県道四十号線に入り、「丸山千枚田」に向かった。もう千枚田は稲刈りが終わっていた。彼岸花は、所々で少し見られるぐらいだった。本宮の道の駅に車中泊するが、周りにコンビニも何もないので、食事と風呂に困ってしまった。
次の日、国道一六五号線を北上する。途中、国道沿いの確認をする。奈良まで通行することは可能ということだった。ただ、片側通行が多く、時間はかかった。核心部の「十津川村」にはすぐに到着した。秋の交通安全キャンペーンをやっていて、高校生がお守りを配付していた。また、去年十津川村方面にはいることができなかった理由がわかった。国道に掛かる橋が流されて、通行できなかったのだ。今回は、仮の橋を渡る。完全に橋が流されているのが分かった。あらためて、水害の恐ろしさを認識した。
☆その後、国道一六五号線は新しいトンネルなどが開通し、通行が便利になった。

□二〇一二年十月月六日(土)◆岩手県大槌
その二十九「おはぎ」
○大槌のコンビニ駐車場で昼食後、テレビを見ながら休息をとっていた。そんな時、車の窓をたたく音がするので、何気なく窓の所を見た。そこには、窓をノックする老夫婦が立っていた。私は慌てて、窓を開けた。私が窓を開けると
「お休みの所すいません。実は娘が震災で死亡し、毎週仮設住宅からお参りに来るんですけれど、おはぎが余ってしまい・・・食べてもらえれればと・・・。」
と、突然話しかけられてしまった。動転してしまった私は、考える余裕もなく
「食べたばかりなので・・・、すいません。」
と、断ってしまった。考えて言った言葉ではなく、突然出て来た言葉だった。
断った後、私は後悔してしまった。食べなくてもいいから、あの老夫婦の気持ちを考えて、何故喜んでもらうことが出来なかったのか?今でも、大槌のコンビニを見ると、そのことが思い出される。                              ☆あのとき車から出て、あの老夫婦を追いかければ間に合ったかも知れないと思うこともあり、今でも後悔が消えることはない。

□二〇一二年十一月八日(木)◆宮城県名取市閖上
*その三十「復興桜」
○県道十号線を走行し、閖上地区を左折して県道一二九号線を走行し閖上の丘に向かった。閖上の丘から周りを撮影していると、被災したかまぼこ工場に大勢の人が集まっていた。
☆たまたま、「復興桜式典」に遭遇してしまった?マスコミ関係者も多数参加?この「桜の植樹」は、各被災地で様々な形で行われた。
震災から八年目、この被災したかまぼこ工場は解体された。

■二〇一二年十一月十日(土)◆福島県飯舘村
その三十一「迂回路」
○国道三九九号線を迂回路の標識に従って走行していたら、飯舘村立飯樋小学校にでた。人の気配が無く、校庭は荒れていた。小学校向かいのそば屋に張り紙が張ってあった。
●「計画的避難のため本日(六月二十一日)をもって休業いたします。長い間ご利用いただきまして、誠にありがとうございました。原発収束後、開店したいと思います。」
○更に迂回路に従って走行すると
●長泥方面通行止め
 「国道三九九号線を南下するチャリダーへ 七月一日より二キロメートル先通行止め
 ここより右折し山木屋方面国道一一四号線へ」
☆国道六号線が一部通行できないため、「いわき」と「南相馬」の流れが悪い。迂回路に従って走行すること一時間ほど、やっと「四倉」にたどり着いた。自分でもどこをどう走行したか分からないが、「国道三九九号線」を走行したことだけは分かった。
今回の迂回路の経験から、この「国道三九九号線」と「県道十二号線」を走行して、福島県内の様子も記録することが多くなった。
☆道の駅「ならはら」でトイレ休憩のつもりが、道の駅は「双葉警察署臨時庁舎」になっていた。トイレ休憩は出来るが、本来の道の駅の機能はなくなっている。

□二〇一二年十一月十日(土)◆福島県いわき市豊間
△その三十二「豊間中、最後の垂れ幕」
○四倉を過ぎると国道六号線を外れ、県道十五号線を走行し新舞子浜公園に出ると、県道三八二号線を海岸に沿って南下した。正直、この県道を南下したのは初めてのことであり、何処を走行しているのかは把握できていなかった。
津波で被災した県道を下ると、目の前に津波によって破壊された町が広がっていた。基礎だけが残る町に、鉄筋の建物が目立った。近づくと、その建物は中学校の校舎と体育館だった。その被災した校舎に、垂れ幕が下がっていた。
●「第四十回東北中学校バレーボール大会出場豊間中学校男子バレーボール部」
☆学校は、瓦礫置き場になっていた。瓦礫の山になった校舎、生徒がいない校舎に栄光の垂れ幕が何故か寂しいく見えた。その後訪れた時には、校舎は解体されていた。
☆二〇一七年三月十日に豊間を訪れたときに、偶然「豊間中学校」の案内板があったので、案内板に従って走行すると「新校舎」を見ることが出来た。右側に小学校があり、左側に新幼稚園があった。まだ工事中であったが、四月からの入学式には間に合うかも?

□二〇一三年一月十二日(土)◆宮城県気仙沼市岩井崎
その三十三「いのりの広場」
○道の駅大谷を北上し、国道四十五号線岩井崎交差点を右折すると、岩井崎に出た。途中、右側に、地福寺があった。地福寺には、私の興味を引く「ことば」があった。
●岩井崎地福寺にいのりの広場
いのって下さい、あなたのまごころを
 被災した人たちに、手をあわせ
たむけて下さい、今だ帰らぬひとたちに                       あなたのおもいを、その手につつみ
いのって下さい
☆その後、たびたび地福寺を訪れたが、住職に会うことはなかった。二〇一三年十月三日に訪れたとき、始めて住職に会った。この時、各被災地のお寺の抱える悩みを知ることができた。

□二〇一三年一月十二日(土)◆宮城県気仙沼市
その三十四「気仙沼復興商店街のだるま」
○国道四十五号線を北上し気仙沼市にはいると、国道を右折して県道二十六号線を走行する。気仙沼港に到着すると、復興商店街に向かった。
●気仙沼復興商店街に「だるま」(だるまに寄せ書きがしてある)
☆「復興商店街」の始まりは、この「気仙沼復興商店街」が先駆けでした。各被災地に復興商店街が出来たのは、震災から一年目が過ぎようとしていた頃でした。そして、震災から二年目は、各復興商店街を中心にして、様々な催しが行われました。この「だるまの寄せ書き」もその一つです。

□二〇一三年二月十二日(火)◆岩手県大船渡市越喜来
△その三十五「奇跡の階段」
○道の駅「さんりく」から国道四十五号線を下ると、右折して県道九号線に出る。県道を走行すると、左側に木造の建物が見えた。カラフルな建物(潮目)に近づくと、「奇跡の階段」があった。
●奇跡の階段(大船渡市立越喜来小で)
この階段は、越喜来小学校の避難階段です。非常時には、校舎から東側に出て避難せざるを得ない地形のため、海や川に向かう形になります。そのために、校舎北側に、市道との落差を利用しながら、校舎の二階から市道に直接出るこの非常用階段を準備したのでした。今回の大津波が襲う何日か前にも地震時にこの階段を使い、避難誘導したばかりでした。そして、三月十一日の大震災が大津波が来ます。子供達は、先生方の誘導に従い、この階段から三陸駅方向に避難し、また、駅の上に向かって避難します。校舎が瞬く間に津波に飲み込まれていく様を眺めながら、寒さの中、南区の公民館に無事全員が避難できました。
この非常階段を強く要望し実現に努力した某市会議員は子供達が無事に避難できたことや大津波を見ることなく直前に死去したことは、世の中の矛盾や切なくも儚い出来事です。これは、・・・ (この先は読めませんでした。)。
☆道の駅「さんりく」に泊まることの多かった私は、自然と越喜来小を訪れることが多くなりました。その越喜来小での「避難訓練」のことが書かれています。一般的に「避難訓練」は、学校での行事であり、学校外の意見を取り入れたり、地域と一緒に行うことはありませんが、越喜来小は地域の協力を得て、震災の時に一人の犠牲者も出すことはなかったことが書かれています。
四月二十日に、津波被害を免れた普代小学校(正確には、校庭に津波が押し寄せ校舎の一階部分が浸水したということです)を訪れた。その普代小学校に、避難経路が完成した。この避難経路は二階の側壁をくりぬき、裏山に避難できるように作られていた。たぶん、越喜来小学校の教訓を生かして避難経路が造られたと思うのですが?
その後「三陸道」が「吉浜」まで延びると、私は「越喜来」を通過してしまうことが多くなり、自然と記録も少なくなってしまった。

□二〇一三年三月二十一日(木)◆岩手県大船渡
その三十六「新しい交通システム(BRT)」
○三陸道を走行し、「大船渡碁石海岸IC」で降りる。国道四十五号線を南下すると、野々田信号機の所を右折する。復興商店街を通り過ぎると、新しい交通システムが開始されていた。新しく作られた道路上を、赤いバスが走行していた。             これまで線路を撤去していた作業は、道路に作り替えていた作業だった。簡単に言えば、線路を撤去して、バス専用道路に作り替えた?
☆私は北海道の網走原生花園で、ハイブリッドバス(ハイブリッド 気動車)を見たことがあります。黄色いバス(気動車)で、マイクロバスぐらいの大きさで、ゴムタイヤの内側に線路も走ることが出来るように、気動車の車輪が付けてありました。       ☆今回の新しい交通システムは、「バス」です。BRTと書いてありました。

□二〇一三年三月二十四日(日)◆宮城県石巻市
△その三十七「残った校舎」
○県道二四〇号線を走行し、「日和大橋」を渡ると信号機を左折して、港中学校方面に進入する。進入すると、二つの校舎が見えた。
●石巻市立湊第二小学校に大きく「絆」の文字、ベニヤ板にはたくさんの寄せ書き。
●石巻市立湊中学校には校舎に「感謝」「いまから ここから」の文字
☆震災から三年目は、被災地の校舎が「解体された校舎」「残った校舎」に大きく別れた年でした。また、校舎は残ったが「閉校」という形で、校舎だけが残った校舎も数多くありました。
 その後石巻市立湊第二小学校は、閉校。
☆日本全体を考えると、この震災の年から大きく「統廃合」が行われ多くの学校が「閉校式」を迎えました。旅人の私としては、生徒のいない校舎を日本全国で見かけることが多くなり、「地域における学校の力」を考えるようになりました。
何故か、統廃合がなかなか進まないのが現状です。それは、「地域に学校を残してほしい」という、強い気持ちがあるからです。「学校の存在」は、地域の原動力なのです。

□二〇一三年四月十八日(木)◆宮城県気仙沼市大谷
その三十八「復興の丘に追憶の碑」
○国道四十五号線を北上する。道の駅「大谷」で、いつものようにトイレ休憩をする。国道沿いにある「復興の丘」の看板が気になる。四月なので桜が咲いているかと思い、トイレ休憩の後国道四十五号線に出ると、すぐに国道を左折して更地に車を乗り入れた。
案内板に従って、階段状の道を登ると慰霊碑があった。
●「尊い命、あなたを忘れない」
☆「復興の丘」は、探すのに時間がかかった場所だった。看板はあったが、場所が分からなかった。見つけたときは、「なんだ、ここだったのか。」と思った場所だった。今回、桜の花が咲いていた。また、丘の下に道の駅「大谷」があり、献花台がある。献花台には大きく「あの日を忘れない」と文字が一言書かれている。私は毎回訪れるたびに、その一言「あの日を忘れない」を撮影し続けてる。

□二〇一三年四月十九日(金)◆岩手県大槌
その三十九「希望の灯り」
○釜石を抜け国道四十五号線を走行し、トンネルを抜けると国道を右折して県道二九〇号線を走行する。仮大槌町役場を左折して、大槌図書館の設置されている高台に車を止める。この高台からは、大槌の町並みを見渡すことができる。
いつものようにカメラを取り出すと、高台から大槌の町並みを撮影しようと、フェンスのところに向かった。フェンス手前には、灯篭のようなものが設置されていた。
●「希望の灯り」
 この希望の灯りは、                              二〇一一年三月一一日午後二時四六分に発生した
 東日本大震災で被災された方々に
少しでも希望を持っていただきたいとの想いから
 国内外からのご寄付をもとに
被災地のみなさんとボランティアが協力して建立しました。
 ここに灯る火は、一九九九五年一月十七日午前五時四十六分に発生した阪神淡路大震災で被災した方々をはげまそうと
 全国四十七都道府県から種火が集められ
二〇〇〇年の一月十七日に、神戸市の東遊園地に
 「一、一七希望の灯り」として点灯された種火を分灯したものです。
震災が教えてくれたやさしさ、思いやり、仲間、絆の大切さを忘れることなく
 ともに歩んでいきましょう。
                         二〇一二年一一月一一日建立
☆高台にある大槌図書館、桜の木の所に「希望の灯り」が大槌を灯しています。阪神淡路大震災で被災した人々を励ましたように・・・。

□二〇一三年四月十九日(金)◆岩手県田野畑村
その四十「カンパネラ田野畑駅舎」
○県道四十四号線を海岸沿いに走行すると、「三陸鉄道カンパネラ田野畑駅舎」が見えた。
●カンパネラ田野畑駅舎のピンクの桜には、励ましのメッセージが
 ・一人で悩まないで、僕がついているよ
 ・できることを一つずつやってみよう、必ず復興する
 ・上を向いて生きよう
 ・必ず日はのぼってくる。みんなを応援してくれている。
 ・明日また頑張ればいい
☆駅舎に、たくさんのメッセージが書き込まれているのには驚きました。また、駅舎の色がピンク!「三陸鉄道への想い」が、三陸鉄道の復旧を早めたのか、三陸鉄道の復旧が被災地の復興を支えたのかは分かりませんが?
私は機会が有れば三陸鉄道の復興の様子をとり続けていたので、 とても三陸鉄道の「不思議な力」に驚いています。
・二〇一三年四月三日から南リアス線復活!
・二〇一四年四月三日から三陸鉄道は、全線開通!

□二〇一三年四月二十二日(月)◆宮城県気仙沼大島
△その四十一「絆 心を一つに」
○気仙沼港から、自転車と共に気仙沼大島に渡った。気仙沼大島の港には、何もなかった(津波の被害を受けたため?)。港から県道二〇八号線を走行し、「田中浜」「小田ノ浜」と進む。小田の浜では、松の木が津波の被害にあっていた。また、浜の民宿も基礎を除いて解体されていた。
県道沿いに走行すると、島内を一周できた。島の南端まで進むと、再び県道を走行して港に向かった。港に向かう途中、県道沿いに小学校と中学校の校舎が見えた。学校敷地内には、仮設住宅も建てられていた。大島中学校を訪れると、石碑が建てられていた。
●「絆 心を一つに」
☆気仙沼市立大島中学校校舎前に、「絆 心を一つに」のモニュメントを発見した。気仙沼大島を訪れるのは、二度目だった。初めて訪れたのは、二十代の頃だった。もちろん、バイクで訪れた。とてもきれいな海だったので、海で泳いだのを覚えている。

□二〇一三年四月二十二日(月)◆宮城県石巻市
その四十二「流されずに残った震災の石碑」
○大川小学校を訪れてから、国道三九八号線を走行し南三陸町に向かった。新北上大橋を渡り右折すると、吉浜海岸沿いに国道を走行する。走行していると、右側に石碑が見えた。
●「大震嘯災記念」
  地震があったら
  津波の用心
           昭和八年三月三日
☆過去の「震災の石碑」が流されずに残っていた。私は、この残った「震災の石碑」に興味を持ち、調べてみた。撮影してみると、かなりの数になった。中でも、この「吉浜海岸の石碑」と陸前高田「月山神社の二つに割れてしまった石碑」が、強く印象に残っている。
今回の「東日本大震災」後も、教訓を残そうと被災地に多くの石碑が作られた。

□二〇一三年六月十七日(月)◆宮城県山元町
△その四十三「一一八二人の思い出」
○国道六号線を走行し、旧坂本駅から県道三十八号線を南下する。県道を走行していると、左側に被災した中浜小の校舎が見えた。車を止めて敷地内にはいると、中浜小学校に記念碑が建てられていた。
●一一八二人の思い出
昭和三十九年、中浜小学校が誕生し、四十九年間で一一八二人の児童が巣立ちました。
 中浜小は、常に「開かれた学校」として地域と共に、子供達を育ててきました。
二〇一一年三月十一日東日本大震災による大津波で、中浜・磯学区は、壊滅的な被害を 受けたため閉校することになりました。
桜の木と共に、一一八二人の思い出がいつまでも心に残り、育ちますように願いを込め て・・・ありがとう中浜小学校
          二〇一三年三月三十一日 中浜小学校閉校記念実行委
☆中浜小学校は解体されることなく、現在も残っています。山形県の高校生が、被災地を訪れたさいに、この中浜小学校を訪れていました。

□二〇一三年六月十七日(月)◆宮城県岩沼市
その四十四「千年希望の丘」
○県道十号線を走行し、仙台空港に向かった。空港と海岸の間に幹線道路があり、そこに新しい仕組みの防波堤が完成していた。
●千年希望の丘「第一号」完成記念
東日本大震災の記憶や教訓を未来へ引き継ぐメモリアル「千年希望の丘」は、千年先まで岩沼市が持続可能なまちであってほしい、千年後の命も守りたい、そのような思いで整備を進めています。
丘には災害廃棄物を再生活用し、津波の力の減哀、避難場所の確保、そして鎮魂など多くの意味が込められています。
このたび、国内外から多くの皆様に寄附や支援をいただき、未来への希望を託した植樹によって第一号の丘が完成しました。復興のシンボルである「千年希望の丘」が、人類の知恵の遺産、そして子供達の希望となることを期待します。
                    二〇一三年六月九日 岩沼市長
☆二〇一二年十一月に式典が行われてから約半年後、「千年希望の丘」が一部完成しました。植樹は、ボランティア活動で行われました。できあがってみると、コンクリートブロックの堤防よりは、こちらの方が暖かみもあり、公園としても利用できそうです。
 規模は縮小されましたが、順次建設に取りかかるそうです。

□二〇一三年七月三日(水)◆千葉県旭市
その四十五「津波被災の碑」
○銚子から国道一二六号線を走行し、県道三十号線に入る。海岸沿いに走行すると、右側に解体された建物の基礎が残っていた。旭市「飯岡海水浴場」道路沿いには、「津波被災の碑」が建立されていた。私はその石碑を撮影すると、徒歩で海岸に沿って撮影を行った。海岸では、海の家のオープンに向けて、業者が作業を行っていた。今年の二月に訪れたときにはすでに「潮騒ふれあい広場レストハウス」の補修と駐車場の舗装は終わっていたが、残念ながら被災した国民宿舎は、まだ閉鎖されたままであった。その日は飯岡温泉に入り、海岸の駐車場に車中泊した。サーファーの車が数台止まっていた。
☆温泉に入っていたとき、地元の人が「あそこから色が変わっているだろ、ほら、そこだよ。あそこまで津波が入ってきたんだよ。」と、説明してくれました?およそ二メートルほどの高さがあったと思います。

□二〇一三年七月二十三日(火)◆茨城県北茨城市
その四十六「鮟鱇」
○常磐道北茨城ICを降りると、国道六号線を北上する。国道六号線仁井田信号機を右折して、大津漁港に向かう。大津漁港は何度か訪れ撮影を行っているが、平潟漁港を訪れることはまれであった。理由は、駐車場と道幅の問題があったからだった。
ハイエースワイドでは車幅が有りすぎて、大津漁港ほど訪れることはなかったが、今回は久々に平潟漁港を訪れた。港に、鮟鱇の石碑が作られていた。近づいて、アップで撮影した。
●復興への願いを込めて
二〇一一年三月十一日、東北地方太平洋沖地震は、北茨城市でも震度六弱の強い揺れと、最大六・七メートルの大津波を起こし、五名の尊い命を奪う甚大な被害をもたらしました。私たちは、大震災からの復興に向け、ひるむことなく歩み出します。
このモニュメントは、北茨城市の魚であるアンコウに被災地の安寧と明るい未来に向けた復興に願いを込め、多くの方々に磨かれ完成しました。
市は、「鮟鱇」を復興のシンボルとして、夢と希望の持てるまちづくりを展開してまいります。
寄贈していただきました茨城県石材業協同組合連合会様に対しまして、深く感謝申し上げます。
                           平成二十五年三月十一日
☆「千葉県」と「茨城県」は、隠れ被災地と言われています。どうしても、東北三県と比較してしまうと、隠れた存在になってしまいます。

□二〇一三年十月三日(木)◆岩手県陸前高田市
その四十七「再建」
○国道四十五号線海岸沿いに建つ「キャピタル1000」が津波被害に遭い、解体工事が二〇一二年十月にはじまった。そのキャピタル1000が、嵩上げされた内陸部に新しく建てられた。
解体工事前には、ボランティアの人たちがたくさん来て、手作業で瓦礫を撤去していた。私は、津波被害にあってから解体され、完成するまでの経過を見ているので、復興の一歩と考えている。
また、「旧キャピタル1000」前の花壇は、「フラワーロード」であり、震災の年の秋にはヒマワリ畑が、翌年の春には、スイセンの花が咲いていた。瓦礫に覆われたホテルの周りは、塩害にもめげず花が咲いたのだ。
☆その後同じように、田老観光ホテルも高台に新しくオープンすることが出来た。被災した田老観光ホテルは解体されずに、震災遺構として現在も残っている。北茨城市のホテルは解体されたままだが?

