第17話

文字数 10,983文字

 いったん神社に戻って小休止をとった俺たちは、約束どおり午前十時に駐在所を訪れた。俺たち──の構成員は、俺、翔吾、梨夏、そして今回は舞依の四人である。
 本来であれば、喪主である舞依は神葬祭の準備で多忙なのだろうが、意外なことに舞依は俺たちに同行するという意志を曲げなかった。
 それを聞いた結依は、
「それなら今回は舞依におまかせして、わたしはおとなしく家で準備を手伝うことにするわ」
と、萎れたような笑みを浮かべて、駐在所に向かう俺たちを見送った。
 結依にとっては、そのほうがいいかもしれないな。連日の騒動で心身が参ってしまっているのだろう。特に今朝から活力低下の度合いが酷い様子だし、現に貧血を起こして倒れたし……心配だ。もっともこんな騒動の渦中にいる女子に元気を求めること自体が酷なのだが。
 そうしてみると舞依は、さすがに悄然とはしているものの、跡取りという自覚のなせる技なのか、意外な強靭さを発揮して自分のなすべきことを淡々とこなしている感がある。舞依は見かけによらず打たれ強いのかもしれない。
 その舞依が今回出馬してくれたのは、大いに心強かった。舞依を目の前にしたら、原塚巡査の口もほぐれ易くなるだろう。
 ただ、舞依が神葬祭の準備を結依に任せて姿をくらましていることについて、成隆氏や通夜祭と同様に斎主を務める清隆氏がどう思うか、俺の心中で懸念はくすぶっている。残った結依が何か言われるかもしれないが……すまない、何とか躱してくれ。
 ちなみに神葬祭は、午後一時から昨夜と同じく参集殿で営まれる。その後、赤菜町の火葬場で遺体を荼毘に付すという。
 したがって、栞梛家の面々がすべての葬送の儀式を終えて神社に戻ってくるのは、おそらく午後五時近くになるのでは……というのが舞依の見通しであった。

 強烈な日光は薄い雲に遮られているものの、ねっとりと纏わり付くような沈鬱な空気が垂れ込めている。
 村を訪れて以来、何度も足を運んでいる中小屋の一隅、玄関ポーチのひさしの上に〈赤菜警察署緋剣警察官駐在所〉と記された小ぢんまりとした建物だ。
 駐在所そのものは、街中で見かける交番と似た造りだが、住居も併設されているので奥行きは広い。無個性な平屋根ではなく、勾配をもつスレート葺きの屋根が田舎の風景になじんでいる。
 透明なアルミサッシの引き戸越しに、内部の様子が窺えた。正面に原塚巡査の顔が見える。と同時に、向こうも俺たちに気づいたらしく、彼は座ったまま軽く面を下げて会釈した。
 何となく四人の先頭に立った俺が引き戸に手を伸ばしかけたとき、誰かが巡査の対面に座っているのに気づいた。
 えっ? もしかしてこの後ろ姿は……そうだ、やっぱり風早青年だ。
 なぜか、伸ばした腕が一瞬引っ込みそうになったのだが、今さら動作を中止するのは失礼だし、止める理由もない。そのまま引き戸を開け、挨拶とともに俺たちは中に歩み入った。火照った身体が心地よい冷気に包まれる。
 振り向いた風早青年が、俺たちを認めて人懐っこい笑みを浮かべた。
「やあ、また一緒になったね」
 何だか昨日のリプレイ映像を眺めているようだが、青年の口調には俺たちが来ることを予期していたような響きが感じられた。
 原塚巡査が、壁に立て掛けられていたパイプ椅子を広げながら言う。
「風早さんは十分はど前にいらしたんですが、待ってもらってたんです。皆さんと同じく例の失踪疑惑について知りたいとおっしゃるんで……」
 それで風早青年は俺たちが現れることを知っていたわけだ。昨日の学校での邂逅といい、でき過ぎた偶然が重なっている。それとも、人間の考えることなんて、皆同じようなものなんだろうか。
