第3話

文字数 2,085文字

バス停から大学までは緩やかな坂道が続いている。都会といえど雑草は生えるもので、道端に名前も知らない草が群れを成して伸び、芹のような青臭い匂いを発していた。
「これ香草がわりになったりするかな」
成瀬が考えもなくそう言うと、倉嶋がその葉っぱを千切って鼻先で揺らした。
「セロリっぽい匂いだから?」
「まあ」
「料理すんの?」
「流石にセロリは使わないけど、節約のために自炊……」
人はすぐに背伸びしていたことを忘れる。等身大の自分、というキャッチコピーをよく目にするもののその「等身」すら分からないのが自分たちなのだと彼は常々思っていた。だからこそもっと大きいはずだと考えるし、結果的に背伸びもしてみせる。けれど、ふとした瞬間に何もかも忘れる、という瞬発力を発揮するのだ。
「えらいじゃん。節約も、自炊も」
「別に」
「でもさ、やっぱり雑草は食べない方がいいよ。犬がおしっことかしてるかもだし」
「食べねーわ」
倉嶋は大きな口を開け「ははは!」と目一杯笑った。

町にいる時から身なりに気をつけていた彼を友人はナルと呼んだ。成瀬のナルと、ナルシストのナルだ。田舎でファッションに興味を持てばそう揶揄われるのが定石。誰かに見せるためでもないのに「色気付きよってから」と先輩たちから目の敵にされた。女の子に興味が全くなかったとは言えないが、成瀬はある時、自分が生まれるずっと前の町の風習を聞き何となく女の子と話すのを避けるようになったのだ。
ーー親戚のじいさんが言うとったんじゃけどなあ、むかしっから若者が町から出ていくけえ、残った男子たちをしっかり捕まえておいて、あわよくば引っ付いたらええわーって感じで女子が相手する決まりじゃったらしいで。相手する言うんはお喋りするだけちゃうで?そらもう、あっちのこともじゃけ。羨ましいよなあ。
羨ましい?どこが!
そう言い返したいのをぐっと堪え、成瀬は曖昧に微笑んだだけだった。そんなことを言えばノリが悪い、と煙たがられるのは目に見えている。俺たちはこの町のために生きとるんか?その時言えなかった言葉は彼の中に沈み、底の方に沈殿した。悪しき風習はなくなったのだから。そう言い聞かせながら、沈殿した澱が再びふわりと浮き上がり澄んだ水に混ざってしまわないようにそっと、そっと、ただ静かに過ごした。過敏だと言われることにはいつまで経っても慣れず、いっそ過敏だと言われるような反応は隠してしまえと、貝になって口を閉ざした。

「成瀬くん、思ったより話しやすいね」
いつの間にか雑草を手放し、両手を元気よく振って歩いていた倉嶋がそう言って成瀬を覗き込んだ。
「話しにくいと思ってたんだ」
「ていうか、女嫌いかなって」
「……嫌いっていうか」
何と言えばいいのだろうか?今なら即炎上しそうな田舎の風習を話して何になる?故郷の恥を晒すだけじゃないか。かと言って恥ずかしいだとか内気だと思われるのも何だかプライドが許さなかった。
もう鼻をツンと抜けていくような青臭い匂いはしない。気が付けば既に大学の門をくぐり、敷地内に足を踏み入れていた。大学の構内はだだっ広く木や芝がそこかしこに植えられているため、緑に溢れている。成瀬はその葉の上できらりと輝く陽光に視線を向け、ゆっくりと目を細めた。嫌いっていうか、何だろう。
「やだ。手が臭くなっちゃった」
彼が宙に漂わせた言葉の破片を探しもせず、倉嶋は両手を交互に鼻に近づけた。右の手のひらをくんくん、と匂ったあと、今度は左。そしてもう一度右。犬がテリトリーを確認しているかのように真剣な眼差しだ。
「倉嶋さんってちょっと変わってる?」
「あ、そうやって自分と違う部分がある人、理解できない人のこと、すーぐ変わってるとか言うの良くないと思う」
「……ごめん」
「あとあれね。女なのに話しやすいとかお前のこと女だと思ってないとか。性別で安易に括るの、あんまり好きじゃないんだよね」
「女嫌いかと思ったって今言ってなかった?」
彼女は大袈裟に眉を上げると、まだしつこく手のひらを嗅いだ。そっと、さり気なく。
「それは観測された事実に基づいて便宜上そう言ったまで」
「あ、そ」
成瀬は鞄の中に手を入れ、ウェットティッシュを取り出して彼女に渡してやった。
彼の鞄は四次元ポケットと呼ばれていた。ティッシュ、ハンカチ、ウェットティッシュに始まり、折り畳み傘、下痢止め、絆創膏。それこそ「女子かよ」と言われたりもした。備えあれば憂いなし。そうやって安心感を得ようとすることに果たして性別が関係あるのだろうか。かつて一瞬考えて、結局成瀬は思考を放棄したのだけど、彼女が持っていないところを見るにやはり性別は関係ないなと思った。
「用意がいいねえ。潔癖?」
「そんなことないと思うけど。ただ何かあった時のために持ってたら安心っていうか。その時に慌てなくて済むじゃん」
「まあそうだね。そうなんだけど、荷物が重くなるのがね。しかもほら、こういう私みたいなずぼらな人間に当てにされると面倒でしょ。正直者が馬鹿を見るじゃないけどさ」
「分かってるなら当てにしないでね」
倉嶋はまた大きな口を開け「ははは!」と笑った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み