第1話

文字数 9,084文字

 誰でも、身の危険を感じる言葉の一つや二つを浴びた経験は、あるんじゃないかって思う。
 そして、それによってその後の人生が変わるってことも。

 
 回覧板を持ってお向かいの篠田家に行くと、篠田のおばさんが出てきた。
「あら、理佐子ちゃん、こんばんは。お仕事、お疲れさまでした。お母さんは忙しいの?」
「今日から明日の土曜日までお兄さんの家です。赤ちゃんが生まれたんで、父と一緒に泊まりがけて遊びに行きました」
「なら、今夜はひとり? ちょっと、寄って行かない?」
 おばさんが、にこにこの笑顔でわたしを見てきた。おばさんのこの笑顔。
  ……不吉な予感しかない。
 小学二年生の春から社会人二年目の現在までの約十六年という長い付き合いにおいて、篠田のおばさんのこの顔は危険なシグナルであると、わたしは学習していた。
 君子じゃないけど、危うきには近寄らないのだ。
「すみません。お風呂がそろそろ沸くころなんで。また今度にでも」
 そそくさと、角の丸くなった回覧板をおばさんに押しつけ退散――失敗。わたしの腕は、おばさんにしっかりと掴まれていた。
「だったら、ここでいいわ。聞いてちょうだい、和弥のことなんだけど」
「いや、あの、わたし、和弥君とは、全然親しくないし」
「なにを言うの。理佐子ちゃんと和弥は同じ年で、小学校から中学、高校と同じだったじゃない。あのね、わたし心配なの。和弥ったらね、近ごろ変なの。秘密があるみたいで、こそこそと何かやっているの。彼女でもできたの? って聞いても、慌てて首を振るばかりで。でも、なんか怪しいのよ。だから、理佐子ちゃんから、聞いてもらえないかしら」
 和弥に秘密? 彼女ができた? 随分と奉仕精神のある女性がいたものだ。
「わたしよりも、和弥君のお兄さんの征哉君や幸弥君の方が適任ではないでしょうか」
「お兄ちゃんたち二人とも独立して家を出ているでしょう。仕事もあるし、連絡するわけにはいかないじゃない。一番下の子には、話したのよ。そうしたら、げらげら笑うだけで、ちっとも真剣になってくれなくて」
 だからって、わたしに相談するのは、お門違いもいいところだ。
 篠田四兄弟の三男坊の和弥とわたしは、年こそ同じだけれど、その関係は果てしなく遠く、他人とさえ呼びたくないほどの薄さなのだ。
 なにやら考え事をしはじめたおばさんの腕が緩む。チャンスとばかりに、後ずさる。が、また捕まった。おばさん、動体視力がすごいな。さすが、男の子四人を育てた母親だけのことはある。
「和弥に合うひとはいないかしら?」
 おばさんの目が怖い。
「おばさんの伝手(つて)で探せば、いくらでもいるんじゃないですか?」
「それが、なかなかいないのよ。だから、理佐子ちゃんにお願いしようと思って」
「いやいや、困ります」
 そのとき、篠田家の電話が鳴った。おばさんの注意がわたしから反れる。チャンス到来。わたしは「おやすみなさい~」と言うと、すたこらさっさと逃げ帰った。

 玄関に入っても、心臓がばくばくしていた。篠田のおばさんは、おもしろくて好きなんだけど、時々妙に迫力があって怖い。
 それにしても、和弥が心配とは。母親って、そんなものなのだろうか。わたしにしてみれば、和弥なんて野放しにしていても死なないくらいの生命力があると思っているのに。

