柔らかな悪魔
文字数 1,970文字
真夜中を過ぎた仕事部屋には、時計の針が動く音とペンを走らせる音だけが響く。
インクの香りが鼻をくすぐる。
私はまだ白く未完成な原稿に、淫靡な絵を描き込む。
私は成人漫画家。今時珍しくアナログ式で、原稿用紙とGペンを使い漫画を描いている。
最近は漫画もパソコンで描ける時代だが、いかんせん最新の機器というのはアナログ人間に不向きなものである。
アシスタントを雇う余裕もないので、私は昼夜問わず、一人ペンを動かす。
締切は明朝。いや、0時を過ぎたのであと数時間で完成させなければならぬ。
漫画家に労働時間など関係ない。
たとえ深夜であろうと、休みなしに働かなければ明日のまんまが食えぬ。
そんな時にやって来るのだ。あの悪魔は。
悪魔は仕事部屋のドアを開け唐突にやって来る。
「ねえ」
甘くくすぐる声で、私をたぶらかす。
悪魔は私の背後に回り、しなやかな体をまとわりつける。
「ねえってば」
悪魔の吐息が耳にかかる。
悪魔の誘惑に乗っている暇などない。私は原稿を完成させなければならないのだ。
悪魔の体を振り払い、無心でペンを動かした。
ぞんざいに扱われた悪魔は腹を立てたのか、強引に私の膝へと乗り掛かる。
「ねえ、抱いて頂戴」
悪魔は赤い舌を覗かせ、私の腕を舐めてきた。
「やめろ!」
妖しげな瞳が私を見つめる。
「本当は抱きたいんでしょう?」
悪魔のか細い脚がデスクに乗る。
「ほら、触ってもいいのよ」
描きかけの原稿用紙に、悪魔の体が覆い被さる。
「やめろ!なんて事をしてくれるんだ!」
悪魔は両足を広げ、その柔らかな肢体をくねらせはじめた。
「今はそんな事している場合じゃない!」
私は悪魔を掴み、やっとの思いで仕事部屋から追い出した。
これで仕事に集中できる。
成人漫画家というのは、いや単に私だけかもしれないが、驚くほど女性に縁がない。
実際に女の裸を見た回数より、女の裸を描いた数の方が多いのである。
私の原稿では男女が激しくまぐわうが、作り手である私は学生時代のフォークダンスで女子の手を握ったのが、人生最後の触れ合いである。
カカオ農園で働く貧しい少年がチョコレートを食べた事がないように、性を売り物にした漫画を描く私は、神に身を捧げられるほど清らかなのである。
カカオ農園の少年に思いを馳せていたその時、遠くの部屋から破壊音が鳴り響いた。
悪魔の仕業だ。
奴は仕事を優先して自分の相手をしない私を憎み、嫌がらせを始めたのだ。
こうなるともう悪魔の手は止められない。
奴は破壊の限りを尽くし、部屋中をめちゃめちゃにするのだ。
私はペンを置き、悪魔を捕まえに行った。
悪魔は廊下の隅で不機嫌そうに私を睨み付け、フンと鼻を鳴らした。
私は彼女を素通りして、キッチンへ向かう。
まったく悪びれもせずに、ニマニマとこちらを見つめるのが憎らしい。
そこには粉々になった皿、取っ手の取れたマグカップ。床に散らばった食べかけのインスタントカレーという、無残な光景があった。
目眩がした。あと数時間で原稿を仕上げなければならない。
そこでこの惨劇。
アシスタントも配偶者も居ない私の代わりに、誰がこれを片付ける?
キッチンの隅で悪魔が笑っている。
ただでさえ忙しい私に余計仕事を増やしておきながら、狼狽える私を見て嘲笑うのだ。
そして悪魔は私に体を絡み付け
「今夜は仕事なんてやめましょう」
と、文字通り悪魔の誘いを囁くのだ。
修羅場の中このような悪ふざけで人を小馬鹿にする悪魔に、流石の私も堪忍袋の緒が切れた。
強く、冷たい声色で悪魔を一喝する。
すると、先程までの威勢はどこへやら、急にしおらしくなり反省の色を見せ始める。
「ねえ、冗談だったのよ。悪気はないの」
悪魔の瞳が潤み、か細い声で許しを乞う。
「だって、貴方ってば私より仕事ばかり。冷たくしないで欲しがっただけなの」
悪魔はすっかり身を小さくして、健気な瞳で私を見上げてきた。
私は悪魔の柔らかな体を抱き上げた。
その肢体から、温かな体温が伝わってくる。指先が悪魔のしなやかな肉体に沈み込む。
服従した私に、悪魔はクスリと勝利の笑みを浮かべる。
デスクにはまだ完成しない原稿。転がるペン。散らばったスクリーントーン。
今宵お前らを完成品に仕上げる事は不可能となった。
私は悪魔の誘惑に負けた。
もう全ての仕事を投げ出して、悪魔が果てるまでこの身を捧げなければならない。
悪魔が燃え尽きて眠るまで。
私と悪魔の眠らない夜が始まった。
さて、私は朝一番に担当者へ締切を破るという謝罪の電話をかけなければならぬ。
猫じゃらしを振りながら、言い訳の言葉を考えた。
