第7話 ゆめうつつ

文字数 18,110文字


「リーダー、大野さん今日もお休みみたいです」
 プロジェクトチームの連絡役の紗英が翔の元へやってきて言った。
 今日の午後からプロジェクト会議があるのだが、大野はここ数日休んでいる。
 大野のことが好きな紗英は、個人的にも心配なのだろう。
「う~ん、そうみたいだね。紗英ちゃん、一応電話入れてみてくれる? 紗英ちゃんも心配だろうし」
「はい。そうですね…」
 不安げな紗英。
 でも、やっぱり大野は真衣の睨んだ通り怪しい。
 しばらくして紗英が再び翔のところへやって来た。
「何度電話しても出ません。どうしましょう」
 いつもは勝ち気な紗英が狼狽えてる。
 可愛いところがあるんだなと見直す。
「そうかあ。大丈夫だと思うよ」
「そうでしょうか」
「僕からも電話してみるよ。でも、一応部長に連絡しておいてくれる。万が一何かあるといけないから」
「そうですね…」
 紗英が部長室に向かった。おそらく、真衣のほうで進めている探偵の結果もそろそろ出る頃だろう。
 案の定、1時間後に真衣から内線で連絡があった。
「明日の夜に時間を空けてくれる」
「はい」
 理由はともあれ、真衣とまた二人きりで会えるのは嬉しい。それに、まだ先日の約束も果たしてもらっていないし。
 だが、今回の場合は用件がわかっているだけに、ちょっと気が重い。
 そして、当日。
 以前行ったことがある高級フランス料理店の個室が待ち合わせ場所だった。
 部屋の前でノックをすると、中から真衣の沈んだ声が聞こえた。
「どうぞ」
 中に入ると真衣はノートPCを開き、何やら仕事をしていた。
「部長、着きました」
「ごくろうさま。座って」
「はい」
 真衣の正面に座り、真衣のことを見ていると、真衣が顔を上げて翔を見た。
 眩しい。
 いつ見ても美し過ぎて、目が合った瞬間にその都度恋に落ちてしまう。
 この美しさは反則だよな、などと思っていると、
「何ぼおっとしてるの」
「あっ、はい。すみません。いろいろと考えていたもので」
 真衣は翔がプロジェクトのことで頭を巡らせているものと勘違いしたようだ。
「プロジェクトのこと、平野君には負担かけているものね」
 うっとりするほど優しい目で言われた。
 お願いだから、そんな目を向けないで。
 惚れてまうやろう。
「いえ、大丈夫です。部長のためなら、たとえ火の中水の中」
「そういうことじゃないから」
 冷静にツッコまれた。
「相変わらずきついですね」
「わけのわからないことを言うからよ。でも、安心して。例の件はもう解決したから」
 例の件とは、もちろん、情報流出の件を指しているに違いないが、わざと違うことを言ってみる。
「例の件って、部長と、あのおっさんの件ですか」
「おっさんって」
 ムッとした表情をした真衣が、これまた美しい。
「怒っちゃいましたか」
「別に怒ってないわよ」
「そうならいいんですけど。話は情報流出の件でしょう」
「わかってるなら、違う話は持ち出さないで」
「はいはい。失礼しました。で、やっぱり大野君だったんですか?」
「そう。探偵会社に依頼した結果、大野君が博広社さんの上層部の人間と何度も会っていることが分かったの」
「ひぇー」
 笑いに変えるつもりで、思い切りズッコケてみせた。
 だが、真衣は完全に無視した。
「しかも、その場でうちのプロジェクトの資料を渡している証拠写真まであるの」
「なるほど。確定ということですね。しかし、彼はなぜ?」
「博広社さんに行きたかったんでしょう」
 これを聞いて、さすがの翔も愕然とする。
「そうですか。でも、そんなことしてまでも博広社さんに行きたいもんですかねえ」
「価値観の問題ね。彼、上方志向が強いのよ」
「上方志向ですか…。でも、だからって、僕が下方志向があるってことじゃないですよ」
「誰もそんなこと言ってないわよ」
「そうですか。なんかそういう目で見たから」
「見てないから。大事な話なんだから冗談目かさないで」
「すみません」
「人によって考え方は違うものよ。でも、話には続きがあるのよ」
「続きって、何ですか?」
「もう一人いるの」
「ええー」
 これには翔も本当に驚いた。
「驚いたみたいね」
「ええ。ひょっとして、それは僕ですか?」
 怒るかと思ったら、憐れみの表情になった。
「こんな時に、そんなくだらないことを言える気持ちの強さに感心するわよ
「気持ちが強いかどうかはわかんないんですけど。しかしまたあり得ないことが起きましたねえ」
「いや。私は最初からそういう可能性も考えていたけどね」
「さすがは会社一切れ者の部長」
 ちゃちゃを入れる翔の悪い癖が出た。
「いちいち余計なことは言わないの」
「は~い。で、それは誰なんですか?」
「畑中君よ」
「ええー、畑中君?」
「そう。最初に博広社さんから大野君に対して引き抜きの誘いがあったわけ。ただし、お土産が必要と言われたらしいの。彼としては何をお土産にすべきか考えていたところ、博広社さん側から今回のプロジェクトの情報の提供を匂わせられたらしいの。恐らく、博広社さん側は大野君がプロジェクトのメンバーだということを事前に知っていたのね。ただし、大野君は自分だけが動くのはリスクがあるから、自分の手足として使える人物として畑中君を誘ったのよ。その代わり、畑中君も博広社さんに移れるようにしたというわけ」
「怖いですねえ。けど、大野君もなかなかやりますね」
「感心してどうするの」
「そんな悪知恵、僕には働きませんから」
「そこは、平野君のいいところね」
「まあ、そうなんですけど、それで、結局どうなったのですか?」
「昨日二人と会って終わらせた」
「どういう風にですか?」
「個人情報も関係してくるし、二人の今後のこともあるから詳しくは言えないけど、昨日付けで二人とも解雇したわ」
