現代に『TANGO』を踊るのは誰か  

文字数 11,796文字

 私がこの戯曲を観にいったのは全くの偶然で、そもそもムロジェックなる人物すら知らないという無知ぶりであった。その私が、今回不慣れで、無知ながらもこの戯曲の批評をしようと思ったのは、心を大きく揺さぶる「なにか」が、舞台から伝わってきたからだと思う。この「なにか」が、「感動」なのか「恐怖」なのか「未知の体験から感じる気持ち悪さ」なのかはわからないが、ひとつ大きな確信がある。
 この『TANGO』の世界観は、今の混沌とした社会と繋がるものがあるということだ。
 長塚圭史が演出を手がける『TANGO』の世界を、今私なりに解釈してみよう。

舞台上の傍観者

 最初、大きな枠と薄い幕で客席と舞台は遮られている。客席に座っている観客たちは、役者たちの台詞と、薄っすら幕に映る人の影だけに気を配ることしかできない。よくわからず始まった劇に違和感を覚えると、客席の間を堂々と通る男が現れる。――長塚圭史だ。演出家の彼が、客席に降りてくる。しかも、上演中に。わざと目立つように。舞台の前を通り、思い切り音を立てて本を投げ置く。そしてしばらくすると、片桐はいりの一声で幕が落ちる。ようやく役者たちの表情、衣装、しっかりとした動きを確認することができるようになる。この時点で、観客は観る自由を奪われている。
 片桐はいりが台詞を叫ばないと、幕は落ちない。この演出は一種の刷り込みなのかもしれない。観客と演出家の力関係を示しているのではないか。「力関係」。これも『TANGO』のひとつのテーマである。通常の芝居では、幕が上がれば役者が演技を始める。観客は口を開けてえさを待つ雛のように、勝手に演技が始まるのを待つだけだ。だが、『TANGO』は違う。演技は始まっている。しかし、観ることはできない。すべては片桐はいりの合図にかかっている。このような演出の舞台は、主導権を演出家が静かに握っているのである。そういった意味でも、最初からこの舞台は一筋縄ではいかないのだ。
 幕が落ち、長塚圭史が乱暴に透明な壁を叩く。長塚圭史のピリピリしたムードにより、観客が観る心構えを持つと、演出家は途端に傍観者へと変わる。力関係の変化がここでも起こる。今度は「ご自由に観てください」と言わんばかりだ。但し、演出家は舞台から離れることなく、舞台上の役者の演技を監視している。観客は困惑するだろう。役者の演技に集中するか、演出家が何の役割を果たそうとしているのかを推測すべきか。自由に観ることを許されているにも関わらず、リラックスして観劇することは許されない。頭をフル回転させて演出家と役者の関連性を探っていると、簡単に答えを提示されてしまう。美術の串田氏の案だ(パンフレットより)。演出家が、小道具を投げる、投げる。どんどん投げる。長塚が勢いよく小道具を投げつける姿は、乱暴と言ってもいいくらいだ。しかし、この演出が話のテンポに妙に合う。まるで漫才のボケとツッコミがうまい具合にかみ合っているのと同じような感覚だ。そう、つまりは「滑稽」なのだ。
 舞台では罪のない役者が、演出家に恨まれてでもいるのかと錯覚するように、乱暴に小道具を投げつけられて、それと格闘している。だが、演出家を意識することはしない。演出家はあくまでも「見えない」黒子だ。黒子はそれをよしとして、透明人間がいたずらをするがごとく、思いきり小道具を投げる。演出家はずるい。そのずるさがおかしい。
 演出家はその後も自由に舞台でうろうろし続ける。秩序のない行為が、時に秩序を意識させる。ストーリーが混沌としてくるこの『TANGO』という舞台は、役者たちのあまりの熱演で、どこからが脚本でどこからがアドリブなのかわからない。ストーリーも知らず、初めて観た場合、役者たちが本気で言い争っているようにすら見える。だが、そんな中でも演出家は自由気ままに棺桶の上に座ったり、背後をうろうろして彼らを見ている。  
 演出家は無秩序に舞台上を徘徊しているだけだが、芝居が本当にまずい展開になり破綻しそうになったら、彼はきっと止めるだろう。そういう無意識の安心感が、秩序を生み出すのではないだろうか。
 舞台上の傍観者は、その場にいるだけで舞台にも客席にも圧力をかけることのできるたった一人の人物だ。この戯曲は、ワンマンで乱暴で、観客に決して媚びることはしない。しかし、乱暴で、演出家の自分勝手な動きこそが、『TANGO』をシュールなコメディーと位置づけるひとつの要素なのかもしれない。

