2~ゲームの始まり

文字数 1,530文字

「物騒な世の中になりましたね……」
 寿司屋の大将は、テレビを見ている僕にそう言ってマグロの中トロを一貫差し出してくれた。
「殺人事件ですか。この近くじゃないですか!」
 テレビの二ユース番組は、この日起こってしまった残酷な殺人事件を、かなり長い時間をかけて放送していた。実の息子に無残に殺された母親が、唯一の被害者だった。
「世の中どうかしていますね……」
 僕は、マグロの中トロを頬張りながら、次のネタを握っているであろう大将の顔色を伺った。大将は、シャリを握る手を急に止めて僕の顔を凝視した。
「あ、あんた……」
 大将は、少しだけ後退りする仕草をした後、まな板の上に置いてあった刺身包丁を右手に握りしめて、僕にその鋭い刃先を向けてきた。
「テレビに映っていた犯人の顔写真とあんたは、誰が見ても同一人物だ!!い、今すぐここから出て行けっ!警察に連絡するぞ!!」
 僕は、この店に入ってからまだマグロの中トロ一貫しか食していない。それなのに、もう店から出て行けなんてコイツは客を何だと思っているんだ?そもそも、僕が今テレビのニュース番組でやっている母親殺しの息子だという確固たる証拠はないだろうよ?顔写真が似ている?言っておくが僕の顔は、そんじょそこらの輩たちとは一線を画す程の非の打ち所がない美男子だ。ついでだからテレビに映し出された犯人の顔写真とやらを拝見したけど、そいつは、薄気味の悪い笑みを浮かべている様な下衆な顔立ちだった。

「オッサン、何か勘違いしていないかい?僕は、ただの寿司好きなサラリーマンだよ!とにかく腹が減っている。早く次のネタを握ってくれ!!」
 僕は、ニュース番組でやっている事件など微塵にも気にしちゃあいなかった。早く美味い寿司が食いたいだけだった。

「む、無理だ!お前、人殺しだろうっ!?」
 大将は、何だかへっぴり腰になってしまって、これでは寿司を握るどころではないような気がしてきた。
「いいよ。俺が自分で寿司を握る!」
 僕は、そそくさと板場に入って大将から刺身包丁を奪い取ってネタを引き始めた。
「さっきの中トロ。シャリに程よく空気が入っていなかったからネタとの融合性が欠けていたよ!ワサビも作り置きのモノを使っただろう?風味が全く感じられなかった」
 僕の話を黙って聞いていた大将は、只々呆然と立ち尽くしているだけだった。

「あんた、一体何者なんだい?」
 大将が、ようやく口を開いて僕にそう言った。
「焼き場、借りるよ!」
 一通りの握りずしを作り終えた僕は、最後に玉子焼きを作る作業に取り掛かった。数分後、完璧な玉子焼きを手際よく作り終えた僕は、大将に向かって、
「そうだよ!俺が、あの母親を殺した。でも犯人である息子は、もうとっくに自殺しているよ!」
「い、一体どういう事なんだ!?」
 大将は、わけが分からなくなったようだった。無理もない。でもね。これは、みんな僕の計画通りなんだ。そのうち誰かが、そのトリックを見破るかも知れない。けれども僕は、決して捕まらない。何故なら僕は、もうこの世には居ないはずの存在だからだ。

 午後七時三十四分。
寂れた寿司屋で、自分で作った寿司や玉子焼きを堪能した僕は、しっかりとお勘定を払って店を出た。外は、真っ暗で少し寒く感じたくらいだ。

「ごちそうさまでした……」
 小さな声でそう呟いた僕は、一瞬だけあの寂れた寿司屋を振り返ってみた。

 寂れた寿司屋の板場の中で大将は、長い刺身包丁と一緒に全身血塗れになって倒れていた。木島悠人。彼が犯した殺人行為は、これからも続いていく。彼が座っていたカウンター席の上にピン札の一万円紙幣が、丁寧に一枚だけ置かれていた。
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