 青年を出し抜くような形になることに心苦しさを感じていたが、こういう成り行きで結果的に同席が叶い、後ろめたさは多少払拭されたような気がする。舞依の口は重くなるかもしれないが、こうなってはやむを得ない。
「ええと……中峰君と池辺君は、昨日学校と錦湯でご一緒させてもらったけど、こちらのお嬢さんは初めてで……」
 風早青年が視線をまず梨夏に向け、それから舞依に転じた。
「それから昨日の結依さん……いや、よく似ていらっしゃるけど違うようだから、お名前は……確か、舞依さんですか?」
 驚いた。村人でさえ混同してしまう瓜二つの舞依・結依姉妹を、青年は識別できるらしい。
「よく、おわかりになりましたね」
 意表をつかれて目を丸くしていた舞依だったが、すぐにいつもの柔和で落ち着いた表情に戻って自己紹介をした。その後に梨夏が続く。
「それにしてもよく似ていらっしゃいますね」
 青年は舞依の顔を眺めながら、感嘆の弁しきりだ。
 目の前に結依という比較対象が存在しないのに「よく似ていらっしゃる」という台詞が発せられるのは、考えてみると凄いな。彼の頭の中に、結依の容貌も克明にインプットされているとしか思えない。ずっとそんな感じがしていたんだけど、もしかして風早青年って、ずば抜けた観察力や記憶力の持ち主なのではなかろうか。
 ともかく俺たちは原塚巡査が用意してくれた椅子に座った。額や首筋ににじんでいた汗が退いていく。
 パイプ椅子を並べても全員が座れないので、巡査は事務机用の椅子を転がしてきて自ら腰を下ろした。皆に取り囲まれた簡素なオフィステーブルの上には、かなり分厚い書類ファイルが一冊置いてある。
「お尋ねの二十年前の失踪疑惑についてですが……」
 原塚巡査はファイルに手を伸ばしたが、その上に掌を置いたままページを開くことなく、口火を切った。
「この中に一件資料は綴じ込まれていますが、さすがに部外者の方にお見せするわけにはいきませんので、私がもつ知識としてお話しします」
 巡査はいつになく神妙な面持ちで説明を始めた。
「事の発端は、今から二十二年前の九月でした……」

 その年は春先からこの地方一帯が天候不順に見舞われた。特に梅雨末期の豪雨で土濃川が氾濫し、人家や田畑、農作物にかなりの被害が発生したこともあって、村全体が暗く打ち沈んでいたという。
 こういう状況の中では、お決まりのように〈ヤマガミ様のお怒り〉が取り沙汰される。そこへ追い打ちをかけるかのように、村内で不可解な失踪疑惑がもち上がったのだ。それも以後三年間にわたって、毎年一人ずつ……。
 最初の失踪者は、大阪府R市在住の林野哲弘氏(四十一歳)。彼は緋劒神社の講である〈緋劒講〉の講員であり、神社で管理する名簿に氏名が記されていた。
「講って……ネズミ講とかの〈講〉と同じ?」
「広く捉えれば同じなんだけど、その例えはちょっと……ね」
 翔吾の問いに風早青年が苦笑する。
「講にもさまざまな種類があるんだけど、この場合の講っていうのは、いわば信仰集団のことだよ」
 青年によると、講は宗教的講・経済的講・社会的講の三種に大きく分けられるが、緋劒講はもちろん宗教的講で、中でも氏神講あるいは鎮守講に分類され、その土地に棲まい地域共同体を護る神──ここではヤマガミ様──を信仰する氏子によって、組織・運営されるものであるという。
「また、格式の高い神社の講では〈村〉を超えて広い範囲に構員を持つものもあって、さしずめ緋劒講もそのタイプに当てはまるんでしょう。神社の方を前にして僕が講釈をたれるのも変な話だけど……」
 舞依は青年の説明に頷きながらも、少し照れたような笑みを浮かべて
「格式が高いなんて、そんなことは……ただ、うちの神社は緋剣山における霊山信仰の色合いも強くて、全国各地から修験者の方がいらっしゃいますから、参拝講の性格も併せ持っているんです」