 わたしと篠田 和弥との出会いは、小学二年生の春、約十六年前になる。晴れてマイホームを手に入れた我が家は、引越し当日、意気揚々と向こう三軒両隣へ挨拶に行った。篠田家もそのうちの一軒だった。
 篠田家に行くと、今日と同じように篠田のおばさんが出てきた。わたしの母と篠田のおばさんは、会った瞬間に意気投合したようで、玄関先だというのに、まるで旧知の友人のように勢いよく話し出したのだ。
 そんな母親たちのコミュニケーション力の高さに、わたしと父と兄は、棒切れのように立ちながら、女性ふたりの話しが終わるのをひたすら待った。 
 おばさんは、わたしが篠田家の三男と同じ年だと知ると、にこにこの笑顔になった。そして、一旦家の奥に戻り、ひとりの少年を引きずり戻って来たのだ。
 その少年、篠田 和弥は、当然、大人しく引きずられてきたわけではない。そもそも、自分の足でなく、母親に引きずられ連れてこられている時点で、いろいろとおかしいのだ。
「くそばばあ、離せ」「暴力反対、死ね」とか、「でべそ」「パンチパーマ」とか、我が家では到底耳にしたことがない単語の数々を、和也は痩せた体いっぱいで発していた。
 たしかに、そのときおばさんの髪は、ややきつめのパーマ頭だったかもしれない。けれど、和弥の言うようなパンチパーマなどではなかったと思う。
 自分の母親に向かい、あることないこと吠えまくる和弥に驚きはしたものの、彼のそんな姿に一生懸命さと、ある意味、健気さも感じた。
 玄関に転がった和弥と目線を合わせるように、わたしはしゃがんだ。そして、もしこの家に同じくらいの年の子がいたらあげようと思っていた菓子を渡した。
「……なんだ、これ? 『ニンニン忍者煎餅』?」
「そうだよ。これを食べると、忍者になれるってお父さんに教えてもらった」
「バカだな。こんなもん食って、忍者になれるなら、日本人みんな忍者になっちまうじゃないか」
 そういえば、そうだ。わたしは顔を上げ父を見たが、父は娘をフォローするどころか、素知らぬ顔をした。
「忍者になるには、修業が必要なんだぞ。おまえ、水に潜れるか?」
「水泳の潜水なら得意だよ」
「おれは、塀の上を歩くのが得意だ」
「わたしは、走るのが得意」
「おれは、ジャンプが得意だ」
 思いつく限りの得意自慢をしたあと、和弥がにんまりと笑った。
「おまえ、いいな。名前なんていうの? 俺、篠田 和弥」
「理佐子だよ。中垣 理佐子」
「よし、理佐子。おまえをおれの家来にしてやる」
「嫌だよ。家来なんて、面倒くさい。わたし、帰る」
 その返事が気に入らず逆上した和弥は、おばさんに抑えられながらも、ぴーすかわめいていた。中垣家にとっては、かなりの修羅場であるこの状況下だったが、おばさんは涼しい顔をしていた。
 この家で一番強いのは、篠田のおばさんだ。その場にいたわたしを含めた家族四人は、即座にそう判断した。このひとには逆らうまい。
 そんな、わたしたちの思いを知ってか知らぬか。おばさんは「理佐子ちゃん、和弥とお友達になってね」と、にこにこ笑顔で言ったのだ。
 その後も、おばさんは、主に和弥関係において、たびたびわたしに妙なお願いをしてきた。
 一緒に学校に行ってあげてほしいとか、逆上がりができたので褒めてあげてほしいとか。もはや、和弥のお世話係任命の勢いで、わたしを使ってくるのだ。
 けれど、わたしと和弥の関係は、一方通行でもなかった。
 転校した小学校で、わたしはクラスの女の子たちと馴染めなかった。彼女たちが、少女漫画やアイドルやファンシーな文具を楽しんでいるとき、わたしは「姫路城」の写真集を見たり、「信長は生きていた~本能寺の真実」を読んだりしていたからだ。
 授業中はともかく、休み時間がキツかった。そんなとき、和弥はわたしのそばにいてくれた。そして、わたしのそばにいる和弥のもとに、男の子たちが集まっては、バカな話をしだすのだ。
 なかには、わたしの本に興味を示す子もいた。おかげで、孤立せずにすんだのだ。和弥とわたしが一番友好的な関係を結んでいたのは、この頃だと思う。