□二〇一三年十一月二十七日(水)◆宮城県石巻市女川
△その四十八「女川いのちの石碑」
○道の駅で得た情報を頼りに、女川町に向かった。新しい幹線道路を走行し高台にある女川中を尋ねる。石碑は、すぐに分かった。
●「女川いのちの石碑」
二〇一一・三・一一 ここは、東日本大震災津波到達地点より高い
  女川いのちの石碑
   千年後の命を守るために
     夢だけは壊せなかった大地震
東日本大震災で、多くの人々の尊い命が失われました。地震後に起きた大津波によって、ふるさとは飲み込まれ、かけがえのないたくさんの宝物が奪われました。       「これから生まれてくる人たちに、あの悲しみ、あの苦しみを、再びあわせたくない!!」その願いで。「千年後の命を守る」ための対策案として、①非常時に助け合うため普段からの絆を強くする②高台にまちを作り、避難路を整備する③震災の記録を後世に残す。を合言葉に、私たちはこの石碑を建てました。
ここは、津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください。逃げない人がいても、無理矢理にでも連れ出してください。家に戻ろうとする人がいれば、絶対に引き止めてください。
今、女川町はどうなっていますか?
悲しみで涙を流す人が少しでも減り、笑顔あふれる町になっていることを祈り、そして、信じています。
               二〇一四年三月女川中卒業生一同
☆学校の敷地内にあったので、撮影に苦労した。何故か最後の日付が二〇一四年になっていた?その後この石碑は、女川病院高台にも設置された。
過去の震災の石碑と違った、このような石碑(女川いのちの石碑)が、三陸沿岸にいくつか設置された。
例えば
●その一 大槌町根浜海岸
  津 波
●その二 小泉小学校駐車場             
 津波の教え                            ●その三 東松島市矢本           
 津波の教え
私は東日本大震災前の石碑も撮影したが、新しい石碑の撮影も続けている。新しい石碑の場合は、「続けている」となる。それは、石碑の周りの変化を記録するためだ。
        
□二〇一三年十一月二十七日(水)◆宮城県石巻市大川
△その四十九「返答に困ってしまったこと」
○大川小学校前の慰霊碑にいると
「知ってますか?あそこにある裏山に避難すれば、助かったと言う話を・・・。先生方は、いったい何をやっていたのでしょうかねえ・・・。」
と、突然お坊さんに話しかけられた。お坊さんは、裏山の方を指しながら私に話しかけてきた。私は返答に困ってしまい。
「そうなんですか?」
と、うなづいただけだったのですが、お坊さんは
「すごいカメラ持ってますね、そのカメラで被災地を撮影しているんですか?」
と、更に質問をしてきた。
「ええ・・・。」
と、私は軽く返事をした。
お坊さんは、慰霊碑の前に立ち、拝み始めた。お坊さんは、毎月一度は被災地を訪れて、拝んでいると言うことだった。被災地に住んでいたわけではないが、岩手県に住んでいるので、何かしなくてはいけないと思い、こうして被災地を月には一度訪れ、拝むと言うことだった。
☆大川小で知り合ったお坊さんのように、学校に対する批判は珍しくなく、私がここを訪れていると、必ず「学校に対する批判」が耳に入ってくる。今回のように質問されると、返答に困ってしまう。私は学校に対する批判より、県や市の「防災関係」「安全教育関係」に対して説明責任があると思っている。なぜなら、現場の職員より様々な視点から「安全対策」を考えることが出来るからだ。更に現場を離れて、様々な専門的な知識を学ぶ機会も多く与えられたと思うし、他の都道府県や専門機関との比較なども出来たと思うからだ。現場の職員は、常に生徒と一緒に行動することが多くなってしまい、視野が狭くなっているからだ?現場経験のある私は、ふと大川小職員に同情してしまった。

□二〇一三年十二月二十九日(日)◆岩手県釜石市鵜住居
その五十「鵜住居地区防災センター」
○山田町を通過し、国道四十五号線を南下して鵜住居にはいる。広がった更地に、解体中の建物が目立つ。左側に、前々から気になっていた建物があった。(釜石市鵜住居地区防災センターが解体されると聞いていたので、解体される前に撮影をしたかったが建物の場所が分からず撮影できなかった)建物に近づくと、奥に掲示物があった。
●防災センター供養にお越しの方へ・・・防災センター解体に伴い、新たに「追憶施設」を建設いたしました。
☆釜石市鵜住居地区防災センターの解体は知っていたが、建物の場所が分からず苦労した。今回、初めて建物の確認をした。何度も見ていた建物だった。私が訪れたときには、すでに解体が始まっていた。                             近くに、できたばかりの追憶施設があった。施設の中には、数々の遺品があった。不幸なことに、避難訓練の時避難場所として使用した「防災センター」で、多くの犠牲者を出してしまったと言うことだ。
その後私は、二〇一七年三月十二日の新聞で、防災センターが「避難訓練時の避難場所」であって、避難場所ではなかったと言うことを初めて知ることが出来た。新聞を読むまでは、「避難場所に避難して死亡した。」と勘違いをしていた。私はこれをきっかけに、事実をきちんと把握しておく必要性を強く感じた。

□二〇一三年十二月二十九日(日)◆岩手県陸前高田
その五十一「希望のかけ橋」
○一本松までは、震災から一年間ほどは直接車ではいることが出来た。二年目から「遊歩道」のような道ができ、車両が入れなくなった。
あるとき、その遊歩道から「橋」がみえた(最初は橋とは思わなかったが、完成すると橋だった)。私は、たまたま遊歩道の所で作業をしている人がいたので
「すいません、あそこに見える橋は新しい国道の橋ですか?」
と、質問をしたら
「あれは橋ではありません。ベルトコンベアです。あの山の土をダンプカーで運ぶと、時間がかかりすぎるので、土砂を直接ベルトコンベアで市内に運ぶんです。」
と、返事が返ってきた。
私はその話を聞いて、日本の土木建築力に驚いた。また、その発想もすごいと思った。
今回訪れたときにはその橋についての説明が掲示され、橋に名前が付けられていた。橋の名前は「希望の架け橋」。
●希望のかけ橋
陸前高田市が早く復興するように
みんなが元気になれるよう
未来の架け橋となって
たくさんの人が希望を持てる
すてきなまちに戻ってほしいという願いが
込められた名前を考えてもらいました。
☆私が間違えて国道四十五号線の新しい橋かなと思った陸橋に、掲示物が立てられていました。私が橋と勘違いした物は、土砂を運ぶベルトコンベアのことでした。このベルトコンベアは、陸前高田市より先に東松島市で運転されました。(野蒜駅前)

■二〇一四年一月二十二日(水)◆福島県相馬市
その五十二「鹿嶋の一本松」
○国道六号線を北上していると、国道沿いに看板が有るのを発見した。「鹿島の一本松」と書いてあった。とっさに右折の合図を出して右折した。標識に従い走行していくと、海岸沿いに一本松が見えた。
●鹿島の一本松
平成二十三年三月十一日の大津波に
耐えた松がある。
大地に根っこを張り巡らし、
生き抜こうとしている。
この松を地域のシンボルとしたい。
               一本松を守る会
☆その後掲示物が多くなり、キャラクター「いっぽんまつ太郎」も描かれた。
さらに月日が経ち、二〇一八年三月十八日(日)に訪れたときには一本松はなかった。

□二〇一四年一月二十三日(木)◆岩手県大船渡市
その五十三「無料の温泉」
○大船渡では風呂に入る場所が決まっているのだが、新しい入浴施設を求めて「碁石温泉」へと向かった。公共駐車場もあったので、併設されているトイレが使えれば車中泊することも可能だと考えたことも碁石温泉に向かった理由の一つだった。
碁石温泉には、二カ所入浴施設があることが分かったので、駐車場の大きい方の施設にはいる。旅館と言うより、民宿に近い雰囲気の施設だった。中に入り
「すいません、日帰り入浴は可能ですか?」
と、私が尋ねると
「ハイ、大丈夫ですよ。」
と、返事が・・・。私が
「すいません、おいくらですか?」
と、再び尋ねると
「無料です。あちらにありますから、どうぞ・・。」
と、返事が・・・。無料と聞いた私は、聞き間違えかと思い再度尋ねた。やはり「無料」だった。                                     二度目に尋ねた後、無料の訳を説明してくれた。「震災で地元の人がお風呂に入れないで困っていたので、無料にしたのが始まりで、そのまま無料を続けている」とのこと。私が地元民でないことを告げると、「そんなこといちいち調べていたら大変だから、ここに来れば誰でも無料」と再び言われた。
☆無料だったので、わかめを購入した。近くに「やすらぎ地蔵」があった。申し訳ないと思い、その後この温泉は訪れていないが。今は、有料なのか知れませんが?

■二〇一四年二月十日(月)◆福島県飯舘村
△その五十四「雪の中に仮設小学校」
雪景色の仮設住宅の中に設置された、仮設郵便局の撮影が終わると、南相馬市に向かった。国道六号線が通行止めのため、県道十二号線は相変わらず交通量が多かった。私は、県道を走行しながら南相馬市に向かった。
左側に仮設小学校があり、雪の積もった校庭で子ども達が元気に雪合戦をやっていた。それを見ながら「元気がいいなあ・・・。」とつぶやきながら通過したのだが、何を思ったか私はブレーキを踏んでいた。たまたまUターンできそうな場所があったのでブレーキを踏んだのだが・・・。 
しばらく考え込んでUターンをして、先ほどの小学校に車を乗り入れると、敷地の中に入っていきプレハブ校舎に向かった。職員らしき人がいたので
「すいません。雪景色の校舎を撮影させてもらえませんか?」
名刺を差し出し、被災地の撮影を行っていることを説明しながら、尋ねた。許可を得ると、雪景色の校舎を何枚か撮影した。私は、この時始めてこのプレハブ校舎が飯舘村内の統合された小学校であることを知った。この小さなプレハブ校舎に、村内の三つの小学校が入っているのだ。
一校だと思っていた私は、改めて村内の児童数が減っていることを知った。
☆五月に再び訪れ、雪景色のプレハブ校舎の写真を大きく引き伸ばしてプレゼントした。
二〇一九年三月に訪れたときには、プレハブ校舎は解体されていた。

□二〇一四年二月十一日(火)◆宮城県石巻市大川
△その五十五「オペラ歌手?」
 雪に覆われた大川小で、「歌いながら、被災地を回っている。」という人に出会った。駐車場に車を止めていなかったので、私が、                    「あちらに駐車場がありますよ。」                        とアドバイスすると、                              「私は被災地で歌を歌っているのですが、ここで歌ってもいいですか?」       と突然質問されたので、(地元の人に勘違いされたのか?)
「私には、そんな権限有りませんので何とも言えませんが・・・。ここは、歌を歌うような場所でもないような気はしますが・・・。分かっていることは、ここで歌を歌うのは自由だと思います。」
と、返答した。
そんな会話をしていると、マネージャーらしき人(美人だった)が私にCDを差し出してくれた。買わされるのかと思っていたら、違っていた。              車の中で聞いたら、オペラ歌手かなと思われる歌い方だった。
☆彼は、歌を歌ったのだろうか?そして今も歌を歌い続けながら、被災地を回っているのだろうか?その後、彼と会うことはなかった。
二〇一七年三月十一日の命日に訪れたときには、ロシア人ピアニストとチェリストによる演奏が、慰霊碑前において行われた。その音色は、周りの人の涙を誘った。

□二〇一四年二月十三日(木)◆岩手県大槌町赤浜
△その五十六「伝えたいこと」
○吉里吉里から国道四十五号線を走行し、大槌町赤浜に入る。除雪の行われていない赤浜小学校校庭には雪が積もっていた。体育館はまだ解体されていなかった。体育館から海を見ると、右側に石碑があることに気がついた。
●「津波の石碑」
昭和八年三月三日
一 地震があったら津浪の用心
一 津浪が来たら高いところへ
一 危険地帯に住居をするな
☆今までの石碑と違って「危険地帯に住居するな」の文字があった。三陸沿岸に見られる震災の石碑はパターンがあり、必ず①「昭和八年三月三日」②「地震があったら」③「津波の用心」が書き込まれている。そうでなければ、①「昭和八年三月三日」②「地震があったら津波の用心」③「津波があったら高いところへ」、これは少ない。
三陸沿岸には、過去の震災の教訓から様々な形で私たちに伝えてくれた「震災の石碑」が建立された。この震災の石碑に限らず、私たちの祖先は様々な形で私たちに様々な教訓を残してくれた。震災に限らず・・・。たとえば「戦争」など・・・。考えなければ行けない時期かも知れませんね?

□二〇一四年三月十五日(土)◆宮城県東松島市
その五十七「人間に何かを考え直す機会を示している」
○旧野蒜駅舎前の県道二十七号線を走行し、旧東名駅跡周辺に向かった。東名運河を渡ると、左側に石碑が建っていた。
 東名地区は、田畑が湖のようになってしまった。しばらく水が引かず復興が遅れていたが、ポンプで水を出しながら田畑に戻りつつある。撤去できなかった車なども今は撤去され、震災当時の面影は薄れつつある。
「慰霊碑」は、その田畑の近くに建立されていた。私がカメラを向けて撮影しようとしていたら、献花をしている人と偶然会話になった。会話の内容は、マスコミに対する「怒り」だった。ただ、当時の怒りも薄らぎ、今は、「風化しつつある東日本大震災」を心配していると言うことだった。
震災当時は、被災地に連日のようにマスコミが押しかけ、私生活がかなり荒らされたとのことだった。ただ、風化しつつある今、考えが少し変わり、取り上げてほしいという気持ちも出てきたということだった。                        ☆最後に会話をしていた地元の人が、慰霊碑に書かれた文字を見ながら「震災から三年が過ぎ、四年目に入ろうとしている今『慰霊碑』に書かれている『これは、人間に何かを考え直す機会を示しているのかも知れません。』と言う言葉をかみしめて行く必要があるかも知れませんね。」とつぶやいた。
☆震災から三年間、被災地に様々な「慰霊碑」「メッセージ」が残されました。私はこの記録を様々な形でまとめていますが、改めて三年目というのは、様々な形で被災地に「伝えなくては行けない」という強い気持ちが表れていると感じました。それが「女川いのちの石碑」です。
一年目は、「瓦礫の撤去」や「コンビニの出店」の記録が多く、二年目は「復興商店街」「瓦礫の処理」「慰霊碑」などの記録が多かった。特に「慰霊碑」は、一回忌を行うことが出来なかった被災地が多かったので、せめて三回忌までに「慰霊碑」を建てて供養したいという強い気持ちからだと思われるが。 

□二〇一四年三月十七日(月)◆岩手県大槌
その五十八「青いペンキの文字」
○旧大槌町役場近くの基礎の所に、青いペンキで文字が書かれていた。二〇一一年十月九日にこの「青いペンキの文字」を撮影してからは、大槌を訪れるたびに撮影を行っている。今回も撮影をする。
●大槌町基礎の献花台に青いペンキで
「どこにいだのみんなまってるよ!」の文字、何度訪れてもこの青い文字は消えることはなかった。文字の内容は変わることはあるが・・・、たぶん遺体がまだ発見されないのだと思う。嵩上げが進む大槌、この青いペンキの場所も嵩上げされるのだろうか?
☆私は今回の撮影を最後に、「青いペンキの文字」を撮影することはなかった。なぜなら、嵩上げで全てが土の下に埋もれてしまったからだ。それを考えると、遺体が見つからないままでの嵩上げ工事は、何と残酷な復興作業なのでしょうか・・・。

□二〇一四年四月十七日(木)◆福島県いわき市四倉
その五十九「除線作業による渋滞」
○朝から、道の駅前の国道六号線は、渋滞。道の駅に車を置いて、自転車で久浜へと向かう。渋滞はかなり深刻、午前九時を過ぎると、流れが良くなってきた。ほぼすべての車が「除線作業関係」で、いわき市内の宿泊所から作業場へと向かう車だ。         今までこの六号線を車で走行していたが、今回改めて自転車で久浜を訪れると、被害の大きさに驚かされた。
☆その後、広野町や富岡町にビジネスホテルやウィクリーマンションなどが建てられると、渋滞もいくらか緩和された。今までも宿泊施設はあったが、さらに大きなホテルが建ち並ぶこととなった。
富岡駅周辺に至っては、除線作業員のアパートなどが多く建てられてきた。

■二〇一四年四月十七日(木)◆福島県富岡夜の森
*その六十「夜の森」
○四倉から、国道六号線を北上する。富岡町役場を過ぎたところで車両通行止めとなってしまい、慌ててUターンする。自分でも何処を走行していたかははっきりしていないが、「夜の森」の看板だけは六号線沿いで見つけることが出来たので、案内板だけを頼りに走行し、桜並木にたどり着くことが出来た。桜並木が統べてみられたわけではなく、桜並木の一部を観賞することが出来ただけだった。
さらに、桜並木には看板が立てかけられていた。
●お知らせ                  富岡町
放射線が高い地域になります。   観桜する際は車内から観桜いただきますよう、ご協力お願いします。
☆桜の名所「夜の森」で桜の撮影と思ったが、看板を見て改めて目に見えない放射線の怖さが分かった。桜並木の右側と左側では放射線量が違うため、学校反対側はバリケードで出入りが禁止されているが、学校側は出入りは自由になっていた。放射線量が違うためとは分かってはいるが、目に見えないので・・・。
あらためて、「目に見えない有害物質」の恐ろしさを知ることが出来た。

◎二〇一四年五月二十一日(水)◆長崎県島原市
△その六十一「雲仙普賢岳」(大野木小学校)
○五島列島から屋久島に向かうとき、ミヤマキリシマ撮影のため、雲仙普賢岳と阿蘇仙酔峡に向かう。雲仙普賢岳のミヤマキリシマの撮影が終わり、フェリーで熊本に渡るため、国道五十七号線を走行して島原港に向かった。国道沿いに「大野木場砂防みらい館」の看板を発見し、立ち寄る。
●「大野木場小学校を襲った熱風。」
 一九九一年九月十五日、平成噴火による溶岩ドームの崩壊により 最大規模の火砕流が発生。その熱風によって大野木場小学校は焼失しました。当時、ここは警戒区域に設定されており、児童や住民への人的被害はありませんでした。現在は、焼失した校舎をそのまま保存・展示しています。
 一九九一年六月三日十六時八分、大規模火砕流が発生し、熱風に襲われた島原市北上木場町では、四十三名の犠牲者が出る大惨事となりました。
この時、わずか四百メートルしか離れていない大野木場小学校では五・六年生が授業中でしたが、火砕流本体と熱風は、水無川に沿って流れたため、校舎にいた児童や先生達は無事避難することが出来ました。
一九九一年九月十五日十八時五十七分に発生した火砕流は、おしが谷を通り、水無川に沿って流れましたが、火砕流に含まれていた火山ガスや巻きあがった火山灰からなる熱風は、そのまま直進し、高台にあった深江町(現在南島原市)大野木場地区に這い上がり、校舎や付近の民家を焼失させました。児童はしばらくの間、仮設校舎での不自由な授業を余儀なくされました。今はここから一、二キロメートル離れたところに校舎が新築されています。
☆校舎と敷地内の撮影が終わった後、阿蘇へと向かった。仙酔峡のミヤマキリシマは、終わっていた。
島原半島は何度か訪れているが、「大野木場砂防みらい館」を訪れるのは、初めてのことだった。更に書かせてもらえば、「雲仙普賢岳」の噴火から七年後の夏に、「雲仙普賢岳」を訪れた。噴火から七年後の、一九九八年の八月のことだった。国道三八九号線で普賢岳に向かった。交通量は少なかったが、やはり工事中の看板が多かった。反対側の国道に向かって下ってみると、噴火の跡の様子がよく分かった。

◇二〇一四年七月三十日(水)◆新潟県山古志村
その六十二「中越地震から十年」(中越地震二)
○湯沢ICを降りる。津南まで通じる国道が土砂崩れのため通行止めとなっていたので、迂回する。津南のヒマワリは咲いていた。
 小出から山古志村にはいる。今年で地震から十年目という事だった。役場に垂れ幕「復興十年たくましく前へ、長岡」が下がり、敷地内に地震関係の資料館「中越メモリアル回廊」ができていた。私は、役場の中にはいると
「すいません、教育委員会に私と同じぐらいの五十代の女性職員はいますか?」
と、十年前の話をしながら訪ねた。すると奥から
「教育委員会に勤めていた佐藤さんは、早期退職していて今は勤務していない。」   と返答され、ちょっとショックを受けた。出来たら住所を聞き訪ねたいとも思ったが、迷惑かなと思いあきらめた。施設の資料と役場の垂れ幕を撮影すると、山古志村を後にした。
☆村内を回りながら帰宅する。途中、「地震で沈んだ村皆の力でここによみがえる山古志木籠」などの石碑が見られた。また、「震災復興資料館さとみあん」ができていた。

▼二〇一四年八月二十五日(月)◆広島県広島市
その六十三「タンスの話」(広島市八・二〇豪雨災害一)
○三次ICから国道五十四号線を南下する。テレビの画面に「八木」という文字が出てくることが多かったので、八木地区に向かう。国道は渋滞していた。やっと八木地区に到着するが、駐車場探しに時間がかかるが、ホームセンターに車を止め、そこから徒歩で現場を撮影する。坂道が多く、とにかく疲れた。
 おばあさんが、流されたタンスを見つけたらしくて、私に向かって、タンスの思い出話を一方的に始めた。私は聞き役となり、しばらく目のやり場に困った。現場は混乱して、思うように動けないような状態だった。
テントが立てられ、ボランティア活動の受付をやっていた。私も参加しようと思いテントに近づくと「ボランティア活動は、地域の方のみ」「他県の方は、社会福祉協議会を通じて、後ほどお願いします。」との要点を告げられた。東日本大震災の教訓を生かし、「防犯」に注意したボランティア受付を行ったのだろう?
 被害の状況を把握できなかったので、次の日再び広島に戻る。梅林地区の被害状況がさらにわかった。
☆坂道が多くて、疲れた。傾斜のきついところにも家が建てられ、道も狭かった。考えてみれば、国土の五分の四は山であった。そのことも考えると、傾斜のきついところに家が建っても不思議ではないか・・・。

■二〇一四年九月十八日(木)◆福島県国道六号線
その六十四「国道六号線全線通行可」
☆九月に入り、アフリカツインで五島列島に向かったが、アフリカツインが故障したため、丹後半島からどうにか戻ってきた。九月の仕事はなかったので、再びハイエースで五島列島に向かうことも考えたが、知り合いから「国道六号線全線通行可」の情報を得たので、被災地へと向かった。
○国道六号線は、富岡市内を過ぎると通行止めであったが、今回は「通行止め」の掲示板が「二輪車・歩行者は通行できません」に変わっていた。車での通行は可能であるが、肌が露出している場合は認められない。そんな解釈かな・・・。
☆「二輪車・歩行者は通行できません」という条件付きの国道六号線だったが、富岡から先に進めると言うことが、こんなに便利だとは・・・。二輪車が通行できるようになったら、千葉県から岩手県まで、バイクでなくて自転車で沿岸部を旅してみたい。「みたい」でなくて、「旅する。」、そんな日が早く来ないかな・・・。小高中にも行ってみたいな?