長塚脚本と『TANGO』の奇妙な共通点(一)

 長塚圭史は、二〇〇一年に『テキサス』というドラマの脚本を書いている。このドラマが、どことなく『TNAGO』の世界と似ている気がするのは私だけだろうか。
 まず『テキサス』について簡単に説明しよう。注釈を入れておくが、このドラマは、最初からとんでもない設定のストーリーである。借金を作ったマサルは、都会から田舎へと戻ってくるのだが、戻った先では美容整形が大流行。友人だけではなく、実の姉まで見分けがつかないほど変貌していた。マサルは連れてきた彼女・レイナとともにその真実を何とか受け止め、本来の目的である返済用の金を作るために、村一番の権力者・川島に自分のかわいがっている鶏での「卵産み競争」を挑む。だが、時代は変わり、現在は「卵産み競争」ではなく「闘鶏」で競うことになっており、結局負けて鶏と彼女とPHSを奪われてしまう。借金の督促に来た四ツ星は、マサルに部屋のものを投げつけ、上司である桂からの命令でそのままマサルの家に居つくハメに。マサルにずっと片想いしていた千鶴子と、そんな彼女に片想いしている満彦は、マサルに愛の歌を歌う。破綻しかけた物語の中でもマイペースに過ごしていたレイナだが、四ツ星からもらった大麻らしきものでトリップしてしまい、そこからストーリーは複雑怪奇になっていく。なぜか姉と姉の恋人でマサルの友人は首吊り自殺。マサルは二人の幻影が見え、度重なる対戦によりマサルの下僕となった川島と四ツ星だけがまともな状態に。また、美容整形のせいで顔面がかゆくなった村人たちは、全身外国人に整形した千鶴子を「悪魔」だと言って「悪魔抜き」の儀式を行い、彼女を殺してしまう。村人たちは自分たちが千鶴子を殺してしまったとやっと気づくと、警察官バッチを川島に預ける。葉っぱを流していた四ツ星は、葉っぱがなくなってしまったことで桂に殺され、マサルもレイナとともに都会に戻っていく。ラストは千鶴子になった満彦が、悲しげなアコーディオンを弾きながら歌い終わる。
 長くなってしまったが、この『テキサス』という脚本と『TANGO』の似たところをひとつずつ見てみよう。
 第一に、「最初から違和感のある設定」だ。要するに、非現実が現実であるということだ。『TANGO』の世界では「自由すぎて秩序がない状況」、『テキサス』では「美容整形が大流行」というところだ。一から千までいっきに飛ばして到着した感じ。このロケットのような自由な、ぶっ飛んだ設定が愉快で、常人では想像がつかないところもまたいい。だが、『TANGO』の世界は実際にあったことだということも記述しておきたい。
 第二に、奔放なヒロインのキュートさだ。レイナもアラも、その喋り方、しぐさが妙にチャーミングなのだ。これは長塚圭史の考え出す女性、いや少女像なのだろうか。服装もTシャツにパンツというレイナの格好も、脚本とは違うアラのネグリジェも、二人の女性のかわいさを体ひとつで表現するために、あえてシンプルにしたように思える。レイナはヤク中になってしまうが、それでも四ツ星におねだりする仕草が、エサをねだる猫のようで愛らしい。アラもアルトゥルに魅せるために脚を出したり、服を脱いだり、どうにか相手に興味を持ってもらおうとかわいい仕草の中に、必死な部分がある。
 レイナとアラの共通点は、ずばり危うさだ。可愛らしさや甘い仕草の裏には、自分のそれと引き換えに何かを得ようを企む気持ちがある。稚拙な企みと甘言のアンバランスさが危うさを生み出していると私は思う。そして、その危うさが男性の庇護欲に火をつけるのだ。
 第三に挙げられるのは、先ほども出た「力関係」だ。いわゆる「パワーゲーム」とでもいうのだろうか。『TANGO』は力関係の転換が頻繁にある。例えば、アルトゥルとアラ、アルトゥルとストーミルなどだ。力関係に変化はなくとも、権力を自分のものにしようと、他のキャラクターも虎視眈々と相手の上に立とうとやっきになっている。また、この関係は観劇している観客と演出家の間にもある。
 『テキサス』に出てくる「力関係」のキーパーソンは川島だ。彼は最初、田舎の権力者として出てくるが、マサルに負けて下僕になる。しかし、最後には村人に警察バッチを預けられ、実質村を取り締まる人間になる。最後に意外な人間が芝居の頂点に立っているところを見るのも、また楽しみのひとつなのかもしれない。
 第四に、『TANGO』と『テキサス』に共通している大きな点がある。ラストの音楽だ。『TANGO』はタンゴ「ル・パラシータ」が流れる。ムロジェックは「曲は必ずこれにすること。他のものではいけない」とまで注意書きをいれるほどだ。それに比べて『テキサス』の方は、千鶴子になった満彦がアコーディオンを弾きながら歌うだけで、ムロジェックのように思い入れがあるようには思えない。が、悲しい曲調で混沌とした芝居のラストを締めくくるにはちょうどいい。「ル・パラシータ」が何故、芝居が終わったあとも流れ続けるのか。これは複雑でシュールで、どうも納得のいかない気持ちを観客に残させたいというムロジェックの企みではないだろうか。納得のいかない芝居ほど、解釈は多くされる。帰り際、観客同士意見の交換ができる。より深い意見を欲し、また劇場を訪れてしまう。『テキサス』も、あの満彦の悲しげなアコーディオンが妙に耳に残る。やっぱり納得のいかないラストに、一種の気持ち悪さが生じる。
どちらの作品も、ラストの音楽により、より深く観客がストーリーについて冒頭から考えはじめる一種の引き金になっているのは間違いない。