「部長が印籠を渡したんですね」
「印籠じゃなくて引導ね。肝心なところで間違うわね、平野君。印籠だと水戸黄門になっちゃうじゃない」
「ああ、そうですよねえ。そう言えば、うちのじいちゃんが水戸黄門好きだったなあ」
 翔は素直な感想を話したつもりだったが。
「あのさあ、平野君って確か稲山大卒だったわよねえ」
 稲山大学は私立の一流大学だった。
「そうですけど」
「まさかの裏口入学?」
 真衣がそんな冗談を言うとは思わなかった。
「爆問の太田じゃあるまいし」
「バケモノ?」
「もうー。バケモノじゃなくて、爆問、爆笑問題ですよ」
「爆笑問題って何?」
「爆笑問題も知らないんですか。部長の世間知らず」
「それは当たっているかも…」
「反省しちゃったよ。でも、部長が世間のくだらないことまで知ったら、今よりもっと素敵になると思いますよ」
「それは本当にそうね…」
 えっ、認めちゃうの。
 いや~ん、可愛い。
「そういう素直な部長も素敵です。ところで、二人の件は、博広社さんには?」
「もちろん、伝えたわよ」
「ということは大野君たちはもう博広社さんにも行けなくなる?」
「まあ、当然そうでしょうね」
「ふ~ん。複雑な心境」
「彼らのことはもういいの。それより平野君、残ったメンバーでプロジェクト頑張ってね。何かあれば、私も力になるから」
「わかりました」
 真衣もすべてを話し終えてほっとした顔をしている。
 その後しばらくは雑談をしていたが、時計を見ると午後10時を過ぎていた。
「平野君、この後時間ある?」
「あります」
「じゃあ、もう1軒付き合ってくれる?」
 珍しく真衣のほうから誘われた。いろいろあったから飲みたい気分なのだろう。
「もちろんです。1軒と言わず、2軒でも3軒でも、なんなら、そのまま部長の部屋までお付き合いします」
「何で一言多いのかしらね。まあ、そこが平野君らしいと言えば言えるんだけどね」
「僕の長所です」
「長所? はいはいはい。じゃあ、行くわよ」
 思い切り呆れられてしまった。
 真衣が選んだのは駅近くの高層ビルの45階にある夜景の見えるバーラウンジだった。カップルと思われたのか、窓に対して横並びに座る席だった。真衣がその席を断るかと思ったが、すんなりと受け入れたのには驚いた。
「ここって、カップルシートじゃないですか?」
「そうね。まあ、いいんじゃない」
「僕は最高ですけどね」
「勘違いしないでね。ちょっとゆっくりしたいだけだから」
「わかってますって。部長が何もしゃべりたくなければ、僕も黙って夜景を見てますから」
「気が利くわね。じゃあ、10分だけそうしてくれる」
「わかりました」
 言葉通り10分間は黙って夜景に見入っていた。二人とも前を向いているため真衣の顔を見ることはできないけれど、すぐ横に真衣を感じることができるだけで幸せだった。
 そろそろ10分経つのではないかと思ったその時、右頬に冷たいものが触れた感覚があった。振り向くと、真衣の唇が自分の頬から離れるところだった。
「約束は守ったわよ」
 そういうことだったのか。このために、このシチュエーションを選んだのだ。本当は唇にしてほしかったけど、それを望むのは贅沢というもの。
「嬉しいです」
「そう。それは良かった。でも、そのためにここに来たわけじゃないからね」
 どうやら自分の勘違いだったようだ。真衣がここに翔を連れてきた理由は他にあるという。
「そうなんですか」
「今回の件はさすがに私も堪えているの。何かいろいろ考えちゃってね」
 部長ではあるけど、自分と2歳しか違わない。いや、若くして部長になったが故の苦労とか心の負担は大きいのだろう。
「大丈夫ですか、部長」
「うん」
 うん?
 真衣からこれまで、うん、なんて言われたことがない。
 もしかして、俺に甘えてる?
 なんかかわいい。
「何なら僕の右肩貸しますから、頭を預けてもらっても構いませんけど」
「断る」
 一刀両断。けんもほろろだった。
「はっきり言われちゃったなあ。でも、部長、大変ですよね。あの彼氏とも不倫ですし」
「何で不倫って知ってるのよ」
 真衣がきつい顔で睨んだ。
「とっくの昔に渚から聞きましたよ。あの方が結婚しているってことは。」
「ああ…」
 渚の名前を出されては、真衣も反論できない。
「でも、あの部屋は部長が言うように、あの方が個人事務所として使っているみたいですね」
「私のプライベートのこと、勝手にいろいろ調べるの、やめてくれない」
「すみません。でも、部長のことが心配で」
「心配って言えばいいと思わないでね」
 さすがは鋭い。
 心配という言葉を使えば許されると思ったのだ。
「ありゃ、バレちゃいました?」
「バレるに決まってるでしょう」
「すみません。でも、いろいろあるんじゃないですか?」
「そりゃあ、いろいろあるわよ」
 この時ばかりは真衣も心の底から言葉を発した。
 その重みに、翔も本気で心配した。
「大丈夫ですか? 苦しんでいませんか?」
「心配ありがとうね。でも、その件は平野君にはわかり得ないだろうから」
「そうなんですけど。やっぱり部長のことが心配で」
「また、心配って言ったわね」
 半ば呆れ顔で言う。
「でも、今度は本気です」
「わかってるわよ。平野君が優しいことは前から分かっているから。でも、その優しさは彼女に使ってあげて」
 そう言われてしまうと、真衣に気持ちを向けられない。
「そうですね…」
「でも、今日平野君に付き合ってもらって良かった。あなたって、人の気持ちを明るくしてくれるわよね。ありがとう。楽しかった」
 『あなた』って呼ばれた。
 その響きが翔の耳にはものすごく心地よかった。
 なんだか真衣の彼氏になったみたいで。