◎二〇一四年年十一月十日◆長野県木曽福島
その六十五「御嶽山」
○走り慣れた国道十九号線を走行し、木曽福島から国道を右折して 県道二十号線を走行し「王滝村」方面に向かった。王滝村に向かうため、途中左折して県道二五六号線を走行する。
王滝村には到着したが、献花台を探すのに苦労した。
☆山岳部に所属していた私は、日本アルプス全山登頂夏冬を大学時代達成しているが、「御嶽山」は、登ったことがなかった。今回の遭難事故を知り、立ち寄った。献花台が「おんたけ銀河村」に設置されてあった。御嶽山がよく見える場所だった。
 献花台は、その後王滝村スポーツ公園内に移された。二〇一五年十月二十二日に訪れたときには、「田の原山荘」まで車を乗り入れることが出来た。その時に献花台がなかったので、役場で移設された場所を尋ね、訪れた。献花台は、やはり御嶽山がよく見える場所に移設されていた。


◇二〇一四年十二月十二日(金)◆長野県白馬村
その六十六「白馬」
○「神戸ルミナリエ」の帰路を、日本海側に取る。国道八号線から、国道一四八号線を南下して、白馬に向かう。道の駅「小谷」で休憩もかねて情報収集、駐在所で
「小谷も被害を受けていますが、白馬方面の方が被害が大きいです。くれぐれも地域の人が生活していることと、災害にあった人の気持ちも考えて行動して下さい…。」
と言われ、国道を更に南下して白馬に向かう。
最終的には役場で情報を収集し、「青鬼」「神城」地区に向かう。特に「青鬼地区」は、棚田の撮影で数回訪れている。雪道のため「青鬼地区」は傾斜があり心配していたが、どうにか到着した。ブルーシートが架けられた建物があることと、土砂崩れのため道路が崩壊している場所が見られた。「神城地区」は、ハッキリと災害の様子が分かった。地域の人が瓦礫の処理をしていた。近づいて撮影は不謹慎と思い、望遠で撮影する。車を止める場所があったので、徒歩で近づき「公共の建物」を近づいて撮影する。
☆白馬は、「八方尾根スキー場」が在るので、頻繁にスキーシーズンには訪れた。特に八方池山荘下にテントを張って、スキーをしていた頃が懐かしい。
 その後、二〇一五年五月十九日に白馬村を訪れた。白馬村では、重機を使用した建物の解体と瓦礫の撤去作業を行っていた。十二月に訪れたときには重機の使用があまり見られなかったが、雪が解け重機の使用により作業がスムーズに行われるようになっていた。雪国での作業は、やはり雪解けの春からか?
 再び十月に白馬村神城地区を訪れると、県道が舗装化のため片側車線の場所があったがほぼ舗装は終わっていた。解体や瓦礫の撤去もほぼ終了していた。

▼二〇一五年四月十八日(日)◆広島県広島市
△その六十七「感謝の梅」(広島市八・二〇豪雨災害二)
○関西の桜を求めて岡山県にはいる。醍醐桜を撮影すると、更に南下して広島県に入った。せっかくここまで来たのだからと、広島市梅林地区へと向かった。
梅林小には、「感謝の梅」が植樹されていた。そこには立て看板が
●「感謝の梅」
「感謝の気持ちを忘れない」そして、「感謝の気持ちを育てる」木として梅林復興の願いを込めて植えました。
                 平成二十六年十二月十八日
被災していた県営住宅地周辺は整備中、ブルーシートで覆われたままの建物も残っていた。県営住宅も被災したままで、一番下の県営住宅だけが新しい(塗装し直したか、立て直した?)。道路は舗装されたが、土砂災害のおそれがあるので立ち入り禁止になっている場所が多かった。
瓦礫はほぼ撤去されたが、つぶされた車が何台か置いたままになっていた。ボランティア活動なのか?「広島たすけ隊」のテントが設置されていた。梅林駅は、営業再開。
☆県営住宅周辺の被害が、当時を物語っていた。また、慰霊碑が一カ所設置されていた。
私は、その後桜の撮影を続けた。

◇二〇一五年五月十七日(日)◆長野県栄村
その六十八「長野県北部地震」
○熊野古道を散策するために、中部地方を経由し関西方面に向かった。最初の目的地が、長野県「栄村」だった。道の駅に立ち寄り、駅前に向かった。
●「森宮野原駅」前に木彫りが二体、その下にメッセージ
二〇一一年三月十二日三時五九分に発生した長野県北部地震により栄村は局地的に想像を絶する被害を受けた。生活に最も必要な住居が次々と解体された。この悲惨な事実を後世に伝えることが我々の使命であると考え、取り壊された建物の梁を媒体としてモニュメントを作成し据え置く事とした。
河川、道路、農耕地、橋、鉄道等、甚大な損害を受け、更にこの震災に関連して三名もの尊い命が犠牲になった事は決して忘れてはならない
              二〇一四年六月
☆栄村も隠れた被災地で、報道されることはあまり無かった。私が訪れたときには、壊れた橋を工事している場面が国道沿いから見えるぐらいで、山沿いの村内に入らないと被災した場所を見ることはできない。何度か村内にはいるのだが、よく分からないのでそれ以上は深入りしなかった。

▼二〇一五年五月二十五日(月)◆紀伊半島
その六十九「紀伊半島大水害」(紀伊半島大水害三)
○「熊野古道」を自転車と徒歩で巡っているとき、在る中学校を訪れた。私は、東日本大震災の様々な資料を見せて、対応してくれた校長に語った。私が語った後、校長が
「趣旨はよく分かりました。本当にご苦労様です。私達も教育現場で必要が在れば倉持さんに資料をお願いしたいと思います。それから、倉持さんは紀伊半島大水害についてご存じですか?」
と、逆に質問されたので、私は、
「以前十津川村が水害にあったときに、こちらを訪れたことはありますが、迂回路が多くてたどり着けず、二回目に訪れたときには十津川村の水害の様子を撮影した記憶はありますが・・・。」
と、返答すると
「その十津川村の水害は、紀伊半島全体に起きた水害だったのです。せっかく来たのですから、是非こちらの水害の様子も記録して・・・。」
と言われ、私は熊野古道を巡りながら「紀伊半島大水害」の撮影も行うことにした。
 二十六日(火)に道の駅「なち」に駐車し、自転車で「那智大社」に向かうときに、様々な水害の様子を撮影することが出来た。那智川に沿って、水害の爪痕が残っていた。
●「紀伊半島大水害記念碑」
平成二十三年九月二日から四日にかけて、台風十二号の影響により紀伊半島の広い範囲で総雨量が一千ミリを超える大雨となり、和歌山県南部では、四日の午前二時からの二時間の間、時間雨量が百ミリを超える大雨が降り続きました。中でも那智勝浦町市野々では、四日の午前二時十分から午前三時十分の一時間に、百四十ミリという猛烈な雨が降りました。
この記録的な豪雨は、那智勝浦町において、死者二十八人、行方不明者一人、全壊家屋一〇三棟、半壊・大規模半壊家屋九〇五棟など町全域にわたり甚大な被害をもたらしました。
特に那智川流域では、多くの支流で土石流が発生し、本流の流れも阻害して大規模な氾濫を引き起こし、より大きな被害となりました。市野々地区で八人、井関地区で一人が行方不明となりました。また全壊、大規模半壊、半壊家屋は五五〇棟にのぼり、未曾有の大災害となりました。
この記念碑は、この大災害を風化させることなく、また一日も早い復興と、二度とこのような災害がないことを願って建立したものです。
          平成二十四年九月四日 那智勝浦町
☆この石碑は県道沿いに建立され、近くでは復旧工事が行われていた。
熊野川に沿って国道一六八号線を北上すると、熊野川側に
●「紀伊半島大水害 慰霊碑」
台風十二号による平成二十三年九月二日から四日にかけての長時間続いた豪雨は、熊野川を氾濫させ、熊野川流域をはじめ市内各所において、土砂崩れ家屋の流失や浸水などの甚大な被害をもたらし、十四名の尊い命を奪った。
河川、道路などの損壊が数多く発生したうえ、多くの地域が孤立化し、電気、水道、電話などのライフラインが寸断され、明治二十二年の大水害以来の大きな爪痕を残す災害となった。
この災害により犠牲になられた方々の御霊を慰め、この災害の教訓を永く後世に伝え残すために建立する。
           平成二十五年建立
☆穏やかな流れの熊野川、ところどころで土砂崩れの跡が伺える。現在も復興に向けて整備している箇所もあり、片側通行の場所もあった。
中辺路を流れる富田川を下って、「熊野古道館」にでると、土砂を取り除く工事をしていた。「紀伊半島大水害」は、広範囲にわたって紀伊半島に水害をもたらしたことが分かった。考えてみれば、十津川村の水害にたどり着けず引き返した二〇一一年九月の災害が「紀伊半島大水害」だったのだ。水害から四年目に入り、詳しい内容を知ることが出来た。また、それを理解していなかった自分が情けなかった。

■二〇一五年六月十日(水)◆福島県相馬市
その七十「相馬市伝承鎮魂祈念館」
○松川浦から県道三十八号線を北上すると、相馬港が見えた。まだ瓦礫の撤去が終了していない原釜尾浜を右手に見ながら走行すると、新しい建物が完成していた。
☆相馬港に慰霊碑が三月に完成し、六月に慰霊碑裏の建物が完成した。建物には、「相馬市伝承鎮魂祈念館」の看板がかかっていた。中にはいると、震災前の相馬市の様子と震災後の様子がパネルとなって掲示されていた。
「放射能」という目に見えない物のために、様々な復興が遅れてしまった「福島県」は、震災から五年目がスタートとなってしまった。

□二〇一五年六月十日(水)◆宮城県東松島市
その七十一「仙石線」
○仙石線が復活した。ただの復活ではなかったらしい。「仙石東北ライン」という新しい路線が、誕生したらしい。私はあまり「鉄道」には詳しくはないが、仙石線と東北本線の乗り入れが可能になったということだ。また、「新野蒜駅」「新東名駅」が高台に完成した。
旧野蒜駅はファミリーマートになり、二つの新駅舎は高台に作られた。駅前には、新しい街が建設される。今日見た限りでは、駅前は宅地が整備されているだけで、建物はなかったが・・・。
☆私には「仙石東北ライン」の何が新しいシステムなのかわからないので、直接JRに電話をした。簡単に書かせてもらうと、以前は仙石線と東北線の乗り入れは出来なかったが、今回はできる。現在、電圧に関係ない気動車だけが、「仙石東北ライン」を走行している。

◇二〇一五年六月十二日(金)◆岩手県・宮城県
その七十二「岩手・宮城内陸地震」
○道の駅「厳美渓」から国道三四二号線を走行し、栗駒山に向かった。国道を走行していると、左側に「岩手・宮城内陸地震」の看板が見えた。
●「岩手・宮城内陸地震」
平成二十年六月十四日午前八時四十三分に、岩手・宮城県の県境付近を震源とする直下型の大変大きな地震が発生しました。地震の規模はマグニチュード七、二を記録し、岩手県奥州市と宮城県栗原市では最大震度六強を観測しました。
☆国道三四二号線にかかった「祭時大橋」が、崩落しているのが見えた。

□二〇一五年六月十九日(金)◆宮城県石巻市女川
その七十三「七十七銀行女川支店慰霊碑」
○女川にはいると、病院高台の駐車場に車を止めて女川市内を撮影するのがおきまりです。今回も迷わずに高台に向かい、撮影を行いました。上から撮影していると、高田下に慰霊碑が出来ているのに気がつきました。
●七十七銀行女川支店慰霊碑完成
☆七十七銀行の慰霊碑が、女川病院高台下に完成しました。今までは、仮の献花台があっただけという感じでしたが、今回は石碑になって完成しました。付け加えて書かせてもらえば、二〇一六年十一月二十二日(火)の地震の時、沿岸部の七十七銀行すべてが臨時休業したそうです?(ラジオのニュースで流れていた)

◎二〇一五年八月二十六日(水)◆北海道洞爺湖
その七十四「再び噴火した有珠山」
 北斗星がラストランと言うことで、北海道に向かった。フェリー火災のことがあったので、運行の確認をしてから大洗港へ向かった。お盆最終日と言うこともあり、船内は混雑していた。
 室蘭でサイクリングをすると、火災したフェリーが停泊していた。ターミナルには、焼けたコンテナが置いてあった。室蘭は寂れた町になってしまっていた。東日本フェリー撤退後、人口減少に歯止めがかからなかった。東室蘭に特急が止まるので、東室蘭が栄えた。木造駅舎で有名な「旧室蘭駅舎」を撮影する。RZで北海道を訪れた頃できた屋台村は、やっていなかった。道の駅「みたら室蘭」で、三重の人と長話をした。函館ナンバーの軽ワンボックスの人とも長話をした。
 二十六日(水)に洞爺湖を訪れる。掲示物の中に、「洞爺湖サミット二〇〇八年七月八月ウィザードホテルで開催」があった。私は、サミット開催前の冬にこのウィザードホテルを訪れた。ランチタイムがものすごく高かった。このホテルは赤字経営で倒産したが、新しい経営者が高級路線でこのホテルの経営を立て直した。
 私は、その洞爺湖を久しぶりに自転車で回った。ホテルがつぶれていた。ただ、「有珠山噴火」の跡が残っていた。                           ☆私が洞爺湖を始めて訪れたのは、バイクで日本一周をしたときだった。私が、二十六歳の時(昭和五十八年)だった。
有珠山噴火は、平成十二年三月三十一日のことだった。その被災の様子を残した区域があった。当時の家や団地などが、生々しく残っていた。様々な立て看板があり、現在の防災対策のことが書かれてあった。

□二〇一五年九月一日(火)◆宮城県仙台市蒲生地区
その七十五「継続は力なり」
○蒲生地区の慰霊碑の所で、車に乗ろうとしたとき
「日本一周しているんですか?」(車のステッカーを見て?)
と、突然女の人に話しかけられる。私は、
「二十代の頃バイクで日本一周してますけど・・・。今は、被災地の記録を撮っています。千葉から沿岸部の変化する過程を撮っているんですけれど・・・。」
と、答えた。女の人は私の話を聞くと
「私の知人の旦那さんは震災当時戸倉小の校長を勤めていて、津波被害を受けたそうです。幸いなことに、生徒は全員無事だったそうですが・・。避難場所が良かったみたいで・・。生まれが北海道で、震災の年に戸倉小に赴任してきてすぐ東日本大震災・・・。」
と、戸倉小の話を始めた。私は、この戸倉小の話を知っていたので、
「私も戸倉小の話は、何度か聞いたことがあります。本当なら屋上に避難する予定だったのが、震災当時の職員が裏山に避難することを提案したのを聞き入れ、裏山に避難して全員助かった話ですよね・・・。」
と、こちらから内容を話した。それを聞き
「よく知ってますね・・。気を付けて記録を撮ってくださいね・・、ご苦労様。」
と、女の人は私に挨拶をした。私も最後に
「私は、被災地を撮影します。ただの撮影でなく、千葉から八戸まで沿岸部を定期的に撮影し、特に三陸沿岸は毎月訪れています。今までの記録を無駄にしないためにも、続けます。継続は、力なりかな・・・、失礼します。」
といい、蒲生を後にした。
☆何事も自分できめたことは、苦労とは思わない。むしろ、楽しい。

▼二〇一五年九月十一日(金)◆茨城県常総市
その七十六「水害」
○鬼怒川が決壊し、常総市が水害にあった。私はハイエースでなく、アフリカツインで向かった。バイクは小回りがきき、通行止めになってもある程度の所まで行くことが出来るからだ。
アピタ上空には、自衛隊のヘリが音を立てて四機飛んでいた。石下中前は、道路が水没していた。私はアフリカツインであれば通行できると思い、ゆっくりと進んだ。信号機が道路をふさいでいたが、バイクなので問題はなかった。取り残された車が、何台か置き去りにされていた。
関東鉄道の踏切は遮断機がおり、赤点滅し警報音を鳴らしたままの状態の箇所もあった。堤防決壊の場所へはたどり着くことが出来たが、かなり混乱していた。じゃまにならないようコンビニにバイクを置き、徒歩で現場に行く。急に「紀伊半島大水害」を思い出した。
☆その後何回か記録を残すため現場を訪れるが、一ヶ月ほどでテレビのニュースから流れなくなった。個人的には、常総市で開催予定だった「アジアの子どもたち」写真展が、中止になってしまった。ショック・・・!

■二〇一六年一月七日(木)◆福島県飯舘村          
その七十七「コンビニ」
○川俣町から県道十二号線を走行し、飯館村に入る。十二号線を走行していると、右側にセブンイレブンがオープンしていた。十二号線は交通量が多いのに、トイレ休憩のためのコンビニが無く困っていたが、これで安心だ。思わず私は料金を支払うときに
「このコンビニは、いつオープンしたのですか?」
と、質問してしまった。私の突然の質問に、店員は
「去年の七月です。」
と、応えてくれた。
☆国道六号線が全線通行可能になり、いわき市から南相馬にはいるようになると、飯舘村を訪れることが無くなってしまい。コンビニの開店を知らずにいたのだった。

□二〇一六年一月八日(金)◆宮城県南三陸                    その七十八「嵩上げ工事」
○嵩上げ工事が進む南三陸は、国道も新しくなり市内が複雑になっていた。ナビに設定されていない新しい国道が造られたかと思うと、古い国道に戻されていたりと苦労することが多くなった。これは南三陸だけでなく、三陸沿岸全般に言えることだが?
☆今回は、「防災対策庁舎」に入れなくなった(近づくことが出来なくなってしまった)。建物の管理権が町から県へ移ったことにより、県の職員数名が金網で建物を囲ってしまった。それから駐車場も封鎖してしまい、「防災対策庁舎」に近づくことが出来なくなってしまった。

□二〇一六年三月十一日(金)◆宮城県気仙沼市
その七十九「変化する県道」
○気仙沼市鹿折の幹線道路が、第十八共徳丸の撤去によって大きく変化していた。その変化が、「見学台」の設置により分かるようになっていたが、見学台の前に一枚の看板が ●「見学台を一月二十五日より撤去いたします」
気仙沼鹿折の見学台が、撤去される。見学台から撮影することが多かったので、撮影する場所を考えなければならなくなった。
周りの変化を見てみると、本来の幹線道が使用できなかったので、仮の幹線道を使用することになった。そこに、第十八共徳丸が撤去され、本来の幹線道を整備することになり、見学台がじゃまになった(見学台の所を本来の幹線道が通る?)
☆どこに行っても幹線道路の工事が多くなり、なかなか目的地に到着しないか、目的地に入れないことが多くなった。

□二〇一六年三月十二日(土)◆宮城県南三陸
その八十「モアイ最中?」
○車を大型バスが駐車する駐車場に止め、「さんさん商店街」に向かった。相変わらず商店街は、観光客で混雑していた。
 商店街を散策していると、モアイ最中の看板を発見する。思わず私は、店頭で    「モアイ最中ってありましたっけ?」                       と質問した。すると、店員が                           「つい最近できたんですよ。」                          と、応えてくれた。
☆南三陸さんさん商店街には、「オクトパス」ができたと思ったら、「モアイおみくじ」ができた。そして今回は、「モアイ最中」ができた。次は何ができるのか?