長塚脚本と『TANGO』の奇妙な共通点(二)

 今度は長塚圭史が書いた、もうひとつの脚本『はたらくおとこ』と『TANGO』の類似点を挙げてみよう。『はたらくおとこ』は二〇〇四年に発表され、この作・演出と『ピローマン』(パルコ)の演出が評価され、第四回朝日舞台芸術賞と第五十五回芸術選奨文部科学大臣新人賞をダブル受賞したものだ。
 このストーリーも前述『テキサス』と同じように「最初から違和感のある設定」が柱となっている。脱サラした茅ヶ崎が潰れたりんご農園で、理想のりんご作りをあきらめずにいる。しかし、その「作りたいりんご」というのは、苦くて渋くて、客観的に見たら絶対売れないものなのだ。定時までぐたぐたと過ごし、時間になるとご苦労さん。そして、定時を過ぎるといよいよ『TANGO』のようなどことなく気持ち悪く滑稽なストーリーが始まるのだ。
 夏目の金策のせいでりんご園は潰れ、残ったのは梱包用の分厚いスチロールのみ。それを前田兄・望は恨みを込めて夏目に投げつける。この投げつけるという行為が、『TANGO』の演出に絡んでいるような気がするのは私だけだろうか。前田兄は怒りに任せてスチロールを投げつける。かたや『TANGO』の演出では、演出家が無秩序を表す手立てとして小道具を投げる。全く違う理由だが、『TANGO』の演出家が小道具を投げつけるのは、無秩序を表すだけではなく、アルトゥルたち家族に対して、言うなれば「家族」という形で表している「社会」に怒りをこめて投げつけているのではないだろうか。
 またヒロインの登場の仕方もどことなく似ている。ひょっこりと出てくるのだ。『TANGO』の舞台では、床から這い出てくるが、『はたらくおとこ』では、腎臓を売るかどうかで真剣に話し合われているりんご農園の事務所に、包みを持って飛び込んでくるのだ。どちらも脈絡がない。また、この話のヒロイン・涼も、アラやレイナと同じにおいのする女性だ。彼女は農薬のせいで片目が見えない。そのせいで男に見捨てられることが多く、自分を大切にできない。だから、常に男の側にいないと落ち着かない。要するに男に依存しているのだ。アルトゥルを跪かせたかったアラも、四ツ星に麻薬をねだるレイナも男性に依存していると言えよう。長塚圭史は男性に懐く女性を描くのがとてもうまい。
 そしてラストは薄く張られた伏線トラップが作動して、物事の全貌が明らかになるのだが、振り返ってみると通ってきた道に草の一本も生えていない状況に気がつく。あまりにも救いがない。茅ヶ崎と密雄が廃棄物を狂ったように食べ続けるのを、夏目は見ていることしかできない。しかし、自分が茅ヶ崎の妻を殺したことを吐露し、自分も一緒になって食べ始める。残酷で、誰も救われないような狂気のラスト。と、思いきや、それは夏目が気絶していたときに見た幻影で、茅ヶ崎だけが死んでいた……はずが「許す!」の一言で終わる。この「許す!」の一言ですべての残酷なシーンまでもが喜劇になってしまうのが不思議だ。
 ラストシーンと言えば、前述した『テキサス』や『TANGO』では、耳に残る音楽が一種の気持ち悪さを生じさせると書いたが、この「許す!」という言葉も同類である。ストーリーを喜劇に変えてしまう力を持っている言葉だが、死んだはずの茅ヶ崎が生き返って言う台詞だ。人が生き返る。この事象こそがそのまんま気持ち悪いのだが、滑稽さのあまりそのことを忘れさせてしまうのが、この『はたらくおとこ』のラストのすごいところだと私は思う。