「今、僕のこと、あなたって言いましたよね」
 前にも言われたかもしれないのだけど、翔には覚えがない。
「ん? あっ、言ったかもしれない」
 真衣も今気づいたみたいだ。
「確かに言いましたよ。お願いですから、もう一度言ってくれませんか?」
「ごめんなさい」
 あっさり断られた。
「そうですか…」
 わざとテンションの低い声を出してみた。しかし、真衣は何も感じなかったようだ。
「約束も果たしたし、じゃあ、帰るよ」
「ええー、もう帰っちゃうんですか。せっかくこんな雰囲気のいいところで、しかもカップルシートに座ったっていうのに」
「何を期待しているわけ。これ以上は何もないわよ。はい、坊や。おうちへ帰りますよ」
「僕今年で27になるんですけど」
 もっと真衣とこのシチュエーションを楽しみたい一心で座ったままでいる。
「歳は関係ないわよ」
「確かに、うちのじいちゃんも認知症になったらすっかり子供みたいになっちゃいましたけど」
「それは病気のせいでしょう」
「そうですけど…」
「くだらないことグダグダ言ってると置いてくわよ」
 諦めきれない翔は、すでに立ち上がっている真衣に向かって手を出す。自分の手を持って引っ張ってほしいから。翔の意図を感じたのか、真衣が右手を出したので、てっきり握ってくれるのかと思ったら翔の手をはじいた。
「その手には乗らないわよ。ゲームセットだって言ってるでしょう。じゃあ、お先に」
 そう言って、さっさとレジに向かってしまった。
 完敗の巻だ。
 仕事でもプライベートでも真衣は翔のはるか上にいる。


 厳しい顔をした真衣が部屋に入ってきた。
 翔以外の人間はその理由を知らないので部屋中に緊張が走った。
「みなさん、今日は私から大事なお話があります」
 みんなが真衣の顔を見つめる。
「ここ数日、大野君と畑中君が出社していないのは知っているわよね」
 みんな黙って頷く。
「実は二人がこのプロジェクトのマル秘情報を博広社さんに流していました」
「ええー」
 誰よりも大きな声をあげたのは紗英だった。大野に片思いをしていた紗英にとってはいろんな意味でショックだったのだろう。他のメンバーは驚きのあまり声も出ない。ただ目を丸くして真衣を見つめている。
「驚くのも無理はないわよね。でも、事実なの。本人たちもすでに認めています。それに確かな証拠もあります。どうして判明したかについては、本人たちの今後のこともあるから伏せておきます。今回の件は博広社さん側から仕掛けたことだったわけですが、なぜ博広社さんがそこまでしようとしたかというと、これまで博広社さんは東航商事さんとの取引をさまざまな方法で画策していたにも関わらずうまくいかなかったということが背景にあったようです。そこで、今回は何としてもプレゼンに勝って東航商事さんに食い込みたかったようです」
「それで、結局どうなったのですか?」
 谷口がみんなを代表するように真衣に訊いた。
「二人には退社してもらいました。そして、博広社さんに対しては東航商事の専務さんのほうからすべてを話してもらい、今回のプレゼンから下りてもらったと報告がありました。近いうちに博広社さんから当社にも直接謝罪があるようです」
「わかりました」
「私からの連絡は以上です。プロジェクトが最終段階に入ったこのタイミングでこんなことが起きてしまい、責任者としてみなさんにお詫びします。本当にごめんなさい」
 誰もが真衣の責任だとは思っていない。だから、みんな顔を横に振っている。
「今、みなさんは複雑な気持ちになっていると思います。でも、ライバルがいようとなかろうと、私は今ここにいるメンバーで最高の提案書ができると信じています。どうか頑張ってください」
 そう言って真衣は深く頭を下げた。
「みなさん、お願いね」
「はい」
 期せずしてみんなの声が一つになった。
「じゃあ、私は戻ります」
 真衣が部屋を出て行く姿をみんなで見送った。
 残されたメンバーは、しばらくは無言だった。こんな時、リーダーである自分が何か言わねばと思うのだが、言葉が出てこない。すると、紗英がすくっと立ち上がって、こっちを見た。
「リーダー、今部長がおっしゃったように、今こそみんなで力をあわせて東航商事さんに絶賛をいただけるような提案書を作りませんか。私、死ぬ気で頑張りますから」
 紗英の目から涙がこぼれているのが見えてしまった。翔が紗英に応えようと思ったら、今度は丸山が立ちあがった。
「リーダー」
 普段は明るく、いつも冗談を言っている丸山の目もすでに赤く充血していた。その上、右手に握りこぶしまで作っている。一瞬、翔は自分が殴られるのかと思ってしまった。
「頑張りましょう。私たちが全力でサポートして、リーダーを男にします」
 って、今でも十分男なんだけどね。
「そうだね。ありがとう」
「リーダー、みんな同じ思いです」
 紗英も立ち上がって叫んだ。それを見て残りの全員も立ち上がった。
 自分だけ座っているのもへんなのでやむを得ず翔も立ち上がる。桃香を見ると、すでに大粒の涙を流していた。
 参ったなあ。
 全員泣いているし…
 板倉美紀が翔のところに近づいてきて無言で握手を求めた。
 それはプレゼンが成功してからにしてほしいと思いながらも応えてしまった。
「みんな…、ありがとう」
 泣くつもりなどさらさらなかったが、なぜか翔の目にも涙が流れた。
 まずい。
 これじゃあ、まるで、青春感動ドラマだ。
 こんなの、俺苦手なんだけどなあ。
 東航商事への最終プレゼンには、当初部長の真衣と翔の二人で行く予定だったが、真衣に話して真衣を除いた全メンバーで行くことにしてもらった。
 東航商事のほうは、担当者の渚と課長の眉村はもちろん、真衣の不倫相手である部長の大竹純次と専務の井坂幸次郎まで出席していた。メンバー一人一人の思いのこもったプレゼンは、紗英が望んでいた通り大絶賛を受けた。