 淀みない口調で語る舞依には、すでに後継者としての貫禄が備わっているようにさえ見える。
 それで林野哲弘氏だが、彼は緋劒講の講員ではあるものの、仏教でいうところの在家信者で、通常は一般人と変わりなく仕事に就いて普通の生活を営んでいた。
 彼は、職場の勤続褒章休暇を利用して、大阪府内の講員仲間であるS氏と二人で九月十五日に入村、緋劔神社の参集殿に寝泊まりしながら、山中で三日間の修行に励んだ。
 予定では、十八日の朝二人一緒に村を引き上げ、A市に移動して一日を観光に費やし、翌十九日に帰阪することにしていたが、どういうわけか林野はもう一日村に滞在するという。
 その際、林野がどうも単独行動をとりたいような口ぶりだったので、S氏は深く追及することなく、予定どおりA市観光を満喫して、十九日に約束のA駅で待ち合わせたが、指定時刻を二時間過ぎても林野は合流場所に現れない。今と違って携帯電話も普及していないから、連絡の取りようもない。
 仕方なく一人で大阪に戻ったものの、その後一週間を経てなおまったく音沙汰がない。
 さすがにS氏は胸騒ぎを感じて、府内にある林野の職場に問い合わせをしたところ、未帰着の上に連絡もなく問題になっているとの返事。
 林野は独身者で係累もないことから、職場の上司が捜索願い提出の労をとり、むろんS氏も所轄署に足を運んで事情説明を行う羽目になった。
 その結果、十八日朝に林野が緋剣村にいたことは確実とされ、大阪の所轄署から緋剣村管轄の赤菜署に一応の問い合わせが入る。連絡を受けて駐在の警官がひと通り調べては見たものの、林野が村を去った形跡はつかめなかったらしい。十八日の村での足取りも皆目不明。
 林野の村での行動に最も詳しいと思われる緋劔神社も、十八日朝に参集殿を発って以降は「知らぬ存ぜぬ」の一点張りで、結局、今に至るまで林野氏の消息はつかめていない。
「幼児や妙齢の女性ならともかく、成人男性ですからねえ。こう言っちゃ何ですが、捜索も徹底したものにはなりませんよ」
 というのが原塚巡査の弁である。

 次はその翌年の十月、静岡県W市在住の梶谷由智氏(四十六歳)が行方不明になった。彼は、最初の林野氏とは違って緋劒講の講員ではなく、単独の巡礼者だった。
 巡礼というと、四国のお遍路やお伊勢参り、熊野詣が思い浮かぶが、それ以外にも、自由に聖地や霊場とされる場所を単独で巡る人もいる。梶谷氏は会社勤めのかたわら、まとまった休暇が取れると各地の霊山を訪ね歩いていたという。
 中高年男性の中にも、アニメ作品の〈聖地巡礼〉のようなことをする人がいるということか。まあ、俺たちのBQSビジターズだって、パワースポット巡りとか同じようなことをやっているわけで、とはいえ巡礼者の立場からすると「信仰とお遊びと一緒にするな」なんて叱られそうだが。
 それはともかく、梶谷の場合は家族から静岡県警に捜索願いが出されたのだが、彼は基本的に単独行動をとっているため、その足跡調査の難しさは林野氏の比ではなかった。家族や勤め先には「西の方を回ってくる」と言って十日間の休暇を取得したそうだが、あまりにも漠然としている。
 それでも細々と調査を続けて足取りを追った結果、辿り着いたのがA県咲宮市内のホテルであった。梶谷の住所・氏名を記した、十月二十一日の宿泊記録が残されていたのだ。
 ホテルのフロントスタッフによると、梶谷はチェックインの際に「咲宮市内から緋剣村に直通するバスはあるか?」という質問をしたらしい。
 フロントの女性スタッフが「JR線で遠沢まで行き、そこでバスに乗り換えるしかない」と答えると、梶谷は「それじゃ、やっぱりあのちっこいバスに乗るしかないんだな」と諦め顔でルームキーを受け取ったという。