■二〇一六年四月十五日(金)◆福島県富岡
その八十一「除線の駅」(一)                          ○富岡町国道六号線沿いで、                           ●「とみおか、除線の駅、ほっとステーション」を発見する。
「道の駅」は、知っているが「除線の駅」は、はじめてだ。除線作業をする人たちが休憩する場所なのか?営業時間が、午前九時から午後四時までとなっていた。
☆それと並行して、富岡二中前に「双葉地方の未来に光を」の看板も見つける。福島原発問題が終わるまで、後何年かかるのだろうか?

◇二〇一六年五月九日◆熊本県阿蘇市
その八十二「生命線、ミルクロード」(熊本震災一)                ○阿蘇大橋が崩落しため、熊本市内と阿蘇を結ぶルートは、「ミルクロード」が主な幹線道路となってしまった。旅人の私としては、「ミルクロード」はバイクで走行するのは好きだが、こんなに「混雑するミルクロード」は初めてだ。特に、本日(五十九歳の誕生日でした)は雨のため視界が悪く、テールランプだけがたよりだった。 
☆再び十月に訪れると、「故障車多し、整備点検を」の看板が多く掲げられていた?渋滞は更に激しくなっていた。

◇二〇一六年五月十四日◆熊本県宇土市
その八十三「ゆがんでしまった宇土役所」(熊本震災二)
○昨年の年末「宇土」「川尻」の古い街並みを撮影したことを思い出し、「宇土」に向かった。昨年、「川尻」で駐車場が見つからず困ってしまい、やっと見つけた有料駐車場でルーフボックスが接触したことを思い出し、「川尻」には入らなかった。
宇土は、「宇土役所」が大きくゆがんでしまっていた。あの大きな鉄筋コンクリートの建物がゆがんでいる姿を見ると、改めて地震の大きさがわかった。
☆十月に訪れたときには、市役所を修復していた(市役所の建物周りは足場で囲まれていた)。あんなにゆがんでしまって、修復可能なのか疑問が残る?(最終的には、解体されてしまった。そのことを考えると、あの足場は解体するための足場だったのか?)

□二〇一六年六月十九日(日)◆宮城県南三陸町歌津
その八十四「おかえりポストくん」
○南三陸町から国道四十五号線を北上し、歌津商店街でいつものようにトイレ休憩をする。商店街を散策すると、商店街にポストの大きな看板が立てられていた。
●歌津郵便ポスト
歌津郵便ポストは、もともと南三陸町歌津地区のコンビニエンスストアに設置してありました。しかし、二〇一一年三月に発生した東日本大震災による津波で流され、一年九ヶ月たった昨年十二月二十八日に、直線距離で南に二四〇〇㎞離れた沖縄県西表島に漂流しているのが発見されました。
八月十一日には歌津復興夏祭でポストの返還式が行われました!
町の人たちは祭を開いてポストを迎え、BEGINのボーカル比嘉栄昇(ひがえいしょう)さんたちが作った曲に合わせ、歌って踊って「帰還」をお祝いしました。
ちなみにうたちゃんショップではポストくんの「シールセット」、「はがき」を販売しております!うたちゃんショップに立ち寄られた際には、ぜひ記念にポストくんグッズを買ってみてはいかがでしょうか♪
☆移設された歌津商店街の一角に、ショップが開設されていました。外には、大きなポストの看板が設置され、店内には被災し流れ着いたポストが展示されていました。

▼二〇一六年十月一日(土)◆広島県広島市
その八十五「復興交流館モンドラゴン」(広島市八・二〇豪雨災害三)
○広島市梅林地区はいる。県営住宅に、人は住んでいた。県営住宅の上部では、砂防ダム建設の工事を行っていた。県営住宅下に、慰霊碑があった。五月に訪れたときの慰霊碑に、更に一つ増えた。慰霊碑下に「復興交流館モンドラゴン」と鯉のぼりがあった。
●県営住宅下に慰霊碑
 広島市8・20豪雨災害
平成二十六年八月二十日未明200ミリを越える短時間豪雨によって発生した土石流が襲い、死者七十五名、負傷者六十八名に及ぶという 甚大な被害をもたらした
ここ県営住宅緑が丘住宅及び小原山地区では、二十五名の尊い命が失われた。私達は、犠牲となられた方々に哀悼の意を表し、ここに慰霊碑を建立する。
         平成二十七年八月十六日
県営緑ヶ丘住宅・尾原や真地区慰霊碑建立推進委員会
☆県営住宅周辺は整備され、これから宅地として使用する?正直、県営住宅に人が住んではいるが、ほとんどが空き部屋状態だった。更に、県営住宅周辺を宅地として活用するつもりで整備しているが、私が訪れていたときに、何家族かが引っ越しや引っ越しの準備をしていた。そのことを考えると、ここを離れる家族もこれから出てくるかも知れない?
○更に下って、「梅林小」を訪れる。車の出入りが多く、行事を行っているような雰囲気、門から中にはいるのが難しいので、外から中を撮影、慰霊碑があった。
●梅林小学校に慰霊碑 「広島土砂災害 忘れまい8・20」
☆慰霊碑が建立され、「復興交流館モンドラゴン」が支援センターとして設立されていた。館内には、今回の様々な資料が掲示されていた。

◇二〇一六年十月二日(日)◆熊本県南阿蘇村
その八十六「南阿蘇鉄道」(熊本震災四)
○阿蘇駅はブルーシートがとられ、営業していた。駅の出入り口に「七月九日から営業再開」の張り紙があった。南阿蘇鉄道は一部再開だが、地元利用者がいなかった。駅舎が一部壊れている駅もあったが撮影する。いつ廃線になってもおかしくない状態だったので、二日間に渡って撮影した。
☆日本の鉄道は、廃線につぐ廃線が続けられている。特に北海道では、それが深刻な問題になっている。それを考えると、今撮っておかなければという気持ちが強くなってきた。

◇二〇一六年十月四日(火)◆熊本県阿蘇市
その八十七「草千里」(熊本震災五)
○天気が良かったので、熊本城を訪れる前に「草千里」に向かった。早朝なのかどうかは分からないが、走行する車を見かけることはなかった。更に「草千里」に到着して、観光客を見かけるどころか、有料駐車場が無料にもかかわらず、車は一台も止まっていなかった(作業車は数台止まっていたが?)
 観光客のいない草千里、レストランは十月から営業再開したばかりなのに・・。阿蘇の噴火口からは、白い煙が上がっていた(次の日噴火した、危機一髪)。ロープウェーは、運休中だった。 
☆草千里は、バイクで何度も訪れた。また、ライダーの聖地でもある。(十年に一度この草千里にライダーが集合する。)その草千里に観光客はいなかった。十月から草千里の営業が開始されたのに、残念なことに「阿蘇の噴火」が起こり、再び立ち入り禁止になってしまった。車中泊していた道の駅「阿蘇」は、火山灰がひどかったらしい。       噴火の日に道の駅に戻らず、高速道のSAに車中泊(五日)したのは正解だった。また、高速道は片側一車線だった。

◇二〇一六年十月四日(火)◆熊本県熊本市
その八十八「観光客が多かった熊本城」(熊本震災六)
○五月に訪れたときには見ることが出来なかった熊本城は、今回見ることが出来るので、熊本城に向かった。五月に県庁を訪れているので、熊本城へのルートは分かっていたが、心配なのでナビに 従って走行する。                       驚いたことに、壊れた熊本城は観光客が多かった。特に、外国人観光客が目立った。地元の人の話だと、震災前より、震災後の方が観光客が増えているとのこと?        南阿蘇に向かいながら、西原中を訪れた。
☆九州は、「棚田」と「教会」で何度も訪れている。たぶん棚田撮影が一番多いと思われる。なのに、「熊本城」は今回が初めてだった。「水前寺公園」は、訪れたことはあったのだが・・・?もっと書かせてもらうと、フェリー航路が減ってからは九州から遠ざかってしまった。特に「カワサキマリンエキスプレス」が撤退してからは、九州から遠ざかってしまったような気がする。

□二〇一六年十一月二十一日(月)◆宮城県仙台市荒浜地区
△その八十九「震災遺構荒浜小学校」
○県道十号線を南下していると、荒浜小学校で工事をしていたので解体かなと思い、立ち寄る。工事関係者に       
「すいません。被災地の記録を撮り続けているんですけれど、荒浜小の解体工事が始まったのですか?」
と、車のエンジンを掛けたまま車から降りて訪ねると
「出入り口の所に看板があります。そこに説明が記がされていると思いますが、解体工事ではなく『震災遺構』保存のための工事です。」
と説明してくれた。私はすぐに
「たびたびすいません。写真撮影だけさせてもらってよろしいですか?中には入りませんから・・。」
と再び訪ねると、ヘルメットを被った工事関係の人が穏やかな顔をしながら
「いいですよ。ご苦労様です。」
と、許可してくれた。出入り口の所に車を止めてしまったので、私は慌てて撮影をして、お礼を言いながら車に乗り込んだ。
☆その後何度か荒浜を訪れるが、校舎内にはいることはなかった。校舎内に入ったのは、二〇一八年に入ってからだった。

□二〇一六年十一月二十一日(月)◆宮城県東松島市
その九十「駅前に新しい町並み」
○県道二十七号線を走行し、「新東名駅」前住宅地に入る。住宅建設中で、多くの建設業者が家を建てていた。こんなに多く建っているとは思ってもいなかった。また、「新東名駅」前から「新野蒜駅」前にかけて道路が造られていた。ほぼ出来あがっているのだが、「通行禁止」の看板があるので通行できず。迂回路に従って新野蒜駅に向かった。   「新野蒜駅」前は整備されてはいるが、これから住宅建設という 感じだった。
☆「新東名駅」前は町並みが出来つつあったが、「新野蒜駅」前はこれから建物を建てるという感じで、建てられた物は少なかった。

□二〇一六年十一月二十一日(月)◆宮城県南三陸
その九十一「志津川IC」
○三陸道を走行する。夜の三陸道、南三陸までつながっているかどうか確認しないまま、高速道を走行する。いつもなら、「桃生豊里IC」を降りて南三陸に向かうのだが、今回は行けるところまで行く。
「登米IC」を過ぎると人家のあかりがなくなり、真っ暗な三陸道を走行する。ほとんどの車が登米ICを降りたので、不気味な感じがした。しばらくすると「終点」の標識が見えた。「志津川IC」を降りると、「さんさん商店街」が見えた。
☆三陸道の工事は、急ピッチで進んでいます。国道四十五号線が寸断された震災の教訓を生かし、津波に強い内陸部に国道四十五号線のバイパスとして建設中です。
本州でも「圏央道」の計画が前倒しで進められ、「新東名」の延長が進められています。特に本州の計画は、「南海トラフ」対策で進められています。それほど、「南海トラフ」はいつ起こってもおかしくない災害なのです。

□二〇一六年十一月二十二日(火)◆岩手県
その九十二「新しい町並みに、新しい道の駅」
 大槌の嵩上げはすべて終了していて、平になっていた。建物も建ち始めている。大槌赤浜地区は嵩上げで学校跡が分からなくなっていた。
吉里吉里も嵩上げ地帯に建物が建設中だった。
 山田は大きく変化していた。かなり復興が遅れていたが、駅跡地の嵩上げが終了して、新しい商店街が出来ていた。
 田老防波堤前に、新しい道の駅が開かれていた。まだ完成しておらず、臨時営業だった。古い道の駅は、建物だけが残っていた。心配なのは、津波が来たら新しい道の駅は危険なのではないか?ただ立地条件は、新しい道の駅のほうがよい。
気仙沼市鹿折も新しい幹線道に、新しい町並み、コンビニも増えた。
☆六年目は嵩上げした宅地に住宅が建設され、新しい町並みが形として見えてきた。

■二〇一六年十二月二十七日(火)◆福島県富岡
その九十三「除線の駅」(二)
 国道六号線を北上し、広野町から富岡町に向かった。富岡町にはいると、左側に見えた「除線の駅」に立ち寄る。ここは、「除線」 関係の掲示物が多かった。道の駅のような休憩所ではなく、「除線」を知ってもらう施設だった。担当職員と会話を交わし、室内の撮影を行った。ここで、私の撮影した記録が役立つとは思ってもいなかったが?
☆二つ沼公園のプレハブが撤去され、様々な施設が公園から移動した。その二つ沼公園を過ぎると、「除線の駅」があった。通り過ぎてしまったのだが、Uターンして入った。訪れて良かった。(自分の間違えが分かったから)

■二〇一六年十二月二十七日(火)◆福島県南相馬市小高
その九十四「営業再開」
○国道六号線を、浪江町から小高方面へと北上する。左側にあったファミマ小高店が営業を再開していた。小高は、様々な施設が営業再開に向けて活動していた。旧飯舘村役場跡地に交流館ができたり、人が生活できるように活動している様子が分かる福島だが、不安はまだまだある。
☆二〇一七年四月から人々が生活できるように活動している。「小高」「飯舘村」に再び人々が戻ってくるように、準備をしていた。

□二〇一六年十二月二十七日(火)◆宮城県坂元町
その九十五「常磐線運転再開」
○国道六号線沿いに新しく作られた新坂元駅には、「祝十二月十日 JR常磐線 相馬~浜吉田間運転再開」の看板が下がっていた。予定通り、年内に運転再開が実現できたことが分かった。長く訪れることが出来なかった「新地」も、「新新地駅」前に入ることが出来た。こちらは、駅前に建物が造られ始めていた。全線運転再開まではまだまだ時間がかかりそうだが、一歩前進だ。
☆新地は、工事関係で中にはいることが出来なかった。私はあの「風の碑」が在るかどうか知りたかったが、その確認が出来なかった。今回年末と言うこともあり、工事関係者がいなかったので確認することが出来た。「風の碑」は、無かった。

□二〇一六年十二月三十一日(土)◆宮城県東松島
その九十六「東松島市震災復興伝承館」
○県道二十七号線を走行し、トイレ休憩も兼ねて野蒜のファミマにはいる。右側が「地域交流センター」なのは前から知っていたが、センター内に「東松島市震災復興伝承館」があったことは知らなかった。(もしかしたら、後から震災復興伝承館が出来た?)    センター内にはいると「青い鯉のぼりプロジェクト」の説明があった。青い鯉のぼりの撮影はしていたが、内容については詳しくは知らなかったが、今回詳しい内容を知ることが出来た。前々から地域交流センターは知っていたが、コンビニだけではなかったということを知った。

□二〇一七年三月十二日(日)◆岩手県大船渡市
△その九十七「新校舎」
○大船渡市内を抜け、県道九号線を走行し赤崎中学校に向かった。赤崎中学校の撮影は校舎が解体されてから訪れたので、その後どうなったか知りたくて向かった。海岸に沿って県道九号線を走行すると、右側に新しい建物が見えた。
 何度か撮影を行っていたが、まさか嵩上げを行って跡地に建設するとは思ってもいなかった。とにかく、高台のコンクリートがすごい!県道沿いに卒業生のメッセージ。   ●「本当にありがとうございます。 私たちは幸せ です!                            平成二十八年度赤崎中学校三年生一同
 文章から、卒業生は新校舎にはいることは出来なかったが幸せだった?それとも、三年の途中から新校舎に移り卒業式を新校舎で行った?
このときは建物だけの撮影でしたが、機会があったらこの疑問を尋ねてみたいと思った。
☆今回の撮影では、新校舎を撮影することが多かった。いわき市立豊間中学校、石巻市立戸倉小学校、大船渡市立赤崎中学校、赤崎小学校。特に強く印象に残っているのは、旧中学校跡地を嵩上げして建てられた赤崎中学校だった。             

□二〇一七年三月十二日(日)◆岩手県野田村
その九十八「十府ヶ浦海岸駅開業」
○道の駅を出ると、国道沿いを右折して十府ヶ浦海岸近くに車を止めた。野田村で三陸鉄道の撮影をしていると、地元のカメラマンに声を掛けられた。会話が弾み、突然
「ずいぶん遠くから来ていますが、雑誌関係ですか?」
と、質問されたので
「私は三陸鉄道の撮影と言うより、東日本大震災関係の撮影で、この野田村の変化の様子が三陸鉄道を通して分かればと思い、ずっと撮影を続けています。」
と、返答した。三陸鉄道の撮影は、ほとんどが撮り鉄と言われる人たちだ。
思い起こせばこの三陸鉄道の撮影は、二〇一一年四月二日から続けている。なぜなら、震災にあったにもかかわらず、この路線は一部が営業していたからだ。この野田村十府ヶ浦海岸も、津波で堤防や松の木が流された。幸いにも、線路はわずかな修復で使用できるようになり、すぐにこの路線は営業が再開された。
被災した十府ヶ浦海岸を元気に走る三陸鉄道は、東北に元気を与えてくれた。そして、今回は十府ヶ浦海岸駅が・・・。開業は、三月二十五日からと言うことだった。
☆線路上に建物が見えたので、帰宅してから時刻表を購入しました。時刻表に「十府ヶ浦海岸駅三月二十五日から開業」と、書いてありました。たぶん私が見たのは、仮駅舎のような感じだったので、きちんとした駅舎が完成すると思いますが?
☆その後、営業が開始されてから駅舎を撮影したが、撮影した駅舎は仮駅舎ではなかった。(小さかったので、私が勝手に仮駅舎と思いこんでいた。)

□二〇一七年三月十二日(日)◆岩手県大槌
△その九十九「木の慰霊碑」
○大槌赤浜に、「木の慰霊碑」がある。四年ごとに建て替えられているかどうかを確認するために、四回忌を過ぎた本日に訪れた。    
狭い道幅の所を登って訪れた記憶があったので、県道二三一号線から外れて高台へと向かった。いつも県道を赤浜小学校方面へと向かうのだが、今回を県道を右折して高台方面へと向かった。訪れてみると、新しく立て替えられていた。何故木なのか?その理由は、私が二〇一四年三月十七日(月)に岩手県大槌赤浜を訪れたときに、「木の慰霊碑」を見かけたことにある。その慰霊碑に書かれていた言葉が
●「大きな地震が来たら戻らず高台へ」
二〇一一年三月十一日東日本大震災によって町は海と化し。多く の命が奪われた。これは、二度と同じ過ちを繰り返さないために 建てられた碑である。碑に書かれた言葉を知っていれば、たくさ んの命が救われるだろう。
●震災の記憶を後世に残すための活動、木碑プロジェクトについて
二〇一一年三月十一日、大地震と大津波が東日本一帯を襲いました。大槌で一〇〇〇以上の死者・行方不明者をだし、町の中心地は全て流されてしまいました。当時中学二年生だった僕は、町が流されていく光景をただ見ていくことしかできませんでした。あの光景は、今でも思い出しますし、この悲しい惨状を未来の人たちに体験してほしくないという想い、安渡古学校地区ふれあいドーム会からたくさんの方々の協力のもと、二〇一三年三月十一日にこの安渡古学校地区に木でできた碑「木碑」が立ちました。
そして、木碑は建てたから終わりではありません。これを次の世代、また次の世代へと語り継いでいくために、四年に一度木の碑の部分を交換して、震災の記憶を後世に伝えていきたいと思います。この募金箱は、四年に一度碑を交換するための費用にあてられます。もしよろしければ、募金をよろしくお願いします。
☆「木の慰霊碑」が建てられてから四年、こうして新しく建て替えられた「木の慰霊碑」を改めて見ると、当時の高校生の考え方に感心させられた。

□二〇一七年三月十三日(月)◆宮城県南三陸
その一〇〇「復興商店街」
○南三陸「さんさん商店街」を十一日に訪れようとしたが、大渋滞で諦め本日訪れた。新しい高台の場所は、防災対策センターを真下に見る。嵩上げで、見えるのは上部のみだった。「震災復興祈念公園」が完成すれば、以前のように間近に見えるのかな?
平日にもかかわらず、混んでいた。私が車を出そうと思っていた時、車を駐車場から出すチャンスを待つ時間がながかった?
☆各地に復興商店街が出来たが、残念なことに復興商店街の先駆けであった「復興屋台村気仙沼横町」が「三月十八日閉村式 三月二十日営業終了」ということであった。各地域の実情にあわせた政策が、これからも行われることだろう?

