ハブラシ一家

文字数 4,040文字

 見下ろせば、そこには水滴が残る洗面ボウル。朝のひと仕事を終えたばかりだから僕の髪もぬれたままだ。軽く頭をひとふりして水気をとばす。
「こら、冷たいじゃないか。気をつけろ」
 そう言ってこちらをにらんだのは同じコップで暮らすトラベルおじさんだ。この家のお父さんが使っているハブラシで、仕事で色んな国をとびまわっていたお父さんの『トラベルセット』だったからその名で呼んでいる。小さなハミガキ粉チューブといっしょにケースに入って、ずいぶん遠くにも行ったそうだ。お父さんが旅に出る必要がなくなったころ、家で使っていたハブラシがちょうど年をとってきたために今のコップに移ってきたおじさんは、今はお母さんが使うヤマギリさん、それに僕と、三本で暮らしている。僕はマサシくんが使う子供用のハブラシで、僕たちもまた、家族のような関係だ。

 おじさんはよく僕たちに、旅の話を聞かせてくれる。もっとも、旅先で見るものといえば、ホテルの洗面所がほとんどなのだけれど、おじさんはいつもカバンの中で外の様子を耳をすまして聞いているから、じっさいに見たわけでなくたって色んな世界を知っている。それに時々窓からチラリと見えた異国の景色と、かたい髪をほんの少しだけゆらしていった風の匂いを、おじさんは決して忘れない。

 そんなある日、見たことのないハブラシが僕らの目の前にあらわれた。
 そいつはコップに入らなくても真っ直ぐ立っていることができるらしく、僕らよりもひとまわりもふたまわりも太めな胴体をしている。ここに連れてきたのはお父さんで、
「会社の人がさあ、電動ハブラシはいいぞ、一度使ったらふつうのハブラシにはもどれないぞ、なんて言うもんだから買っちゃったよ」なんてことをマサシくんに話しながら置いていったんだ。

 お父さんが言うように、この家に電動ハブラシがやってきたのは初めてだ。へえ、これがねえ。僕は何となくおもしろくない。
 それはともかく、おじさんは覚悟しなければならなかった。これはついに引退を迫られているのだ。
 それでもまだコップにいられるところを見ると、もうひと働きくらいはできそうだ。おじさんはそう言っていつになく真剣な顔つきになった。

 その日の夜、事件がおこった。

 夜中は家の人たちが誰も見ていないので、僕たちはいつものようにおしゃべりしたり、手を伸ばしてコップのふちをつかみ、ピョンと飛びこえてはまたもどったりと、じっとしている間の体のこりをほぐしたりして過ごしていた。
 そこへ電動ハブラシの青年が「よう、ただのハブラシくん達」と声をかけてきた。

 青年は自分の体にあるスイッチを押してしばらくブルブル頭をふるわせて見せてから、
「うん、動きはバッチリだ。電池も入れ替えたばかりだし、いつでもそこのボサボサ髪と交替してやるよ」
 そう言って僕らをからかってきた。 
「うるさいぞ、おじさんはまだ仕事できるんだから、そこでおとなしく突っ立ってなよ」
 いつか引退するのは仕方がないのだけれど、大好きなおじさんにひどいことを言う青年に腹を立てた僕はコップのふちをつかむと、はずみをつけて一気に飛び出し、一本足で飛びげりをくらわせてやった。
 ヤマギリさんは「ちょっと、やめなよ」なんて言いながらも、目では(もっとやれ)と伝えてくる。
 だけど当のおじさんは自分のことでけんかになるのが悲しいようで「おい、やめろお前たち」とやはりコップから出てきて止めに入った。
 僕と青年の間にわって入ったおじさんは、その時ふいに青年のスイッチにふれてしまったらしい。とたんに青年の上半身がブルブルふるえだし、彼に触っていた僕もおじさんも、同じようにブルブルブル。おじさんのほうが体がかたいからか、ふるえ方も並じゃなかった。ガタガタ音をならしながら洗面ボウルのはじっこへととばされてしまった。そのときおじさんは、とっさに近くにあったドライヤーにつかまろうとして、はずみでフックからはずれてしまったドライヤーもろとも、そのまま床の上に落っこちてしまったのだ。
 僕はやっとのことで青年のスイッチを切ると、床を見下ろした。
「たいへんだ!折れちゃってる」
 僕とヤマギリさんはいそいで洗面台の下へおりた。おじさんは運悪くドライヤーの吹き出し口に体がはさまったかたちで床にぶつかったものらしい。ポッキリと半分に折れてしまって、気をうしなっているようだ。「お前のせいだぞ」ボウルの上にいる青年に向かってどなったけれど、彼は「知るもんか」と背を向けている。
 泣きそうな僕とちがって、ヤマギリさんはおちついていた。
「こんな時には、何でもくっつける薬があるんだよ」
 ヤマギリさんが言うには、その薬はハミガキ粉みたいなチューブに入っているものらしい。でもどこにあるのかは分からないのだそうだ。
「よし、僕がさがしてきてやるよ」
 僕はヤマギリさんにおじさんのことをたのむと、その薬を探すためにピョコピョコと歩き出した。

