優れた潜水者

文字数 2,000文字

 パソコン画面にはエラーメッセージ。
 私は不具合をヘルプデスクに連絡しながら、お弁当をかきこんだ。
 遅い昼食。どうせ夕飯も遅くなるだろう。
 働けば働くほど、仕事が増えて人は減る。
 やりがいをはるかに上回る負担で、身体と精神はすり減っていくばかり。
 毎日泳いでいた頃の壮健さは見る影もなかった。就職したらスキューバダイビングを楽しもうと資格をとったのに、最後に海へ行ったのは何年前だ?
 待ち時間を持てあましていると、OSが復旧した。
 愚痴をこぼしつつ仕事に励み、オフィスには私1人になった。
 あと少しだ。
 さっぱりしたものを食べたいな。
 夕飯のことを考えた矢先、パソコン画面が暗転した。
 疲れた顔の私と目が合う。
 「なんだよ……」
 こめかみをさすっていると、画面の中に蟹が現れた。
 ドット絵の蟹が、横歩きで登場したのだ。
 ウイルスに感染していたのか!?
「こういう時ってどうすればいいんだっけ……」
 スマホに手を伸ばすと、パソコン画面の中の蟹がハサミを振るった。
 吹き出しに文字が流れ込む。
『ウイルスじゃないよ!』
「小賢しいな」
『小賢しいとはご挨拶だね』
 思わず息をひそめた。
 盗聴器? スマホのマイクか?
 蟹は言う。
『ボクはキミの願いを叶えにきたんだよ。ボクは魔法が使えるんだ!』
 夢の中か、幻覚か。働きすぎたんだ。
 よりによって頭がおかしくなるなんて最悪だ。
 あとちょっとで仕事が終わるところだったのに。
『キミもボクと同じように別の生き物に変えてあげられるよ』
「なれるわけない」
『そんなことないよ。例えば身体の細胞はさ、身体の構成要素の1つなんだけど、独立して培養すると1個の生物のように振る舞えるんだ。遺伝子にはいろいろな細胞になれるポテンシャルが眠ってる』
「癌じゃないか」
『うん、まぁ、そんな感じなんだけど』
 そんな感じって……。
「それでYESなんて言うわけないだろ」
『ボクには世界をハックする力があるんだ』
「だったら残業のない世界にしてくれよ」
『ごめんね。そこまでの力はないんだ』
「はぁ……」
 やる気が散逸していく。
『自分を書き換えることしかできなくて。でも、社会が求める役割から解放してあげられるよ?』
「いいよ、もう」
『そっか。邪魔して悪かったね』
 ぺこりとお辞儀した蟹が消えて、パソコンが元に戻った。
 正気に返ったと納得するには心許ない奇妙さだ。
 壊れる予兆だとしたら……。
 私は不安を感じつつ、仕事を続けた。

 おかしくなったのは世界の方なのかもしれない。
 翌日、町の真ん中にゾウがあらわれて大騒動になった。所属する動物園がみつからず、個人や企業が飼育していた個体でもない。
 次から次へと所有者不明の動物が出現している。
 時を同じくして失踪者の増加が取り沙汰され、出自のわからない生物たちの賢さに注目が集まった。
 私の中で荒唐無稽なストーリーが像を結ぶ。
 不気味なことに謎生物は念力を使えた。大した威力はないが人間らしい振る舞いをするには十分だ。
 スプーンを使って食事し、歯を磨き、トイレに行くものもいる。ついにはスマホを使い、自分は元人間だと告白する彼ら。
 異常事態が日常になり始めた頃、あいつと再会した。
 隅田川のアザラシを観に行った帰り、私のスマホ内に現れた蟹。
『こんにちは! キミもどう? 想像してみて。超能力で空飛ぶペンギンなんて素敵じゃない?』
 私は立ち止まって首をかしげた。
「飛べない鳥って可哀想なのかな? 『人間はしっぽがなくなって残念だったね』なんて言われてもピンとこないでしょ」
『キミを否定するつもりはなかったんだよ。気を悪くしたならごめんね。最後にどうかなって思って』
「最後?」
『ボクはね、世界も変えてしまおうとしたんだ。信じてもらえないかもしれないけど、みんなが楽して幸せな世界にしたかった』
 突然、空が白くなった。曇りにも似ていたそれは、ありえないほど均一な白さだった。
「これって……」
『でも、世界の仕様にはかなわなくて。それでね、ボクは生き残るのだけはうまくなったから、せめてもの抵抗で初期化させることを目指したんだ』
 太陽がないのに明るい。ビルのツヤと影が消えて街路樹もなくなった。空白が増えていく。
 私の口から軽い笑いがこぼれる。
「アプリケーションを終了していますってとこか」
『世界がより良い役割を与えないのなら、壊してしまうぞってわからせようと思って』
 建物が蒸発し、道路も消えた。果てのない空間に人々が取り残されている。
「うまくいった?」
 蟹はうなだれた。
『ううん。再起動だね。エラーを修正して二週間前から再開かな』
「あの残業からかぁ。まぁ、忘れてるか」
『ボクが覚えているよ』
「次はイワトビペンギンを勧めてくれない? 暖かい海の方が好きなんだ」
『任せて!』
 蟹の両手にはピースサイン。
 私は大きく息を吸った。
「きっと断ると思うけど。……今度は泳ぎたいな」
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