 会社に戻り、部長室で真衣に報告した後、メンバー全員で円陣を組み、肩を組んで、また泣いてしまった。
 だからさあ、
 俺、こういうの苦手なんだって。


 二度目の新川邸は相も変わらずデカかった。
「翔ちゃん、もう大丈夫でしょう」
「ん? 何が?」
「パパとママに会うことよ」
「大丈夫と言えば大丈夫だけど、ダメと言えばダメ」
「どっちなんだよ」
「自分でもわかんない。だけど、なんとかなるんじゃない。だって、人間だもの」
「なんじゃ、そりゃあ」
「知らない? 相田みつおっていう人が言ったんだ」
「誰、それ?」
「確か、詩人じゃなかったかな」
「死人?」
「死人じゃなくて詩人。ポエムのほう」
「ふ~ん。でも、その台詞いいね。なんにでも使えそう」
 まずい。
 迂闊なことを教えてしまった。
「台詞じゃないんだけどね」
「なんでもいいよ。いちいち理屈ぽいんだよ、翔ちゃんって」
「そんなに怒らなくてもいいんじゃない」
「怒りたい時は怒ってもいいじゃない。だって、人間だもの」
 ほら気にいっちゃったよ。
「もう勘弁してよ」
「そんなこと言ってたら、ほら着いたよ」
「うん」
 急に気分が悪くなった。
 前回同様、お手伝いさんに迎えられ、父親の待つリビングに向かう。
 今日の父親はなぜか機嫌がいい。それがかえって不気味だ。
「待ってたよ。平田君だっけ?」
 歓迎している割に名前を間違っているって、どういうこと。
「平野です」
 つい口調がきつくなった。
「あっ、そうだったか。でもまあ、そう怒りなさんな」
「別に怒ってはいませんけど」
「その言い方が怒ってる」
 なんか面倒くさい。
「パパったら、いいじゃないの。翔ちゃんにも感情があるのよ。だって、人間だもの」
 父親相手にも使い出した。
「おっ、相田みつおを知ってるのか。さすがわが娘。桃香には教養があるな」
「でしょう」
 いやいやいや。
 ついさっき俺から聞いたばかりなのに。
「それはともかく、今日は平野君とざっくばらんに話し合おうと思ってな」
「はあ。で、どんなことですか?」
 今日は悪い話ではないと桃香は言っていたけれど、いったい何を話し合おうと言うのだろう。
「聞きたいか?}
「ええ。そのために来ましたから」
「それもそうだな。じゃあ言うぞ。実は桃香から聞いたんだけど、君、桃香を泣かせたんだって?」
「はい?」
 ヤバイ。
 話が違う。
 いったい何を言われるんだろう。
 頭の中を巡らせてみる。
 桃香が買ってきた大福を勝手に食べちゃった件?
 桃香の顔の前にお尻を向けてオナラをしちゃった件?
 桃香がお風呂に入っている時、ドアを開けちゃった件?
 仕事と嘘を言って、同僚とキャバクラに行ってたのが桃香にバレた件?
 それとも…
「はい?って、プロジェクトのリーダーとして成功したっていう件だよ」
 予想とまったく違うことを言われた。
「ああ、そっちのほうですか」
「そっちのほうって何だ。桃香は泣いて喜んでたんだぞ。あの出来の悪い翔ちゃんが大活躍したって」
 出来の悪い?
 桃香がそんなこと言ったの?
 反論したかったけど、ここで反論すると面倒くさいことになりそうだったので我慢する。
「まあ、そうなんですけど、たいしたことはないです」
「それはそうだろうけど」
 自分としては謙遜したつもりなんだけどなあ。
「パパ、パパ、私言ったでしょう。翔ちゃんはやればできる子なんだって」
 さすが愛する桃香。すかさずサポートしてくれた。子っていうのは勘弁だけど。
「う~ん。見込みだけはあるようだな。で、今日君に来てもらったのは、その見込みを見込んで、君をわが社が新しく作る新会社にスカウトすることを伝えるためだ」
 見込みを見込み?
 新しく作る新会社?
「ちょっと意味がわかんないんですけど…」
「サンドイッチマンか」
 二人のやりとりを聞いていた桃香が口を挟む。
「言うてもパパ外人だから、たまに日本語おかしくなることがあるのよね」
「だいぶへんですけど」
「君にだけは言われたくないわ」
「すみません。でも、僕、別に今の会社辞めたいとは思ってないんだすけど」
「だすけど?」
 自分までおかしくなった。
「ですけど、です」
「あっそう。でも、君の思いはともかく、辞めてうちに移ってもらう必要があるんだよ。いずれ君には婿に入ってもらうことになるんだから」
「婿? 僕が?」
 思わず自分で自分を指した。
「さっきからずっと君の話しかしていないつもりだけど」
「そうですよね。でも、婿に入るなんて大事なこと、勝手に決めないでほしいんですけど」
「ん? 勝手には決めてないぞ。君のご両親の了解はとっているからな」
「うちの両親の?」
「他人の両親の了解をとってどうするんだ」
 ああいえばこういう、へんな外人だ。
「それはそうですけど、うちの両親から何も聞いてないので」
「あっ、そう。ちなみに、君のご両親はうちには長男がいるから大丈夫ですって言ってたぞ」
「何ですか、それ。て言うことは、次男の僕は平野家から見放されたということでしょう。ひでえ」
「家にとらわれなくていいと言ってくれてるんだから、喜べば」
「そういう問題じゃないですけど…」
「聞いたところによると、君のお父さんケーキ屋さんをやってるそうじゃないか」
「そうですけど…」
「で、お父さんがわが社関係しているショッピングセンター内に2号店を出したいって言うから、いいですよって答えておいたから」
 ええー。ますますひどいことになってる。
「オヤジ、俺を売りやがったな」
「何でも悪いほうにとらないほうがいいと思うよ」
「って、悪いほうにしかとれないですよ」
「それはともかく」
 それはともかく?
