第1話

文字数 1,994文字

 僕が使ってる私鉄の駅ナカにまあまあの本屋があって、会社帰りによく立ち読みをしていた。四十男のひとり暮らし、時間は好きに使えるんだ。
 九月の水曜日、午後七時の駅は学生と通勤客であふれていた。僕はエスカレーターを上って本屋に入ると、まっすぐに旅行ガイドの棚に向かった。いつもそう。なんとなく旅行気分を味わえるから。
 いつもと違う感じがしたのは、そこに「トヨタ」の社名が入った作業服を着た男が居たから。僕より少し歳上らしく、短く刈り込んだ髪には白いものが多かった。
 僕の立ち読みのルーチンは国内旅行の棚から。その日は「富山」を選んだ。北陸三県にはぜんぜん縁が無いから選ぶ率が高い。そして次は海外旅行の棚。新しいシリーズを見つけたのでその中の「クアラルンプール」に。…とその時、右の肩が誰かにぶつかった。あ、スミマセン、の声の方に振り向くとさっきのトヨタの男性が頭を下げていた。同じ本を取ろうとしていたみたい。どうも、と笑って流そうとした僕に、あの~っとまた声をかけてくる。低くてかすれた声だ。僕の右肩あたりを指さしながら「トヨタさん」は、汚してしまって、とまた頭を下げた。シャツの袖に名刺大の煤みたいな汚れがついている。ぶつかった拍子にトヨタさんの作業服の汚れがついたのだろう。
 ごつい見かけによらずトヨタさんは、僕の気にしないでという言葉をしっかり気にしていた。勤め先がバレバレのせいかもしれないが、とにかくお詫びをと言われて僕は下の階のスタバでコーヒーを奢ってもらうことになった。僕らは一番安いドリップコーヒーを手に、駅前の通りが見えるカウンター席に並んで座った。肘が作業服にあたると、見た目以上に生地が硬いことに気付いた。トヨタさんはマレーシア工場への異動を会社から命じられて旅行ガイドを見に来たそうだ。僕は自分が事務機器の営業をしていることを話し、コーヒーのお礼を言って別れた。

 そのあと二週続けて水曜日の同じ時間にトヨタさんは旅行ガイドの棚のところにいた。僕らはばったり近所の人に会った時のように、軽く会釈してコンニチハと言った。それくらいは、と思ったし。
 そしてまた水曜日。会社で上司から八つ当たりめいた叱責をうけ、僕はクソ面白くない一日を過ごした。嫌な気分のまま電車に乗ったので、立ち読みでもしてスイッチを切り替えることにした。旅行ガイドの棚のところには作業服姿のトヨタさんがいた。こちらが軽く会釈したら、おつかれさま、とかすれた声が返ってきた。僕はホントに疲れていた。たぶんそれで、トヨタさんをスタバに誘ったんだ。
 あたたかいマグカップを手にカウンターの席に並んで座った。外は雨が降り出していて、学生たちが駅に駆け込む様子が見えた。仕事で嫌なことがあって、とだけ僕は言ってみた。トヨタさんはこっちを向いて、そう、と言うと一瞬だけ微笑んであとは黙っていた。困らせたかな、と後悔もしたけど正直ほっとしていた。僕らはマグカップが冷めるのを感じながら外を見ていたけど、雨でガラスは曇っていた。しばらくしてトヨタさんが思い出したようにコーヒーをすすった。
 あ、傘が無かった、僕がつぶやくとトヨタさんが送っていきますよと言った。ちょっと迷ったけどお願いすることにした。なんとなく。スタバを出ると土砂降りになってた。トヨタさんが黒い傘を広げ、僕らはくっつくようにして歩き出した。僕のアパートまでの10分間、歩くのに精いっぱいで僕らは話もしなかった。やっと着いた時、トヨタさんの右肩がびしょぬれになっているのに気が付いた。タオルを貸しますから部屋まで来てください。僕が言うと、トヨタさんは傘の水をはらいながら頷いた。
 鍵を回して中に入るとベランダ越しに隣のビルの明かりが見えた。ドアがしまる音がしたので、ちょっと待ってください、と言って僕は濡れた靴を脱いで部屋にあがろうとした。でも、あがれなかった。トヨタさんが後ろから僕の両肩をしっかりつかまえたから。驚いた。けど僕は背中一面にゴワっとした作業服を感じながら、このままでいようと決めたんだ。しばらくして背中の圧が緩んだ時、僕は振り返った。暗くてよくは見えなかったけれど、トヨタさんは泣きそうな顔をしていた。僕はトヨタさんの肩甲骨に両手をまわして抱き寄せたんだ。鼻をトヨタさんの頬にあてて、安い化粧品の匂いを嗅いだ。トヨタさんがかすれた声でスミマセンと言った。またシャツの袖が汚れたんだろうか。そして作業服の汗で汚れた襟元を見ながら、僕は何度も深呼吸をしていた。

 次の週の水曜日、いつもの場所にトヨタさんの姿はなかった。整然とならべられた旅行ガイドの中でクアラルンプールの巻だけが手前に引き出されていた。人差し指でその背表紙をゆっくり押しながら僕は思った。
 こんなキモチの時はニューヨークチーズケーキかな、ってね。
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