僕たちの間は恋ではなかった。

文字数 1,135文字




 落としたてのコーヒーが好きだった君に合わせて、僕はサイフォンを買った。
 一度振る舞ってくれたあのコーヒーが美味しかったのと、アルコールランプで沸騰してゆく水の動きが面白かったから。
 君が使っていたあの年代物のサイフォンとは格が違うけど、これでも僕にしては大きい買い物だったんだ。

 見様見真似で使ってみるけれど不格好で上手く行かない。
 あの時の手慣れた君の様子が説明書で、その通りにすればきっとできると思ったのだけれど、ちょっとショックなくらい僕の中の君があやふやだ。

 上書きされていく記憶に君が消されていくのが嫌で、深呼吸しながら心のなかでその動きをなぞった。



 あのサイフォンは、君の叔母さんが持っていったんだってね。
 聞いたよ。



 どうにか形にして、ミネラルウォーターを入れる。
 コーヒーはすり切り二杯。
 網膜に焼き付けた姿に倣ってアルコールランプに火を点けた。



 あのサイフォンではないけれど、好きだと言っていた銘柄のコーヒーは、君が淹れてくれた香りがした。



 グラスに氷をたくさん。
 落ちたコーヒーを注ぐ。
 あの時みたいに氷も同じミネラルウォーターで作ったんだよ、偉いだろう。
 家でできる最高の贅沢だって、笑っていたことを思い出す。


 ストローを挿したら、完成。
 僕が淹れた、君のアイスコーヒー。



 ふたりの思い出は、僕の中にこれきり。
 君は笑った。
 僕も笑った。



 あれが最後になるなんて、僕は考えてもみなかったんだ。



 連絡が来たのは一週間も経ってから。
 共通の友人を通してだったよ。
 仕方がないよ、僕たちの間は恋ではなかったから。
 とても親しいわけでもなかった。
 ただ夏の暑い日に、示してくれた親切を僕が受けただけ。



 そしてこれが僕の弔い。



 グラスを手に取りストローを噛んだ。
 君が淹れてくれた味がした。
 これが始まりになるだろうかと、淡い期待を抱いた味。
 君が僕を憶えてくれていたこと。
 笑ってくれたこと。
 嬉しくて僕はきっとぎくしゃくしていたね。
 とてもとても大切だよ。
 ふたりで結べた初めての思い出。




 それが最後になるなんて、僕は考えてもみなかった。




 ずっと君のことを考えている。
 これまでもそうだったけれど、今も。

 僕たちは始まることすらなかったんだね。

 それなのに終わってしまったんだね。

 僕は心のなかに君の場所を作ってしまった。
 そこはとても広々としていて、ふたりがたくさん詰まるはずだったんだ。


 僕たちの間は恋ではなかった。
 とても親しいわけでもなかった。
 少しだけ泣いてもいい気がした。
 あのとき初めて交換したアドレス、消さないでいてもいいかな。



 好きだと言っていた銘柄のコーヒーは、君が淹れてくれた味がした。







 寂しいよ。
 とても。


 悲しいよ。
 とても。

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