まったく猫という悪魔はこれだから困る。
インクの香りが鼻をくすぐる。
私はまだ白く未完成な原稿に、淫靡な絵を描き込む。
私は成人漫画家。今時珍しくアナログ式で、原稿用紙とGペンを使い漫画を描いている。
最近は漫画もパソコンで描ける時代だが、いかんせん最新の機器というのはアナログ人間に不向きなものである。
アシスタントを雇う余裕もないので、私は昼夜問わず、一人ペンを動かす。
締切は明朝。いや、0時を過ぎたのであと数時間で完成させなければならぬ。
漫画家に労働時間など関係ない。
たとえ深夜であろうと、休みなしに働かなければ明日のまんまが食えぬ。
そんな時にやって来るのだ。あの悪魔は。
悪魔は仕事部屋のドアを開け唐突にやって来る。
「ねえ」
甘くくすぐる声で、私をたぶらかす。
悪魔は私の背後に回り、しなやかな体をまとわりつける。
「ねえってば」
悪魔の吐息が耳にかかる。
悪魔の誘惑に乗っている暇などない。私は原稿を完成させなければならないのだ。
悪魔の体を振り払い、無心でペンを動かした。
ぞんざいに扱われた悪魔は腹を立てたのか、強引に私の膝へと乗り掛かる。
「ねえ、抱いて頂戴」
悪魔は赤い舌を覗かせ、私の腕を舐めてきた。
「やめろ!」
妖しげな瞳が私を見つめる。
「本当は抱きたいんでしょう?」
悪魔のか細い脚がデスクに乗る。
「ほら、触ってもいいのよ」
描きかけの原稿用紙に、悪魔の体が覆い被さる。
「やめろ!なんて事をしてくれるんだ!」
悪魔は両足を広げ、その柔らかな肢体をくねらせはじめた。
「今はそんな事している場合じゃない!」
私は悪魔を掴み、やっとの思いで仕事部屋から追い出した。
これで仕事に集中できる。
成人漫画家というのは、いや単に私だけかもしれないが、驚くほど女性に縁がない。
実際に女の裸を見た回数より、女の裸を描いた数の方が多いのである。
私の原稿では男女が激しくまぐわうが、作り手である私は学生時代のフォークダンスで女子の手を握ったのが、人生最後の触れ合いである。
カカオ農園で働く貧しい少年がチョコレートを食べた事がないように、性を売り物にした漫画を描く私は、神に身を捧げられるほど清らかなのである。
カカオ農園の少年に思いを馳せていたその時、遠くの部屋から破壊音が鳴り響いた。
悪魔の仕業だ。
奴は仕事を優先して自分の相手をしない私を憎み、嫌がらせを始めたのだ。
こうなるともう悪魔の手は止められない。
奴は破壊の限りを尽くし、部屋中をめちゃめちゃにするのだ。
私はペンを置き、悪魔を捕まえに行った。
悪魔は廊下の隅で不機嫌そうに私を睨み付け、フンと鼻を鳴らした。
私は彼女を素通りして、キッチンへ向かう。
まったく悪びれもせずに、ニマニマとこちらを見つめるのが憎らしい。
そこには粉々になった皿、取っ手の取れたマグカップ。床に散らばった食べかけのインスタントカレーという、無残な光景があった。
目眩がした。あと数時間で原稿を仕上げなければならない。
そこでこの惨劇。
アシスタントも配偶者も居ない私の代わりに、誰がこれを片付ける?
キッチンの隅で悪魔が笑っている。
ただでさえ忙しい私に余計仕事を増やしておきながら、狼狽える私を見て嘲笑うのだ。
そして悪魔は私に体を絡み付け
「今夜は仕事なんてやめましょう」
と、文字通り悪魔の誘いを囁くのだ。
修羅場の中このような悪ふざけで人を小馬鹿にする悪魔に、流石の私も堪忍袋の緒が切れた。
強く、冷たい声色で悪魔を一喝する。
すると、先程までの威勢はどこへやら、急にしおらしくなり反省の色を見せ始める。
「ねえ、冗談だったのよ。悪気はないの」
悪魔の瞳が潤み、か細い声で許しを乞う。
「だって、貴方ってば私より仕事ばかり。冷たくしないで欲しがっただけなの」
悪魔はすっかり身を小さくして、健気な瞳で私を見上げてきた。
私は悪魔の柔らかな体を抱き上げた。
その肢体から、温かな体温が伝わってくる。指先が悪魔のしなやかな肉体に沈み込む。
服従した私に、悪魔はクスリと勝利の笑みを浮かべる。
デスクにはまだ完成しない原稿。転がるペン。散らばったスクリーントーン。
今宵お前らを完成品に仕上げる事は不可能となった。
私は悪魔の誘惑に負けた。
もう全ての仕事を投げ出して、悪魔が果てるまでこの身を捧げなければならない。
悪魔が燃え尽きて眠るまで。
私と悪魔の眠らない夜が始まった。
さて、私は朝一番に担当者へ締切を破るという謝罪の電話をかけなければならぬ。
猫じゃらしを振りながら、言い訳の言葉を考えた。
まったく猫という悪魔はこれだから困る。