戯曲内での演劇討論と時代背景

 舞台の上の枠が取り払われるやいなや、アルトゥルが登場し、父母や叔父、叔母に「秩序」や「伝統」を叫ぶ。それに対し、ストーミルやエレオノーラ、伝統を打ち破り「自由」を手にした父母は、怒りを露わにする息子を理解できないでいる。
 冒頭から長い台詞が続くが、初めて舞台を観たとき、私は即興劇かと思った。しかも台詞が演劇討論のように聞こえてきて、面白いと興奮した。若いアルトゥル・森山未來が「台本通りの型にはまった芝居」をしようとするのを、ストーミル・吉田鋼太郎が舞台で好き勝手して、「自由でアドリブだらけの芝居」をする。そういう目で観てみると、また舞台の現代的な新しい解釈ができる。だが、この戯曲はほとんどアドリブなし、即興劇でもない。
 と、ここまでは『TANGO』が書かれた背景を無視して、自分が観た印象だけを述べてきた。しかし、ポーランドの演劇の特徴を調べてから観劇すると、『TANGO』がいかに時代を風刺した作品なのかがわかる。
 ポーランドは約百五十年間の間、国家として独立したことはなかった。そのため、芸術や文化が国家の代わりに政治的な指導とも言える役割を担っていた(『ポーランドの文化と社会』より)文学や芸術は、そういった事情で政治的、道徳的であり、ブルジョワ的なものであった。こういったブルジョワ的な文化だったのは、ポーランドに町人文化があまり力を持たず、貴族階級が強い力を持っていたからである。しかし、一九四九年をかわきりに、ポーランドの演劇は社会主義リアリズムの時代を迎える。これには二つの理由があった。ひとつはポーランドの劇場の国有化、もうひとつはロシア演劇フェスティバルの影響があったからだ。
 そして一九五八年、ムロジェックは『ポリス』を発表する。社会主義リアリズムからの最終的な解放であった。『TANGO』もそのひとつだ。エレオノーラは『芸術の古臭い因習』を嫌い、ストーミルは『タンゴひとつ踊れなかった』時代を嘆いていた。
 保守的な世界を打ち破り、ブルジョア劇を否定する父と母。それを元の秩序ある、道徳的な世界に戻そうと苦慮する息子。台詞の端々に時代背景が浮かび上がる。戯曲のような無秩序な状況は、無政府状態だといっても過言ではない。それを、「結婚」という、古くから伝わる方法で秩序や形式を取り戻そうとする。この発想こそ石頭でなくてはできない考え方で、そういう意味でアルトゥルは天才だというべきだ。「契約結婚」を無にし、「形式的な手続きをとる結婚」に戻す。簡単なようで、「自由」という名の「堕落」を知ってしまった者には堅苦しく、居心地の悪いものだ。その点アラはどうだろう。アルトゥルと同じ若者ではあるが、彼のように学があるわけではない。彼女は伝統を打ち壊した世代の後に生まれた娘だが、ストーミルやエレオノーラのような自由で奔放な生き方をしていた。アラは、前の世代がぶち壊した、いや、作り出した「自由」を享受していたからそうした生き方ができていたのだ。アルトゥルはその「自由」を更に壊そうとしていた。これは親の代が反面教師となった例である。柔軟に受け止めるか、反逆するか。彼と彼女は同じ世代であるのに、正反対の頭を持っている。
 『TANGO』は喜劇と茶番、実験演劇に悲劇と、様々なジャンルが織り交ざっている戯曲だ。無秩序な家庭が滑稽だから茶番劇なのか、賛否両論を巻き起こす内容だから実験演劇なのか、最終的には主人公が殺されてしまうから悲劇なのか。どうにも消化しきれないシュールさに頭を悩ます観客を見て、ムロジェックが笑っていたなら喜劇なのだろう。