「そういうことで、君はこの話を断ることなどできないのだよ」
 どうやら、自分を除く周りの人間すべてで話が完結しているみたいだ。
 この令和のご時世に、こんな暴挙があっていいのだろうか。
 警察に訴えてやる。
「翔ちゃん、その代わり給料を2倍にしてってパパに頼んでおいたから」
 ん?
 給料2倍は魅力的だ。
 心が一瞬にして動く。
「ふ~ん。でも、その話、ほんとうですか」
「こうみえて、ワシは丸竹物産の社長さんなんよ。武士に二言はない」
 武士?
 ダースベーダーみたいな顔してるっていうのに。
 と、そこへ颯爽と母親が表われた。
「お邪魔しマンモス」
 母親の登場でさらにややこしいことになりそうだ。
「ママ、どうしたの?」
 さっきまで勢いのすごかった父親が急に大人しくなっている。
 どうやら母親のことは呼んでないのに来ちゃったみたいだ。
「あそこの翔ちゃんに会うためよ。なんちって」
 なんちっち、なんて言葉も、この母親が使うと何の違和感も感じられないのがすごい。
「翔ちゃんたら、何顔を赤くしてるのよ」
 すかさず桃香がツッコム。
「だってさあ…」
「相も変わらず冗談が過ぎるな、ママは」
「うふふ。ところで何で二人が来てるの?」
「平野君に今度わが社が作る新会社に来てもらおうと思って」
「あら、そうなの」
 まったく興味はなさそうだ。
「ママったら、今韓国ドラマしか興味ないのよね」
 母親のことをよく知っている桃香が言う。
「あっ、そうなんだ。今流行りのタコゲームとか?」
 翔が噂で聞いたことのある韓国ドラマの名を言ってみた。
「イカゲームだっちゅうの。ただ、そのせいで、あまりに忙しくて夜しか眠れないのよ」
 母親が綺麗な顔をほころばせながら言った。
「夜眠れれば十分だと思うけど。で、ママ、どう思う?」
 桃香が半分呆れ顔で言う。
「桃香さんが良ければよろしいんじゃなくて」
「ていうか、私がパパに頼んだの」
「ふ~ん、そうなの。じゃあ、平野君、頑張ってね」
 そう言って、男の人生を狂わすような熱いウインクを翔に向かってした。どういう意味のウィンクかわからないけど、一応ウィンクを返しておく。
 その後も母親は桃香の目を盗んで、翔に投げキッスをしてきたり、手をひらひらと振ったり、アカンベーをしてみたり、わざわざ足を組み直したり…。
 自分で遊ぶのはやめてほしい。
 さんざん遊んだ後、ミニスカートを翻してさっさと部屋を出て行った。
 嵐が過ぎ去ったリビングには急な静寂が訪れた。
「ところで、新会社はどんな事業をやる会社なんですか?」 
 もう移ることは決まってしまっていたので、大事なことを訊いておきたかった。
「それは君がリーダーとなるプロジェクトで決めるんだよ」
「えっ、またプロジェクトを作るんですか」 
 やっと終わったと思ったのに。
「だから、そのために君に来てもらうことにしたんじゃないか」
「そういうことだったんですね。わかりました。でも、何かヒントになることを教えてくれませんか」
「う~ん。じゃあ、一つだけ伝えておくことにしよう。若い女性をターゲットにした事業を考えてほしい。君の得意分野だろう」
「まあ、そうですね」
「パパもそうよね」
 桃香がナイスなツッコミを入れた。
「いや~ん、バレちゃった」
 父親が明石家さんまのマネをした。
「バレバや言うて」
 急に関西弁を使った桃香が史上最高に可愛かった。
「ともかく、そういうことだから。後は君に任せるから頑張って」
「わかりました」


「翔ちゃん、進行状況はどうなの?」
 桃香の父親が立ち上げた新会社に移って3週間が経つ。
「順調にいってるよ事務所も決まったし」
「えっ、どこ?」
「表参道ヒルズの中」
「ええー、なんでそんないいところに入るのよ。うちの会社は巣鴨だっていうのに。街に出るとジジイとババアでいっぱいなの知ってるでしょう」
「相変らず口悪いなあ。相変らず顔は綺麗なのに」
「そういう翔ちゃんも、イケメンよ」
「ありがとう」
 なんだろう、このおかしな会話。
 でも、ひょっとして俺たち仲がいいのかも。
「で、今何人でやってるんだっけ?」
「8人」
「ふ~ん。その中に女の子は何人いるの?」
 桃香が何を気にしているかがわかった。
「3人だけど…。何か?」
「別に」
 顔は半分怒っている。
 怒られる謂れはないのだけど。
「あのさあ、言っておくけど、心配することはないから」
「私は何も言ってないじゃない。そういうことをわざわざ言うところが逆に怪しいのよ」
 どうやら桃香の罠にはまってしまったらしい。
「だけど、疑われても嫌だからね」
「まあ、パパから今のところ翔が間違いを犯す兆候はないって聞いてるからいいんだけどね」
「聞いているんかい」
「いいね。そのツッコミ」
「ツッコミを褒められてもね。でも、聞いてるなら訊かないでよね」
「聞いてるなら訊かないでよって、何?」
「そこを掘り下げるとややこしくなるから止めて。で、何でお父さんに俺のこと聞いてるのよ?」
「だって、翔のことだから、こそこそやってるかもしれないでしょう」
「信用ないなあ。ところで、新しい部長はどうなの」
 翔が辞めた一週間後に突然真衣が辞めたらしい。そのため、急遽広告部から新しい部長がやってきたという。
「ああ、あのおっさんというか、おじさんね」
「おじさん?」
 おじさんなんだ。
「うん」
「そういえば、おじさんって魚がいるの、知ってる?」
「何じゃ、それ。どこぞの会社のコマーシャルやないかい」
「知ってた?」
