オレがいない日々

文字数 6,764文字

 どうやらオレは死んだらしい。

 大家と2人の警官がオレの死体を囲む。大家はしきりに頭を掻いている。
「事故物件になるなこりゃ。せっかく南向きの良い部屋だってのにな」
 警官の一人が大家の肩をポンと叩く。
「お気持ちはお察ししますが、ご遺体の前でそういうことは言わない方がいいですよ」
 警官は穏やかな声で大家を諭す。
 もう一人の若い警官が尋ねる。
「オレ、こういう現場は初めてなんですけど、どうするんですか?」
「まずご遺体の身元確認、それから事件性がないかを調べる」
 そう言って2人の警官は部屋の捜索を始めた。といっても事件性は低いと判断されたためか、部屋を物色するようなことはせず、大家からの事情聴取と部屋の写真を撮るだけだった。
 一通りの作業が終わると2人の警官はストレッチャーにオレの身体を載せた。そしてオレの身体はハイエースで警察署へ運ばれた。いくつかの検査が行われた後、そのままオレの身体は霊安室へ運ばれる。霊安室で待つこと数時間後、検察官が現れた。横たわるオレの身体を検察官が念入りに調べる。
「外傷は無いようですし、いたって綺麗なご遺体ですね。でも腐敗が始まっているので、死後5日以上は経過しているようです」
「大家さんからの情報によると故人は会社員でした。無断欠勤が続いており、会社から故人の両親に連絡がいったそうです。そこから大家さんに連絡が行って大家がご遺体を発見したとのこと。無断欠勤が始まったのが、今週の月曜日からです。故人は過去に無断欠勤したことは無いそうですので、おそらくは月曜時点で亡くなっていたと思われます」
「月曜日からだと3日ですか。死体の状況から見ると、もう少し経過していると思いますね。おそらく休日の時点で亡くなっていたのではないでしょうかね」
「なるほど」
「まあ、いずれにしても事件性は低いようです。外傷はありませんし、CT画像を見ても異常のある部位は見られませんでした。何らかの原因で心停止したと思われます。心停止の原因については解明は難しいでしょうね。なんにしても事件性は低いと考えます」
 検察官が傍にいる警官に淡々と話す。
「死体検案書はすぐに作りますので、ご遺体はご遺族に引き渡してください」
「了解です。お疲れ様でした」
「はい、そちらもご苦労さまです」
 検察官はそう言って、慌ただしく霊安室を出ていった。どうやらこれで終わりのようだ。人が死んでるというのに実にあっさりしたもんだ。まあそりゃそうか。そういう仕事なんだから。死を見続ける仕事。オレの死も彼らの日々の何気ない一幕に過ぎないのだろう。

 しばらくすると警察署に親がやってきた。実家からは車だと3時間以上はかかる。たぶん警察から連絡を受けた後すぐに出発したのだろう。母はすでに泣いていた。二人は警官に案内されて、霊安室に入った。そしてオレの死体を見つける。母はオレの死体を見るやいなや、全身の力が抜けたかのように膝から崩れ落ちた。父も信じられないという表情で呆然とオレの死体を眺めていた。警官はただ黙って2人の様子を見守っていた。
 しばらくしてから、警官から死体発見の経緯の説明があった。泣きじゃくる母はおそらく聞いていなかっただろうが、父はちゃんと聞いている様子でしきりに頷いていた。
 しばらくして父は母を置いて部屋を出ていった。父は窓口で死体検案書を受け取り、死体搬送から検死作業までに生じた諸々の費用の支払いをした。
 父は警察署の外へ出て、葬儀社に電話をかけていた。遺体の搬送は警察署の近くの葬儀社に依頼し、斎場は実家の近くの葬儀社に依頼するらしかった。
 30分ぐらいで警察署に葬儀社の搬送車が到着した。オレの腐りかけの身体は、数時間をかけて今度は実家近くの斎場に向かう。

 人が死ぬというのは本当に面倒くさいものだ。このまま近所にある火葬場の炉に放り込んでくれればいいのにと思う。

 母はオレの死体が葬儀社の車に積まれる間も、ずっと泣いていた。父は母を立ち上がらせて、車に連れて行った。警官も手伝ってくれた。父は警官に礼を言って、葬儀社の車のあとに続き、車を走らせた。

