第3話

文字数 3,440文字

 仏歴二五六二年 五月一二日
 
 明日、チャーンは小学校に入ります。
 白い半袖のシャツに半ズボンの制服姿になり、彼は得意げです。
 家の中で手足を伸ばし軍隊式に歩いています。
「チャーン軍曹、今日の目的地はどこでありますか?」
 バンクが敬礼をしながら声をかけました。
「小学校だ」
「小学校で何をするのでありますか?」
「う~ん、勉強だ」
「軍曹は兵隊ではないのでありますか?」
「う~ん、兵隊でも勉強するんだ」
「どうしてでありますか?」
「う~ん…うるさいよ、父ちゃん!」
「ははっは」
 ギャンブル好きな悪い癖はありますが、バンクは子供好きで優しい人なのです。
 タイ人は男性も女性も子供が好きです。他人の家の子でもあやしたり遊んだりするのが普通です。
 日本ではベビーカーの赤ちゃん連れのお母さんが電車に乗ると白い眼で見られる、とプロイさんが言っていました。
 信じられません。
 タイなら、みんな寄ってきて赤ちゃんの注意を惹こうとするでしょう。

 仏歴二五六二年 六月一四日

 タケダさんの具合がますます悪くなっているようです。
 外にほとんど出ず、たまに出てくると、壁に手をつきながら歩いています。
 ご飯をちゃんと食べているんでしょうか?
 私は心配になって、プロイさんに相談しました。
「ちょっと様子を見に行こうか」
 五〇四号室の扉をノックしました。
 少し時間を置いて、扉が開きました。
 部屋の中を覗くと、真昼間なのにカーテンは閉め切ったまま。空気が籠っていて、何か異臭もします。
「こんにちは、タケダさん」
 プロイさんは日本語で話しかけました。私は後で会話の内容を教えてもらいました。
「何だい?」
「お身体大丈夫ですか?病気じゃないですか?」
「調子は良くない。病気かは分からない」
「病院には行かないんですか?」
「保険がない」
「クレジットカードはありませんか?」
「ないよ」
 プロイさんは考え込みました。
「カーテンも閉め切って、窓も開けていませんが、空気を入れたり、外に散歩に行ってはいかがですか?」
「面倒なんだよ。朝カーテン開けて、夜閉めるのも。外になんて出る気力はない」
「分かりました。何か手伝える事があれば、管理事務所に連絡くださいね」
 タケダさんは面倒臭そうに手を振って、扉を閉めました。
 プロイさんは深い溜め息をつきました。
 私たちタイ人は仏教の教えで、困った人がいれば助けるのが普通です。
 でも、相手がそれを拒絶するのであればどうしたら良いのでしょうか?

 午前中の休憩時間になりました。
 メーウさんが枝がついたままのライチーを沢山持って来ていました
「農家の人がピックアップトラックで売りに来てたんだよ。一キロで三十バーツ。旬の季節だから安いよね」
 赤い皮を剥くと、白くてぷりっとした丸い実が顔を出します。程よい甘さでいくらでも食べられます。
「タケダさんのこと聞いたよ。ヤマシタさんにみたいにならないと良いけどねえ」
「ヤマシタさん?」
「そう、以前、九一〇号室に住んでたんだよ。もう五年くらい前だけど、部屋からすごい臭いがして、蠅が異様に増えて、鍵を開けてみたら死んでたんだよ。誰にも気がつかれなかった」
 私は果物が喉に詰まりそうになりました。
「もう大事だったよ。警察は来るわで。でも、後の掃除が本当に大変だった!」
 メーウさんは興奮して話し続けます。
「床に色が残って取れないから、修理人たちは床の板を剥がして貼りなおしたんだよ。それでも、臭いが取れなくてさあ」
「ヤマシタさんの家族は?」
「管理事務所が日本の領事館を通して探したけど、見つからなかったみたいだよ」
「じゃあ…」
「そう、無縁仏で近くの寺院で葬られたよ」

 他のアパートで同じ清掃の仕事をしている近所の友達も、同じように日本の老人たちが一人きりで住んでいるという話をしていました。
「まるで、死ぬのを待っているみたい」
 彼女は言いました。
 老人たちは日本で死にたくないのでしょうか?
 自分のお父さんやお母さん、ご先祖の魂がいる地で…。
 何故なのでしょう?
 私はタイ以外の場所で死ぬ事など考えられません。お寺にお参りし功徳も積んでいますから、仏様は私の願いを叶えてくれるでしょう。