「あのちっこいバス」が、赤菜町と緋剣村を結ぶコミュニティバスを指していることは明白で、口ぶりからすると、梶谷はそれ以前にも緋剣村を訪れたことがあったのだろう。
 その女性スタッフが、大勢の宿泊客の中で特に梶谷を覚えていたことに不審を抱いた警察官が、その点を尋ねたところ、
「だってあのお客さん、巡礼姿なのに、キーをお渡しするとき、わたしの手をしつこく握ってきて放さなかったんですよ」
と、彼女はその形の良い唇をとがらせた。
 彼女が拒絶すると、梶谷は次のような台詞を口にしたという。
「まあいいよ。明日はお楽しみが待ってるからな」
 以上のやり取りから、梶谷は翌十月二十二日、「お楽しみが待つ」緋剣村に向かったものと思われる。
 ただ、彼が実際に緋剣村入りした証拠や証言はなく、村を訪れたとしても「お楽しみ」の内容も含めて、彼が村内のどこで何をしていたのかは皆目わからない。
 巡礼者は──以前、結依が教えてくれたように──緋剣山中の御籠堂で自炊するか、あるいは野宿での自給生活を続けながら修行に励む。
 御籠堂そのものは緋劔神社が管理しているが、その利用に関してはノータッチ。予約制でもなく、空いていれば自由に使えるという仕組みだそうだ。つまり、誰がいつ御籠堂を使ったかという履歴は残していないし、いわんや山中での野宿に至っては放置状態である。
 緋剣山を聖域と豪語して立ち入りを厳しく制限する割には、そのあたりは非常に杜撰で、実態としては出入りはほぼ自由なのではないかと思うのだが、そこは神域を標榜しているせいか、下衆な興味本位とみなされる不届き者は、行者や巡礼者の網に引っかかって巧みに排除される仕組みができあがっているらしい。
 梶谷は巡礼者であるからして、村の中では却ってその存在が目立つことはなかったのかもしれない。

 三人目──最後の失踪事案──は、さらにその翌年の十一月に発生した。消えたのは、東京都P市在住の時松賢司氏(三十八歳)。
 捜索願いは仕事先から出された。時松は、家庭に問題があって妻子と離れ離れになった男やもめだったという。
 彼も梶谷氏と同様に単独の巡礼者であったため、調査は困難を極めたが、結局、行き着いたのは緋剣村だった。十一月四日夜、村の唯一の宿泊施設である錦湯に投宿したらしく、宿帳に時松の名が記されていたのだ。
 しかし翌朝、宿を発ってからの彼の足跡はふっつり途絶えてしまった。
 おそらく御籠堂または緋剣山中で修行に入ったものと思われるが、その姿を確認した者はおらず、無事に修行を終えて村をあとにしたのか、それとも何らかの変事に見舞われたのか、皆目わからない状況だった。
 ただ、同じ地域で三年連続の失踪事案ともなると、さすがにA県警内部で問題視する向きが現れたらしい。管轄する赤菜署にしても、問い合わせのあった都府県警や県内各署に対する面子がある。それまで緋剣村の駐在所任せにしていた現地調査のため、赤菜署から係員が乗り込んできた。それが──
「細萱警部補だったんです」
 原塚巡査は、資料を綴じたファイルから顔を上げ、俺たちを見回した。
 当時、細萱警部補は赤菜署生活安全課に配属されており、この失踪事案の調査のため緋剣村に日参して、村人からの聞込みや緋剣山中での遺留品の捜索にあたったという。
 しかし彼の努力にも関わらず、新しい事実が発見されることはなかった。紫乃巫女による有形無形の働きかけというか圧力もあり、時間の経過とともに赤菜署の上層部も腰砕けの様相を見せ始め、結局うやむやになってしまったのだ。
 細萱警部補の登場に俺たちは意表を突かれた思いだったが、それよりも遥かに重大な符合に顕著な反応を示した者がいた。風早青年である。
「ときまつ?」
 そうだ。風早青年がここ緋剣村を訪れるきっかけになったという、昨年の事故死の犠牲者も「ときまつ」氏だったではないか!?