 斎場に着いた時には日が暮れていた。そこからすぐに通夜が始まった。死体の腐敗が進んでいたので、通夜は近しい親族のみで行うことにしたようだ。

 斎場に続々と親戚が現れる。でもほとんど縁がない。実家に帰っても親戚に会いに行こうとはしなかった。昔はよく親戚の家に遊びに行った。でもいつしかそれもしなくなった。深い理由は何も無い。だんだんと会わなくなって、だんだん会いづらくなった。それだけなんだ。

 やがて坊さんが来てお経を詠んでくれた。いつもは仏壇に向かって詠むお経だが、今日はオレのために詠んでくれたわけだ。悪い気はしなかった。
 
 焼香が済み、坊さんから法話があった。そして最後は喪主である、父から簡単な挨拶。これで通夜は終わりのようだ。来てくれた親戚達が順に帰っていく。父は彼らを見送る。でも母はずっとオレの棺の傍で、オレの顔を眺めていた。数時間が経っても、時が止まったかのように母は動かなかった。
 お母さん。そいつはただの骸なんだ。オレはもうそこにはいないんだ。腐りかけの水が詰まった袋だ。もうそこにオレが帰ることはないんだ。だから、もうそれを見つめるのはやめて、布団に入って休んでよ。

 見かねた父が棺の傍に布団を敷いた。そして母の身体に毛布をかけた。母はやがて体を倒し、オレの棺の横で眠りについた。そういえば母と並んで眠るのはいつぶりだろうか。小学校の高学年の頃には一人で眠るようになった。大きくなったつもりでいたけど、最後はまた子供の頃のように母と並んで眠るのか。
 なぜ母がこんなにもオレを愛してくれるのか、結局分からなかった。オレも親になってみれば分かったのかもしれないけど、結局その機会は訪れなかった。


 翌日の葬儀は朝10時から始まった。綺麗な花々がオレの棺を囲む。

 葬儀場に二人組の同世代の男が現れた。二人の顔を見てオレはすぐに思い出した。小学校の友達のりょー君とみー君。もう何年も何十年も会ってなかった。それでもすぐに分かった。ずっと3人で遊んでた。街へ行って、山へ行って、川へ行って、海へ行って、3人でどこへでも行った。楽しかったよな。実のところほとんど覚えてないけど。でも思い出そうとするだけで、あったかい気持ちになるんだ。
 独りで生きていけるからなんだよ。賢く生きていけるからなんだよ。強く生きていけるからなんだよ。そんな日々よりも、弱くて泣き虫でみんながいなきゃ寂しくてたまらなかった日々の方が、何百倍も暖かい。
 
 りょー君。みー君。暖かな日々をくれてありがとうな。


 秀樹。オレの兄だ。北海道にいるはずなのに、わざわざ来たのか。別に仲良くなんかないけれど、でもやっぱり兄弟だから、良いところも悪いところも知っている。お前の優しさにオレは呪われちまった。お前のようでないとダメなんだと、ずっと思って生きてきた。でも結局、オレは全然ダメで、自己嫌悪の毎日だった。優しさなんてさ、色んな形があっていいはずだろ?頭ではそう思う。でも心がさ、認めない。お前が見せたあの優しさしか認めない。呪いなんだ。
 今のお前が、昔のような優しさを持っているかは知らないけど、でもオレに優しさを教えてくれたのはお前だけだ。あの時、あの瞬間にオレは狂いようのないコンパスをもらったんだ。結局、オレはそこへは辿り着けなかったけどさ。でも、ありがとうな。
 