 おかしくなったのは、中学生になってからだ。
 中学二年生の冬に、わたしは和弥から告白された。和弥に女の子として見られていると知り、そんなニーズがわたしにもあったのだと気付き、とても驚いた。
 どうしようかと迷ったのは一瞬。今まで、和弥とはそれなりに楽しく付き合えたのだから、これからだってそうだろう。そう考えたわたしは、彼と付き合いをすることにしたのだ。
 付き合ってすぐに、和弥は自分たちのことを、双方の親に報せたがった。それをわたしは全力で止めた。
 その少し前に、わたしの兄に初めての彼女ができた。両親は毎日のように兄を冷やかし、その純情っぷりを酒の肴にしたのだ。子どもながらに、気の毒だと思った。心優しき息子をからかうなんて、うちの親は心底悪(わる)としか言えない。
 そんな様子を見ていたものだから、もし、和弥と付き合っているなんてばれたら、今度のターゲットはわたしになると思った。冗談じゃない。わたしは、それを和弥に話した。
「理佐子の気持ちはわかるけど。俺たちがこの先に進むためにも、親にちゃんと言う方がいいって」
「嫌だ。もし、言うのなら、和弥との付き合いは断る」
 なんども同じやりとりをするなかで、和弥もいい加減諦めたようだった。
 そして、問題の中三の夏が来た。
 その日、わたしたちは和弥の家で受験勉強をしていた。その合間に、久しぶりに彼が、親に言う言わない問題を蒸し返してきたのだ。
 和弥曰く「親公認で、四六時中どこでもいちゃいちゃしたい」そうなのだが、わたしは親公認になったところで、和也と四六時中どこでもいちゃいちゃしたくなかった。
 わたしにとって和弥とのお付き合いは、一緒に学校に行ったり、勉強をするだけで十分だったのだ。
「嫌だ。親には言いたくない。言うなら別れる」
 いちゃいちゃするのも、親にからかわれるのも嫌だったわたしはそう答えた。すると、和弥はわたしの答えになにか考えるかのように、しばらく壁の方向を眺めていた。
 そして「そっか。わかった」と納得したように言ったので、わたしも安心して勉強に本腰を入れようとした、その瞬間。
 あいつは、わたしをベッドに押し倒したのである。
 巷では「最近の中学生は」とか、「出会い系サイトでどーだこーだ」というニュースが流れるが、わたしの周りはいたってクリーンだった。
 だから、まさか自分の「お付き合い」の中で、こんな場面にぶち当たるとは夢にも思っていなかったのだ。
 ベッドに仰向けになりながらも手に参考書を持ったままだったわたしは、現実に起きたこの状況に今一つ現実味がなく、どこかで「冗談だろう」と高を括っていた。
 が、和弥が服を脱ぎ出したのだ。
 ちょっとまてよ。おいおい、まじかよ。うそだろ、じょうだんだろう!
 思いを漢字変換できないくらいパニックなわたしにお構いなしに、和弥は上だけ脱いだ。そして、わたしの参考書を掴んで机に置き、ブラウスにまで手を伸ばしてきたのだ。
 
「だめだめだめ!」
 身の危機を感じたわたしは、和弥の腕をぎゅっと握った。
 今でこそ大人の太い腕をしている和弥だけど、中三の頃はどちらかといえば華奢で、手首だってわたしの方が太かったかもしれない。
 和弥はわたしに宙で腕を掴まれたまま「なんで?」と聞いてきた。
 なんで? ですって! こっちが言いたいわ、なんで? って。
「あほかっ! ありえん! こんなことっ!」
 中三だぞ。十四歳だぞ。
「はぁ?」
 和弥はきょとんとしたような、ホント無邪気に「はぁ?」ってな表情をした。
「理佐子、おまえ、なに出し惜しみしてんの」
 出・し・惜・し・み。
 今、こいつ、出し惜しみって言いやがりましたか?
 なに言ってんのかな。
 あんた、何様ですか?
 わたしは大きく息を吸うと足で勢いをつけ、その反動で起き上がりしなに、和弥の胸に頭突きをかました。そして「さらばだっ!」と、和也との決別を宣言し、部屋を飛び出したのだ。
 わたしはそれ以後、和弥の部屋に行くことはなかった。
 