 観客は殺される

 私は『TANGO』を二回観た。ファンの方は「たった二回しか観ていないのに批評するなんて、おこがましい」と怒るだろうし、実際二回だけでは物事の本質をつかみきれていないと思う。しかし、一回目と二回目を観た「感覚」は大きく異なっていた。前述した通り、私は初めて舞台を観たとき、即興劇かと思うほどの役者の方々の芝居に驚き、興奮した。一幕目、物語が破綻したと嘆く森山未來を見て、本当にストーリーが破綻してしまったのかとも思ったし、二幕目はやけになって本当に酒を飲んできたのかとすら思った。しかし、二回目、『TANGO』の原作を少しかじってから観ると、それがすべて筋書き通りだとわかった。アドリブではなく、むしろ膨大な量の台詞を覚え、そこからキャラクターの心情を掘り下げていった役者の皆様の凄まじさを痛感した。
 一回目と二回目は同じ芝居ではない。無論、芝居は生でやっているのだから、まったく同じものが観られるわけではないことはわかっている。そういう意味ではなく、「動き」が違うのだ。私が最初に観たとき、二幕目で森山未來は爪を噛み、イライラと貧乏揺すりをしていた。それが「酔っ払いの仕草、目論見が外れた苛立ちの演技」に見えたのだが、二回目に観た舞台では「酔いを通り越して尊大な態度を取る演技」に変化して見えた。果たしてこれは演出だったのだろうかわかる術はないが、もし演出だとしたら、「酔ったアルトゥル」の演技が数日で大きく変わったことになる。なぜこのような変化が起こったのだろう。
 これは私見でしかないが、演出が流動的であり、役者たちのあり方も常に動きを伴っていたからであったことが原因ではないか。目立ったアドリブはなくとも、役者の周りに漂う「何かしでかしてやろう」という張り詰めた空気。長塚圭史はこの空気を作り上げたのではないだろうか。――特に吉田鋼太郎ことストーミルなど、油断したらとんでもないことをやらかしてしまいそうだ、とか。相手の動きが読めなければ、次に自分がどう出るか予測できない。パワーゲーム真っ最中の舞台上の緊張はマックスになり、それは客席に伝染する。パワーゲームの参加者は、役者だけではない。観客もそのメンバーに入っている。どうやってこの戯曲を解釈してやろうか。ラストはどうなるか想像してやろうじゃないか。ギラギラとした役者の眼は、観客の感情を刺激する。やはり長塚圭史は一筋縄ではいかない。彼は舞台だけではなく、客席をも舞台にしてしまったのだ。舞台上の傍観者は、見ていないようで客席の空気も感じ取っている。長塚圭史は演出家でありながら、すべての事象を見つめる完全なる傍観者になることができる、その場にいる唯一の人間なのだ。
 ラストはアルトゥルがエーデックに殺され、家族がその支配下に置かれ終わるのだが、殺されるのはアルトゥルだけではない。観客もアルトゥルと同じように「殺される」のだ。原作では、エーデックがアルトゥルを殴る場面に『この場面は真に迫るほどよい。二度の打撃は、それが舞台の上の仮構だということをできるだけ感じさせないように工夫されなければならない(中略)とにかく「芝居がからぬ」ようにすること(P156)』とムロジェックは注意書きしている。この「芝居がからぬ」ようにするということは、観客に「リアルさ」を見せようとしてのことだろう。この場面がリアルであるほど、観客は突然のことでショックを受ける。それこそアルトゥルが後頭部に受けたエーデックの拳を食らったときと同じようなものだ。橋本さとしはそれをうまくやり遂げた。うまくアルトゥルを、観客ごと殺したのだ。殺された観客は、呆然としたまま去っていく役者たちを見送り、エーデックとエウゲーニュシュのタンゴを観ることになる。結末はすべてエーデックの腹の内。ストーミルとエレオノーラがまた自堕落な生活に戻ったのか、アラがどういう風に生きていくのか、何もわからずに「ル・パラシータ」が流れる。観客がはっきりとした結末を理解する前に舞台は暗転する。気がつけば客席には煌々とライトがついているのだ。これでは殺されたのとまったく同じである。
 死んだアルトゥルと長塚圭史がすれ違う場面がある。森山未來が長塚を見ることはないが、長塚は森山の横顔を見ている。それまで何回か二人が近づく場面はあったが、長塚が森山を意識したことで、傍観者がやっとこちらの世界に入り込んだ気がした。森山が通り過ぎると、傍観者はガラスを割りこちらの世界を完全に壊す。ガラスを割ることは、戯曲の終了を意味し、それを粉々に壊したようにも捉えられる。もう戯曲の世界には戻ることはできない。喜劇なのか、悲劇なのか、茶番なのか。わかることなく観客は主人公とともに殺され、世界はなくなり、パワーゲームに勝ったエーデックとエウゲーニュシュだけが残る。二人の踊りが始まると、今までフル回転で動いていた頭にブレーキがかかり、二人の男の踊りがただ目の前で繰り広げられるだけになる。その踊りは一見真面目であるが、誰が勝つかわからない真剣勝負のパワーゲームをあっさりと終え、あっけにとられている観客に脈絡のない動き――この場合タンゴを突然見せることによって奇抜な笑いがこみ上げてくるように計算されている。コメディーなのに、どことなく気持ち悪さが残ったのは、主人公だけではなく、観客を殺して思考回路をずたずたにしてしまう残酷な手法が背後に隠れているからだ。