 洗面所の他をほとんど知らない僕は、薬のありかといって見当もつかない。
 はじめにやってきた部屋には、洗面台とにたようなものが見えた。あれは蛇口と洗面ボウルではないのかな。そのとなりに何やらりっぱそうな箱がある。すごい薬のようだから、こんなところに大事にしまってあるんじゃないだろうか。
 箱の前についているとびらはずいぶんかたく、開けるのはひと苦労だった。
「さむい!」ようやく開いた箱の中からは、つめたい空気といっしょに色んなものがまぜこぜになったような匂いが流れ出した。おどろいた上にさむくてふるえたけれど、ごていねいに明かりがついているのはありがたい。
 そこで見つけたのはみどり色をしたチューブ。これが薬かもしれない。ためしにふたをあけると「ふん!」とへんな声が出てあわてて口をふさいだ。鼻がいたい。
 よせばいいのに、さらにペロッとなめてしまったものだから、僕はもう少しで気をうしなうところだった。それはハミガキ粉なんかより、ずっとヒリヒリしたんだ。

 次にやってきたのは玄関。ここは洗面所からもかすかに見えるから知っている。そう、これはくつ箱だ。
「おや、誰かいるな」ふいに声がして飛び上がりそうになる。
 くつ箱の下の暗がりからハブラシが顔を出した。おじさんよりも、もっともっと髪が広がっていて、しかも真っ黒だ。
「あ、もしかして前のおじさんじゃないの」
 トラベルおじさんがやってくる前にお父さんが使っていたハブラシがこんなところにいるなんて。
「でもずいぶん様子が変わったんだねえ」
 こんな黒い髪をしてはいなかったはずだ。
「ああ、今はくつみがきが俺の仕事だからな」
「へえ、こんな仕事もあるんだね。でも元気そうでよかったよ」
 僕は思いがけない再会をよろこびながら、ここに来たわけを話した。ふとくつ箱の下にあるチューブ型のものを見つけたけれど、「あれはくつずみだよ、お前の探している薬じゃあない」前のおじさんはそう言って首をふった。

 『くつみがきのおじさん』と別れた僕は、いったん洗面所にもどろうか迷っていた。なんせ家の人に見つからずに探すには限界がある。
 そこへ「おい」と後ろから声をかけられてまたビックリ。
 ふり返ると、そこにいたのは電動ハブラシの青年だ。いつの間にか追ってきたらしい。
 青年は「お前の探している薬ってやつにちょっと心あたりがあるんだよ」そう言ったあと、気まずそうに「悪かったと思ってさ」とつけくわえた。

 青年はある部屋の前まで僕をつれて来ると、
「ここはお父さんの部屋だ。寝室とはちがうから今はいないはずだ」と言いながら中へ入っていった。僕もあとへ続く。
「薬はどこにあるの」
「この引き出しを開けてみよう。俺の身体に入れた電池がここに入っていたんだ。たしかチューブ型のものもあったはずだぞ」
 僕たちはいっしょに引き出しを開けると、中を引っかきまわした。
「あったよ、きっとこれだ」
 僕は引き出しの中にころがっていたネジにチューブの中身をぬると、もうひとつのネジとくっつけてみた。「ほら、ついたよ」
 薬を手に入れた僕たちは洗面所へ戻ると、さっそくおじさんの折れた体にぬりつけて、もう一方とぴったり合わさるようにしてくっつけた。
 僕や青年、ヤマギリさんがじっと見守っているうちに、元どおりになったおじさんがパチリと目を開けた。「何だか自分がふたつになったみたいな変な夢をみてたよ」おじさんはそう言って笑った。

 次の朝、お父さんが洗面所へ入ってくる時、僕はドキドキしていた。
 おじさんはもうひと仕事できるかもしれないと言っていたけれど。
 様子をうかがっていると、手に取ったのは電動ハブラシ。
「あれ、新しい電池を入れたはずなのに動かないぞ」
 もう時間がない、と言いながらお父さんは元のハブラシ、つまりおじさんに持ちかえた。
 僕はその時気づいていた。電動ハブラシの青年がこっそりと自分の電池を体から外してコップのかげにかくしたんだ。「最後にゆずってやるよ。せっかくくっつけた体だ」とだけ言って、青年はすました顔で立っている。
 お父さんは歯をみがきながら、なぜだか世界中をとびまわっていたころを思い出すなあ、とつぶやいた。

 これからおじさんは、どうなるだろう。前のおじさんみたいにくつみがきをして暮らすのだろうか、そんなことを考えていたけれど、お母さんに言いつけられたマサシくんがゴミ袋をもってくると、おじさんはその中へ放りこまれてしまったのだ。
 マサシくんはそのまま学校へ行くために玄関を出ていく。けれどその時、ドアのすき間から、おじさんが袋をけり破って地面にとびおりるところを僕たちは見た。
 僕はあわてて手を振った。だって、おじさんがまた旅に出るのだ。今度はカバンの中で移動するきゅうくつな旅じゃない。

 玄関のドアが閉まった。僕たち三本は思わずうなずきあい、家の人には気づかれなかったけれど、洗面所の中にだけ、カツン、と小さな音をひびかせた。
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