 乙女の一大事に向かって「出し惜しみ」ですよ。
 出し惜しみ。
 出し惜しみ、結構。
 どこが悪いっ! 
 大事だと思うもんを、大事にしないでどうする。
 そう簡単に、ちょちょいとできるかって言うんだバカ。
 身の危険を感じる恐怖が去ると、途端にそれは腹立たしさへと変わっていった。
 和弥は、自分が起こした行動に伴う結果について、どう考えているのだ。
 男はいいけど、女はたまったもんじゃないのよ。
 保健の時間、何を聞いていたんだ。
 考えれば、考えるほどに、許し難い言葉である。
 しかも、中学生でそんな台詞を言うなんて!
 世も末。

 以後、わたしは名前も変え、住む場所も変え、性別も変え、なんてことはできるはずもなく、 篠田家との関係も壊したくないという守りの気持ちもあり、ただひたすら、地味に地味に地味に地味に和弥を避けながら「篠田家のご近所さん」としてひっそりと生息していたわけである。
 しかし、和弥をご近所さんなんて、親しみを込めた名称では呼びたくないわたしであった。
 あんなやつを表現する言葉に、ご近所さんだけでなく同級生だってもったいない。
 そこでわたしは、和弥の存在位置的表現に「近所人(きんじょびと)」という言葉を使うことにしたのだ。
 これは、わたしの脳内だけの呼び名であり区分なのだが、わたしのプライドにも関わる大事なことでもあったのだ。
  
 なのに、なのにですよ。
 さっき、篠田のおばさんは、わたしに言ったのだ。
「和弥に合うひとはいないかしら?」
 つまり、和弥に娘さんを差し出して――ではなく、紹介してほしいという意味だ。
 そんなの、無理に決まっている。
 考えてみてほしい。
 自分が食べてまずかった饅頭を、人に勧める人がいるだろうか?
 否。
 それに、顔の広い篠田のおばさんの伝手さえ、ダメだったというではないか。残念だけど、この日本に、そして地球に、和弥の相手は存在しない。
 そうだ、和弥よ。
 火星に行くがよい!
 わずかな生命の可能性に、己の人生をかけよ!