 仏歴二五六二年 七月四日

 雨季に入っています。
 スコールと呼ばれる種類の雨が基本です。
 風が強くなったかと思うと、空が暗くなり、次の瞬間、雨が降り始めます。
 次第に雨足は強くなり、でも数十分すると、再び突然やみます。
 そして、晴れた空が顔を出します。
 この時期、面倒なのは道路が頻繁に冠水する事です。
 特に、私たち一家の住む安アパート近辺は道自体が狭く、排水も上手くいっていないので、激しい雨が降る度に水が踵上くらいまでになります。
 靴と靴下を脱ぎ、何とかそこを抜け出すしかありません。
 家の中も壁の上の方が水でふやけ、かび臭いです。
 早く雨季が終わって欲しいです。

 仏歴二五六二年 七月二一日

「今日は儲かったぞ!」
 バンクが満面の笑みで帰って来ました。
「サムットプラカーンの方までの客でさ、会議があるとかで急いでたんだ。飛ばしまくって頑張ったぜ、バイクは渋滞知らずだからな」
 バイクタクシーは住宅街の小さな道を行き来するのが主です。長距離を走ることは少ないのです。
「アッポーのお祝いに行こう!」
 実は、先週、アッポーが地区のバドミントン大会で五位になっていたのです。
「え、良いの?」
 アッポーがスマホから顔を上げました。
「どこに行きたい?」
「じゃあ、****モールがいいなあ」
 最近出来た大きなショッピングモールです。そこにアッポーの好きな韓人国アイドルのグッズを売るお店が入居しているそうです。
 私は少し躊躇しました。
「大丈夫だよ!今日の金もあるし、この前の賭けで勝った分もあるからさ!」
 バンクは自信満々の顔つきです。この前、借金で困っていたでしょうと私は言いたくなりました。次に賭けたら、それがなくなるのは目に見えています。
 お金もかかりそうですが、私は他にも気になる事がありました…。

 たまに出かけているスーパーと、その新しいショッピングモールは全然違っていました。
 外国映画に出て来るような白服のドアマンが扉の脇に立ち、中に入ると高級ブランドの店がずらっと並んでいます。ヨーロッパの外車の販売店までありました。
 興味津々できょろきょろと見渡すものの、緊張しているせいか家族全員で固まって動いてしまいます。
 次女お目当ての韓国人アイドルのショップに行った後、昼ごはんを食べることにしました。
 今日の主役であるアッポーが店を決めました。
「私、ここがいい」
 次女はインターネットで調べ韓国のフライドチキンの店を選びました。ソウルで有名な店のバンコク支店だそうです。人気が高く、店の外にある椅子に数名が座り待っています。
 メニューを見てみました。フライドチキンのセットが二百バーツ近くします。屋台で売っている鶏の唐揚げの数倍もします。私が不安そうにしていると、バンクが親指を立ててOKサインを寄越してきました。
 二十分程経って、店内に入ることが出来ました。
 テーブルに座ると、ウエイトレスが注文を取りにやって来ました。
「はい、待ってました!まず、このオリジナルチキンとキムチのセット四つね、それと…」
 バンクが大きな声で言うと、ウエイトレスと隣に座ったカップルがくすっと笑いました。東北訛りです。私もそうですが、バンクも訛りをうまく消せないでいます。それを時々笑われてしまうのです。
 これが、モールに行く来ると決めた時のもう一つの気がかりでした。
 チャーンは何も気にせず笑っていましたが、私たちはその後少し静かになってしまいました。
 モールからバスに乗り、家の近くのバス停で降り歩いていました。バンクはいつものような元気がありません。
 私は夫の腕をぐっと掴んで抱きつきました。
「お母さんたち、仲良い~」
 アッポーが冷やかしました。
「へへ、どうだ羨ましいだろ?お前、十四歳になっても彼氏いないもんな!」
「私はソジュンと結婚するんだ」
「誰だそれ?」
「パッショネートキッスのメンバー」
「アイドルと結ばれると思ってるのか?」
「分からないでしょ、何が起こるか」
「わが娘ながら呆れるよ~」
「うるさい!」
「うるさいっ!」
 チャーンが姉の真似をしました。
「はいはい、黙ってますよ。あ~、お父さんは可哀そうだなあ~」
 バンクは大げさに肩を落としました。
 いつもの光景が戻ってきました。
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