 葬儀場に女が現れた。有紀。元カノだ。唯一人の元カノ。オレは有紀以外の女と付き合ったことはない。5年以上も前にオレから別れを切り出した。有紀は泣いてくれた。でもオレは有紀を幸せにする自信がなかった。もらってばかりいて、何も無いオレと過ごす時間はあいつのためにならないと、そう判断した。今でもその判断は間違っていなかったと思う。現にオレはこうして何も成さず、何も残さずに死んだ。
 正しかったんだよ、オレは。いま、お前が泣いていないのは寂しいけれど、でも良かったとも思う。
「自分勝手だよね、相変わらず」
 有紀が棺に向かって穏やかな口調で語りかける。
「急に別れようって言ったりさ、急に死んじゃったりさ。自分勝手過ぎるよ」
 そりゃそうだ。勝手に生きて、勝手に死ぬだけなんだ。オレだけじゃないだろ?みんなそうだろ。勝手に生きて、勝手に死ぬんだ。
「どうせ、オレの自由だとか言ってるんでしょ?自由人気取りだもんね、あんたはさ」
 オレは線香の煙のゆらめきを眺める。
「あの時も言ってたよね。お前を幸せにする自信が無いとかさ。あの時の私は何も言い返せなかったけど、今は違う。あの日から、あんたにずっと言いたかったことがある」
 有紀は大きく息を吸った。
「私の幸せをあんたが決めんな!あんたが本当に自由なら、私の幸せなんか考えず私を縛りつけて生きれば良かったんだ。自分の都合の良いように、私を使えば良かったんだ」
 斎場の参列者が有紀を指差しヒソヒソと何かを話しているが有紀は気に留めずに続ける。
「ほら見て、これ」
 有紀は左手を上げて、手の甲を向ける。有紀の左手の薬指には指輪があった。もう誰かと結婚したわけだ。
「いい人よ、誰かさんと違って。お金持ちで、私のことを一番に扱ってくれる。欲しいものは買ってくれるし、私のしたいことを手伝ってくれる。私は自由に生きてる。みんなの人生を利用して、自分の生きたいように生きてる。そうするって決めたから」
 オレは俯いて有紀の言葉を聞いていた。
「だから、私はあんたみたいなことはしない。他人の幸せを考えたり、自由人を気取って他人と距離をとろうとしたりなんてしない。私は自由に生きる。私の人生も、他人の人生も使えるもの全部使って、生きたいように、やりたいように自由に生きる。それでいいんだよ、きっと。あなたと一緒にいて泣かされることもあったけど、でもそれ以上に笑わせてくれたでしょ?それでいいんだよ、きっと。頭で何が幸せなのかを考えたりしなくていい。泣いたり、笑ったり、怒ったり、喧嘩したり、寄り添ったりさ。そうやって日々を生きていく。それで良かったんだ」
 有紀の声がやむ。オレは顔を上げて有紀の横顔を見つめる。有紀はじっと棺の中のオレを見つめていた。
「私はそうやって生きていく。だから、あんたも」
 有紀は棺に歩み寄り、腰を屈めて棺を覗き込む。
「もし次があったら、もし来世なんてものがあったらね」
  有紀はオレの手の上に手をそえながら言った。
「今度は私を手離すな」

 なあ、有紀。死んでも言わなかったけどさ。オレは今でもずっとお前のことが好きだよ。
 オレの傍にいてくれてありがとうな。





 葬儀場に相田が来た。相田はオレと同じくクズ野郎で、でもオレと違って、いい奴だ。いつも寝癖だらけで、ヨレヨレの服を着てる相田が、髪を整えてスーツを着ている。いつもと違う様子の相田をオレは物珍しげに眺めていた。相田はうやうやしくオレの親に頭を下げた。そしてオレの棺の前にゆっくりと歩み寄る。相田は棺の中のオレをじっと見つめている。
 オレは相田の横顔を覗いてみる。フッと笑いが込み上げる。
「泣きすぎだろ、お前」
 そういや、前にも同じようなことがあったな。大学生の頃に相田と二人で映画を観に行った時の話だ。ありがちなくだらない恋愛もの。恋人の女が病気で死ぬ。エンドロールが流れ、他の客は早々に席を立っているのに、相田だけはただじっとスクリーンを見つめていた。エンドロールが終わり、館内の明かりが灯る。
「泣きすぎだろ、お前」
オレは相田の顔を見て笑った。
「うるせぇ」
そう言いながら相田は手の平で目を拭う。

 今も同じだ。鼻をすすりながら、相田は手の平で何度も何度も目元を拭う。オレの棺の前で嗚咽を噛み殺しながら、ずっと目元を拭い続ける。
「変わらねえな、お前は」
 相田に向かってオレはそう呟く。そういう奴だ。こういう奴だ。分かってた。期待もしてた。お前は泣いてくれると、そう思っていた。

「松谷」
 相田が掠れる声でオレの名を呼ぶ。
「ありがとうな。オレ、お前といられてよかった。お前と出会えてよかった。お前のことだ。どうせ悪態をついてんだろうけど、オレはお前のことは絶対に忘れてやらねえから。みんながお前のことを思い出さなくなっても、オレだけはお前を思い出す。お前の悪口を言い続けてやる。悪く思うなよ、松谷」

