地面にあいた暗黒はトンネルとなり、世界をまるごと「ここ」に導いた

文字数 968文字

 道の真ん中に人が倒れ、微動だにせず、路肩でセダンが蒸気をあげハザードランプを点滅させていたら、人が轢き殺された現場だとおもうだろう。
 トンネルの向こうでは、そうではないのだ。
 人は何事もなかったように、その田園風景に立ち上がり、トラウザーズやジャケットから埃を払う。衣服にできた裂け目や穴に渋面してみせる。遠くに落ちたメガネが割れてしまっているのを見出し、どうするか迷うが、罅が入ったレンズでも役に立つかもしれないと、それを掛けてみる。
 情景がぼんやりして感じられるのは、メガネが毀れてしまったからだ。靄った空気には涼味があり、鼻腔や肌に気持ちよく、肺一杯に吸い込みたいという欲望を刺激し、彼(彼女)は欲望に忠実であれることに快楽を味わう。
 さて。そうなのだ。トンネルのこちら側である世界では、事情がまったく異なる。
 彼(彼女)は、これも遠くへ飛ばされてしまった片方の靴に目をやり、舌打ちし、あわてることなど一切なしに悠揚と、景色に目をあそばせながら、片靴でバランスわるく歩いていき、かがんで落ちた靴を上向かせ、足を入れる。
 そして背筋を伸ばし、広々した空を仰ぎ、流れる雲を目で追う。素敵な世界だ。と実感する。セダンを肩越しにふり返る。
 セダンは震えている。
 セダンを苦しめすぎてしまったかも知れない。彼(彼女)は、そう反省する。踵をかえしてセダンに向かって歩み出す。慈悲を示すことにもなるのだ、と彼(彼女)は自分の心に語りかける。
 セダンは自走できるだけの力をもちろん残していない。セダンにとって血であるはずのもの、そして涙と尿にかわる彼らクルマの情動関連物質で地面を濡らし、死を待つのみだ。
「人に当たってしまった」セダンは内臓されたコミュニケーション・ツールをもちい、ここにはいない家族や友人に最期の別れをしている。「助けに来てくれてももう間に合わないよ。今までありがとう」
 彼(彼女)が迫ってくる。親しい者たちと言葉を交わし諦念へと落ち着けたはずの心がまた、恐怖のピークへと攫われてしまいそうだ。
 セダンは祈る、「天にまします我らが――」
 彼(彼女)はセダンのバンパーを両掌に力強く把握すると、セダンを持ち上げ振り回し、円盤投げのように放擲した。
 遥か高みから遠方の地面に落下激突したセダンは炎を上げ、断末魔の叫びを響かせた――
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