人を蹴ってはいけません

文字数 1,765文字

 レバーを踏んで蛇口から水を出し、赤い色の液体石鹸で手を洗う。
 今日やることを頭の中で整理しながら、深く息を吐いた。
 するとふくらはぎ辺りに衝撃が走る。何事かと振り向けば、順番待ちの見慣れた看護師がじとりとねめつけるようにこちらを向いていた。
「ナルシストがため息吐いてるとか、どういう風の吹き回しですか」
「……蹴ったな?」
「膝蹴りです」
「なぜに?」
「幸薄そうなため息吐いてるからですよ。背中を思いきり蹴らなかっただけましと思ってください」
 淡々といい放つが、別に機嫌が悪いという訳ではないのだろう。彼女はいつもこんな感じだ。
「ナルシストなのに珍しいですね。何か悩みごとでも?」
 どうしてこう、一々突っかかってくる言い方をするのだろう?
 ……いや、今はこの方が嬉しいかもしれない。本人に意図があるかはともかくとして、下手に心配されるより気が楽だ。
「今日の手術に気になることがあるんですか? あなたほどの医者が」
「褒めてくれるね」
「ええ、不本意ながら」
「確かに、俺より手先が器用なやつなんて見たことがない」
「さすがの自信ですね。私もあなたより器用な人見たことないです」
「だろー?」
「すぐ調子に乗る」
 目を細め、呆れたように彼女が言う。
 泡を水で流し、もう一度石鹸を手に取った。手術前は二度洗うことになっているのだ。
「自分の腕に自信はあっても、もしもということはあるでしょうよ」
「難しい症例という訳でもないんでしょう?」
「難しいということはないだろうね。別に初めてって訳でもない」
「じゃあいつも通りやればいいじゃないですか」
「えらく簡単に言ってくれるね。そもそも治すためとはいえ、人に刃物を入れるということについて思うところがないわけじゃない」
 血や臓器に満たされた腹を覆うのは、キメの細かい皮膚だ。暴くようにメスを入れるその一刀に、いつも緊張して手が震えそうになる。
「有り体に言えば、こわいんですよ」
「恐怖、ですか」
 メスを入れるあの瞬間は何度やっても慣れない。手術が進めば、だんだん精神が追い付いて来るからペースを取り戻すが、それでも付きまとう恐怖までは拭えない。
「わざわざ痛い思いをさせているからね。ちゃんとうまくいくだろうか、シミュレーション通りで大丈夫だろうか、俺でいいのだろうかって思う。けど俺じゃなきゃうまく出来ないっていう自負もある。それでもこわいよ」
 弱音のように聞こえるが、弱音ではない。ただの事実で、隠していることでもなかった。
 拭えない恐怖は、可愛くもいつ牙を剥くか分からない飼い犬のようだ。よく理解して、調教し、飼い慣らさなければならない。
「とはいえ恐怖があることはいいことだとは思ってるんだ。慣れた瞬間、俺のことだから何かやらかしそうだし。それにこわいから入念に準備しているところもある。準備したことは手術中に生きてくる」
 水を出して再び泡を流す。半歩隣に避けて順番を譲り、ペーパータオルで手を拭いた。
「落ち着くためにため息吐いてるだけだから、気にするほどのことは無いよ。心配かけたね」
「酸素の入れ換え、ということですね?」
「そういうこと。呼吸は大事ですから」
「なるほど。では、今日もよろしくお願いします」
「よろしく。ありがとう、話していてちょっと落ち着いた」
「礼を言われるほどのことでは無いですよ……不安が伝播したら良くないと思っただけですので」
「君はいい看護師だよねぇ」
「あなたの心配をしていたわけではないです」
「全体の心配をしてくれてたんでしょう? 気が利くし、よく見えている」
「褒めるじゃないですか」
「何か奢りたいくらいだ」
「それならコーヒー淹れてくださいよ。先生の淹れたコーヒーは美味しいって噂聞きましたよ」
「器用だからそういうのも上手いんだよね。いいよ、淹れてあげる」
「今日じゃなくていいので」
「疲れの心配してくれてる? コーヒー淹れるくらいなんてことないから、気にしないで。休憩のときに淹れるよ」
 本当に、いい看護師だ。いや、人としていい人なのだろう。出会い頭に蹴りを入れる辺り人付き合いが器用な人ではないのだろうが、人を気遣える優しい人だ。
 そう考えれば、看護師に向いている人なのであろう。俺が医者に向いているように。
 今日も恐怖と共に全力で頑張ろうかと意気込んで、手術室へと足を踏み入れた。
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