□二〇一七年三月十三日(月)◆宮城県仙台市若林区荒浜
その一〇一「荒浜記憶の鐘」
○県道十号線を仙台空港方面へと走行し、荒浜で右折する。右折すると、すぐに左側に荒浜小学校が見えた。そのまま海岸まで走行すると、「荒浜慈聖観音」が右側に見えた。
今回訪れると、さらに左側に石碑が増えていた。左側をみると、「荒浜記憶の鐘」と書かれていた。
●「荒浜記憶の鐘」
この「荒浜記憶の鐘」には平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災で亡くなられた方々をしのび、荒浜を忘れないという思いが込められています。
人物をかたどり、両手を水平に広げた形は平穏を、頭部は水平線から昇る日の出を、上に向かうにつれて滑らかな仕上がりとなる石柱の表面は津波による被害にあった過去から未来を作り上げていく復興への願いを表現しています。
その日、荒浜を襲った津波の最高到達高は一三、七㍍(被災直後の松枯れの痕跡より計測)と言われており、球体から「荒浜記憶の鐘」を見ることで、巨大な津波の大きさを実感することが出来ます。
☆「荒浜慈聖観音」は慰霊碑だが、「荒浜記憶の鐘」はモニュメントのように思われる。どちらの石碑も、目的は「東日本大震災」を伝えることにある。

□二〇一七年三月十三日(月)◆宮城県山元町
その一〇二「献花台から慰霊碑に」
○亘理から県道三十八号線を、新地方面へと南下する。旧坂元駅跡を通過すると、右側に献花台があるので立ち寄る。今回は、献花台に加えて、慰霊碑が建っていた。
●「慰霊碑」
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分に発生したM九・〇の 大地震では、ここ山元町でも震度六強を観測する強い揺れとなった。
当時、海岸から約七五〇メートルというこの地にあった常磐山元自動車学校で教習を受けていた教習生二十六名と勤務していた役員及び従業員十一名は、地震後も自動車学校の業務が継続され、教習の再開も検討されたが、この地からの避難が行われなかった結果、同日午後三時五十分ころに到達した大津波の犠牲となった。二度とこのような悲劇が繰り返されないことを願い、この地で犠牲となった全員の冥福を祈り、ここに慰霊の碑を建立する。
☆前々から、ここに献花が多いことに気が付いていたが、何故献花が多いのか理由が分からなかった。今回、「慰霊碑」が建立されたので、その理由が理解できた。

■二〇一七年三月十四日(火)◆福島県
その一〇三「帰還準備」
○国道六号線を南下していると、昼食時に営業を再開したファミマ小高店が右側に見えた。トイレ休憩と昼食を兼ねて立ち寄ると、混んでいた。コメリ小高店の整理整頓は、終了していた。
 富岡町に入ると、「除線作業三月十五日まで」の立て看板が見られた。国道左側に、「さくらモールとみおか」の大きな立て看板が見え、営業中だった。左折して駐車場にはいると、雨にもかかわらず地元の買い物客が訪れていた。店舗は、おなじみの「ダイユーエイト」「ツルハドラッグ」、命日の日には各テレビ局が放送していたショッピングモールだった。          
 富岡駅前は整備中で、年内には富岡駅の営業再開が実現するという。
☆除線作業員が多かった地域に、これからは地元の人の姿が見られそうだ。
☆六年目は、嵩上げ工事が終わり建物を建設する地区が多かった。南三陸商店街は大きくなったが、気仙沼商店街のように、分散してしまった地域もある。地域によって取り組み方や考え方に違いがあると思うので、地域の実情にあった街作りを・・。
七年目のスタートは、福島の「小高」「飯館村」「富岡」などの帰還地域で生活が始まる。七年目は、福島を多く訪れる事になりそうだ、特に「除線の駅」で頼まれた、写真展の準備で?

□二〇一七年七月二十九日(土)◆宮城県岩沼市
その一〇四「想いは未来へ」
○鳥の海温泉から県道十号線を、仙台空港方面へと向かった。県道一二五号線と交差する十字路にコンビニがあるので、コンビニの駐車場にはいる。トイレ休憩も兼ねてコンビニの中に入り、再び車に戻ると、車からカメラを取り出し県道に出る。県道からは完成した新しい町並みと商店街が見えた。徒歩で向かうより車と思い、コンビニから車で移動する。
商店街の駐車場に車を止めると、新しい町並みと商店街を撮影した。その時、新しい町並みに石碑が設置されているのに気がついた。石碑に近づくと、撮影する。
●玉浦西  ~ 想いは未来へ~
 岩沼市の沿岸部には、松並豊かな貞山堀沿いに、相野釜、藤曽根、二野倉、長谷釜、浦崎、新浜の六つの地区が在った。東に太平洋の海原が広がり、西に蔵王の山並みが望まれ、実り豊かな土地であり、人々の輪をつなげてくれたふるさとであった。
平成二十三年(二〇一一年)三月十一日午後二時四十六分、太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード九・〇の大地震が発生し、その約一時間後に襲来した大津波により一八一人の尊い命が奪われ、六つの地区の人々は安住の地を失った。
その後、六つの地区の人々は、ふるさとを離れこの地に住むことを決断し、一人一人の想いを形にし、コミュニティを大切にした新たなまちづくりを始めた。
この地は、もともと二〇ヘクタールの稲田であったが、大地震から三年が経過した平成二十六年(二〇一四年)四月には、移住を開始できるまでに至った。
この新たなふるさとは、玉浦の名を後世に残すため「玉浦西」と名付けた。
先人から受け継がれたふるさとの歴史や誇りとともに、大震災による数え切れない教訓や支援に対する感謝の心を未来に引き継ぎ、そして、「玉浦西」に集まった人々の「想いが」未来に届くことを願い、ここに、この碑を刻む。
        平成二十七年七月 岩沼市
☆石碑の右側には新しい商店街、左側には街並みが見えた。コンビニの駐車場から撮影を続けていたが、今回は商店街の駐車場に車を止めて撮影をした。

□二〇一七年七月二十九日(土)◆宮城県名取市閖上
△その一〇五「新しい閖上の町並み」
○閖上の新しい町並みと、小中一貫校を撮影するために県道十号線を走行して閖上地区を訪れる。幹線道路を閖上地区で左折すると、閖上小は解体され新しい施設として倉庫が建設されていた。閖上小と閖上中が解体され、「小中一貫校」が新しく建設されると聞いていたので、新しい「小中一貫校」は閖上小の跡地に作られると思って訪れたのだが、小中一貫校は見あたらなかった。それらしき建設中の建物はあるのだが?
☆嵩上げされた閖上は、旧閖上中側が住宅地になり、お寺側は復興住宅が建設されていた?お寺は建設中で、新しい墓地が出来ていた。閖上の丘には、あじさいの花が咲いていた。

□二〇一七年七月三十日(日)◆宮城県南三陸
その一〇六「新しい国道沿いに大型店舗」
○南三陸、新しい国道四十五号線沿いに「ダイユーエイト」「薬王堂」などの大型店舗が建設されていた。今までの商店街から、新しい商店街に・・・。「さんさん商店街」が嵩上げ地に移設したように、新しい国道四十五号線沿いに大型店が出店した。
☆大型店は、仮設セブンイレブン跡地が嵩上げされた場所に出店された。また、南三陸町歌津に新しい商店街「ハマーレ歌津」がオープンしていた。新しい商店街は、小学校敷地と同じぐらいに嵩上げされた宅地に作られていた。

□二〇一七年七月三十日(日)◆岩手県陸前高田市
その一〇七「アバッセタカタ」
○陸前高田に、新しい商店街「アバッセタカタ」がオープンしていた。嵩上げ地に建設された、大型ショッピングモールだ。大きな駐車場があり、公園も併設されていた。嵩上げ地に建設されたので、旧高田市内を見渡すことが出来た。
☆新しい商店街の場所については、議論がなされたようだ。「嵩上げ地」か「津波の被害を免れた場所」かのどちらにするか議論がなされたが、最終的には「被災した旧高田市内を嵩上げした場所」に決定したという。

□二〇一七年七月三十日(日)◆岩手県釜石市
その一〇八「釜石市魚市場」
○釜石港に向かった。嵩上げ工事と新しい道路建設のため、交通規制が多かったが、どうにか釜石港にたどり着くことが出来た。釜石港には、多くの車が駐車されていた。イベントの日と重なったのか、人が多かった。                       係員の指示に従って駐車場に車を止め、人が集まっているところに向かうと、そこには、「釜石市魚市場一般公開日」の大きな垂れ幕が下がっていた。オープンは、まだらしい。
巡視船「きたかみ」体験航海の垂れ幕に誘われて、受付に向かう。私が「すいません。どれくらい乗船しているんですか?」と尋ねると、受けつけの人が「一時間半ぐらい乗船します。」と応えてくれたので、諦める。
☆巨大タンカーが乗り上げた釜石港は、七年目に市場として復帰することができた。

□二〇一七年七月三十日(日)◆岩手県山田町
その一〇九「鯨と海の科学館」
○山田町国道四十五号線を釜石方面に走行し、国道を左折して船越半島に向かった。左折すると、オープンした「鯨と海の科学館」が見えた。私は駐車場に車を止めると、受付で「すいません。いつオープンしたんですか?」と、尋ねた。受けつけの人は、すぐに「七月十五日からオープンしました。」と、答えてくれた。               ☆思い起こせば、被災したこの科学館は瓦礫置き場になっていた。建物を解体しなかったのでいずれオープンすると思っていたが、七年間の月日を経てやっとオープンにこぎ着けることが出来た。それと同時に、このキャンプ場を一度利用したを思い出した。そういえば、温泉もあったな?

■二〇一七年七月三十一日(月)◆福島県小高
△その一一〇「小高中は、」
○小高に向かうと、ローソン小高店が再開していた。「相馬馬追」のため、小高は人が多かった。三年前もここを訪れたが、これほど混んではいなかった。それに、ローソン小高店は閉店していた。駐車場も、満車だ。三年前は止めることが出来たが、今回は駐車は無理と判断し、小高中学校へと向かう。
 小高中学校を、懐かしさのあまり訪れてしまった。校長室に通されると、真っ先に女子バレー部の話をした。現在は生徒数が六十人という事で、部活動を続けることが不可能になった女子バレー部は廃部となってしまったそうだ。残っている部活動は、個人戦で大会に参加できる部活動のみを残したようだ。だから、団体スポーツは廃部となってしまった?
☆震災前は生徒数が四百人以上もいた小高中、現在は六十人となってしまった。校長は、震災前の小高中の栄光を知っているので、なおさら悔しい思いをしていることと思う。原発事故がなければ・・・。誰もがそう思っている。
今年の「相馬馬追」は、小高市内を騎馬武者が七年ぶりに隊列をなしたという。それもあってか、小高市内がにぎやかだったのだろう
 帰りながら「除線の駅」に寄るつもりでいたのだが、元のホンダディラーになっていた。秋に開催する個展はどうなるの?

□二〇一七年十月八日(日)◆茨城県大洗町
その一一一「大洗サンビーチ津波避難施設」
○午前八時に自宅を出発した。日曜日なのでETC割引が適用されるので高速道を走行して、大洗港に向かった。大洗海岸は日曜日のためか、サーファーで混んでいた。サーファーが車を止めている場所まで車を乗り入れ、徒歩で完成した防波堤に向かう。
防波堤に気を取られていたが、防波堤沿いに建物が見えた。近づくと「大洗サンビーチ津波避難施設」と書かれてあった。
☆大洗海岸には防波堤が完成し、防波堤に向かうと「大洗サンビーチ避難施設」が建設されていた。今までは、駐車場から砂浜と海が見えていた。防波堤が完成した今回は、鉄筋コンクリートが目の前に見えた。

□二〇一七年十月十日(火)◆岩手県野田村
その一一二「津浪記念碑」
○野田村国道沿いに、ピンクの看板が目立った。「ほたててんぼうだい」と書かれてあった。看板に導かれるように左折すると、駐車場に車を止めた。海が見えるように、高台になっている山側に作られていた?その敷地内を散策すると、古い石碑が移動されて建っていた(石碑が古く、建てられている場所が新しくなっていた)。
☆私は、東日本大震災で流された石碑を各被災地で探し求め、撮影した時期があった。それらの石碑から考えると、過去に建てられていた石碑が流されてしまったので、その流された石碑をこの高台に移設して建てた石碑と思われる。

□二〇一七年十月十日(火)◆岩手県普代村
その一一三「きらうみ」
○三陸道を「普代IC」で降りると、県道四十四号線を走行する。海岸沿いに出ると、海側に新しい建物が出来たことに気づき、スピードを緩めて建物の近くに停車した。建物には、大きく「きらうみ」と書かれていた。外のトイレが使えることに気がつき、トイレ休憩をする。トイレ休憩の後、建物から離れて何枚か撮影する。
外から撮影をしていると、お店の人が中から出て来た。お店の人が
「こんにちは、今から店を開けますので・・・。」
と、話しかけてきたので私も
「すいません。被災地を定期的に撮影している者ですが、この建物は・・・。」
と、地元の人と会話が始まった。私が会話を始めなくても、地元の人は震災当時のことを話してきた。
☆地元の人の話から分かったことは、堤防のおかげで普代村の死者は0だったこと。震災二日前に県の防災担当者から、坊提がなかったときの津波のシュミレーションを見せてもらったばかりだったこと。小学校の校庭は嵩上げされ、校舎の移転はないこと。「太田名部の堤防」でも、村は助かったこと。また、林道があったので大田名部村は孤立せずに済んだこと。           
最後まで、堤防のおかげで死者は0だったことを強調していた。私は「太田名部の堤防」については知らなかったので、今回立ち寄って、撮影した。

□二〇一七年十月十日(火)◆岩手県田野畑村島越
その一一四「伝えつなぐ」
○県道四十四号線を南下していると、田野畑駅前に出た。列車が撮影できれば撮影するつもりでいたのだが、時間帯から列車の撮影は難しいとみて、「島越駅」に向かった。島越駅下には、公園ができていた。その公園に、慰霊碑が建てられていた。
●大津波追憶記念碑
明治・昭和の大津波により犠牲となった方々を追憶し災害の記録を後世に伝えるためこの碑を建立するものであります。
明治の大津波
一八九六(明治二十九年)六月十五日午後七時三十二分に発生した三陸沖約百五十㎞を震源とするマグニチュード八・五の巨大地震とその津波による被害は、北海道から宮城県にかけ津波観測史上最悪の被害となった。
 昭和の大津波
一九三三(昭和八年)三月三日午前二時三十分、岩手県沖約二百五十㎞の海底を震源域とするマグニチュード八・一の巨大地震が発生、三十分程で北海道、三陸沿岸に襲来した大津波は各地に大きな被害をもたらした。
           島越自治親交会                               平成二十九年三月吉日
●伝えつなぐ
東日本大震災津浪記念碑
二〇一一(平成二十三年)三月十一日十四時四十六分宮城県牡鹿半島の東南東沖約百三十㎞の海底を震源として発生した東北地方太平洋沖地震は、日本における観測史上最大のマグニチュード九・〇を記録し、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約二百㎞の広範囲に及んだ。この大地震により発生した巨大津波は当地区にも甚大な被害をもたらした。
        平成二十九年三月吉日
☆島越駅下にできた慰霊碑と三陸鉄道を撮影するために、この公園で時刻表を見ながらしばらく列車が来るのを待った。時刻表から、正午近くになると二本の列車が来るのがわかったので、ラーメンを作りながら列車を待つ。本当ならコンビニがあればよかったのだが、あいにくとコンビニはなかった。今回も、非常食用に車内に保管しておいたラーメンに助けられた。「備えあれば憂いなし」

その一一五「道の駅岩泉、営業再開」
▼二〇一七年十月十日(火)◆岩手県岩泉町
○道の駅「岩泉」が、営業を再開していた。入り口前には「営業再開 ありがとう」の立て看板が立っていた。トイレも仮設トイレから、新しいトイレに代わっていた。ただ、球場施設は被災したままだった。
☆私が「岩泉」に関心を持ち訪れようと思ったのは、岩泉線の撮影が目的の時だった。残念ながら、その時はすでに岩泉線が営業休止のためバス代行になっていた。私はそれを知らずに、列車が来るのを待ち続けていたことを思い出す。(恥ずかしい話です)
最終的には営業休止を知り、諦めて岩泉駅舎を撮影した。その後訪れたのは、水害に遭ったことがきっかけだった。不思議なことに、東日本大震災の撮影のたびに東北を訪れていたが、岩泉だけは訪れていなかった。今回訪れたのも、水害のその後を知りたかったからだ。

□二〇一七年十月十二日(木)◆宮城県東松島市
その一一六「あおなみ」
○左側で防波堤(運河の)を建設している東松島市大曲地区を見ながら、奥松島方面へと向かった。室浜周辺の整備が進み、海水浴の時期が楽しみだ。再び野蒜方面に戻ると、左側に完成した施設「宮城県松島自然の家」が見えたので立ち寄る。残念ながら、休館日だった?再び野蒜方面に戻ると、左側にセルコホーム「あおみな」という施設が見えてきた。道の駅なのかなと調べてみると、午後六時から午前八時まで駐車場が閉鎖されてしまい、車の出入りが出来ないと言うことだった。
 旧野蒜駅駐車場に車を止めてトイレ休憩、その後駅周辺を散策する。旧野蒜駅裏に、公園らしき施設が?私は立ち入り禁止という立て看板があったにもかかわらず、作業中の公園に入り、怒られてしまった。
☆私は謝罪し、気まずい思いをしながら旧野蒜駅を後にした。途中、東名水田で稲刈りの場面を撮影する。落花生も作られていた。

■二〇一七年十月十三日(金)◆福島県飯館村
その一一七「までい館」
○車中泊した道の駅「相馬」から、鹿島球場へと向かった。球場の整備は、終了していた。国道六号線に戻るときに、仮設小高中に立ち寄る。小高中は、来年四月から小高へ再び移動すると言うことだった。
 南相馬市から県道十二号線を走行し、飯館村に向かう。セブンイレブンでトイレ休憩のつもりが、セブンイレブンが撤去されていた。更に走行すると、右側に道の駅「までい館」ができていた。セブンイレブンは、道の駅に併設されていた。道の駅に、「八月十二日オープン」という垂れ幕が下がっていた。中にはいると、新築なので木の臭いがした。併設されたセブンイレブンは、午前六時から午後八時までの営業だった。
 更に県道十二号線を走行すると、国道三九九号線と交わる道路沿いの左側にローソンがオープンしていた。ローソンの所を左折して、国道三九九号線を走行する。国道三九九号線は相変わらず通行制限が多かった。複雑で分からないままに、いつのまにか国道一一四号線に出てしまった。国道沿いに「とんやの郷」が出来ていた。昼食をコンビニでと考えていたが、コンビニが見あたらないので、「とんやの郷」で弁当を買う。食後、カメラを片手に「とんやの郷」を撮影する。出入り口の所に、「山木屋地区復興拠点商業施設、とんやの郷、 七月オープン 津波・原子力災害補助金」と書いてある掲示物を発見した。道の駅とは違うのか?
☆道の駅「までい館」をきっかけに、住民が飯館村に戻ってくればよいのだが。

□二〇一七年十二月二十七日(水)◆千葉県旭市
その一一八「防災資料館」
○房総半島に向かった。九十九里有料道路は、嵩上げして二十四日に全線開通していた。
海の駅「九十九里浜」には、避難鉄塔が設置されていた。所々に、津波想定予想図が掲示してあった。その中でも、「元禄地震の再来想定津波高」の掲示板は大きかった。
 沿岸沿いを走行しながら、旭市に向かった。「旭」の防波堤は、完成していた。撮影を続けていた国民宿舎を撮影するために訪れると、国民宿舎の右側に「防災資料館」が出来ていた。私が中にはいると、館長さんが応対してくれた。私が         
「私は、震災の撮影を続けている者です。この国民宿舎も継続して撮影していたのですが、防災資料館はありませんでした。いつオープンしたのですか?」
と尋ねると、館長さんは
「国民宿舎が営業する前に、オープンしていました。」    
と応えてくれた。私はその話を聞き
「え、そうなんですか?」
と、驚いた顔で言った。
 しばらく館長さんと会話を交わして、
「貴重なお話をありがとうございました。もし何か私にお手伝いできることがありましたら、ご連絡下さい。」
と言い名刺を渡して資料館を出ようとすると、館長さんが
「ちょっと待って下さい。渡したい物があります。」
と言い、奥から「被災地あさひ」という資料集を持ってきてくれた。最後の資料集を頂いて、資料館を後にした。                             ☆館長さんから、たくさんの話を聞くことが出来た。館長さんは最後に、「この千葉県で津波被害があったことを知らない人が、全国にいると言うことが残念でなりません。」と言っていました。そのために、防災資料館を作ったとも言っていました。
 これからは、避難経路の整備、津波避難タワーの整備、築山の整備(千年の丘と同じように植樹する)に力を入れたいと言っていた。

□二〇一八年三月十五日(木)◆福島県いわき市久之浜
その一一九「久之浜防災緑地公園」
○四倉港周辺の整備も進み、緑地公園が作られていた。道の駅でトイレ休憩を済ませると、再び国道六号線を走行する。いつもは、素通りする久之浜に立ち寄る(駐車スペースがないので、なるべく自転車で訪れるようにしていた)。それには、理由があった。道路工事が減って、通行が楽になったからだ。それに、海岸沿いに見える植林が気になったからだ。
☆久々に訪れた久之浜も防潮堤が完成し、「久之浜防災緑地公園」が作られていた。植林は、「防災緑地公園」のためだったのだ。七年目には各被災地の海岸沿いの防潮堤が完成し、「緑地公園」が多く作られていたことが分かった。

■二〇一八年三月十五日(木)◆福島県富岡町
その一二〇「さくらステーションきのね」
○久之浜から、再び六号線を北上する。富岡町にはいると、迷わずに富岡駅に向かう。富岡駅は完成し、営業していた。駅横に「さくらステーションきのね」が、作られていた。建物の左側には、「夜ノ森公園の桜」の写真が大きく引き伸ばして掲示されていた。
 富岡駅前にはビジネスホテル建てられ、駅周辺はアパートやマンションが完成していたり、建設中だったりしていた。
☆富岡駅~浪江駅はバス代行で運行されていて、復旧はまだ先のことのようだ。更に私は、営業を再開した浪江駅前に向かった。駅は人がいなかったというより、市街地に人の姿はなかった?
☆国道六号線は、今まで以上に車の往来が多くなってきた。また、撤去されたと思っていたバイクは奥に移動されていただけで、見えなかっただけだった。バイクは、今でも国道沿いに放置されたままだった。

□二〇一八年三月十六日(金)◆宮城県石巻市北上
その一二一「石巻市北上観光物産交流センター」
○新北上大橋を渡ると、国道三九八号線を走行し北上庁舎跡地に向かった。新しくできた堤防に近寄ると、北上庁舎跡地にモニュメントが完成(希望の鐘)していた。
真ん中に「希望の鐘」、右側に「モニュメントの想い」、左側に「東日本大震災慰霊碑」が建てられていた。
モニュメント脇の道路を下ると、「石巻市北上観光物産交流センター」が完成していた。
☆昨年の十月に訪れたときに奥の方で建てられていた建物は、「石巻市北上観光物産交流センター」だった。ただ気になるのは、北上庁舎跡地に設置されていた慰霊碑だ?

