桜の花の扉を開けて

文字数 2,579文字

 桜が咲く春の暖かな陽気の中、少しの間だけ夢を見ていた。

 ある白い仔猫に、夢を見せてもらっていた。

 これまでの人生を振り返ってみても、猫という生きものとの接点はほとんどなく、直接触ったことさえ数えるほどしかなかった。
 “猫”と漢字で書けばいいのか、それとも“ネコ”とカタカナで書くべきか、あるいは“ねこ”とひらがなで書くのがしっくりくるのか、そんなこともわからないほど遠い存在だった。
 それに、物語に出てくるものやイラストなどのモチーフは別として、猫をさしてかわいいとも思ったことはなく、思い浮かべるものといえば、庭にフンをする野良猫だったり、夜中に騒いで眠りを妨げるものだったり、あまりいいイメージはなく、そればかりか、仔猫を見てもかわいいという感情が湧いてくることはなく、ちょっとこわいと思ったりしていた。
 そういうわけで、自分は猫とはまるで別の世界に住んでいて、これから先の人生でも縁のない存在なのだと思っていた。

 しかしながら、これは数週間前までの話。

 仔犬を見ようと訪れたとあるペットショップ。そこにいた、いや、出逢ってしまった白い仔猫が、それまで抱いていた猫は遠い存在だという慣れ親しんだ考えにくさびを打ち込むと、凝り固まった考えはもろくも崩れ去り、さらにその白い仔猫は自分と猫の世界とを隔てていた壁にひょいと飛び乗り、上からこちらを見下ろすようだった。
 ペットショップの壁沿いにずらりと(しつら)えられた二段の小部屋、そこに入っている仔犬を順番に見ていき、ほんのついでに猫も見ていたが、一番奥の上の段の小部屋にいた白い仔猫が人の影を見て近づいてきたかと思うと、前面のガラスに体を押し付けるようにすり寄ってきた。
 仔猫といっても、人間でいうところの小学生の中学年くらいなのだろうか。なでてほしいものなのか、甘えたいものなのか、(こび)を売っているようにも見えたが、鳴いて何かをねだるような素振りはなく、ただ静かに体を預けてくるだけのようだった。
 なにせ猫との接点がなかったため、人懐っこい仔猫なのかどうかもわからないが、こちらを疑うことなく無防備にすり寄ってくる様子を見ていると、信頼されているのではないかと勝手に勘違いして悪い気がしないからなのだろうか、その仕草がとてもかわいいものに思えてきた。こうして人は猫にだめにされていくのだろうと冷静に感じる一方で、これが猫の生存戦略のやり方に違いないから術中に陥ってはだめだという理性の薄い皮はたやすく剥がされ、そのかわいさの虜にされてしまった。
 その仔猫は薄いブルーの瞳で、とてもきれいな顔立ちをしていた。真っ白な体はふわふわの毛並みで、グレーがかかったしっぽはふさふさだった。
 猫は別に好きではなかったはずだと自問自答し、別の小部屋の猫を見ながらやはりそうだと再認識しつつも、この白い仔猫は猫というカテゴリーを離れた、これまで知っていた猫とは違う、ひとつの特別な存在になった。

 家に帰ってからもその仔猫のことが気になり、ペットショップのウェブサイトの、その仔猫のページをお気に入りに入れておき、しばらく毎日のように見ていた。写真ではあまりかわいくないが、実際はあれだけかわいいのだから、すぐにいなくなるのだろうと思っていたものの、しばらく経ってもまだ貰い手は見つからないようで、ペットは小さいほうが人気があるというようなことも聞くし、このまま日数が経ってしまったらどうなるのだろうと少し心配になってきた。

 そんな折、別の機会にまた同じペットショップに行くと、白い仔猫は今度は壁沿いの小部屋ではなく、柵のケージに入っていた。そして人がそばを通ると近寄ってきて、思いのほか長い前脚をケージの隙間から伸ばしてじゃれついてきた。爪も短く切ってあり、そのうち寝転がるようにしてじゃれ、その愛らしい姿にすっかり魅入られてしまった。
 猫を飼うなんてことはこれまで一度たりとて考えたことはなかったし、やはり猫が好きなわけではなく、飼いたいという気持ちもなかったが、それでももし、この白い仔猫が家に来たら、いったいどんな生活になるのだろうと想像している自分がいた。ひょっとしてこの猫なら、愛情をもって一緒に暮らしていけるのかもしれないという淡い思いが次第に膨らんでいったのだった。
 飼うのにはあれとこれの道具が必要で、ケージはいるのだろうかとか、爪とぎは自作できるらしいから段ボールは捨てずに取っておこうだとか、爪切りやシャンプーのやり方は最近はネットで見れるので便利な世の中になっただとか、近くに動物病院があるからかかりつけはそこでいいだろうとか、病気のリスクを考えると避妊手術は必要だろうかとか、もし飼ったとしたならの、そのもしに対する自分なりの答えが積み重なっていった。
 そして名前を付けるならこれにしようと思ったのがよくなかった。家畜だったか何だったか、感情移入しないように名前は付けないということを聞くが、これは正しいと思った。名前を付けると愛情が湧いてしまうので、単なる想像であってもやはり付けずにおくべきだった。

 それからまた数日が経ち、特に理由はないものの、さすがにそろそろ貰われていくだろうから、その姿を最後にひと目見ておこうとペットショップを訪れると、ちょうど夕飯の時間だった。
 仔犬はほとんどが食べ終わり、仔猫が食事を待ってそわそわしているところだった。白い仔猫はというと、前回と同じ柵の中でおとなしくご飯をカリカリと食べていた。邪魔をしては悪いと思いながらも近くに寄ると、さほど真剣に食べているわけでもないようで、こちらに顔を近づけて前脚でじゃれてきた。淡いブルーの瞳が相変わらずきれいだった。
 しばらく見ていたかったがいつまでもいるわけにもいかず、うしろ髪を引かれる思いで家に帰り、そして寝る前にウェブサイトを見てみると、写真の下に交渉中の文字が入っていた。
 ああ、とうとう誰かに貰われていくのだと、飼い主が決まってほっとする反面、寂寞感に包まれもしたが、ともかく幸せに生きていってほしいと願うばかりだった。

 猫という存在がひょっとしたら自分の人生と交わることがあるのかもしれないと思わせてくれた白い仔猫。

 桜の白い花びらのように咲いた、淡い恋心のような春の夢を見せてもらった。

 もう桜の花も散る頃だ。
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