教えても

文字数 1,784文字

『別れる男に、花の名前を一つ教えておきなさい。
 花は必ず毎年咲きます。』
――そんな言葉を、知ったのは何歳(いくつ)の時だったか。二十二の歳、それを実践した女は、いまでも想い出に縛られている。
 本当は大した恋じゃなかった。喫茶店で疲れた様子のサラリーマンと相席(あいせき)になり、あんまり疲れた様子の男はうっかりグラスをひっくり返し、こぼれた水をあわてて一緒に拭いたのが恋のきっかけだった。
 淡々と育まれた恋愛の花は、咲いたとたんに男の手によって()まれてしまった。男に縁談が持ち上がったのだ。
「相手は上司の娘なんだ」
「その上司は普段はいいひとなんだけど、いったん機嫌を損ねると……」
「断ると、きっと会社を辞めさせられる」
 女は半分ぽうっと男の言葉を聞きながら、「教える花の名は何にしよう」と考えていた。気難しい上司のせいにして、自分より出世をとった男のことを、あえて意識から()らしていた。甘い物想いに逃げることで、ようやく自分を保っていた。
 男に花の名を教えて別れた後、女は花屋の息子と知り合った。
 良い人だった。花の名などまともに知らなかったサラリーマンとまったく違い、当然ながら花の名を女より良く知っていた。
「この花の名前、知っていますか?」
(らん)の一種でしょう? デンファレね」
「ふふ、でも『本名』は長くてね。『デンドロビウム・ファレノプシスタイプ』って言うんです」
「本当? 何だか必殺技みたいな名前ね!」
 ほとんど初対面で気が合って、店先で大きな声を上げた女に、花屋の息子はわき腹をくすぐられたような顔で笑った。その笑顔を、好きだと思った。
 今、女は花屋の息子と結婚して、花屋の奥さんとして生きている。子どもも生まれた。家族で営んでいるのは、夫の両親の店ではない。いわゆる支店一号めだ。この頃はいささか支店の方が本店より評判が良いのを、夫は少し気にしている。優しいひとだ。いいひとだ。
 でも女の胸の内には、例の男がまだ()んでいる。
 花の名前とわたしのことを、胸の中に秘めている人。追憶は女の奥深く、いまだに甘く居座っている。
 ある日、女は花屋の本店に出かけていき、夫の両親に花をもらった。もらった花束を胸に抱えて、片田舎の道をふわふわ歩いていた。
 道の向かいから、サラリーマンが歩いてくる。少し疲れているようだ。カバンを片手に、片手にスマホを持って、画面をのぞき込んでいる。
「あら、」
 女の声に、サラリーマンは顔を上げた。それからびっくりと喜びが半々の顔をして、スマホをポケットにしまい込んだ。左の腕に、そのジャンルに興味のない女でも知っている、高級ブランドの時計をしていた。オレンジのコロンの良い香りがした。
「やあ。……久しぶり」
 二言三言話をした後、女は自分の抱える花束を彼に示した。フリルのような赤い花を揺らしてみせて、彼女はくすぐったそうに問いかけた。
「ねえ。……覚えていてくれた? この花の名前」
「え? え、ええっと……チューリップ?」
 女の気持ちがすうっと冷えた。興ざめた女の顔を見て、男はあせって言葉を重ねた。
「違った? ……ヒマワリ? ……す、水仙(すいせん)かな?」
 全然違う。当てずっぽうがバレバレだ。咲く季節さえバラバラだ。
 男のあせりはみるみるつのり、とうとうポケットからスマホを出して調べ始めた。
「もう良いわ。――ありがとう」
 女は冷たく言い放ち、赤いフリルの花束と共に歩き出した。
 家につくと、夫と子どもが出迎えてくれた。
「やあ、お帰り。母の日おめでとう」
「ママー! あたしパパと一緒に、カレー作ったの! カレー!」
「ただいま、二人とも。あなた、プレゼントの焼きプリンの詰め合わせさしあげたら、お義母(かあ)さんとても喜んでね。お花こんなにいただいちゃった!」
「やあ、母の日のカーネーションだね。家の中にもいっぱい飾ってあるんだよ」
 当たり前のように花の名を言い、夫はにこにこ笑っている。あまりにも家庭的な、美味しそうなカレーのにおいに、鼻先にうるさく残っていたオレンジの香りが薄れて消える。
 女は今までの「花の名」の呪縛が溶かされて無くなっていくのを、しみじみと染み入るように感じていた。
 そうしてこっちの言葉の方が正しいと、頭の中に思い浮かべた。
『別れる男に、花の名前を一つ教えておきなさい。
 花は毎年咲くけれど、全ての男が花の名を覚えていてくれる、良い男とは限りません。』
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