□二〇一八年三月十六日(土)◆宮城県歌津町
その一二二「かもめ館」
○国道四十五号線を走行し、歌津町にはいる。新しい国道四十五号線はまだ建設中だった。橋を渡り、商店街に向かった。昨年の十月に訪れたときに建設中だった建物が、完成していた。ハマーレ歌津商店街に、交流施設「かもめ館」が完成していた。更に駐車場奥には、「伊里前の地蔵堂」が作られていた。
☆国道四十五号線は、まだ完成していなかった。完成していれば直進できたのだが?いつものようにガソリンスタンドの所を左折して橋を渡り商店街に入った。
七月に訪れたときには、国道四十五号線が完成していたので直進することが出来た。

□二〇一八年三月十七日(土)◆岩手県大船渡市
その一二三「大型ショッピングモール」
○三陸道を走行し、大船渡市を訪れた。大船渡市は、復興商店街が完全に撤去されていた。「マイヤ」と「ホーマック」だけのときとは違って、周りにも商店街が完成していた。私が訪れたいと思っていた、書店もあった。                      これほどの「大型ショッピングモール」が完成しているとは、思ってもいなかった。た。また、大船渡駅前のロータリーは完成していた。
☆「鎮魂愛の鐘祈念碑」は残っていたが、敷地内が荒れていた。残念ながら、震災当時のままで改修はされていなかった。今回は敷地内にはいることが出来たので、改めて周辺の様子を撮影した。大きな防潮堤が印象的だった。

□二〇一八年三月十七日(土)◆宮城県気仙沼市岩井崎
その一二四「杉の下地区、移設された慰霊碑」
○通過することの多かった岩井崎に立ち寄るために、国道を左折する。地福寺の所を右折すると、杉の下地区に向かった。道幅が狭いので、対向車が来ないようにと祈りながら進む。右側に慰霊碑が建っていた。慰霊碑は移動され、避難台(展望台?)が出来ていた。
☆岩井崎の堤防が完成し、震災遺構が決定した向洋高は整備中だった。大谷海岸周辺(道の駅)が嵩上げされていた(防波堤?)。

□二〇一八年三月十七日(土)◆宮城県東松島市野蒜
その一二五「震災復興メモリアルパーク」
○嵩上げ中の道路を撮影しながら日和橋を渡り、門脇地区に入った。 がんばろう石巻「南浜つなぐ館」裏に完成した新しい建物(こころの森)を撮影すると、門脇小学校前に完成した公園も撮影した。 撮影が終わると、東松島野蒜地区に向かった。旧野蒜駅裏には、 「震災復興メモリアルパーク」が完成していた。慰霊碑には、掲示物も出来ていた。その掲示物には、「震災復興メモリアルパーク」が出来た経緯について書いてあった。
●未曾有の被害をもたらした東日本大震災では、たくさんの尊い命が失われました。お亡くなりになられた方々への追悼と鎮魂を祈念するとともに、震災の記憶と教訓、国内外からいただいた支援への感謝の心を、これからも忘れることなく、後世に伝承していく拠点として、ここを「震災メモリアルパーク」とします。
●「鎮魂・復興・感謝 東松島一心」東松島震災復興慰霊碑(モニュメント)
三軸となる柱の中心から、左右対称に広がるようにデザインされたモニュメントです。水平で均整のとれた形状は穏やかな海をイメージした物で、平穏な日常を誰もが安心して過ごせるようにとの思いが込められています。
波模様を施した中央のモニュメントの頂点は津波到達高約三、七mと同じ高さです。角の無い正円と穏やかな曲線状で背面に刻まれた模様は、お亡くなりになられた方々の怨霊を表しています。御名前が格納されているモニュメント本体に一つ一つ刻むことで追憶と鎮魂を願い、東松島市で震災によってお亡くなりになられた方々を忘れない強い意志を示しています。
☆モニュメントが置かれた「震災復興メモリアルパーク」からは、新野蒜駅が見えた。今回は完成していたので、ゆっくりと撮影することができた。

□二〇一八年三月十八日(日)◆宮城県仙台市蒲生地区
その一二六「更地になってしまった蒲生地区」
○ 蒲生地区にはいれないことが続いたので、今回は入れることを期待して県道十号線を左折しようと思ったが、まだ「通行止め」の看板が立てられていた。諦めて荒浜地区に向かった。蒲生地区を離れると、諦めきれない気持ちが車のブレーキを踏ませた。いったんコンビニに入り、再びUターンして蒲生地区に戻る。七北田川沿いに入ろうとせずに、コンテナターミナルに向かう道路を進みながら、右折して蒲生地区にはいることを試みる。「日和山」の看板があったので、看板に従いながら蒲生地区にはいることが出来た。今まで撮影し続けてきた物は全て撤去されて、更地になっていた。正直、ショックだった。 ☆蒲生地区の建物が全て解体され、更地になっていた。日和山に「高砂神社」の赤い鳥居だけが建っていた。野鳥の観察が出来るように、駐車場と歩道が確保されていた。私は、その確保された歩道を進んだ。歩道は、荒れていた。歩道から海を見ると、相変わらず、サーファーは多かった。
たぶん「日和山」の看板は、「サーフアー」と「バーダー」の為に建てられたのだろうと思われるが?二〇一五年九月一日の撮影を最後に撮影が行えなかったので、今回は貴重な撮影を行うことが出来た。?

■二〇一八年三月十八日(日)◆福島県
その一二七「懐かしい国道三九九号線」
○県道十二号線を走行し、飯館村に入る。右側に道の駅「までい館」が見えたので、トイレ休憩をする。駐車場が満車で、止める場所がなかなか決まらなかった。道の駅で
「葛尾方面に行きたいのですが?」
と尋ねるが、明快な返答がなかった。驚いたことに、店員が地元でない人が多かった。とりあえず県道十二号線を走行し、川俣町から三四九号線を走行し県道五十号線で葛尾村を目指すプランにした。
三九九号線を走行するのが一番の近道なのだが、途中の迂回路で迷ってしまうおそれがあるので、無難に川俣町から向かう。途中道の駅「東和」で
「すいません、葛尾村に向かいたいのですが・・・、県道五十号線を使うのが善いですかね?私も何度か訪れてはいるのですが、いつも道に迷ってしまうので・・・。」
と尋ねると
「ちょっと待って下さい・・・、そういえばつい最近五十号線を 使ったな・・・。」
との返答を得たので、県道五十号線を走行して葛尾村にはいる。
思った以上に走りやすく、わかりやすかった。役場前の信号機の所まで来ると、すぐに自分の位置が分かった。とりあえず役場の駐車場に車を止め、小学校に向かう。業者の方が作業をしていたので
「すいません。小学校は授業を行っているのですか?」
と、業者の人に尋ねると
「今年の四月からです。」
とのことだった。
私が初めて訪れたときは、鯉のぼりが橋の所にかかっていて、児童は居なかった。校舎は、まだ新しかった。建て替えた後、避難しなければ行けない状態になってしまったらしい。町全体に人の気配が全くないが、学校に児童は戻ってくるのだろうか?
 川内村のファミマに向かう。国道沿いに移転されていた。日帰り温泉の所にあったときより、大きくなっていた。コンビニに、「薬局・クリーニング・食堂」が併設されていた。看板には、大きく「ショッピングセンター」の文字が書かれていた。
☆何年かぶりに「三九九号線」を走行して、「いわき市」へと向かった。本当はあの狭いくねくねした国道は走行したくはなかったのだが、地図から読み取ると国道沿いに向かうのが一番良いと判断した。
ほとんど、対向車に会うことはなかった。以前と違うのは、トンネル工事が二カ所あったことだった。平日でなくて良かった。これが平日だったら、作業車とすれ違うのに時間がかかるおそれがあった。福島県内の避難区域は、道路整備が進んでいた。
 いわき中央ICから高速道を走行し、帰宅する。

▼二〇一八年四月七日(土)◆福岡県朝倉市
その一二八「朝倉の三連水車」(九州北部豪雨一)
○国道沿いに「寺内ダム」があったので、むかう。ダム周辺で瓦礫の処理をしている様子が見られたので、ダムカードをもらいながらいくつかの質問を管理事務所でした。やはり、豪雨災害の処理をしているとのことだった。かなり減っているとも言っていた。「朝倉の三連水車」と関連させて、田植えの時期のことを質問したら、逆に質問された?
帰り際に、瓦礫処理を行っていた公園に立ち寄る。公園には、「あまぎ水の文化村」と書かれていた。重機が何台か、作業をしていた。瓦礫処理をしている場所には、しだれ桜が咲いていた。
 「三連水車の里」を訪れると、「ご支援ありがとうございます、朝倉は頑張ってます!」の大きな垂れ幕が掲げてあった。水車の里の裏側は、当時の水害の様子が分かった。立ち入り禁止のロープが張られて、まだ瓦礫の撤去が終わっていなかった。また、三連水車は被害を受けずに形を残していたが、周りは水害の爪痕が残っていた。          道の駅で分かったことは、被害の大きかった場所は山間部で、人の往来が少ないので正確な情報が分からないようだった。筑後川沿いの被害の状況は確認できたが、山間部に関しては確認するのは難しいと判断して諦めた。筑後川に流れ込む「北川」沿いが、今でも被害の大きさを残していた。車で入れる範囲で撮影するが、土砂で家が埋もれていた。山間部に関しても、国道三八六号線沿いから見える箇所もあった。望遠レンズで撮影すると、山間部の被害の様子が分かった。

二〇一八年四月九日(月)◆熊本県熊本市
その一二九「熊本城」(熊本震災七)
○大川から、「有明沿岸道路」を走行する。無料の高速道路のように流れは速かった。大牟田市から荒尾町を抜けると、沿岸道路は終了だった。ナビで熊本城に向かったのだが、あまりにも県道一号線が狭い道路だったので、ナビの設定を解除して国道五〇一号線を走行して熊本城に向かった。                             熊本城に到着したのだが、いつもの駐車場ではなかった。ルーフがゲートにかかってしまい車を乗り入れることができないので、受付の人に大きな声で
「すいません。ここでUターンします。それから近くに駐車場はありますか?」
と尋ねた。受けつけのおじさんが、慌てて近寄ってきて
「ここを下って左折すると、二の丸駐車場がありますから、そちらにお願いします。」 と、教えてくれた。ところが、二の丸駐車場が分からなくなってしまい再度受付の所に戻り場所を尋ねた。今度は間違わずに駐車場にはいることが出来た。駐車場はがらがらだったが、外国人観光客は多かった。
去年と比較するとあまり変化がないように思われたが、かなり規制が解かれて、中まではいることが出来るようになっていた。また復興に向けての作業の様子が分かるように、「復興作業の掲示板」が設置されていた。丁寧な説明文と写真が添えられていて、はっきりと作業の様子が理解できた。
去年と同じ時期に訪れたのに、桜は完全に散ってしまいツツジが咲いていた。去年は、満開の桜を見ることが出来たのだが?
午後三時を過ぎたので、道の駅「阿蘇」に向かう。途中間違えて「ミルクロード」に入らずに、国道五十七号線を南阿蘇方面に向かって走行してしまった。(後で分かったことなのだが、阿蘇大橋にかわる橋が迂回路として走行できるようになったので、真っ直ぐ国道五十七号線を走行しても、道の駅にたどり着くことは出来た。)途中でUターンして、ミルクロードを走行する。以前ほどの「整備点検」「故障車多し」の看板はなかった。
道の駅に到着すると風呂に向かったのだが「しばらく休業します」の看板が掛かっていた。改めて道の駅の案内所で、「内牧温泉」のパンフレットをもらう。内牧温泉に向かうが、温泉街は寂れていた。
☆ラジオのニュースで、島根県大田市で大きな地震が起きたことが放送されていた。

二〇一八年四月十日(火)◆熊本県阿蘇市
その一三〇「道路の補修が済んだ草千里」(熊本震災八)
○去年訪れたときには片側通行だった「草千里」周辺も、すでに舗装工事が終了していた。又、駐車場は有料になっていたので、止めることを諦めて道路沿いにある駐車場に車を止めた。阿蘇岳が噴煙を上げているのが見えた。去年の秋に阿蘇岳が再び噴火し、間一髪で私が九州を離れたことを思い出した。あの時に道の駅に車中泊していたら、私のハイエースは火山灰で覆われていたかも知れない?阿蘇岳ロープウェイーは運休になったままだが、通行止めになっていた周辺の道路が通行可能になっていた。
 下山すると、阿蘇神社に向かった。去年は桜の花が咲いていたが、今年はすっかり散ってしまっていた。重機が入っていて、復興に向けて作業が続けられていた。早朝と言うこともあり、駐車場の心配がないので車を置いて、街並みの撮影をする。大きな看板に「水基巡りの道、阿蘇門前町商店街」の文字、よく見ると韓国語と中国語でも書かれていた。又、震災前の商店街の様子が写真として掲示されていた。
☆ついに、阿蘇神社にも重機が入った。木造建築に重機は似合わないが、やはり作業効率が違うのだろう?

◇二〇一八年四月十日(火)◆熊本県南阿蘇
その一三八「阿蘇長陽大橋」(熊本震災九)
○南阿蘇にはいる。道路の舗装は終わっていた。大型ダンプの往来が多く、緊張する。道幅が広げられて舗装が終了しているので、去年ほどではないが?去年との大きな違いは、大型ダンプの往来と、土砂災害箇所の補修工事だ。道路沿いから、斜面で工事をしている重機や大型ダンプがよく見える。
 南阿蘇鉄道は、去年の三本から二本に本数を減らして運行していた。運行も全線ではなく、去年と同じ一部運行だった。駅舎も補修せずに、そのままの状態だった。
 「阿蘇長陽大橋」が補強され、国道五十七号線に出ることが出来た。ミルクロードを走行しなくても、阿蘇方面にはいることが出来るようになっていた。どうしても新しい路線を撮影したいと思い、車をコンビニの駐車場に置いて自転車で新しい路線を散策する。新しい阿蘇大橋の脚が、すでに両側から架けられ始めていた。又、新しい鉄橋(南阿蘇鉄道)はすでに完成していた。
☆「阿蘇長陽大橋」が、「阿蘇大橋」に代わっていたとは知らなかった。これからは国道五十七号線を走行して、「阿蘇」に入ることが出来ることが分かった。

◇二〇一八年四月十一日(水)◆熊本県益城町
その一三二「更地になった益城町」(熊本震災十)
○ミルクロードを走行せず、新しい路線で国道五十七号線に出る。混雑はなかった。県道二十八号線を走行し、益城町方面に向かう。益城町小谷地区は、ブルーシートが無くなった。残念だったのは、県道二十八号線から「西原村」に入れなかったことだ。西原村は諦め、益城町市内に向かう。建物は全て解体され、更地になっていた。一部プレハブの建物はあるが・・・。私が車を止めた運動公園は、建物が解体されていた。プレハブのお寺があったので、確認をしてから撮影を行った。
 国道四四三号線を走行し、御船町にはいる。いつも訪れている公園に行く。復興住宅はあった。去年はこの復興住宅を撮影したが、今回は撮影せずに御船町から「宇土市役所」に向かった。市役所跡地は、駐車場のままだった。私は新しい市役所を建設しているのかと思い地元の人に尋ねると、まだ市役所は建設していないとのことだった。

◇二〇一八年四月十三日(金)◆島根県大田市
その一三三「島根地震」
 山陰道を走行し大田市の駅前に到着したが、地震の情報が分からないので役場を探す。地元の人に役場への道順を尋ねたついでに、地震のことも尋ねる。「それなら、三瓶山周辺に行かないとダメですよ。」と言われた。慌ててマップルで場所を確認する。午後四時を過ぎているが、行けるところまで行ってみることにする。なるほど、途中途中でブルーシートをかけられた建物が見える。又、県道も片側通行が多かった。ただ熊本地震のような建物は見あたらない。どちらかというと「鳥取地震」の時に似ている。
三瓶山周辺には、まだ桜が咲いていた。最終的には、大田市に戻らず国道一八四号線に出ると出雲方面に向かった。途中左折して、県道三九号線に出る。そのまま走行すると、国道九号線に出た。国道に出ると、そのままいちじく温泉に向かった。
☆島根県大田市で起きた地震を撮影するため、「三瓶山」を訪れる。夕方だったので時間に追われた撮影だった。暗くなる前に撮影は出来た。道の駅「キララ多岐」に車中泊する。

□二〇一八年七月二十六日(木)◆岩手県宮古
その一三四「宮古港フェリーターミナル」
○ハヤチネウスユキソウの撮影が終了すると、早池峰山から県道二十五号線を走行して、宮古街道に出た。宮古街道を走行して、宮古市を訪れる。               国道四十五号線沿いに、「宮古港フェリーターミナル」の案内板が見えた。標識に従って走行すると、今まではいることが出来なかった宮古港にはいることが出来た。今まで外から中を見ていた限りでは、港内で瓦礫の処理をしていたように思われていた。行き来する車も、ほとんどがダンプカーだった。今回は、すんなりと入れた。入って驚いたのは、港内の広さだった。大きな駐車場という感じだった。
 唯一建てられた建物には、「宮古港フェリーターミナル」の大きな横看板が掲げてあった。大きな駐車場には、ほとんど車は止まっていなかったというより車はなかった。
私は建物に近い場所に車を止めると、建物の中に入った。中に入ってもほとんど人に出会うことはなかった。私が建物に入った時間が、午後二時前だった。時間を考えても、人が少ないような時間ではない。
施設の中は、何もかも全てが新しい物ばかりだった。様々な掲示物を見てみると、「二〇一八年六月二十二日 宮古~室蘭 フェリー航路開設」の掲示物があった。すでに営業は開始されているが、宮古港発は午前八時であり一日一往復なので、すでに利用者はいなかった。また、室蘭からのフェリー到着が早朝午前六時だった。そのことを考えると、ターミナルの中が全く人の気配がないのも納得できた。
☆三陸道を走行して八戸港から北海道に渡るプランが多かったが、それは夜の寝ている間に苫小牧港に到着するため、時間の無駄がなかったからだ。場合によっては、宿泊しなくても船の中で寝ることが出来る。宿泊代を考えたら、宿泊代が浮いたことになる。それを考えると、宮古から室蘭への乗船は考えられないが、室蘭からの乗船は大いにあり得る。そんなことを考えながら、「宮古港フェリーターミナル」を後にして三陸海岸を北上した。

その一三五「大津波記念碑」
□二〇一八年七月二十六日(木)◆岩手県野田村
○午後四時半過ぎ、野田村で三陸鉄道の撮影を行った。いつもの場所で撮影を行った後、昨年の十月に訪れたときに出来ていた「ほたてんぽうだい」に車を移動させる。高台に新しい記念碑ができていた。記念碑には、鐘も設置されていた。石碑に
●東日本大震災「大津波記念碑」~二度と村民の命を失わないように~
駐車場には、「大津波記念碑」を説明する掲示物が立てられていた。
●「過去の教訓を生かし、命を守る行動を」
この大津波記念碑は、三枚の石板からなる石碑が、扉のように海に向かって開いた形をしています。この扉は、今までもこれからも共にある、海に対する「畏敬の念」、亡くなった方の魂を迎え入れ、対話をする「追憶の場」、いつでも帰って来られる「ふるさと」、ここから一歩踏み出す「未来」を表しています。
扉をかたどる三枚の石板は、防潮堤(第一堤防)、国道四十五号・三陸鉄道等(第二堤防)、そして東日本大震災大津波の復興において新たに設けた十府ヶ浦公園の線状形盛土(第三堤防)を模しており、「将来にわたり村民の命を守る」という決意を後世に伝えるものです。
手前の球体は、守られるべき命を表現しています。扉をくぐる道には、色とりどりに輝く未来への道となるように、未来を担う子ども達が、それぞれの思いを込めた小石を埋め込みました。
この扉をくぐることで、海と向き合い、大切な人やふるさとに思いをはせ、新しい未来への希望が生まれることを願います。
☆「ほたてんぼうだい」には、古い「津浪記念碑」と新しい「津波記念碑」があった。私は撮影後、道の駅「のだ」で車中泊した。涼しかった。

□二〇一八年年七月二十七日(金)◆岩手県
その一三六「山田線から、三陸鉄道リアス線へ」
○国道四十五号線を南下し、宮古市街地を通過する。稲荷橋信号機を右折して、「津軽石駅」に向かった。山田線「津軽石駅舎」前に、「三陸道リアス線 二〇一九年三月二十三日開通」の垂れ幕が掲げてあった。内容的には、「山田線宮古~釜石間」が「三陸鉄道リアス線」と名称を変更して復活すると言うことだ。
☆三月に訪れたときには、改修された津軽石駅舎や新しく建設中の山田駅舎を撮影することが出来たが、垂れ幕はなかった。
これをきっかけに、建設中の山田町「新山田駅舎」、大槌町「新大槌駅舎」、鵜住居地区「新鵜住居駅舎」を撮影した。

