第1話

文字数 1,946文字

ごろごろごろとスーツケースの転がる音が、鈴虫の鳴き声の中へ溶けていく。
日が短くなってきたのを感じながら、丘の上にある実家の方へ向かう。
学生の頃は毎日のように自転車で走り抜けていた大通りは使わずに。



「あった・・・」
コンクリート舗装のされていない山道に入って、三叉路を右手に抜けた先の川沿いにある、軽自動車も通れない幅の小さなトンネル。
明るい時間であれば反対側の出口も見えるくらいの短い歩行者用の通路だが、この時間に見ると空間にぽっかり穴が空いているようで不気味である。この辺りは日が暮れるとほとんど人通りもないのだが、我が家のある住宅街へ抜けるためには、ここを通るのが近道なのだ。
そして、このトンネルには秘密がある。
 

 
トンネルで起こる不思議な現象に初めて気がついたのは、小学生の頃だった。
習い事から帰る途中、同級生とのおしゃべりを切り上げるタイミングを失ってしまい、夕食に間に合わなそうだった私は、仕方なく近道を使った。
物々しい雰囲気に負けずに目を瞑りながらトンネルを駆け抜け、時間通りに帰り着けたところまではよかったものの、ご飯を食べていると身体が妙なのであった。
箸がうまく使えないのだ。
「お母さん、なんかお箸がうまく動かせなくなっちゃった」
自由の効かない自分の指先に気持ち悪さを覚えながら母に伝えると、
「あんた、左利きだからそりゃ右手じゃ使えないでしょう。いままで矯正しようとしてもあんなに嫌がってたのに突然どうしたのよ」
母はきょとんと私の手を見つめながら、そう言った。

その日のテニスの練習ではまだラケットを右手で振っていたはずなので、家に帰ってくるまでのどこかで私の身体は変わってしまったということになる。
「あのトンネルだ」
そうだとしか考えられなかった。




それから私は何度も"実験"を繰り返し、トンネルの不思議についていくつかの仕組みを解明した。
一つ目、秋口の夕暮れ時にこのトンネルを通ると自分の何かが変わってしまうということ。
二つ目、それは一年に一度だけしか起こらないこと。
三つ目、自分以外の人はその変化に全く気が付かないこと。
そしてもう一つ、そのとき自分が心のどこかで望んでいる変化が起こること。
数年におよぶ研究を続ける過程で、私はいつしかこの現象はトンネルにいる神様のような何かの仕業だと思うようになり、それをオカエサマと呼んでいた。



これまで私の身体にはさまざまな変化が起こった。
ある年にはくるくるだった髪の毛が直毛になり、ある年には瞳の色が少しだけ茶色がかった色になった。
猫背が治ったのは中学2年生の頃。眼鏡をかけずに過ごせる視力を取り戻したのは高校1年生、初めて推しのライブのチケットに当選した年だ。
オカエサマの恩恵を受ける一方で、年を重ねるごとに"望まぬ劇的な変化"が起こってしまうことへの不安が膨らんでいった。例えば「羽が生えて、誰も私のことを知らない遠くの土地に飛んでいきたい」とか「猫になってのんびり暮らしたい」とか、あるいは「早く大人になりたい」だとか。そういう願いが突然叶ってしまったら、それは恐ろしいと思い始めたのだ。
そんなことを感じている中で、受験のための勉強が忙しくなり、その後都会に出て華の大学生ライフを送っているうちに、このトンネルと、オカエサマのことはすっかり私の意識から薄れていった。
 


それから大学生の頃に住んでいた県でそのまま就職し、アラサーと括られるこの年まで働き続けてきた。
いまだに交流のある学生の頃からの友人も近所に暮らしているし、職場の人間関係も良好だった。無茶な生活をしていたわけでもないと思う。
それがある日、胸の奥でクシャっという音がして、今の生活を続けようという気が全くなくなってしまった。翌週に仕事も辞めてしまった。
人と会う気力も湧かず、同僚からの心配のメッセージに返信をする気にもなれないまま、ただただ一人で過ごしていた。
いったい自分が何をしたいのか、自分でも全くわからなかった。これほど自分自身のことが理解できないのは初めてだと思いながら、日々を浪費していった。
そんな中、ふと鏡に映る自分の顔を見た時に、オカエサマのことを思い出した。あそこへ行けば、なにかわかるかもしれない。そう思って、「秋頃に家に帰るね」と母に一報入れた。



あたりが暗くなってきたのを確認して「今だ!」と目を瞑り、トンネルを駆け抜ける。
反対側の道へ抜けた明るさを瞼の裏に感じたところで、ゆっくり目を開け、身体の隅々まで意識を向けてみる。
「そうか。私、そうだったんだ」
自分の身体の変化に、妙に納得がいった。
さっきよりも軽く感じるスーツケースを引っ張りながら、足を進める。
私はこれから、この自分で生きていくのだ。


 
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