 『TANGO』の世界は現代に通ずる

 パンフレットに雨宮処凛氏と中島義道氏の談話が載っているが、二人が共通しておっしゃっているように、『TANGO』の世界は一昔前の日本と似ている。団塊世代の親は、「革命」を「自由」を求めていた。しかし、その子供たち団塊ジュニアはすでに「自由」を持って生まれていて、自分が好きなことが自由にできる。私の年代だと、団塊ジュニアのちょっと下といったところだろうか。だが、やはり回りを見ていると、私も含めて自由であるからこそ自由をもてあましている若者が多いように見える。
 現在、ニートが社会問題しているが、それは、自分に大きな目標がない、また、突き動かす衝動が平和になった世の中に欠けているから、そういった若者が増えているのだと私は思う。ニートがいいとか悪いとかではなく、何かしら大きな夢や野望、希望があれば人は自然と外に赴いて行動を起こす。
 団塊世代は出世競争が激しかったが、「大物になりたい!」と思う人間もその分多かったと思う。だからこそエネルギッシュに生きることができたし、そこには大きな指導者もいた。しかし、団塊ジュニアには、目標にする人物や越えたい人間がいない。人生の指針となるような人間がいないのだ。「自由に生きる」ということは、「自分で人生の指針を見つけ、生き方のデザインを白紙の状態から好きなように描け」と言われているのと同じだ。「好きなように描く」ことは、簡単なようで、一番難しいことだ。テーマが決まっていたり、お手本があるなら別だ。団塊世代は、形式的なシステムを打ち破った世代だ。長男が家を継ぐ。結婚はお見合いなど、古い因習を打破してきた。だが今や、大抵の若者は「自由」であるから、家業を継ぐ、継がないも、元から自由だし、そんな制度自体が時代錯誤だ。ましてやお見合いなんて古臭い。だから、自分で将来設計をしなくてはならないのだが、それが難しいのだ。「人生設計の成功者」と言うものがパッと頭に浮かばない。金銭的に成功した人物を挙げることができても、人間的に尊敬できる人間がすぐに浮かぶだろうか。今では自分の親ですら尊敬できないと嘆く子供もいるのだから、悲しい世の中になったと思う。
 現代の若者は縛られている。本質的にはどんなことでもできる「自由」が与えられているのにも関わらず、やれ塾だ、受験だ、習い事だ、と自由を勝ち取った親の操り人形と化している。それでも怒らずに親に従い、スケジュールをこなす子供たちに、感情はあるのだろうかと時折思う。怒らないのではない、怒れないのかもしれない。怒ったところで無駄、怒る力がもったいないということを理解しているからだ。それはやはり、親の世代がパワフルで、無理やりにでも自分の意見を押しつけようとする社会で生きてきたので、そんなやり口では効かないことがわかっているからである。それならば、この「怒り」の矛先はどこに向うのだろう。最近ではこの「怒り」が、いじめや犯罪などに形を変えている。それだけではない。自分の部屋にいても「怒り」を表現することができる。それがインターネットだ。ネットがすべて悪いと言いたいのではないが、不特定多数である人物の悪口を垂れ流す。しかも延々とだ。「有名税だ」と受け取れる人間ならよいが、一般人でもしこのような被害があったとしたら、最悪精神的ダメージによってまともな生活ができなくなるかもしれない。