「知ってるわい」
「あっそう。で、どうなの?」
「もう、最低、最悪、愚の骨頂」
「おおー、並べたね。でも、最後の愚の骨頂はへん」
 なんか使い方が間違ってることだけは翔もわかる。
 だが、桃香はそんなことにはおかまいなしだ。
「チビ、デブ、ハゲの三重奏。もひとつおまけにお口が臭い」
「ハハハハハハハハハハハハハハハ」
「どんだけ笑うねん。でも、ほんとに笑いごとじゃないんだから、まったく。しかも、私のこと馴れ馴れしく桃香ちゃんとか呼ぶのよ」
「かわいい部下だと思ってるんじゃないの」
「やめてよね、そういうこと言うの」
 なんで自分が怒られなくちゃならないのだ。
 多少は自覚しているけど。
 まあ、前任者の真衣が素晴らしかっただけに、みんなギャップにがっかりしているのだろう。
「ごめんよ。で、みんなはどう対処しているの?」
「無視、冷やかし、からかい、悪口。この間なんかさあ、そのおっちゃんが紗英ちゃんの席の横を通ろうとした時、紗英ちゃんたら足を出してやんの」
「ひどいなあ。で、どうした?」
「当然、おっさんはズッコケましたとさ」
「昔話か。でも、それって、もはや、いじめじゃね」
 ある意味、その部長も気の毒だ。
「いじめ? あのねえ翔ちゃん。いじめって言うのは、受けている人がそう思っている場合でしょう。でも、おっちゃんは何も感じてないから」
 そうとも言い切れない気もするけれど、余計なことを言うと桃香に逆ギレされそうで言えない。
「そうなの…。まあ、俺はそこにいないからいいけどね」
「あっ、そういうこと言っちゃうんだ。自分の大切な彼女が苦しんでいるっていうのに」
「苦しんでいるようには見えないけど。だって、さっきからずっと楽しそうな顔で話してるし」
 どうせ桃香の話も十倍くらい盛っているに違いないのだ。
「バレた?」
「とっくにね。それより、桃香はまだあの会社にいるつもり」
 桃香だったらいつでも辞めることはできるだろうに。
「別に辞めなけりゃいけない理由がないじゃない。今の仕事好きだし、それに誰かさんと違って悪いこともしてないし」
「俺、悪いことなんてしてないけど」
 思わず反応してしまった。
 すぐに大野たちのことと気づいた。
「私、翔ちゃんのことなんて言ってないよ。もしかして、なんか隠してる?」
「ないないないないないないないない」
「何回言うねん。まあ、いいわ。私が辞める時は寿退社って決めてるの。わかってる?」
 ひょっとして俺に早く決めろっていうこと?
「あんだって?」
「とぼけるな」
「ごめん。でも、こう見えてちゃんと考えてるから」
「ほんとかなあ」
「ほんとだよ。しかし、話は変わるけど、川口部長、何で辞めたんだろうね。しかも、突然」
 形勢が悪くなったので話題を変えた。
 でも、実際のところ翔はずっとそのことが気になっていた。たとえ、不倫相手と何かあったとしてもそんなことで真衣が会社を辞めるとも思わないし…。
「そんなの私に訊いたって知らないわよ」
「桃香、川口部長のことになると冷たいよね」
「目の下の隈だからね」
「それを言うなら目の上のたんこぶじゃね」
「目の上にたんこぶなんかできたら気持ち悪くない?」
「そういう問題じゃないけどね」
「あっ、そう。あの人結婚でもしたんじゃないの」
「それはない」
 思わず、願望からきっぱりと言ってしまった。
「何で翔ちゃんがそんなこと断言できるのよ。おかしくない」
 ヤバイ。
 墓穴を掘った。
「そんな気がしただけだよ」
「ふ~ん。気がしただけなのに断言しちゃうわけ。さっきからずっとへんだよ、翔ちゃん。でも、まじめな話、会社の方針とか戦略について社長と考え方が合わなくなったから辞めたっていう噂だよ」
「そう…」 
 それならあり得た。もしそうだとしたら、今彼女は何をしているのか。
「そう言えばさあ、パパから聞いたんだけど、新しい会社の部長と社長はパパがどこかからスカウトしたんだって?」
「そうらしいんだよね。まだ会ってないけど。俺は、てっきり自分を社長にしてくれるものだと思ってたんだけどさあ」
「それはない」
 仕返しをされた。
「何でよ」
「まだまだひよっこだから。いいところはいっぱいあるから、いずれは社長にと思ってるって、パパが言ってた」
「後半は嬉しいけど、前半がね」
「いいじゃないの。かわいい婿だと思ってくれてる証拠なんだから」
「だからさあ、その婿って話、勘弁してよ」
「何言ってるの、その話はもう決まったことだって言ったでしょう、パパが」
「そうだけど、俺としてはまだ覚悟ができてないのよ」
「あのねえ、この間、私占い師にみてもらったのね。そうしたら、あなたは婿養子をもらうのが一番だって言われたよ」
 無責任なことを言う占い師だ。
「いったいどこの占い師だ。そんなことを言うのは」
 占い師に文句を言っても始まらないが、翔は言いたいのだ。
「原宿の有名な占い師の夕影美千代先生だよ」
 具体的な名前を言われ、なんだか妙に納得してしまった。
「あっ、そう」
 間抜けな答えで終わった。


「みなさんの努力のおかげですべての準備が整いました。ありがとう」
 今日は桃香の父親から新会社の部長と社長の発表、紹介があることになっている。つまり、翔の上司に当たる人間だ。期待と不安が入り混じっている。
「それでは早速みなさんの上司になる部長と社長を紹介しますね」
 果たして、どんな人物なのだろう。
「まず、部長ですが、この方は27歳という若さです」
 自分と同じ歳だ。ということは、相当のやり手なのだろう。
