ワンダーランドみたいな世界

文字数 2,587文字

 ボチャン、と大きな水の音がした。
 人の頭を投げ入れたような音だった。
 見れば川辺にスイカが浮いていて、割れた皮の隙間から赤々とした果肉が見えている。

 川の傍には、ちいさな畑があった。ナスやトマトが植わった、庭先のように小さな畑である。畑のへりには点々とパンジーが植わっていて、鮮やかだった。

 アーサーは落ちたスイカを見、何だかすべてが馬鹿らしくなっちまった。
 彼は会社で人間関係の悩みを抱えていて、二足歩行の生き物はもう見たくもないと思っていたところだったのである。

 この夏は随分と暑く、空気が湿っていた。
 一週間も洗わずに貯めた皿にハエが集って、ブンブンとうるさい羽音が耳にこびりついて離れなかった。

 耳について離れない音はたくさんある。
 脅迫的なマウスのクリック音。目の上を殴りつけるような秒針。頭の内側から膨れ上がるような、人々の話し声。

 乾いた道路の上でミミズが死んでいて、視界の端の黒い糸くずが蠢き、眼前はチカチカと明滅した。
 照りつける太陽が髄液を暖め……空の色さえ分からなくなった頃、アーサーは仕事を辞めた。
 そうして戻って来た田舎で、川に投身したスイカを見たのである。

「──どうかしました?」
「っ、え」
「大丈夫ですか? 酷い顔色よ」
「え?」
「あの、ですから。大丈夫ですか?」
「……っ、……!」

 日傘を差した女が、ふとアーサーに話しかけてきた。
 アーサーはぎくりと身体を強張らせて、ギョッとして女を凝視する。

 ボブカットの女は、初めは心配そうにアーサーの方を見ていた。しかしアーサーがあんまりにも驚いて、何の言葉も発しないのを見ると、次第にその眼差しは不審げなものに変わる。

「……」

 やがて女は訝しげにアーサーを見ると、スカートの裾を翻して去っていった。
 睫毛がピンと上を向いて、冷たいルージュがキラッと陽光の下に光っていた。

 アーサーは女の後ろ姿を見、ホッとしたように全身の力を抜く。
 硬直した身体が痛かった。背中に冷や汗をかいて、ドッと白いTシャツを濡らす。

「ふー……っ、ふー……」

 どしゃっとその場に座り込むと、アーサーは薄い茶色の髪をぐしゃぐちゃとかき混ぜた。
 話しかけてくるなら合図が欲しいと思った。突然話しかけられても、”今は”応じることができないのである。

 これが職場からもらった置き土産で、オフィスで送った社会生活の後遺症だった。

 アーサーはもう一度、川に落ちたスイカを見て思う。
 ああ僕だって、死ねるなら死んじまいたかった!
 トラックに跳ねられるでも何でもいい。何でもいい!

 とにかくこの身体が不便なのだ。分厚い皮の内側に閉じ込められた自我が悲鳴を上げている。衝動的に金切声を上げて、ピストルを口に咥えてあの世にフッ飛びたかった。
 身体が重い。視界が狭い。骨身にまとわりついたこの肉が気持ち悪い!

 けれどそんな簡単に、死ぬことなんざできなかったから。
 ピストルの引き金が引けなかったから、アーサーは夏の田舎町で、惨めに汗をかいている。土にまみれて、蜘蛛に靴の上を歩かれながら。

「ッくそ!」

 発作的に地面を殴りつけ、細かな砂利がアーサーの皮膚を破いた。
 ジワッと滲んだ血が、あのスイカの果肉のように赤い。

 憂鬱は眩暈のようにやってくる。
 音もなく突然に、前触れも脈絡もなく。視界が捻じれて世界は暗転する。人間の黒目が穴のように深く、白目が自転車の反射板みたいに光った。人の目が怖いのだ。夏のひまわりでさえ、巨大な眼球に見えてくる。

 膨大な妄想に囚われながら、アーサーは頭を抱えた。

 どこか別の世界に行きたい。僕が僕のまま自分らしく生きられる世界に。スキルの習得に血のにじむ努力をしなくても、ある日突然「選ばれて」「特別に」なりたい!

 その瞬間、ピリリとスマートフォンが声を上げた。アーサーの甘えを塗りつぶすように、現実が質量を持ってやってくる。

 ドッと心臓が跳ねて、アーサーはまた動けなくなった。電話の呼び出し音だった。彼は電話の呼び出し音が世界一嫌いなのである。聞くだけで動悸がするのだ。

 一体こんなものをなぜ生み出した!
 アーサーは八つ当たりのように思う。人と人とを繋ぐ、不自由で逃れられない楔。見たくもない現実を映し出す魔法の鏡! あるいはこれを文明の利器と呼ぶのだった。

「……ッくそ!!」

 アーサーはスマートフォンを川に投げ捨てた。
 ボチャン、と大きな水の音がする。人の頭を投げ入れたような音だった。

「逃げるのか」
「捨てるのか」
「逃げられると思うな」
「捨てられると思うな」
「──黙れ!」

 畑のパンジーが、ぎょろぎょろと茶色の目をアーサーに向けて喋った。アーサーは花が喋ったことに、違和感を覚えることができなかった。

 パンジーは不気味な双子のように、ソックリな低い声をしてアーサーを罵った。アーサーはパンジーを一人むしり取った。もう一人のパンジーは、蝶に蜜を吸われて死んでしまった。

 アーサーはその場から逃げようと、ダッと地面を蹴りつけて走り出す。しかしその拍子に、ガクンと何かに足を取られてしまった。
 側溝に嵌ったのである。バランスを崩して倒れ込みそうになり、ぎゅっと強く目を瞑った。

「──おい、ボーッとすんなよ」

 ゴーッと重たい音がして、アーサーはこれは何だろうと思った。
 ハッと我に返り、キョトンと穴のように昏い目を見開く。

「ボーッとすんなよ。仕事しろ」

 パコンと頭を叩かれて、アーサーはそれでもキョトンと目の前を見続けた。
 目の前にはコンピューターが光っていて、白い蛍光灯が病的である。夏の暑さは嘘のように引いて、そこには川辺も落ちたスイカも喋るパンジーもいない。

 ゴーッという重たい音は、空調の音か。アーサーはうわの空で思って、キーボードを叩き始めた。

「……」

 キラッとアーサーの茶色の目が輝いていた。
 それは飢えた獣のように不安定で、病気のサカナ見たいな歪な光である。
 アーサーは時折こうして、意識が漂流したようにうわの空になるのだ。彼の持病である。

 カタカタとパソコンのキーを叩く。秒針がコツコツと目の上を叩く。頭の中が膨れ上がって、耳から綿のような脳みそが漏れ出しているんじゃないかと思う。

 田舎に帰りたい、とアーサーは思った。
 ボチャン、とどこかで、重たい水音が聞こえてくる。
 それはワンダーランドみたいな世界だった。


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