「あほか、おまえ何言ってんの」
「うわっ。和弥! 人の家で何をしている! 今すぐ尼寺へ行け!」 
「考えていることが独り言で出るのは世間体が悪いのでやめた方がいいよ。あと、俺、火星には行かないし、尼寺にも行かないっていうか、行けないから」
「うむむ。残念」
 しかし、なんで和弥は勝手に人の家に入ってきているんだろう。首をかしげながらも、喉が渇いたので冷蔵庫に向かう。
「あ、俺にも麦茶くれ」
「……」
「無視しようとしているだろ」
 この野郎と言いつつ、和弥は自分の分の麦茶を自分で注いだ。
 成り行き上、二人で立って麦茶を飲む。
 あの「出し惜しみ」事件から十年が過ぎた。
 社会人になってからは一年が過ぎた。
 地味に地味に地味に地味に、和弥を避けてきたわたしだけど、地味なだけに十分に避けることができず、 結局隣を見るとこいつがいるのだ。
 もしかして、和弥はわたしが避けているってことすら、気が付いていないのかもしれない。
 それくらい地味で地味で地味で地味なわたしの抵抗なのだ。
「玄関、鍵をちゃんと閉めろよ。いくらご近所さんみんな仲良しとはいえ、開けたままにするな」 
「開いていた?」 
「恐ろしいことに」
「それは、すまぬ。ありがとう」
 篠田のおばさんから逃げたことで満足して、鍵をかけ忘れたに違いない。なんにせよ、鍵が開いているのは危ない。和弥のおかげで気が付けてよかった。どんな相手にも感謝の意を伝えないといけない。
 そしてお礼も。 
「そうそう、おばさん心配してたよ、和弥のこと」
 和弥がいぶかしげな顔をした。
 そうかそうか、全くわかっていなかったか。
 得てして、子とは親の心配に気が付かぬものだからな。
「和弥に合う女性を紹介して欲しいと言われた」 
 いつもなら、こんなおせっかいは焼かないけれど、玄関の鍵のお礼なのだ。 
「はぁ?」
「ん?」
 和弥の「はぁ?」ってな顔は、中三のあの夏に和弥がした、きょとんとした表情に似ていた。それに、わたしが女の子を紹介するよりも(って、紹介しないけどさ)、 和弥が自分で犠牲者……ではなくて、お相手を見つけてくれた方がわたしだってハッピーなのである。
「……理佐子って、バカ?」
「漢字検定は準二級」
「いや、そういうことじゃなくて」
 和弥はいつになく真面目な顔で考え込んでいる。
「付き合っている、よな?」
 和弥がわたしの顔を覗き込んできた。
「おっ、そうか。和弥には彼女いるんだな。それはよかった。それならそうと、家族に紹介すればいいのに」 
「『嫌だ』って、言ったよな?」
 またまた慎重な顔で、和弥がわたしの顔を覗く。
 こうして見ると、この十年で和弥も外見的には大人の立派な青年になったなぁと思った。
 そういば、あの暴言以来、和弥はそういった意味のことも一切言わなくなっていた。
 体だけでなく心も成長していたのかもしれない。
 そうか、そうか。
 もうあの頃の和弥ではないんだな。
「おい、理佐子、聞いてるか?」
「あ、うん。話はもういい? わたし、そろそろお風呂に入って眠りたいんですけど」
 今日も忙しい一日だった。
 わたしも一年前に比べれば、社会人としてそれなりに働けるようになってきた。頑張ったよ。自分で自分を褒めてやりたい。
「風呂だと? 眠るだと? あ、まぁ、一点だけ確認したらすぐにでも風呂だろうが、なんだろうが許してやるよ」
「あんたってば、どうしていつもそう偉そうなの」
 心の成長はまだだったらしい。
「まぁ、聞け」
 そう言うと和弥はじっとわたしを見てきた。
 負けずにわたしもじっと見る。
「俺らさぁ、中学の時から今までずっと付き合っているよな。で、理佐子はそのことを両方の親には言ってくれるなと言っていたよな」
「はぁ? あんた、何寝言を言ってんのよ。わたしたち付き合ってなんか、ない! ない、ないっ! 何をどう考えたらそんな考えになるのよ」
「はぁ? 付き合ってないって? じゃ、俺は誰と付き合っているんだよ!」
「そんなの、わたしが知るわけないじゃん!」
「理佐子っ! てめぇ、いつの間に俺と別れてんだよっ!」         
「和弥こそ、いつの間にわたしと付き合っているのよ!」
「理佐子は変だ!」
「和弥の思考の方が変でしょ!」
 二人とも会話の中にびっくりマークを飛ばしすぎで呼吸が荒くなっている。
 マンガだったら、わたしたちのいるコマには「ゼイハァ」って言葉が書かれていることだろう。
 「落ち着こう」と和弥が言ったので「望むところだ」といって深呼吸をした。