「しかも、女性です」
 ええー、女。
 またしても女性の上司に仕えることになるのかよ。
 きっと生意気な女に違いない。
 みんなの顔にも驚きと戸惑いのようなものが見える。
「平野君。顔色が悪いけど、大丈夫か?」
 父親がこちらを見て言った。
「あっ、はい。気のせいです」
「それならいいが。では呼んで来るから待っているように」
 そう言って桃香の父親がいったん奥の部屋へ消えた。
「どんな人ですかね。どうせなら美人がいいですよね」
 隣にいる中村健がにやけた顔で言う。こいつも自分と同じ匂いがすると前から思っていた。
「どうせならね」
 と、そこへ桃香の父親が新任の部長を伴って現れた。
 確かに綺麗な人だった。しかも、理知的な顔だ。上司だとしても惹かれてしまいそうな女性であることは間違いなかった。
 ただし、その女性が知り合いでなければの話だ。
 そう。自分の上司になる部長というのは、なんと松村渚だったのだ。
 新しい会社に移ってからずっと忙しく、渚とは連絡もとっていなかったので、渚がその後どんな生活を送っていたかは知らなかった。
 もっとも、連絡をとっていたとしてもこのことは言わなかっただろうけど。
「良かったですね、美人で」
 中村に耳打ちされたが応える気にすらなれない。
「よっ、部下」
 渚が満面の笑顔で言い放った。
「勘弁してよ」
「ん? 君たち知り合いか?」
 桃香の父親が翔に向かって訊いてきた。
「小学校時代の同級生です」
「ええー」
 翔の周りにいたメンバー全員が声を合わせた。
「それはおもしろい」
 桃香の父親は驚きつつも、おもしろがっている。
 質が悪い。
 しかし、まさか、渚の下で働くことになろうとは、想像もしていなかった。
「おもしろくなんかないです」
 そう抗議したが、桃香の父親の心配は翔にではなく渚のほうにあったようだ。
「松村君、彼が部下でやりにくいことはないかい」
 そっちかい。
「ああ。それは大丈夫です。当時から彼は私の部下みたいなものでしたから」
 ふざけんなよと言いたかったが、当たっていたので言葉を飲み込んだ。
 なにせ、当時、渚は女帝で、自分は部下も同然だったのだから。
「小学生の時から?」
 桃香の父親がが興味津々の顔をしている。
「はい、そうです」
「これまたおもしろい。なあ、みんな」
 桃香の父親は周りにいるみんなを見渡して言った。
「だから、おもしろくなんかないです」
 翔が真剣に抗議する。
「まあ、そんな怖い顔をするな。ということで、次に新会社の社長をみんなに紹介しよう」
 翔の気持ちは軽く置いてけぼりにされてしまった。
 うちに帰ったら桃香に抗議しよう。
「今度はどんな人ですかね」
 中村が再び小声で話しかけてきた。
「うるさい」
 ムッとして、思わず大きな声が出た。
「うるさい?」
 桃香の父親にぎょろっと睨まれた。
「あっ、こっちの話です」
「今大事なことを話しているんだからちゃんと聞くように」
 しかし、この人、見た目はどう見ても外人なのに、声だけ聴いていると日本人なんだよな。ひょっとして日本人が外人の着ぐるみを着ているんじゃなかろうか、なんて思ったらおかしくなつた。
「ヘラヘラするんじゃない」
 まさかの上司の渚に怒られた。
「すみません」
「はい。じゃあ続けるよ。その社長なんだが、実はここにいる松村君を推薦というかスカウトしてくれたのがその人なんだ。そして、その人を私があるところからスカウトしたってわけなんだよ」
「ほうー」
 ここでもみんなが驚きの声をあげる。
「その人も、実は女性なんだ」
「ほおー」
 再び驚きの声が広がる。
「しかも、年は29歳という若さ」
「へえー」
 今度はへえーという声に変わった。
 でも、翔の中では嫌な予感がし始めていた。
「すっごく綺麗な人だぞ」
 ああ、ヤバイ。
 ますます、へんな可能性が出てきた。
「顔面世界遺産なんだから」
 翔がかつてある女性に言った言葉だ。
「ひえー」
 みんなの声が悲鳴に変わったところで、桃香の父親が奥の部屋に向かって言った。
「川口さん、どうぞこちらへ」
 現れたのは、もちろん川口真衣だ。
「ごきげんよう、平野君」
「えっ、川口さんも彼の知り合い?」
「ええ、私が前にいた会社の部下です」
 桃香の父親は何も知らずに、偶然この二人をスカウトしたらしい。
 こんなことってあるのだろうか。
「いいね、いいね。なんか楽しくなってきたじゃないか。きっといい仕事ができるんじゃないか」
「私もそう思います」
 真衣も笑顔だ。
「良かった。では次にみなさんと一緒に仕事をしていただく仲間を一人紹介します。彼女は社長補佐として働いてもらいます」
 彼女はって言うことは、また女性だ。
 ええー、誰?
 みんなが無言で頷くのを確認して桃香の父親が言った。
「その女性は実は私の娘で新川桃香と言います」
「ええー」
 この日一番驚いた。
 だが、驚きの声をあげたのは翔だけではなく真衣もだ。
 どうやら真衣も知らなかったようだ。
「まだ本人は他の会社で働いていますが、来週には合流します」
 なんてことだ。
 桃香と真衣と渚が揃ってしまった。
 これは喜ぶべきなのか?
 それとも?
 でも、驚きはさらに続いた。
「そして、最後に経理を担当する新人さんを紹介しましょう。この人は松村さんの推薦で入社していただくことに決めたのですが、ちょっと事情があるので最初にきちんと話しておきます」
 どういうこと?
 この上、さらにいわくのある人が入ってくるというのか?
