第1話

文字数 1,984文字


「コーヒー代貸してくれ。今、財布ないねん。」
野球部の練習終わり。僕が自販機でジュースを買うのを見て、先輩がそう言った。
「まだ、この間のお金も返してもらってないですけど。」
「たかが、コーヒー代でケチ臭いな。ちゃんと返すわ、ボケ。」

色々と言いたいことはあるが、言えない僕。
この暴君の機嫌を悪くすると、更に面倒なことになるからだ。
早く、解放されたい。
僕は大人しく、自販機に、小銭を投入する。

「へへ、悪いな。」
ガコン。
「ふぅ~、やっぱりコーヒーはブラックやで。」

きっと、今日のコーヒー代も返ってこないだろう。
先輩が気取って、ブラックコーヒーを飲んでいるのも余計に腹が立つ。
コーヒーは、成熟した大人の嗜好品だ。
人の気持ちもわからない先輩にコーヒーの味がわかるはずがない。
今、苦味を味わっているのは僕だろう。
自販機のアクリル板に、うっすらと僕の顔が映っていた。まさに苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

部活動で身体を動かしてすっきりしたはずが、暴君のせいで気分は最悪。
僕は先輩が嫌いだ。


「今日は練習中止や。お前ら、図書室で勉強しとけ。」
監督の指示で、僕らは図書室でテスト勉強をすることになった。
期末試験が近づいたある日、土砂降りの雨が降ったからだ。
しかし、今、図書室は喧騒に包まれている。
テスト勉強は誰一人しておらず、皆はエッチな本がないか図書室の本を物色しているのだ。
数ある小説の中から、官能的な描写を探し出す。それを声に出して読み上げて、ゲラゲラ笑っていた。

野球部員による雑音が原因で、他の学生たちは、逃げるように帰っていく。
図書委員たちも、野球部員を注意出来ずにいる。彼らは苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
彼らの目には、僕も人の気持ちわからない一員に見えているのだろう。そう思われても仕方がない。
僕には部員の皆を注意する勇気が足りなかった。
注意をして水を差せば、真面目でつまらない奴と認定される可能性があるからだ。
学校の小さな社会では、何がキッカケで、いじめが始まるかわからない。
もしかすると、楽しそうにしている皆も僕と同じ不安を抱えつつ、無理して騒いでいるのだろうか。

同じ空間にいるのが苦しくなって、僕は隠れるように図書室を出た。
とはいえ、行き場もないので、なんとなく図書室から遠くにあるトイレへと向かう。

トイレに向かう途中の渡り廊下。僕は目を疑った。
空き教室に、乱暴者の先輩がいた。彼は一人で黙々と、分厚いハードカバーの本を読んでいたのだ。
そういえば、図書室の喧騒には先輩がいなかった。ああいう時、先輩が一番調子に乗る人間だと思っていたのに。
僕が唖然としていると、先輩は本から顔を上げた。

「なんや、お前か。そこで何してるねん。」
「トイレに行くところでした……先輩こそ、一人で何してるんですか?」
「え? ああ……本読む時は集中したいからな。図書室うるさいやろ。」
そう言う先輩が読んでいる小説。それはハリーポッターだった。
「ハリーポッター好きなんですか?」
「ああ、結構おもろいで。映画もええけど、小説も面白い。」
そう言う先輩は、どこか照れくさそうにしている。

ハリーポッターの登場人物には、意地悪なキャラクターがいたはずだ。先輩はそういうキャラクターと自分が被ったりしないのだろうか。小説を読んでいる時、心が動いても、実生活になると、そんなことはパッと忘れてしまうのだろうか。
「先輩が小説読むなんて、ちょっと意外でした。」
「あ? どういう意味やそれ? 馬鹿にしてんのか。」
「はは、すみません。」
「……俺の家、片親でな。親父の帰りが遅いのが普通やから、昔から時間潰しに小説はよく読んでたんや。」

そういえば、その意地悪なキャラクターも、家庭に問題を抱えていた。何故か、そんな事を思い出した。その時、僕は、先輩の違う一面に触れた気がした。
先輩は乱暴者で嫌な奴に変わりはない。だけど、周りに流されずに、一人好きな本を読む逞しさがある。そして、ハリーポッターを読んで、照れくさそうにしている先輩なら少し仲良くなれる気がした。
「先輩、おすすめの小説教えてくださいよ。」
「おお、ええぞ……今度、家にあるおもろい本持ってきたるわ。お前、どんな本が好きなん?」


「お前な、もっと綺麗に読めや。ここのページ、折り目ついてもうてるやんけ! もう貸したらへんぞ!」
「すみません。気を付けます。」
空き教室の一件以降、僕は先輩から本を借りるようになった。
大雑把な先輩が、本に関しては丁寧だというのは、新たな発見だ。
「あとこれ。この間のコーヒー代返すわ。」
本の話をするようになってから、先輩は少し変わった。そして、僕も。
本の世界に入り、コーヒーを飲んで背伸びをすれば、周りの部員の空気はあまり気にならなくなった。
「いや、本貸してもらってるし、コーヒー代はいいです。だから、また本を貸してください。」
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