 「さて、理佐子さん。まぁ、座ろうじゃないか」
 そう言うと和弥は今わたしたちが立っているキッチン(しかも冷蔵庫の前だ)に正座をした。
 仕方がないのでわたしも和弥に向かい合うようにして正座をした。
 けど、なんで正座よ。
 コホンとわざとらしい咳を和弥がする。
「じゃ、確認ね。俺さ、中学二年生の冬に、理佐子の誕生日に……言ったよな」
「うん。言った」
「よし、それはOKだな。で、それが始まりだろう。で、理佐子の言う終わりっていつのことだよ」
「『理佐子の言う終わりって』。和弥、あんたってば」
 つまり、和弥は、中学二年から今までわたしたちが続いていると思っていたのだ。
「和弥って、変人だね」
 こっちはもうとっくに何の関係もない近所人だと思っていた相手が、実は今もってわたしを彼女だと思っていたって、軽くホラーだ。果たして、そんなことがあるのだろうか?
「変人」和弥が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「変人かぁ。確かに、ずっとずっとあいつらには、そう言われ続けてきたよなぁ」
 和弥の言う「あいつら」とは、和弥の兄弟を指すのだろう。
「あのさ。つまり、わたしの言う終わりって、和弥の部屋に最後に行った時だよ」
「俺が理佐子に胸を頭突きされた時のことか?」
 ここで最後に「?」が入るってことは、和弥は本当に全く気が付いていなかったのだ。
 それはそれで、衝撃的である。
「わたしは、言ったよ。和弥ともう付き合えないって」
 和弥の顔がひきつる。
 かわいそうな気もするが、わたしのあの時の衝撃を考えるとかわいいものだ。
「言ったか? そんなこと」
「言ったよ。ちゃんと」
「……俺、そんな凄いことを言われた記憶が全くないんだけど」
「記憶喪失?」
「んなわけあるか!」
「そうか。わたしは今でもしっかり覚えているけどな。和弥に頭突きしたあとの去り際に『さらばだっ!』って」
 和弥には聞こえていなかったのかな。
 大声で叫んだつもりだったけど、実際はそうでなかったのだろう。
「え。理佐子、今『さらばだっ!』って言った?」
 和弥が正座したままで上体を前に傾けるようにしてわたしにそう言った。
「うん。言ったよ。『さらばだっ!』って」
「それなら覚えている。で、それが、理佐子の言うところの別れのセリフってこと?」
「うん。さらば、だもん」
 他にどんな言葉があるっていうんだ。           
「……分かりづらい。非常に、分かりづらいことこの上ない」
「この上だろうが、この下だろうが、事実はかわらん。つまりが、あの日あの時あの場所から、君とわたしは赤の他人なのだ」
「微妙にどこかで聞いた曲が入った台詞だな、おい。まぁ、理佐子と俺が他人なのは承知だけど。……待て待て。ってことは、おまえの気持ちを尊重して過ごした、この俺の悶々とした十年間は、なんだというのだっ! 理佐子、男の純情を返せ!」
 そう言うと和弥は、ほれほれと右手を出してきた。
 ……そうか。
 憐れ和弥は、自分が振られたことを知らずに、彼女も作らずに過ごしていた……ん?
「待て、和弥。あんた、高校の時、美人と誉れ高い年上のお姉さまと付き合っていたよね」
 そうそう。わたしは彼女の幸福を願い、木陰でそっと涙を流したのだ。    
「それに、大学生の時だって、車で女の子を助手席に乗せて走っているのを見たような」
 ような、でなく見た。
「記憶にない」
「……記憶に、ない?」
 気の毒に。
 自分に都合の悪いことは、デリートしてしまう機能がついてしまったんだな。
「ドンマイ和弥」
 ドンマイされた和弥が、わたしの左手首をぎゅっと掴んできた。和弥ご乱心の図に、わたしはじたばたとする。和弥がわたしの指になにかを嵌めた。
「うっし。任務完了。返却お断り」
「これは、一体」
「ダイヤモンドですよ、理佐子さん」
 ダイヤモンド。
「男の純情、これで相殺な」
 唖然としているわたしの頬に、和弥が素早くキスをした。
「とりあえず、今から母親に報告してくる。で、理佐子んち、今日誰もいないんだってな。あとでまた来るから」
 そう言うと和弥は、わたしから鍵を奪った。
「十年も待ったんだ。いい加減、出し惜しみも終わりにしてくれよ」
 
 や。ややや。
 目をパチクリさせながら、恐る恐る左手薬指を見る。
 光ってますっ、よ!



 もしかして、これは。
乙女の一大事ですよね!

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