サード

文字数 2,478文字

「七番サード、イサ」
 エイちゃんが言った。皆が一斉に俺を見た。
 ――ウソだろ。
 俺だってそう思った。 
 いままでサードなんて守ったことない。
「返事!」
 ハイとかオスとか俺は言った。
 たしかにきのうはセカンドでエラーしなかった。むずかしい打球も捕れた。そしてきょうはタカちゃんがいない。
 でも、俺がサードはまずいよ……。 

 小学生の頃、長い休みにはいつも隣の県の親戚の家に遊びに行った。二年生の時から電車とバスを乗り継いでひとりで。片道四時間。小学生の俺には大冒険だった。
 最後に乗るバスは[赤沢・片尾]行き。神蔵下のバス停で降りると、製材所の木の臭いが俺を出迎える。薬局の角をまがって万屋の坂を登りきると親戚の家だ。
 玄関を開けて、テルおばちゃんに「来たよー」と言って、俺はいつもそのままエイちゃん家におみやげを持って走っていく。
 山奥だけど近所には歳の近い連中がけっこういた。エイちゃんは一つ年上で、一番仲が良かった。
 夕方、俺たちは小学校のグラウンドに集まって野球をした。対戦カードは毎日同じ。上町vs下町。四年生以上は来ればだいたいスタメンだ。

 サードはむずかしい。うまいだけじゃだめだ。突っ込んでいく勇気とファーストにビシッと投げる強い肩が要る。
 いつかはやりたいと思ってた。
 でもまだ俺には無理だ。絶対エラーする。自分でわかる。
 それに、よそもんの俺がやっちゃまずいよ。コウちゃんだってユウだっているんだから。俺は目でエイちゃんに訴えた。
 気づいてくれ、エイちゃん。
「いいか、ヨシ。ピッチャーノーコンだから、よく見てけ」
 通じなかった。
 コウちゃんが俺のほうを見ていた。横目にわかった。にらんでるよ。
 コウちゃんは六年だし、ヘタじゃないから、やりたいんだよサードが。なんでわかんないんだよ。
「エイちゃん」
「ああ」
「おれ、サードは」
「なんだよ」
「やったことないし」
「やりたいって言ってただろ」
「でもさ……」
 コウちゃんがとは言えない。
「コウイチ、見てけよ!」
 エイちゃんは俺のサードどころじゃなかった。コウちゃんが打席に入っていた。
 一球、二球と見送った。ツーボール。
 カキン!
 レフト前ヒット。
「よっしゃあ」
 エイちゃんがバットを持った。
「イサ、お前まで回すからな。用意しとけよ」
「わ、わかった」
 エイちゃんはビュンとバットを素振りして打席に入った。
 初球をセンター前にはじき返して、ランナー二、三塁になった。先制のチャンスだ。ピッチャーびびってるぞー!とか、バッターかっ飛ばせー!とか、上町ベンチが盛り上がる。
 だが、後が続かなかった。
 一回の表〇点。
 下町がベンチに戻る。
 俺は小走りにサードに向かった。
 ピッチャーが投球練習を始める。ビシッ、ビシッとキャッチャーミットが音を立てる。これがサードの景色か――なんて見てる余裕はなかった。
「サード!」
 守備練習のゴロをファーストのユウが転がしてきた。地面のでこぼこでボールが変な跳ね方をする。なんとか押さえてファーストに返した。
「しまってくぞー!」
 キャッチャーのエイちゃんが声をかけた。
 オウ!と応える俺たち。
 バッチ来い!とか、打てねえぞお!とか、ヤジが飛ぶ。きのうまでは俺も声を張り上げていた。
 きょうはそれどころじゃない。心臓の音が聞こえるし、ひざが震えてる。
 来るなよぉ、来るなよぉ……。俺の祈り。
 カキン!
 音がした。えっ、どこだ?
「サード!」
 えっ、俺?
 見ると、ゆるいゴロが転がってきた。つかんでファーストに投げた。
 やばい!高すぎる。
 ユウが思いきり手を伸ばして取った。助かった。
「わりい!」俺は片手でユウを拝んだ。
「ドンマイ」
「ちゃんと投げろよ」ショートからコウちゃん。
「オス」
 その回、結局サードに来た球はそれだけだった。けど、カキンと音がするたびに俺は前のめりにダッシュしてよろけていた。
 一回の裏。下町の攻撃は三者凡退で終わった。
 二回の表。俺たちも三者凡退。
 二回の裏。下町の四番が打席に立った。すごい球を打つ六年生だ。
 初球から打ってきた。
 ギュンと唸りをあげてライナーのボールがサードベースの外側を飛んで行った。ファウル。
「外野バック!」
 エイちゃんが指示を飛ばす。
「もっと下がれ!センターはレフト寄り!」
 二球目、三球目はボール。
 四球目。
 ガキン!!
「サード!」
 低い打球が俺めがけて真っ直ぐに飛んで来ていた。
「突っ込め!」
 遅れた。ノーバウンドは無理だ。
 ワンバウンドの頭を捕る。
 俺は腰を落としてグローブを構えた。
 よし、捕れる――と思った瞬間、ボールが地面のくぼみに落ちた。マジか?!バウンドが変わった。
 ギャッと声をあげたかどうかは覚えていない。ボールが俺の股に入るのと空がまわるのがいっしょだった。
 俺は股間を押さえて地面にうずくまった。痛すぎて息ができない。悶絶だ。
「だいじょうぶか、イサ!」
「どこにあたった?」
 エイちゃんが俺の顔をのぞきこむ。
「キンタマか?」
 俺はかろうじてうなずいた。途端にエイちゃんが吹き出した。
「起こしてジャンプさせろ」
 誰かが笑いながら言った。
 こういうときはジャンプして玉を降ろす。そうしないと、大人になったときマズイことになる。そういうことを俺たちは受け継ぐ。
「起きられっか?」
 俺は力なく首を振った。
「しょうがねえな。コウイチ、こいつ起こすぞ」
 ふたりは両脇に頭を入れて俺を立たせた。
「ほら、跳ねろ」
 俺はふたりに支えられてちょこんちょこんとジャンプした。皆大笑いだ。
「降りたか」
「わかんねえ」
「もっと跳ねろ」
 しかたなく俺はジャンプを繰り返した。地面に足が着くたびに袋に激痛が走った。
「泣くんじゃねえよ」
「泣いてねえよ」
 結局、その日はずっとベンチで寝転がっていた。サードはコウちゃんが守った。
 テルおばちゃんには黙っていた。心配して家に連絡なんかされたら大変だ。
 お風呂で見ると、真っ赤にはれ上がっていた。おそるおそる袋を指ではさんでみた。
 降りていた。
 俺はほっとして水をかけた。冷たい水が気持ちよかった。

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