「その人はLGBTの方で、見た目はどうみても女性なのですが、戸籍上の性別は男性です。しかし、多様性への対応が求められる今の世の中、新会社では積極的にそういう人たちも雇用していきたいと考えています」
 ちょっとおー
 最悪な予感しかしない。
「話が長くなりましたね。では、さっそく入ってもらいましょうか」
 入ってきたのは、渚のマンションで行われたホームパーティで出会った岡崎桜子 いや、渡辺益孝だった。翔の顔を見てウィンクをしている。
「うわぁー、すんげーかわいい」
 隣の中村が翔の脇腹を突っつきながら、軽く叫んだ。
「さっきからずっとうるさいんだよ」
「だってー。あんなの惚れてまうやろー」
 気持ちは十分わかる。
「みなさん、こんにちわ。私、岡崎桜子と言います。みなさん、よろしくお願いします」
 どうやら岡崎桜子で通すらしい。
 隣の中村はすでにやられてしまっていて、もはや声も出ない。
「きゃあ、かわいいー」
 翔の周りにいた女子たちまで叫ぶ。
 しかし、いったい自分はどんな感情でこの現実を受け入れたらいいのだろうか?
 ハーレムともいえるし、地獄ともいえる、この職場で自分はちゃんと仕事ができるのだろうか?
「おい、平野君、どうした。間抜けな顔しちゃって」
「なんか、あまりに想像を超えることばかりが起きて頭がついていきません。まるで夢の中の出来事のような気がしているんですけど…」


「翔ちゃん、起きて」
 桃香の声が頭のほうから聞こえる。
「う~ん」
 まだ少しぼおっとしている。
「目が覚めた?」
「ん? うん」
 ああ、やっぱり、アレは夢だったのだ。
「何か叫んでたけど」
「うん。なんかへんな夢見ちゃってさあ」
「ふ~ん。どんな夢?」
 そう言われたので、驚きの夢をすべて話して聞かせた。
「あのさあ、翔ちゃん」
 桃香の声が妙に冷たい。
「ん?」
「それ全部夢じゃなくて現実だから」
「ええー」
 夢ではなかったのか。
 あまりの愕然ぶりに、ベッドからずり落ちそうになる。
「昨日の夜、パパが真衣さんと渚さんと桜子ちゃんを連れてここに来てパーティをしたんだよ」
「そうだったけか」
 これは…、悲しむべきか喜ぶべきか?
 現実を受け入れるべきか受け入れないか?
 それが問題だ。
 って、まるでハムレットの心境?
 といっても、現実を受け入れるしかないのだけど…
 しかし、それにしてもまったく記憶が飛んでいる
「そうよ。それで、翔ちゃんたら、パパがいるうちは妙におとなしかったんだけど、パパが帰ったとたんに大暴れしちゃったんじゃない」
「えっ、大暴れ?」
 何をやらかしたんだろう。急に不安になる。
「覚えてないんだ」
 桃香の、非難するような顔を見て気分が悪くなる。もちろん、二日酔いのせいもあるんだろうけど。
「うん…」
「教えてあげようか」
 にやけた顔で言われて聞くのが怖くなる。
「できれば聞きたくない気もするんだけど…」
「聞かないで済むとでも思っているわけ」
 凄まれてしまい、聞かないわけにはいかなくなる。
「そうですよね。はい。お聞きします」
「最初から素直になれってーの」
「は~いだしょうこ」
「二日酔いだっていうのに、よくそんな新喜劇で使うようなこと言う元気があるね」
「空元気です。で?」
「翔ちゃんのしでかした悪事は、真衣さんの手を握ったり、渚さんにキスしたり、桜子ちゃんのスカートを捲ったりしたっていうことよ」
 桃香の目の前で?
 まさか?
 マズイ
「ウソー」
と、思わず叫ぶ自分。
「ウソだけどね」
 ウソなんか~い。
「ウソはやめてよ」
「ふふ。でも、今ひょっとしたら本当にやっちゃったかもって思ったでしょう」
 図星だ。自分ならやりかねないと思ってしまった。
「ちょっとだけどね」
「翔ちゃんべろべろだったからね」
「あっ、そう」
「さっきのはウソだけど、到底口には出せない、あんなことやこんなことをやらかした後、コテンって、あっという間に寝ちゃったんだよ。それも、グースかいびき掻きながら大の字になって」
 桃香の言ってることもどこまで本当かわからない。恐らく、桃香自身も相当酔っぱらっていたに違いないから。なので、ここは適当に返事をしておく。
「そうなんだ…」
「そうなんだって、他人事みたいに言うな」
「だって、覚えてないんだから、しょうがないじゃない」
「しょうがないじゃないっていうところだけ、えなりかずきのマネをするな」
「偶然そうなっただけだよ」
「あら、そうですか。でもさあ。昨日一緒に飲んで、すっかりみんなと仲良くなっちゃった、私」
「あれだけ好きじゃないって言ってた真衣さんとも?」
「うん。なんなら真衣さんが一番好きかも」
 これだから女の子はわからない。いや、桃香はわからない。
「それは良かった」
「それでね。真衣さんも渚さんも桜子ちゃんも、翔ちゃんのことが大好きだし、今後に期待大だって言ってたよ」
「それはホント?」
「うん、それはホントなんだけど、ただみんな相当酔ってたから覚えてるかどうかはわからないけど」
「でも、それを桃香は覚えていてくれたんだよね。すっごく嬉しい」
「だって、私、…」
 おい、どうした。
 突然桃香が感激しちゃったみたいだ。
 でも、そのあまりに可愛い姿を見て、思わず抱き寄せた。そして、今まさにキスをしようとお互い口を近づけた時、桃香が叫んだ。
「酒臭~い」
「って、お互い様なんだけど」
 思わずお互い身体を離し、大笑いをあげた。

 日本は平和だ…
 今のところ…
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