連関

文字数 2,761文字

 テープを巻き戻すと、稔はビデオをデッキから取り出した。この古い映画はビデオにしか収められていないものだった。稔はビデオテープの二つの穴を少しの間じっと見て、これだけディスクの普及した時代じゃあ、もう懐かしくすらあるなあと思った。
 稔は立ち上がるとベランダへ出てタバコを吸った。雲のない空に、群青がゆるりと広がっていく。ベランダの面した小道を男性が歩いているのが見えた。稔はその姿をぼんやりと眺めながら、彼はどこへ行き、そしてどこに帰るのだろうかというようなことを、やはりぼんやりと考えてみる。
 男の向かう先で、最後の夕陽が山の陰に消えた。空に向かって煙を吐き、灰皿に灰を落とすということを何度か繰り返し、ふと思い出して目を遣ると男性の姿はもうどこにも見えなかった。
 不意に携帯電話が振動した。稔はポケットから携帯電話を取り出して通話ボタンを押した。
「もしもし」
 電話から聞こえてきたのは、久しぶりに聞く姉の麻子の声だった。
「久しぶりね。元気?」
 稔はああ、とか、うん、とか適当に答えながらタバコの火を消した。
「姉さんは?」
「いつも通りよ。変わらないわ。ところで来週の日曜のことだけど、稔は出席できるの?」
 稔は先月母親からかかってきた電話を思い出した。
 稔? 来月の第三日曜日、そう十七日にね、おばあちゃんの七回忌をやろうと思うのよ。お父さんの弟さんと従妹さんとで静かにやるつもりよ。あんた帰って来れそう? お姉ちゃんにはこれから聞いてみるわ。帰って来られるなら早めに電話ちょうだいね。お弁当の注文もあるし。
 父方の祖母の七回忌が来週に迫っていた。母親には参加すると言ってあったはずだ。だが稔はそのことを忘れていて、いや忘れていたわけではないのだがきちんと覚えていたというわけでもなくて、このまま麻子から電話がなければ前日のぎりぎりの時間になってようやく思い出し、慌しく帰省の準備を整えることになっただろう。
「うん、出るつもりだよ。姉さんは帰るの? 仕事忙しいんだろ」
「どうにかして帰るわ。おばあちゃんにはお世話になったから、ちゃんと御参りしたいの」
 麻子と会話しながら、稔は祖母が人生の最後を過ごした病室を思い出していた。廊下の突き当たりから三番目の個室。消毒の臭いとかすかな腐敗臭が混ざった臭いがして、長い間病室にいると嗅覚が麻痺した。人工呼吸器のシュー、シュー、という音が聞こえた。ベッドからのぞく骨と皮だけの細い腕。ある時は母が、ある時は叔母が、また違うときには姉が、しわだらけになった手を優しく握っていた。
「ねえ、稔」
 麻子は一呼吸置いてから続けた。
「後悔してる?」
 後悔。耳から入ってきたその単語は、少しずつ重みを増しながら脳から全身へと送られていく。
「どうしたんだよ、急に」
「ううん、別に。ただ聞いてみたくなっただけ。稔は後悔してるのかなって」
「……何を?」
「いろいろ、よ」
 ねえ、稔。後悔してる? 何を? いろいろ、よ。稔はこの短いやりとりを反芻した。ねえ、稔、後悔してる? ねえ、稔は後悔しているの? 麻子の声を咀嚼すると、幾つかの情景が、言葉が、記憶の断片が、頭の中で浮かんでは消え、また浮かんでは消えていった。浮かび上がる度に鎖骨の下が鈍く疼く。すでに慣れっこになったはずのこの感覚を、稔はいまだに持て余している。
「うん、してるよ。いっぱい」
 それらはもう、どうしようもないことなのだ。いつもそうだ。いつも、どうすることもできなくなってから気がつく。稔は苦い唾液を飲み込んだ。すべてが終わってから気がつくのと、気づくことすらできないのと、どっちが不幸なのだろう。
 姉さんは後悔していることあるの? どれくらい悔やんでる?
 稔はそう聞こうとしてやめた。その代わりに口から出てきたのはこんな問いかけだった。
「姉さん、俺がこうやって生きていることには何か理由があるのかな」
「……さあね。与えられた理由なんてないんじゃない。たまたま生まれたからなんとなく生きて、そうしていつかわけなく死んでいく。世の中ってそういうものよ」
 麻子の返事はそっけないものだったが、その口調から、麻子が今までこの問を飽きるほど考えてきたのだろうということが稔にはわかった。そして、彼女の言い方に冷たさや適当さがなかったことが嬉しく思えた。「はは、姉さんらしいや」と稔が笑うと、麻子は「どういう意味よ」と冗談っぽく怒った声を出した。
 姉さんと俺は違う、と稔は思う。違うのに似ている。いつだって出てくる答えは正反対のものなのに、出発点や考える道のりや途中で行き詰まるところが共通している。いつからか、わざわざ過程を確認しなくても、互いの思考が同じ要素を多く持っていることを感じるようになった。それは一方では稔の孤独を少しの間癒してくれたが、また他方ではわかりすぎてしまう恐怖で彼を苦しめた。
 ねえ、姉さん、何で俺たちはきょうだいなのかな? 何で姉さんが姉さんで、俺が弟なのかな?
「多分ぎりぎり間に合うと思うんだけど、、少し送れちゃうかもしれないから、稔は先に家に帰ってお母さんたちを手伝ってあげてね」
「ああ、わかった」
「じゃあ、十七日にね」
「うん、またね」
 稔はツー、ツー、という通話終了を告げる効果音を聞きながら携帯電話をポケットにしまった。新しいタバコに火をつける。
 十七か。あと五日だな。稔は持って行く物や法事に必要な物、帰るまでにやることを頭の中で数え上げた。おおまかな計画を立てたあとベランダの隅に目をやると、鉢植えの植物が半分枯れているのが見えた。そういえば最近水遣りを怠っていたなとふと思う。
 ふー、と稔は深く息を吐いた。さてと、今晩は何を食べようかなあ。
 稔は冷蔵庫の中身を思い出しながら献立を組み立てようとしたが、結局面倒になってやめてしまった。食わなくては生きられない。稔はその単純な命題を哂おうとしたが、腹の虫が空腹を訴えてきたのでうまくいかず、小さく苦笑した。この世のすべての動物に課された運命を、自分もまた背負っている。それだけのことだ。作るのは億劫だしなあ……買いに行こう何食べようかなんでもいいやスーパーはちょっと遠いからコンビニに……そんなことをだらだらと考えながら、稔は風が冷たくなってきたことに気がついた。
 いつのまに季節が変わったのだろう。気づかぬ内に時は移ろい、時代は変わる。俺はその流れに取り残されちゃうのかな。稔は空腹と夜の気配におされてか少し寂しさを覚え、感傷、とつぶやいてみた。
 空は群青から黒へとその色を変えつつある。
 痛みに敏感なのが優しさだとするのなら、痛みに鈍感であることは強さなのかもしれない。
 吐き出したタバコの煙がわずかな量の空気を白く染めて、瞬く間に風に消えていった。
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