□二〇一八年年七月二十七日(金)◆岩手県大槌
その一三七「大槌町に新しい交流館完成」
○旧大槌町役場に、足場が組まれた。建物を解体するのだろうか?また、セブンイレブン大槌の近くに、交流館と郵便局が完成していた。交流館に入ってみると、東日本大震災から復興までの歩が掲示されていた。交流館近くに、御社地公園も作られていた。
☆これを書いていたら、ラジオのニュースで「東日本大震災の津波で被災した、閖上のかまぼこ工場の解体がきまりました。」と流れてきた。旧大槌町役場も解体の方向で進んでいるのだろうか、気にしながらニュースを聞いていた。(二〇一八年十一月九日)

□二〇一八年七月二十九日(日)◆宮城県仙台市蒲生地区
△その一三八「旧中野小学校跡地」
○三月に訪れたときに「蒲生地区」にはいることが出来たので、同じルートを走行して、蒲生地区にはいる。駐車場には、双眼鏡を持参した家族連れが多かった。私はそのグループの後に付くような形で、歩道を歩いた。そのグループは小さくなってしまった「日和山」に到着すると、リーダーの指示に従い蒲生干潟での野鳥観察を始めた。
 帰り道、偶然旧中野小学校跡地に「慰霊碑」と「閉校記念碑」が建てられていたのを撮影することが出来た。
●「希望の絆 中野」
平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災の津波による犠牲者を慎むとともに、この地に築かれてきた強い絆を後世に遺すため、ここにこの碑を建立する。
         平成二十八年八月十一日
☆野鳥観察で有名な蒲生地区らしく、石碑は野鳥をかたどった石碑になっていた。もちろん、撮影を続けていた「蒲生地蔵尊」も移動されてあった。

□二〇一八年七月二十九日(日)◆宮城県岩沼市
その一三九「南浜中央病院」
○閖上地区から、亘方面へと県道十号線を走行した。今回は左側に注意しながら、県道十号線を走行する。南浜中央病院を訪れ、営業しているかどうかの確認をするためだ。   建物が有れば確認できるが、建物がなければすでに病院はやっていないと言うことになる。玉浦地区にはいると、スピードを落として左側に注意しながら走行すると、左側に鉄筋コンクリートの建物が見えた。県道を左折して、建物に近づいた。作業はしていないが、駐車場に車が止まっていた。                            車を駐車場に止めると、病院に近づいた。入口に近づくと、中に人がいるのが見えた。入口から中にはいると、様々な掲示物が営業していることを示していた。やっていないと思っていた南浜中央病院は、やっていた。
☆海岸に近い病院だったので、建物があっても営業はしていないと思っていたが、営業していた。安全上問題はないのだろうかと思ってしまった。

■二〇一八年七月二十九日(日)◆福島県相馬市
その一四〇「相馬海岸海開き」
○国道六号線を山本町から、相馬方面へと走行した。国道六号線上に、「相馬港」の看板が見えてきた。案内板に従って左折すると、相馬港に向かった。相馬港を過ぎると、右側に「相馬海岸」が見えた。左側の駐車場にどうにか車を止め、海開き(原釜尾浜)の様子を撮影する。多くの人が、泳いでいた。                      ☆八年目に海開きが出来た、相馬海岸。駐車場は、満車だった。天気が良かったのか、この海岸が一番海水浴客が多かった。

□二〇一八年七月二十九日(日)◆福島県相馬市松川浦
その一四一「松川浦大橋通行可」
○「通行止め」が続いていた「松川浦大橋」は、八年目に通行が可能になった。相馬港からは通行量が少なかったが、橋を渡り終えて「大洲海岸」に入ると、通行量が多くなった。とても綺麗な海岸だった。夕焼けを見に来た観光客が多かったのかも知れない。出来たら、今度は夕焼けの撮影に訪れたいと思った。 
☆「松川浦大橋」を渡ったのは初めてだった。こんなに「大洲海岸」が綺麗だとは、思ってもいなかった。

■二〇一八年七月三十日(月)◆福島県浪江町請戸
その一四二「浪江町請戸地区」
○ニュースで「浪江町請戸海岸に慰霊碑が建てられました。」と流れたので、請戸地区に入ることが出来たら慰霊碑を撮影したいと思った。道の駅から国道六号線を走行しながら、周りの看板に注意を払った。請戸川橋を渡ると、左側に注意しながらスピードを緩めた。前の車が左折したので、左側を見ながら左折した。
今までは、左折するとバリケードがあったのに今回はなかったので左折した。道幅が狭くなり交通量も多くなったが、請戸漁港に入ることが出来た。漁港周辺はまだ整備中で、被災したままの建物もいくつか見られた。慰霊碑を探したが、見つからなかった。作業員に尋ねるが、「地元の者ではないので、わからない。」と、言われた。
☆震災から八年目にして、浪江町から騎馬武者が出陣したということだった。騎馬武者は初日だったので、撮影することが出来なかった。浪江駅周辺は撮影したが、静かだった。静かではあったが、車も人も見かけることはあった。
 再び六号線に出ると、富岡駅に向かった。富岡駅周辺は新しいアパートが、建てられていた。駅前のバス停には、「バス代行 富岡駅~浪江駅~小高駅~原町駅」の張り紙があった。バス代行にはなっているが、浪江駅でも富岡駅でも列車の撮影を行っているので、列車とバス代行が並行しているのかも知れない。
富岡駅舎にある運賃表では、富岡駅~浪江駅が不通になっていた。

■二〇一八年七月三十日(月)◆福島県楢葉町
その一四三「ここなら笑店街」
○富岡から国道六号線を南下して、四倉方面へと向かった。楢葉町にはいると、左側に「ここなら笑店街」の看板が見えた。新しい建物で、商業施設のようだった。
左折すると、駐車場に車を止めた。早朝だったため、まだお店は開いていなかった。店の反対側にも、新しい建物が建っていた。建物には紅白の垂れ幕が下がっており、館内にはイスも並べられていた。建物には
 「みんなの交流館 ならはキャンパス 二〇一八年七月三〇日十一時三〇分オープン」の張り紙があった。どうやら、これから「セレモニー」が始まるようだ。人が集まる前に撮影を済ませてしまおうと、やたらとシャッターを押してしまった。
☆午前十時になると、職員が準備を始めた。私は、職員の一人に           「すいません。これは公共施設ですか?」          
と、尋ねた。職員は
「ええ、そうです。」
と応えてくれた。再び、私は
「今地方の財源が問題になっていますが、財源はどうなっていますか?もう一つお聞きしたいんですが、先ほど富岡町に新しいアパートが乱立していたのですが、たぶん除線作業員のためのアパートだと思いますが、除線作業が終わったらあのアパートはどうなると思いますか?」
と、財源と富岡のアパートについて尋ねた。
☆楢原から再び国道六号線を南下すると、左側に「Jヴィレッジ」の看板が見えてきたので左折した。ここを訪れるのは初めてではあったが、「二十九日オープニングイベント」のニュースが流れていたので立ち寄る。
受けつけで撮影の許可を貰い、施設内の撮影のみを行った。施設を出るときに、「七年四ヶ月ぶりに営業を再開したJヴィレッジ」の新聞があったので、一部を頂いた。

□二〇一八年十月二日(火)◆岩手県大槌町        
その一四四「戻されている、墓石」
○大槌町にはいると大槌町役場前を左折して、大槌図書館に向かった。高台から町並みを撮影するため、大槌を訪れると此処に向かうのが恒例だった。
 高台から移動しながら撮影を行っていると、大槌のお寺が完成間近だったことと、墓石が元に戻されていた(嵩上げ工事の時撤去された墓石が又戻されていた)。に気づいた。
☆大槌町の嵩上げ工事の時、墓地の所にロープが張ってあった。ロープには、「嵩上げの高さ」と書かれてあった。何度か訪れるたびに、ロープの高さ以下の所にあった墓石が撤去されていることに気づいた。
その後嵩上げが進み、嵩上げが終了すると様々な建物が建設された。八年目にはいると、墓石が徐々に戻されていた。旧大槌町役場の撮影も、恒例になっていた。旧大槌町役場に足場が作られていたが、取り壊されるのか?

◇二〇一八年十月三日(水)◆北海道安平町~
その一四五「道道一〇号線」(胆振東部地震一)
 雨が降ってきたが道道十号線を走行するために、国道二三四号線に向かった。国道二三四号線は、安平町に近づくと片側通行が多くなった。工事が多い国道二三四号線を北上すると、安平町早来に入った。安平町早来から、道道十号線を鵡川方面へと走行する。安平町内の家屋が、ブルーシートで覆われていた。                   ☆安平町早来から道道十号線を鵡川に向かって走行すると、北海道を旅した思い出がよみがえってたきた。それは北海道ツーリング最終日、ホクレンフラッグを得るためだけに走行した思い出だった。苫小牧港にはホクレンがなかったので、ツーリングマップルで調べたら鵡川にホクレンあることがわかった。苫小牧港から離れてしまうが、時間に余裕があったのでこの道道十号線を走行して、鵡川に立ち寄りホクレンフラッグを手に入れた思い出だった。
☆ホクレンフラッグとは、「ホクレン」と「ホンダ」が夏のツーリングシーズンのみバイクで給油したライダーに旗を無料(三年ほど前から有料になった)で提供してくれたサービス。旗は四種類あった。それを集めるためだけに北海道を訪れるライダーもいた。

▼二〇一八年十月七日(日)◆北海道南富良野
その一四六「南富良野に残る水害の爪痕」(豪雨水害一)
○去年に引き続き、運のない私は今回も旭川でトラブル(五十万キロを走行する我が愛車のセルモーターがダメになってしまった。JAFを呼び、どうにか対応はしてもらったが。) が発生してしまった。                           今朝、ディラーを訪ねたが、部品がないということで三日間ほどかかるといわれた。私は修理をあきらめて、旭川から南富良野に向かった。去年の夏、北海道ツーリングの時に南富良野を訪れるつもりでいたが、アフリカツインの故障でとんぼ返りだった。今回も同じパターンにならなければよいがと思いながら、国道三十六号線を走行した。
南富良野に到着したが、私が知っている南富良野の姿のままだった。台風十号の被害から二年が過ぎてしまった南富良野には、被害の爪痕が残っていなかった?
 道の駅「南富良野」で昼食をとっていると、旭川のディラーから電話が有り、中古部品が明日までに手にはいると言われたので、再び旭川に戻ることにした。昼食後、車を道の駅において、道の駅周辺を散策する。たまたま、道の駅で解体作業の建物があったので
「すいません。この建物は水害のために解体しているのですか」
と、近くで清掃していた人に尋ねると
「ええ、そうです。当時は建物の一階は浸水してしまい、一階にあった物は使い物にならなくなってしまいました。」
と、応えてくれた。建物には、「高齢者研修センター」と書かれていた。       
 私は再び車に乗り込み、幌舞駅に向かった。駅舎の中にはいると、いつもより高倉健の掲示物が多かった。高倉健が亡くなってしまったからなのか、展示物も多いような気がした。幌舞駅で列車を撮影するつもりで待っていたのだが、時間になっても来ない? 
私が、近くにいた観光客に
すいません。そろそろ列車が来る頃ですよね?」
と尋ねていると、近くにいた若い男の人が
「え、列車は運休中じゃないですか?水害の影響でこの駅には入ってこないはずですよ。はっきりとは言えませんが・・。」
と、応えてくれた。私はホームから駅舎内に戻ると、一枚の掲示物を発見した。    ●「平成二十八年八月三十一日台風十号による被害を受けたことから列車の運転を見合わ せております。」
私は再びホームに戻ると、レール周辺に雑草が生えていることに気がついた。レールが使われていない様子が、伺えた。
☆二〇一六年の豪雨災害の爪痕が残っていた、「高齢者研修センター」と「根室本線(幌舞駅、落合駅)」の撮影は行うことが出来た。しかし、去年の夏にバイクが故障していなければ違った撮影の仕方が出来たのではないかと思った。

◇二一〇一八年十月十日(水)◆北海道厚真町
その一四七「厚真町富里」(胆振東部地震二)
○道の駅「ウトナイ湖」に車中泊したので、一時間ほど鳥とヒコーキを撮影していた。それから、再び厚真に向かった。今度は国道二三五号線を走行し、市道二八七号線を北上する。上厚真市内は通行止めが多く、厚真市内へと通じる橋が通行止めになっていた。  いったん国道二三五号線に戻り、農道を走行して市道二八七号線にでる。市道を北上すると、厚真市内に出ることが出来た。道道十号線は走行できるが、道道五十九号線は通行止めになっていて 走行できなかった。厚真市内には、「無料コインランドリー」と「集積所」があった。集積所には「この集積所は封鎖しました」の赤い文字で書かれた立て看板が設置されていた。青い文字で違う集積所を案内する、掲示物もあった。
 ダンプカーが何台も「富里」目指して、厚真市内を走行していた。私もダンプカーの後を追って、市道二三五号線を北上した。市道は、山津波(土砂崩れ)で走行できない状態だった。道路は山間部の間を縫って造られているので、農道を走行して富里地区へと向かった。富里地区は入れる状態ではなかったので、望遠レンズで撮影をした。
☆ニュースで、「山津波」と言う言葉を使っていたが、実際に自分の目で見てみるとその言葉が当てはまった。稲刈りの時期だったので、農作業している農家の人のじゃまにならないようにと、農作業の終わった田畑の所に車を止めて撮影をした。広角レンズで撮影すると、農作業する風景と、撤去作業する風景が同じレンズの中に収まっていた。場合によっては、望遠レンズで撮影していても、撤去作業と農作業が同じレンズに収まることもあった。農村地帯であることを考えると、この風景は何とむごい風景なのかと考え込んでしまった。場所によっては、行方不明者を探している撤去作業かも知れなかったのだ。

▼二〇一八年十月十五日(月)◆北海道南富良野
その一四八「水害を受けた根室本線」(豪雨水害二)
○道東から、再び南富良野に向かった。南富良野にはいると、何度か撮影している落合駅舎に立ち寄った。駅舎は残っていたが、レールには雑草が生えていた。ホームにはいると、駅舎の一部がブルーシートで覆われていた。待合室に三人の老人が居たので  
「こんにちは、地元の方ですか?駅の一部がブルーシートで覆われていたり、ベニヤ板が打ち付けてあるんですが、台風十号の水害で被害を受けたところですか?」
と、尋ねると
「駅舎に台風十号の大きな水害は、あまりなかったのではないかと思いますよ。確かにこのホームまで水が入り影響は受けましたが・・・。レールは被害を受けていると思いますが・・・。水害は、落合駅~新得駅が一番大きいですよ。一般の人は、被害の状況をはっきりと見ることは出来ませんが・・・。 」
と応えてくれた。私は、一方的に
「北海道の路線も大変ですよね。去年増毛線が廃線になり、今年夕張線が廃線、日高本線が一部運休になってますからね。根室線もこんな状態だし・・・。」
と話すと
「今、三人でその話をしていたんですよ。知ってますか?今日、札沼線の廃線が決まったそうです。根室線も廃線になるおそれがあるので、地元の有志が集まって署名運動を行っているんですよ。我々も署名活動を行っていますけれど・・・。」
と、深刻な話をして応えてくれた。
 その後「マウントスーレイの湯」に入り、夕張駅舎に向かった。          ☆夜の夕張駅舎を撮影していると、駅舎内で夕張線を利用しているおばちゃんと会話になる。おばちゃんが最終列車に乗るまで、会話は続いた。
ふと、昼間の「落合駅舎」にいた三人の老人を思い出してしまった。三人の老人は、駅待合室でバス代行を待っていた。本当なら、根室線を利用して移動するはずだったのだろうが?

◇二〇一八年十月十六日(火)◆北海道鵡川町
その一四九「道の駅むかわ」(胆振東部地震三)
○夕張から国道二七四号線を走行して厚真町へと向かった。厚真町から道道十号線を走行して、鵡川町にはいる。真っ先に、道の駅「鵡川」に向かった。道の駅の施設出入り口には、張り紙があった。入ろうと思っていた温泉は、入ることが出来なかった。     
●「地震の影響のため、温泉の利用は出来ません。」
 道の駅のトイレにはいると、張り紙が
●「現在、四季の館は避難所として使われています。トイレ使用時は、衛生管理徹底のため、必ずスリッパを履いてご利用下さい。」
道の駅の食堂に張り紙が
●「地震の影響で営業を見合わせていましたが、本日(十月十日)より営業を再開させて頂きます。食事処 たんぽぽ店主」
☆道の駅「鵡川」は、かなり利用している。今回も車中泊の予定だったが諦めた。温泉があるので、車中泊で頻繁に利用していたので、ショックだった。            道の駅を出るときに、ニュースで見た古い旅館の場所を尋ねる。駐在所の近くと説明されたので、駐在所に向かい再び尋ねる。
「すいません。近くに、歴史のある古い旅館があるとニュースで放送されていたのですが?道の駅で尋ねたら、こちらの駐在所の近くと言われたのですが?」
と、尋ねると
「ちょっと待って下さい。私も今年赴任してきたばかりで・・。」
と、机上にあった町内図を広げ始めた。私が待っているときに外を見ると、ブルーシートで覆われた木造の建物が見えた。私は思わずに外に出ると、
「駐在さん、有りました!大丈夫です。」
と言いながら、車を駐在所に止めたまま走って、旅館前で撮影をした。中には、崩壊した建物もあった。

■二〇一八年十月二十日(土)◆福島県葛尾村
△その一五〇「葛尾村小中学校」
○南相馬市から県道十二号線を走行し、飯館村に向かった。「矢木沢トンネル」が通行できたので、時間短縮になった。村内には、稲刈りが終わった水田と、黄金色の水田があった。飯館村から国道三九九号線は走行せずに国道三四九号線を走行して、田村市から県道五十号線を北上する。所々に、除線の廃棄物が積まれていた。             葛尾村にはいると、コンビニがオープンしていた?葛尾村の小学校に立ち寄ると、中学校の職員が居た。部活動のため出勤したとのことだった。小学校は、小・中学校になっていた。今年の四月からと言うことだった。
☆八木沢峠のトンネルが今回は開通していたので利用したが、とても便利だった。

□二〇一九年三月十二日(火)◆宮城県東松島市野蒜
その一五一「新しい施設に生まれ変わった旧野蒜小学校」
 県道一三九号線は、蒲生地区「日和山」まで通行出来た。「中野小学校跡地」で撮影が終了すると、県道二十七号線を走行して新しい野蒜の町並みを撮影する。再び県道二十七号線に向かうと、野蒜小学校がリフォームされて新しい施設に生まれ変わっていた。右側は「防災体験型宿泊施設」KIBOTCHAと書かれて、左側はレストラン「森のキッチン」と書かれていた。                  

□二〇一九年三月十三日(水)◆宮城県石巻市女川
その一五二「慰霊碑と献花台」
 道の駅「上品の郷」から県道三十三号線を走行して女川に向かうと、女川への新しい幹線道路が完成していた。幹線道路は県道二三四号線へと繋がっているので、距離と時間が短縮された。ただ、利用する車が多かったので国道三九八号線のところが渋滞していた。 女川にはいると、病院高台への階段が新しく作り替えられていて入れなかった。別ルートで病院高台の駐車場に徒歩で向かうと、「七十七銀行の慰霊碑」「女川病院高台のプレハブ」が撤去中だった。
 献花台と慰霊碑を探していたら、やっとたどり着いたのが墓地だった。斜面に作られた縦に細長い墓地だったので、斜面を登って墓地を散策した。一人の老人が墓地の除草作業をしていたので                                 
「こんにちは、お仕事中すいません。献花台の看板を見ながらこちらにたどり着いたのですが、献花台や慰霊碑がこちらにあるのですか?」
と、私が尋ねると
「いや、ここは個人の墓しかありませんよ。役場前にあるのが慰霊碑だと思いますが?」
と、老人は答えてくれた。私は
「そうですか、分かりました。私も震災の記録を撮り続けて八年になりますが、震災から八年経っても新しい慰霊碑や献花台ができたり移動したりと、場所が変わることが多いので大変です。ただ分かったことは、ご遺族の方々は故人が無くなった場所や生活していた場所にこだわることだけは分かりました。私がこの女川で一番多く撮影に訪れている場所が病院高台の駐車場ですが、あそこにも自然に献花台が出来ていました。多くの人が献花に訪れているのに驚き、町が献花台を設置したにもかかわらず病院高台に献花する姿には更に驚きました。遺族の方々は、故人が無くなった場所にこだわるのだなとつくづく思いました。」
と、一方的に話すと
「その通りです。私も妻を津浪でなくしましたが、今でも献花はなくなった場所にします。それから病院高台に献花が多かったのは、七十七銀行の遺族の方が多かったからだと思いますよ。」
と、話してくれた。
私はお礼を言うと、女川町役場前に向かった。撮影に訪れると、「浪分桜」と「希望の鐘」「女川町東日本大震災慰霊碑」があった。特に希望の鐘では、職員が居たので
「すいません。この希望の鐘は復興商店街に設置されていた鐘ですか?」
と、尋ねてしまった。職員の方は
「希望の鐘は全部で四個あったのですが、その中でも一番古い鐘です。商店街に設置されていた鐘は、新しい商店街に設置されています。」
と、答えてくれた。