 変化しているのは「怒り」だけではない。「反抗心」も同時に勃起しきれない男性器のようにふにゃふにゃになってきている。『TANGO』のストーミルの台詞で「お年寄りに席を譲らなかった」とあった。今の若者は黙っていても意外と席を譲るのだが、自分から善意で譲るのではなく、お年寄りの方から嫌味を言われて席を譲っていることもしばしばある。そういった場面を何度か見たし、自分もそれを強要されたことがある。席を譲ること自体は悪くないが、お年寄り自らが「私は六十を越えてるんだから、どきなさいよ!」と堂々というのもいかがなものだろうか。これらに対して私たちは、正論なので言い返せない。しかし、胸の中がもやもやして、苛立っても、それを本人たちに伝えることはできないのだ。これもまた、「怒り」と同じ。反抗しても無駄だと思ってしまい、言い知れぬ脱力感と疲れだけが残る。
 「自由」を手にした親の子供たちは、「自由」という言葉に縛られて、窒息しかけている。
『TANGO』ではアルトゥルがエーデックに殺されてストーリーは終わるが、現代のエーデックは何者だろう。下男で酒ばかりあおり、人妻に手を出す博打好き。どこでも、どんな格好、シチュエーションでも適応できる能力を持ち、最後には自分の手を汚し権力を手に入れる。果たしてこの彼のやり方が現代の日本に合うかはわからないが、「信条がない」方が、今の時代は生きやすいのかもしれない。日和見でもいい、本能的にどうすればいいかを悟って生きる。人間という皮を破って、猿に戻るのだ。
 空腹になったら食べる。眠くなったら寝る。性交したくなったら、その辺のメスを連れてくる。そして、権力が欲しくなれば、トップに立っている他の猿を殺す。野蛮ではあるが、いたってシンプルな生き方である。
 「自由」も「形式」も所詮は言葉。机上の空論。結果最後は「本能」が勝つ。だけど、この「本能」だけしか持ち得ない人間は、人間ではない、ただの動物だ。「本能」の上に、きれいな「自由」と「形式」で作った薄い皮を被ったもの。それが人間なのではないだろうか。「本能」をうまく隠しシンプルに生き抜く人間こそが、現代に『タンゴ』を踊る人間であるのではなかろうか。
                                     【了】


【参考】
・ シアターコクーン『タンゴ』パンフレット
・ 『タンゴ』 S・ムロジェック
・ 『演技者。TEXAS』 長塚圭史
・ 『はたらくおとこ』 長塚圭史
・ 『ポーランドの文化と社会』 加藤正泰・石川晃弘 編 大明堂
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