「あなたへ」

文字数 1,703文字

 お久しぶりです。
 いかがお過ごしでしょうか。

 あなたが会社を去ってから、早いもので半年が経ちました。

 吹きつける風は、裸の木々と透明な空を凍らせるような冷たさでしたが、最近は、太陽と一緒にじりじりと肌を焦がしてくる強烈な熱さです。時折、こちらのご機嫌を取るかのように、ふっとミントのような爽快さを連れてきます。

 会社のほうの心配はいりません。
 あなたは、去り際にずいぶんと気にしておられましたね。
 自分が突然抜けてしまったことによって、その空洞が、円滑に運んでいたはずのすべての物事に支障をきたすのではないかと。
 途中で唐突にコマを一つ引き抜いた、ドミノ倒しのように。レールの先が突如として崩落してしまった、特急列車のように。

 残念ですが。
 あなた一人いなくなったところで、特段困ることは何もありませんでした。あなたが空けた穴は、新しい後輩たちがすぐに上手に埋めてくれましたから。
 あなたなんか、最初からいなかったかのようです。
 いなかったのではないでしょうか。

 あの時。
 地下鉄で、酔っ払ってふらふらだったわたしの頭が、うっかりあなたの肩先に触れてしまったことなども、今思うと幻だったような気がするのです。
 その日以来、会社で飲み会があった夜は、当然のようにあなたが家まで送ってくれていたことも。最寄り駅に着くまでの間、いつもあなたの肩の上で、うつらうつらと温かい夢を見ていたことも。すべて、わたしが作り出した幻影だった気がするのです。
 だって、そうでしょう?

 あなたは、あなたがわたしの前からいなくなることを、退社するその日まで教えてはくれなかった。朝、「おはよう」と挨拶を交わし合ってから、「お疲れさま」と会社を出て行くまで、ずっと同じフロアで顔を見合わせていたのに。月に一度は、同じ地下鉄の中で、互いの夢を重ね合わせるようにして揺られていたのに。

 同僚たちの前で話すのが嫌だったのなら、電話でだってよかったではありませんか。家に寄った時だってよかったではありませんか。直接言えなかったのなら、今回のわたしのように、親しかった誰かにアドレスを聞き出して、メールをくれたってよかったではありませんか。
 違いますか。

 つまり。
 あなたにとって、わたしはそれだけの存在だったということですよね。
 わたしは、あなたのやりたいことを心から応援したかったのに。あなたには、それが迷惑だったと、そういうことなのですよね。

 いつだったか、あなたは言いましたね。
 地下鉄の振動にまぎれる声で、寄りかかったわたしの頭に向かって。
 あなたは、わたしが眠っていると思っていたのでしょうが、わたしは起きていました。熟睡できるわけがないじゃありませんか。あなたの肩に触れている間、わたしの鼓動はいつも軽やかに踊っていたのですから。
 あなたが語ったのは、大好きな絵の話でした。
 絵のことについては、わたしは正直ちんぷんかんぷんでしたが、あなたがそれをとても愛しているということは、しっかり伝わっていました。いつか、絵にたずさわる仕事ができたら、とそう言っていましたね。
 だから、会社を辞めたあなたが、どうやら画廊に勤めるらしいと人から伝え聞いた時。裏切られた思いを抱きながらも、わたしは背中に羽根が生えたような気分になったのです。嬉しかったのです。

 だから、なおのこと。
 どうしてわたしにその報告がなかったのか、考えれば考えるほど落ちこみました。

 最終的にわたしが出した答えは、あなたはひどい人だった、とそういうことです。
 気を持たせるようなことをしておいて。勝手に好きにならせておいて。
 でも、あなたにとってわたしとのことは、会社がスムーズに滞りなく動いてくれることよりも、ずっと、ずっと、重要度の低い問題だったのですね。
 どうでもよかったのですね。

 だから、わたしもあなたのことは、もうどうでもいいです。
 あなたの存在は、最初からなかったものにします。

 突然、こんなメールを送り付けてごめんなさい。悩んだのですが、伝えておかないと気が変になりそうでしたので。
 返事はくださらないでけっこうです。
 さようなら。ひどいあなたへ。


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