 でも……資料に記された字は違う。二十年前は〈時松〉だが、昨年は〈鴇松〉だ。
 しかし、風早青年は珍しく度を失った様子で、
「両方の苗字と名前を並べると、いっそう相似は顕著になりますよ」
と、慌ただしく例のリュックサックから使い古した手帳を取り出し、挟んであった一枚の名刺を手にとって、資料に記された氏名の横に並べた。
 ──〈時松賢司〉と〈鴇松皓司〉──
 確かに似ている。単なる偶然か? それとも、二人の間に何らかの関係が……もしかして血縁者か? ちなみに年齢は?
 俺の心中を読み取ったかのようなタイミングで、風早青年が暗算を始めた。
「時松賢治氏が現在生きているとすると、五十八歳。そして鴇松皓司は、僕より二つ上だから三十歳。年齢差は二十八で……父子でもおかしくない」
 自分で下した結論に、青年は記憶の中から呼び起こした事実を付け加える。
「そういえば彼、幼い頃に両親とは生き別れになったとか言っていたが……」
 原塚巡査も意外な成り行きに驚きを隠せない様子で、風早青年の顔と資料とを交互に見やりながら、
「この二人の関係に焦点を絞って調べたら、血縁関係が確認できるかもしれませんよ。この相似に気づかなかったのは迂闊でした」
と、悔しさをにじませる。
「とはいえ、二十年という時間を隔てていますからね。しがらみや圧力のために満足な調査ができなかった面もあるでしょうし……仕方ありませんよ」
 やや落ち着きを取り戻し、慰め顔で言う風早青年に続いて、こちらは何やら不満顔の梨夏である。
「舞依さんの前で、こんなこと言うのもどうかと思うけど……」
 声色にも憤りがにじんでいる。
「お祖母さんの圧力で調査がおざなりになったっていうの、すごく引っ掛かるわ。三人も行方不明になったっていうのに、もっとやりようはなかったのかしら?」
 梨夏の義憤はもっともだが……俺は思わず舞依の顔に視線を走らせた。その面には、やるせなさと諦めの入り混じったような色が浮かんでいる。彼女はわずかに頷くような仕草を見せ、穏やかな調子で口を開いた。
「梨夏さんの言うとおりです。わたしも婆様のやり方には疑問を感じてきたから……」
 しめやかな声色の中に、これまで姉妹が抱えてきた深い葛藤と苦悩がにじんでいるように感じた。
 それにしても、いくら緋劔神社──つまり栞梛家──が力を持っているとはいえ、村人全員、一事が万事、紫乃巫女に倣うというのは、さすがにあり得ないと思うのだが。
 それを口にすると原塚巡査は、
「紫乃巫女のやり方に異を唱える人が皆無ってわけではないんですよ。ただ大多数の村人は……ね」
 巡査はそこで一つため息をつき、
「結局、この村は良くも悪くもヤマガミ様信仰に依存しているんですよ」
と言った。彼の説明によると──
 僻村や小集落において問題になりがちな、閉鎖性や排他性、非合理的なしきたりによる人間関係のいざこざが、ここ緋剣村では深刻な形で表面化することはほとんどないという。
 それは、この村がある意味で全体主義的宗教集団であり、村人全員が大なり小なり信仰に沿った暮らしを続ける一方で、揉め事や諍いを〈ヤマガミ様に対する不敬〉として忌避するべく、心理的な抑圧が加えられているというのが理由らしい。
 また、ヤマガミ様信仰のおかげで外部からの宗教家が絶え間なく来訪するため、地理的な隔たりの割には村人の意識は排他性でない。
 加えて、ここが重要な点なのだが、宗教家をはじめとする外来者が増えたことによって村に落ちるカネも増え、その結果、財政状況が劇的に好転したという。
 つまり緋劒神社=栞梛家は、ヤマガミ様信仰によって村人を心理的にコントロールする一方、多大な経済的恩恵をもたらすことで、村の死命を握っているというのだ。
「そういうわけで、長年にわたって紫乃巫女に公然と異を唱える人はいなかったんですが、四年前、私がこちらに赴任した直後から、村の雰囲気がきな臭くなってきたんです。衝突したのは紫乃巫女と村長。原因は例の合併問題でした」