□二〇一九年三月十三日(水)◆宮城県石巻市雄勝
その一五三「祈りの碑と見つかった雄勝病院慰霊碑」
女川から国道三九八号線を走行して、雄勝に向かう。雄勝にはいると、迷わずに「雄勝病院犠牲者慰霊碑」に向かった。前回訪れたときには移動していたため撮影が出来なかったが、今回は新しい慰霊碑を撮影することが出来ると思い迷わずに訪れた。場所は以前あった場所と同じだった。嵩上げされていて、舗装されていた。公園のようになっていて、「祈りの碑」が新たに設置されていた。
駐車場の所に「東日本大震災雄勝病院犠牲者慰霊碑」があり、嵩上げされた高台に「祈りの碑」があった。雄勝病院の慰霊碑は木の慰霊碑から石碑に代わっていた。石碑には、「東日本大震災雄勝病院犠牲者慰霊碑」と書かれていた。石碑の周りには、パンジーの花が植えられていた。

□二〇一九年三月十三日(水)◆宮城県石巻市雄勝
その一五四「新しい雄勝ローズガーデン」
 「雄勝病院慰霊碑」から「雄勝ローズガーデン」に向かう。すっかり新しいローズガーデンに草花が移植されていた。ローズガーデンで作業している男性が居たので     
「こんにちは、ご苦労様です。いつも園内の撮影をさせて貰っているので、撮影させて貰います。」
と話しかけると、男性が
「どうぞ。」
と、答えてくれた。
私は園内の撮影を行いながら
「あれが新しい幹線道路ですか?」
と再び男性に尋ねた。男性は
「そうです。よくご存じですね。」
と答えたので、私は
「このローズガーデンが出来る前から雄勝の被災した記録を撮っていますから、だいたいのことは分かりますよ。震災の年に偶然一人の女性から話しかけられ、その思いがローズガーデンになったと思っていますから、ローズガーデンを移転しなければならなかったことについて悩みが大きかったこともよく分かります。」
と、男性に話した。男性は更に
「じゃ、中にあるパネルの撮影を行っていた方ですか?」
と尋ねられたので、私は
「たぶん最初の二年間ぐらいの撮影は私の物が多いと思いますが、三年目から多くの人がこの場所を撮影に訪れるようになったと思いますので、それからはいろいろな人の物があると思いますよ。」
と、答えた。男性は更に
「朝日新聞をお読みになりましたか?徳水さんが死について書いた物なんですけれど、震災での死に方は綺麗ではないというコメントを書いたんです。」
と、尋ねられた。私は
「読んでいませんが、言いたいことは分かります。このローズガーデンを作り始めた頃から、ずっとおつきあいはありましたから・・・。」
と、答えた。
私は男性との会話が終わると、外から数枚撮影して大川小へと向かった。

□二〇一九年三月十三日(水)◆宮城県南三陸町
その一五五「モアーチョコと防災対策庁舎献花台」
 以前「モアイモナカ」に驚き、次は何が出来るのか楽しみにしていたが、やっと出来ました。それは、南三陸町「モアーチョコ」でした。「モアーチョコ」の撮影が終わると駐車場に戻り高台にある志津川中学校に向かったときに、偶然駐車場に行方が分からなかった「防災対策庁舎献花台」と書かれた立て看板があることに気が付いた。
左折のウィンカーを出すと、再び駐車場に車を乗り入れカメラを取り出し見つけた献花台に向かった。何故か、献花台の下の方に「防災対策庁舎」が見えた。私は、献花と防災対策庁舎を一緒に撮影した。以前は献花台と防災対策庁舎を広角レンズで撮影していたが、今回は望遠レンズで撮影した?その後、高台の中学校から南三陸の町並みを撮影した。車に戻り再び国道に向かうときに志津川中仮設住宅無くなって居ることに気が付いた。
二〇一九年三月十三日(水)◆宮城県気仙沼市岩井崎
その一五六「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」(気仙沼向洋高校旧校舎)
国道四十五号線を北上し、気仙沼市岩井崎へと向かう。「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」(気仙沼向洋高校旧校舎)の駐車場は平日にもかかわらず、車が多く止まっていた。受付に向い、六百円の料金を支払った後
「すいません。撮影のみでお願いしたいのですが?」
と尋ねると、受付の人が
「ビデオ室に係の者が居ますから、そこで、もう一度伝えて下さい。」
と説明があったので、私はビデオ室前に立っていた人に
「すいません。撮影のみで、ビデオや説明はいりません。館内を自由に回って撮影させて貰えれれば結構です。」
と、伝えた。担当の人は私の言葉を聞くと
「分かりました。じゃ、こちらからお入り下さい。展示室が二箇所ありますが撮影は禁止です。その他については撮影は自由ですので、じゃお気を付けて行ってらっしゃいませ。」
と言って、ビデオ室に戻った。
一階から屋上まで自由に回ることが出来た。荒浜小と違って、瓦礫が撤去されていないためリアルに感じることが出来た。料金は高いが、それだけの価値はあると感じた。また、今まで疑問に思っていた新しい建設中の建物は、「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」だった。

□二〇一九年三月十三日(水)◆岩手県釜石市鵜住居
その一五七「鵜住居駅リアス線試験運転中」
 釜石方面へと向かうが、気仙沼港に立ち寄る。フェリーターミナルの建物は、ほぼ完成していた。港周辺を散策する。午後二時過ぎ、「南町紫神社前商店街」は、人がほとんどみられなかった。
気仙沼港から再び国道四十五号線を走行し、陸前高田市へと向かった。新しい「気仙大橋」は完成していて通行することが出来た。新しい気仙大橋を渡ると、信号機を左折して「一本松茶屋」に入った。「一本松茶屋」前に、新しい道の駅が建設中だった。そのため、国道が嵩上げされていた。
陸前高田から三陸道を走行し、「鵜住居」へと向かった。「釜石北IC」までノンストップで走行することが出来た。釜石道が全線開通していたので、標識には注意して走行した。「釜石北IC」を出ると迷わずに「鵜住居駅」へと向かった。工事中ではあったが、運の良いことに「鵜住居駅」でリアス線試験運転中の列車に遭遇し、慌てて路上駐車をして撮影を行ってしまった。まさか列車を撮影することが出来るとは思っても居なかったので、思わず興奮してしまった。                           ついでに「慰霊碑」を探すが見つからなかった。諦めて再び国道四十五号線に出ると安いスタンドがあったので、スタンドに立ち寄って満タンにした。店員が居たので、私は
「鵜住居に慰霊碑が出来たと聞いたのですが、何処にあるか分かりますか?」
と、尋ねた。店員は、先ほど訪れた駅の方を指さしながら
「あそこに見える信号機を右折すれば、慰霊碑があります。」
と、教えてくれた。私は先ほど訪れたばかりなので
「鵜住居駅前に行けば分かりますね?」
と、確認する意味で再度尋ねると
「はい。」
と、店員は答えた。
私は再び駅前に向かったが、車を駐車するスペースが見あたらなかったことと、慰霊碑周辺が作業中だったので一瞬戸惑ってしまった。とりあえず駅前を離れて周辺をゆっくりと車で走りながら適当な駐車スペースと慰霊碑に入る場所を確認した。役場関係らしき人が車を止めて慰霊碑の前に近づいたので、私も後を追って車を止めて中に入った。
私は注意されて出されてしまう恐れもあるので
「すいません。慰霊碑の撮影に訪れたのですがこちらでよいのでしょうか?」
と、役場職員らしき人に尋ねると
「はい、そうです。」
と、答えてくれた。注意される様子もなかったので、そのまま撮影を慌てて行い慌てて敷地内を私は走り去った。

□二〇一九年三月十四日(木)◆岩手県山田町
その一五七「リアス線織笠駅」
 「織笠駅」が建て替えられたというので、雪景色の織笠地区を訪れた。嵩上げされたところに建物が一つあるだけで駅舎らしき建物が見あたらなかった。以前駅舎があったところを訪れるが、すでに駅舎はなくなっていた。諦めて、「陸前山田駅舎」に向かう。雪景色の「陸前山田駅舎」に垂れ幕が下がっていた。その垂れ幕には、「新名称「三陸鉄道リアス線 二〇一九年三月二十三日開通」と書かれていた。
 午前八時半「リアス線津軽石駅」を訪れると、偶然とは続くものでここでも試運転中の列車を撮影することが出来た。「織笠駅舎」を探していたら、駅舎は見つからなかったが試運転中の列車を撮影することが出来たことは幸運としか言いようがない。
最終的には、「織笠駅舎」を午後撮影することが出来た。駅舎は、半円の形をしていて小さかった。

□二〇一九年三月十四日(木)◆岩手県島越
その一五八「島越駅に町並みは出来ません」
 午前十時過ぎ、島越駅舎内で時刻表を見ていると                 
「どちらに行かれますか?」
と窓口業務の人に尋ねられた私は、慌てて
「撮り鉄です。」
と、答えた。ついでに私は、
「出来たら新しい町並みと三陸鉄道を獲りたいのですが、まだ民家は建っていませんね?」
と、尋ねた。すると窓口業務の人は
「ここに民家は建ちません。ここは漁業関係の建物が建ち、人が暮らす建物は建てては行けないことになっています。だから、民家が建つことはありません。」
と、説明してくれた。私は、
「え!新しい町並みはできないんですか・・・。それだけを楽しみに今回は島越駅を訪れたんですけれど・・・。」                            
と、言いながら駅舎から外に出た。とりあえず三十分後に久慈方面に向かう列車が来るので、それを撮影することにした。
☆帰路の途中、大槌町に立ち寄る。旧大槌町役場が、無くなっていた。今まで撮影を続けていたので、足場が組まれた時点で解体されてしまうことはあると思っていたが解体の場面を撮影できなかったことは残念だった。(解体されることが決定した時点で解体の撮影を考えたが、金銭的に余裕が無くなってきたので諦めた。)
旧大槌町役場跡地を撮影すると、リアス線大槌駅舎を訪れた。駅舎には
「リアス線誕生、三月二十三日記念列車運行 三月二十四日通常運行開始」
と書かれた掲示物が張られていた。改めてこの張り紙を読むと、運行開始は二十四日であることが分かった。私は今まで二十三日が運行開始かと思っていたが、二十三日は記念列車運行だった。
☆先日撮影した、鵜住居に設置された慰霊碑を再び訪れる。先日は慌てて撮影を行ったので、本日は納得のゆく撮影が出来た。私は慰霊碑と復興スタジアムを同じフレームの中に納めた撮影を行いたかったので、それを意識しながら撮影を行った。
改めて慰霊碑を読んでみると
●釜石市防災市民憲章「命を守る」 平成三十一年三月十一日
と、書かれていた。この慰霊碑の場所は、「釜石市鵜住居地区防災センター」が建っていた場所と言うことだった。

□二〇一九年三月十五日(金)宮城県石巻市
その一六〇「日和山幼稚園慰霊碑」
 嵩上げされた県道二四〇号線を走行し、日和橋を渡り門脇地区にはいる。嵩上げされて県道は、半分以上開通していた。「がんばろう石巻」の撮影を行った後、慰霊碑を探す。手がかりは幼稚園なので、とりあえず近くの幼稚園を訪れることにした。
 ニュースでは、日和山近くの幼稚園の慰霊碑が建てられたと流れていた。それを考えたら、慰霊碑を探しに日和山へと向かっっていた。ナビで近くの幼稚園を訪れてみると、卒園式の最中だった。これでは幼稚園を訪れることは無理と考え、尋ねることが出来る場所はないかと辺りを見回しながらゆっくり走行していたら、市立体育館があった。私は、市立体育館の受付で
「すいません。テレビのニュースで幼稚園の慰霊碑が建てられたというのを見たのですが、どの辺に立てられているか分かりますか?」
と、尋ねた。
「ちょっと、わかりませんね?」
と、体育館の受付の人が困った顔をしながら答えてくれた。その時、たまたま私たちの会話を聞いていた地元の老人が
「日和山幼稚園のことだと思うが、幼稚園に建てられているわけではなくて、幼稚園から離れた場所、事故のあった場所に建てられているはずだよ。」
と、教えてくれた。私はその場所を尋ねた。老人は、
「石巻高校を左折して、最初の信号機を右折すると、下りが続くから、下ったところに慰霊碑が建てられているはずだよ。」
と、説明してくれた。
説明された道は狭かったが、慰霊碑はあった。

■二〇一九年三月十五日(金)福島県浪江町請戸地区
その一六一「映像から文章にして残すことへ」
請戸地区の慰霊碑を求めて、請戸漁港へと向かった。作業車以外走行していなかったので、すんなりと漁港に近づくことが出来た。前回は慰霊碑を探すことが出来なかったので、今回は撮影をしたいと思っていたがやはり慰霊碑が見つからない。とりあえず、墓地があったので墓地に向かってみた。
すでに一人のカメラマンが墓地の撮影を行っていた。私は
「こんにちは、慰霊碑の撮影を行っているのですが請戸地区に出来た慰霊碑の場所をご存じですか?」
と尋ねると、男の人は
「わかりません。」
と、答えた。ここから東日本大震災の会話になった。彼は東京から被災地を訪れているカメラマンだった。
私は震災から三年間頻繁に被災地を訪れ、四年目からは年に数回に減ってしまったことを話した。更に、これまでのマスコミの内容についても疑問があることを話したら、彼は
「私は、真実を残すことを目的としています。」
と、話した。私は更に
「真実を全て残すことは、正しいとは限らない。誰にも話せない真実もある。」
と、話した。彼は
「旧大槌町役場が解体されたが、あれは残しておいては困る人がいるから解体されたのであって、本当なら解体されるべきではなかった。」
と、話した。
私は会話の最後に、
「撮影をしながら記録を残すことを心がけていましたが、私にも徐々に変化が現れました。最初は震災の大きさを撮影していましたが、二年目からは被災地に咲く草花を撮影したり慰霊碑を撮影したりと、震災を残す撮影よりも復興に向けての変化を撮影するようになり、四年目からは撮影することよりも文章にして残すことを心がけるようになりました。文章の持つ力が最後は永遠に残るのではないかと考え始めたのです。勿論撮影は続けますが、映像だけで残すのではなく文章にして残すことに重点を置くようになってきました。」
と、彼に話すと再び慰霊碑を探した。                       ☆風が吹き付ける海岸近くで、激論を交わしている自分に気が付いた。

◇二〇一九年四月二十三日(火)◆大阪府高槻市・茨木市
その一六二「大阪府北部地震」
○伊勢湾岸線を走行し、亀山ICを降りる。名阪道を走行し伊賀上野へ、国道一六三号線を走行し、生駒市に向かう。途中、笠置町の古い町並みを走行するが車を止める場所がなかったため撮影は出来なかった。やっぱりバイクが一番か?
 高槻市立寿栄小にたどり着いたが、駐車場が見つからず時間がかかった。有料駐車場に車を止め、「大阪府北部地震」の撮影を行う。小学校には警備員が居たので望遠で撮影する。町中には、ブルーシートが目立った。解体されて更地になっていた場所も見られた。 茨木市は、通り過ぎただけだった。

▼二一〇一九年四月二十四日(水)◆岡山県真備町
その一六三「西日本豪雨(一)」
○岡山総社ICを降り、真備町へ向かう。国道沿いに流れている「高梁川」の氾濫した様子がうかがえる。真備町に入る。「小田川」の氾濫の様子や真備町の被害も徐々に分かってきた。被災した「マービーふれあいセンター」駐車場に復興商店街があった。     出店数が少なかった。店主が居たので尋ねると「出店の希望が少なかった。」とのことだった。敷地内には、図書館や歴史館などの施設があったが、泥が入ったままで使えないとのことだった。雨が降っていたことと、早朝のためなのか誰もお客は居なかった。被災した建物は解体されて更地になっている物もあれば、被災したままの建物があった。外から見ると分からないが、近づくと建物の中は被災したままの建物が多かった。

▼二一〇一九年四月二十五日(木)◆広島県
その一六四「西日本豪雨(二)」
○先日、呉に午後三時過ぎに到着し分からないまま市内をうろうろした。市内を移動していると、「天応地区」「坂町」は分かったが現場に近ずくことができなかった。
 本日は四国に向かわず、三原久井ICを降りて再び呉市へと向かう。昨日の下見を参考に、県道六十六号線を走行する。「大屋川」の氾濫によって被災した「天応地区」だけは撮影できた。撮影が終了すると、県道三十一号線、三十四号線を走行しながら混雑する国道二号線を走行する。                              
☆九州からの帰り、「しまなみ海道」に向かうため、県道三十七号線を走行したことにより、三篠川水害(安佐北区)を撮影することも出来た。県道四十六号線関川水害も、撮影できた。西日本豪雨が、広島県内全域で起きたことが理解できた。
           
◇二一〇一九年五月一日(水)◆熊本県
その一六五「熊本震災三年が過ぎて」(熊本震災十一)
○二一二号線を走行して、阿蘇神社に向かう。御朱印で混んでいた。足場とシートはなくなっていた。益城町を経由して熊本城に到着したが、熊本城内の駐車場が満車のため市内に車を止め、徒歩で向かう。混んでいた。再び道の駅阿蘇に戻る。満車だった。
 翌朝、草千里に向かった。草千里は曇っていた。外されたロープウェーや、解体されたロープウェー乗り場が現状を物語っていた。草千里は相変わらず曇っていたので、南阿蘇鉄道を撮影する。駅舎が改装工事中だった。
☆翌日、再び阿蘇へと向かった。昨日と同じルートで阿蘇に向かったが、南阿蘇からは県道一一一号線を走行した。県道から、地震の時の被害の様子をかいま見ることが出来た。草千里の駐車場は満車だった。震災復興のことを考えたら嬉しいことなのだろうが、複雑な気持ちで止める場所が見つからないまま周辺をうろうろしてしまった。  

▼二〇一九年五月五日(日)◆愛媛県
その一六六「西日本豪雨(三)」
○伊予ICから高速道を走行し、大洲北ICを降りる。国道一九七号線を走行すると、肱川の水害が理解できた。道の駅手前で道路が陥没していた。道の駅が過ぎたところにある「鹿野川ダム」が、被災していた。丸山公園への道が片側通行になっていた。県道二十九号線入れず三十五号線で野村へと向かう。野村町に到着すると、昼食とトイレ休憩に使用していた乙亥会館の温泉施設が被災していた。
 県道二十九号線を走行すると通行止めの立て看板、先ほど国道側から入れなかったので入れるところまで入ってみる。学校や幼稚園、歴史資料館等の施設が水害で被災していた。再び通行止めの看板、今度は車を乗り入れることが出来なかったので諦める。同じように野村ダムで一緒になった名古屋ナンバーの軽ワンボックスがとまっていた。私が
「こんにちは、たぶん私が通行止めを無視して入ってきたので同じようにはいってきたと思うんですけれど、私は先ほど向こう側からはいることが出来なくて県道三十五号線を利用して入ってきたので、この県道二十九号線の通行止めを理解した上で進入したのです。この先は通行不可能です。」
と、老夫婦に説明した。老夫婦は納得したのか、戻った。

◇二一〇一九年五月六日(月)◆兵庫県淡路島
その一六七「北淡震災記念公園 野島断層記念館」(阪神淡路三)
○板野ICから雨の高速道を走行し、北淡ICを降りる。「北淡震災記念公園 野島断層記念館」を訪れる。訪れるのは二十一年ぶりだったので、入館するまでに二度間違えてしまった。入館すると、当時の記憶がかすかに蘇ってきた。               「野島断層記念館」では、特別企画展「平成の災害~新聞はどう伝えたか~」が開かれていた。「一九九一年(平成三年)雲仙普賢岳火砕流」から始まり、「二〇十八年(平成三十年)大阪府北部地震 六月二十八日~七月八日西日本豪雨 九月四日平成三十年台風二一号 九月六日北海道胆振東部地震」で終わっていた。平成に起こった様々な災害が展示してあった。
☆私はその後、旅を続けながら帰路につきました。私は今回の旅をまとめながら、これにヒントを得て書き出しと終わりを「北淡震災記念公園 野島断層記念館」にし、自分なりの平成を振り返り、「東日本大震災」を中心に災害の記録をまとめてみました。
まとめていると、ハイエースの走行距離が五十万㎞を越えていることに気が付きました。購入してから十三年が過ぎ、旅を続けていたら五十万㎞を越えていました。今までは二十万㎞を越えると買い換えていましたが、収入のない私は買い換えることが出来ずこのまま乗り続けることにしました。
問題は車よりバイクでした。二十万㎞走行手前で廃車にしたアフリカツインに、シートが掛けられたままです。修理か新車かで悩んでいたら、二年が過ぎようとしていました。旅人としては、今年の夏は久々にバイクで北海道を訪れたいと思っているのですが?   財政的に難しくなったら、自転車が三台あるので自転車で旅を続けることにしました。二十代の頃自転車で北海道を旅した自転車が一番古い自転車で、すでに四十年が経過しています。四十代を過ぎてから、新たに二台購入したので三台の自転車を保有しています。この三台の自転車を駆使して島旅を楽しんでいましたが、これからはメインとして自転車を活用しなければならなくなるときが来るかも知れません?
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