 ああ。くそったれ。お前のせいだ。お前のせいで。お前のせいでオレは、死にたくなかったと思わされる。こんなにも冷静に自分の死を受け入れていられたのに。お前のせいでオレは、もう少し生きてみたかったと思わされる。

 なあ、相田。爺さんになったオレ達はどんな風になってたのかな?あいも変わらずくだらねえことを言い合ってたんだろうな。

 オレ達はどんなに嫌なことがあっても、"つづきから"しか選べない。"はじめから"は選べない。"つづきから"を選び続けるうちに、オレ達は続けることを一番に考えるようになる。勇者の冒険みたいな筋書きがあるわけじゃないのに、筋書きに沿って生きようとする。そんでもっていずれ"つづきから"も選べなくなる。

 なあ、相田。オレはお前と出会ったことなんて、クソどうでもいいことだと思ってた。道端に落ちてる犬の糞みたいに思ってた。でも、その犬の糞みてえなもんが、いつのまにか宝物になってた。

 なあ、相田。泣いてくれてありがとうな。



 読経が終わり、オレの死体を入れた棺は霊柩車に積み込まれ火葬場に送られた。炉に入るオレの身体。そしてオレの身体は骨になった。
 今までありがとうな。オレは自分の身体にそう告げた。

 父と母はまた葬儀場に戻り、葬儀社の方々に挨拶をした。そしてすっかり遅くなってから二人は家に帰った。
 
 家に戻ると母はハナコを抱いて眠った。ハナコは数年前から父と母が飼っている犬だ。コーギーという犬種で短足、食パンのような色合いの犬だ。
 ここ2日間、ずっと泣き続けていた母は、ハナコをギュッと抱きしめていた。ハナコは困ったような表情でオレの方を見つめてくる。悪いな、ハナコ。しばらくの間、慰めてやってくれ。たぶん、もうじきに元気になるからさ。フスっとハナコは鼻を鳴らす。やがてハナコもイビキをかき始めた。

 外から微かに笛の音が聞こえた。オレは町のはずれの方へと向かった。神社のある方角だ。父とオレのお気に入りの場所だ。父のお気に入りの場所だったから、オレも好きになったんだ。ガキの頃から何かにつけて父に連れられて神社へ行った。神社でセミやカブトムシを採ったり、学校の話をしたり、笛を吹いたりした。ここはそんな思い出の積もった場所だ。
 父は神社の脇にある木のベンチに座った。そうだ。このベンチも父と二人で作ったものだ。バランスが悪くてさ、シーソーみたいに揺れるんだ。お母さんに文句を言われたっけな。父もそんなことを思い出しているのか、カタカタとベンチを揺らしていた。
 やがて父は神社の裏に吊り下げている袋から、一本の笛を取りだした。そしてベンチに座って吹き始めた。懐かしい、そう感じた。そう言えばいつぶりだろうか、父の笛を聴くのは。子守唄みたいで心地よくて、ゆらゆらとオレの思い出を揺らした。くそったれな人生だったかもしれないけど、でもたしかにオレは今まで生きてきたわけだ。生かされてきたわけだ。オレを通り過ぎていった日々達が、オレの方を振り返り、またオレを通り過ぎていく。

 いつも想像してたな。死んだ時には強面の裁判官みたいな奴が、オレのやってきたことを次々に評価して採点するんだって。採点を聞きながら、こうしとけば良かったとか、ああしとけば良かったとか思う。そんな感じ。でも違った。全てが暖かい。くそったれな思い出も、楽しかった思い出も、全てが暖かくオレを包む。生きてきた日々がただ愛おしいんだ。

 いつしか笛の音はやみ、夜は静けさを増す。思い出の揺りかごは止まり、今日という日も終わる。オレもそろそろ時間らしい。もうしばらくすればまた日は昇る。代わり映えのしない日々がやってくる。オレがいない日々がやってくる。

 父も母も、また日々を生きる。
 ハナコも一緒に生きる。
 相田も有紀もオレのいない日々を生きていく。
 りょー君もみー君もみんな、オレのいない日々を生きていく。
 
 たぶん何も変わらない日々
 オレが死んだところで何も変わらないと思う
 みんなオレのことを緩やかに忘れていくのだろう
 いずれオレを思い出すこともなくなるのだろう
 それは少し寂しい気もするけれど
 それでも泣き顔を思うよりはずっといい


 みんなのこれからの日々に幸あれ








終わり
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