 それ以前にも、保守派の紫乃巫女と革新派の村長との意見の対立はあったものの、いずれも些細な問題であり、また数名の村の重鎮が巫女と村長の間に立って、とりなしや調整に奔走したおかげで、火花が大きく燃え上がることはなかった。
 しかし、先年の合併問題は当初から様相が異なっており、熱心なヤマガミ様信者の中にも合併推進を説く人も多く、村を二分する論争が展開されたという。
 合併反対派の頭目はもちろん、村の独自性や閉鎖性を固守したかった──緋劒神社の収入減をもたらさない限り──紫乃巫女で、一方、普段から“変化”を旗印にして改革を推し進めてきた村長は合併推進の旗振り役であった。
「結果的には、ご承知のとおり国策ということもあって、隣接の赤菜町もろとも咲宮市への編入合併という形に落ち着きましたけど、村人の一部には感情的なしこりが残り、村長も村が消滅して失職すると同時に、ここを離れて赤菜町に転居してしまいましたよ」
 原塚巡査はそこで一旦話を切ったが、数瞬の間をおいて思い出したように言葉を継いだ。
「そうそう。資料によると、三人目の失踪者・時松氏はそれ以前にも何度かこの村を訪れていて、村長とも交流があったようです」
 その時、電話の着信音がさほど広くない室内に鳴り響いた。
 原塚巡査がキャスター付きの椅子に座ったまま滑るように後退し、事務机上に置かれた固定電話の送受話器を取り上げて会話を始める。
「……はい……はい……ああ、やっぱり七日の朝ですか。なるほど、こちらで把握した経緯と辻褄が合いますね。バイク所有者は八月六日夜には自宅で所在が確認されていますので」
 特に聞き取りの努力をしなくても、声の方から勝手に耳に飛び込んでくるような、原塚巡査の語り口だった。内容からすると、どうやら勇人さんのバイクの件の続報らしい。
「はい……それでは、引き続きよろしくお願いします」
 巡査は送受話器を置いて、こちらに向き直る。
「お聞きのとおり勇人さんのバイクの件ですが、咲宮駅前の駐輪場で最初に確認されたのは、八月七日の早朝だったそうです」
「すると、兄はやっぱり六日の夜、家族が寝静まった後に家を出て、バイクで咲宮まで行ったということでしょうか?」
 即座に舞依が反応した。失礼ながら不肖の兄とはいえ、姉妹にとっては肉親だ。舞依の顔には濃い不安の色が刷かれている。
 その心情を慮ってか、答える原塚巡査の表情も硬い。
「ええ、おそらく。ただ、急がれるのは所在と安否確認ですよ。咲宮署の方でも監視カメラの映像分析を進めているとのことなので、当面はそこに期待しましょう」
 原塚巡査はそう結んだ後、
「それで……先ほどはどこまでお話しましたかね?」
と、俺たちを見回した。
 舞依が、時松氏と交流を持っていた村長が赤菜町に転居した、というところまでだと答えると、巡査は「ああ、そうでした」と頷いて、
「その転居によって、村長と紫乃巫女との対立には終止符が打たれたんですが、未だに対立……というか、水面下で紫乃巫女に抵抗しているのが……」
 巡査は軽く咳払いして続けた。
「村人ではありませんが、細萱警部補なんです」
 二十年前の赤菜署生活安全課勤務時代に失踪事案の調査に携わって以来、細萱警部補は緋劒神社というか紫乃巫女に厳しい視線を注ぎ続けているという。それはとりもなおさず、失踪に関して緋劔神社の何かの関与を疑っているということなのだろうか。
 舞依の存在を気にしてか、原塚巡査もさすがにそこまでは踏み込みはしなかったけれども。
 ただ、失踪云々が紫乃巫女にとって真実預かり知らぬことであったとしても、細萱警部補にしてみれば、調査の際に受けた有形無形の圧力や妨害に対して恨みつらみの感情を抱えていてもおかしくないし、結局、不明者の発見に至ることなく異動でこの地を去らなければならなかったという無念の思いもあるだろう。
