愛は瞳の中に

文字数 1,253文字

 やりきれない。

 
 芸術音痴の父が、わたしの作品にケチをつける。
 下絵の段階で、やれ空は黄色ではないの、リンゴは緑ではないの、おまえのとんちきな絵は売れっこないだのと毎回圧力をかけてくるのだ。
 売れるために描いているんじゃあない。

 油絵はキャンバスにいきなり絵の具を置いていくような安直なものでもない。
 そもそも下絵の段階で、水彩画や墨絵のように絵画然としているわけではないのだ。
 まず、モチーフのラフスケッチと、デッサン、クロッキーを散々描いて、構図を決め、キャンバスに下塗りをする。

 全体の陰影がきまるまで、溶液で色を薄く伸ばしたしゃぶしゃぶ絵というのを経て、ようやっと絵の具を重ね塗りできる状態になる。
 そこまではビリジアンとアンバーが適するから、そのようにする。
 しかし下絵にシアンやマゼンタを使うと、いくら上から絵の具を重ねても、時が経つにつれてその色が表面に浮き出てくるのだ。

 だから、まあ……ちょっとした意趣返しにわざと下絵に使うこともある。
 普通はしない。
 わたしは絵の仕上げにポピーオイルを画面に塗布し、艶出しをした。

 月の女神のように微細な影を帯びた双眸と、長く肩に流した髪がきらめく星々のよう。
 白い素肌は紫を用い透明感たっぷりに、そしてツヤッと唇にきれいなハイライトを。
 ……憧れこめて描いた、彼女の姿絵。

 このころになってようやっと見られるものになった、自分の指導のおかげだと父がふんぞり返って言う。
 アトリエを確保するために名義を借りているから反論しないが、それは見当違いというものだ。
 絵は最初からこのレベルを目指して描かれてきている。

 むしろ、このレベル以上にはならないことがわたしの限界と言えよう。
 むなしくあがく日々も終わりに近づいている。
 ここのしかけが上手くいきさえすれば、わたしは心から安心して死ねる。

 この絵は、わたしの最後の絵だ。
 わたしが最も美しいと信じた女性がモデル。
 だが、彼女はわたしが描いたラフスケッチ、デッサン、クロッキーを見るなり、失踪してしまった。

 後には何も残らなかった。
 和やかに語らい、過ごした時間も、彼女の瞳に見えた心の証も、すべて。
 持ち去られてしまったのだろう。

 だから、現存する彼女の絵は、これ一枚となる。
 アトリエの長いすに楚々と腰かけた浴衣の美女。
 父は金にならねば価値がないと言うがしかし、この絵だけは決して手放さない。

 誰にも行く先を告げずに姿を隠した彼女の生死は気にかかる。
 だが、いつか届くだろう。
 浴衣の裾からのぞくマゼンタの尾ひれが、この絵の中に時と共によみがえったなら。

 そのとき、わたしは真の彼女に逢える気がする。
 足跡ひとつ残さずに去ってしまった彼女の、最後の思い出だ。
 彼女の正体をわたしは、きっと知っていたのだ。

 だから、彼女はそれを恥じて海に還ったのに違いない。
 ああ、わたしが彼女を描きさえしなければ……。
 だって、彼女の座った長いすには、マゼンタにきらめく鱗が残っていたのだから。

    -END-
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み