 その細萱警部補が、幾たびかの異動を経て赤菜署に戻ってきたのは、三年前だそうだ。二十年前の雪辱を志した矢先、立て続けに鴇松氏の事故と紫乃巫女の変死が相次いだことになる。
 おそらく細萱警部補は〈鴇松〉と〈時松〉の相似に気づいているのだろう。あるいは水面下で内偵を初めているのかもしれない。いまや紫乃巫女の圧力がなくなったため、一層厳しい姿勢で追及するべく手ぐすねを引いているのではないか。
「しかも、細萱警部補は今年度末で定年退職を迎えられるので、真相を突き止める文字どおりラストチャンスなんです。直接、警部補ご本人から伺ったわけではありませんが、失踪事案に関しては未練……というか心残りを抱いておられるようですから」
 細萱警部補が何をしようが俺たちにはどうしようもない。とにかく舞依や結依にとって事態が悪化することのないように祈るばかりである。
「ということで……お話しできるのは、だいたい以上のようなところですね」
 原塚巡査がここで終了宣言を出した。何気なく壁時計に目をやると、時刻は十一時二十分を示している。
 しばらく沈黙を保っていた風早青年が、巡査に丁重に礼を述べた後、
「もう一つだけ……元村長さんの現住所を教えていただけませんか? できれば、今から赤菜町まで訪ねてみようと思います」
と言った。
 巡査は思案顔で、
「そうですねえ、突然押しかけるのは難しいかもしれませんよ。人は悪くないんですが、少しとっつき難いところがありますんで。私の方から話をしてみましょうか?」
「ああ、そうしていただければ助かります。よろしくお願いします」
 このようなやり取りの後、原塚巡査は親切にも赤菜町在住の元村長に電話をかけて用件を説明し、首尾よく訪問の約束を取り付けてくれた。風早青年は再び巡査に頭を下げつつ、元村長宅への道順などを尋ねている。
「わたし、そろそろ帰らないと……」
 壁時計に視線を投げつつ、舞依が腰を浮かせた。
 俺たちも退散せねばならないが、さてこれからどうするか。
 元村長の話に興味がないわけではないが、さっきの原塚巡査の話だと、いきなり大挙して押しかけてすんなりと迎えてくれる人ではないような気がする。遠慮するべきだろう。
 そうかといって、他の誰かに会って話を聞くとか、どこかに行って何かを調べるとか、今のところあてはない。神社に戻っても、神葬祭に付き合う気はないから、暇を持て余しそうだし……万策尽きたか。
 翔吾がボソッと言った。
「俺たちも赤菜町まで行ってみるか?」
 ふむ……まあ、他に動きようがないからそれもいいけど、風早青年と一緒に元村長を訪問するつもりじゃないよな。
 それを言うと翔吾は、
「いや、そうじゃなくて、しばらくスマホをネット接続していないからな。そっちの状況が気になるんだ。ホントここ、電波入んねえし……」
 言われてみればそうだな。いろいろな出来事に翻弄されて、すっかり忘れていた。電波確保のためだけに赤菜町まで移動するのはバカらしいけど、ちょうど昼飯時になるし、どこかの店で昼飯食べながら久しぶりにスマホチェックでもしてくるか。
 梨夏も特に異論はないということで、話はあっさりまとまった。
 そうなると今度は、舞依のことが気がかりだ。
 勝手知ったる村の中とはいえ、変事発生の折に一人で神社まで帰らせるのは如何なものか……などと考えながら原塚巡査の方を見ると、彼は察してくれたらしく、心得顔で頷いてボディガードをかって出てくれた。
「私がお送りしましょう。どのみち神社には、神葬祭には参列しない旨ご挨拶に伺おうと思っていましたし、こんな状況ですからね」
 とか言いながら、心なしか巡査は嬉しそうな様子だ。
 原塚巡査にもう一度お礼を言い、彼に舞依を託して、俺たちは駐在所を後にした。
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