第八話
文字数 2,105文字
新しいアイドルグループが流行った。恐竜映画が流行った。俺の近くにある世界は、目まぐるしく変化していく。その最中で、俺は頭の中にある盤をみつめていた。カーテンの外に俺はいる。寂しかった。また、『遊ばなければならない』という重荷は、相変わらず存在している。
俺が昼放課に廊下を歩いていると、棚橋が明るいロックを歌っていた。とても楽しそうである。どこかで聞いた曲ではあるが、歌手の名前すら全然知らない。そのまま俺は、トイレへ向かった。
「将棋がなくても、誰も困らないよっ」
気付くと、後ろに棚橋がいた。笑顔で俺の目を直視している。
「だからなんだ?」
「必要ないよ。やめたら?」
「バスケも必要ないじゃん」
「バスケはスポーツだもん」
「…………」
この頃はバスケットボールの漫画が流行っている。ここの学区の市立中学校は、バスケットボールの強豪校だ。棚橋は既に入部することにしている。
「おっさんだね! 将棋なんて、いつでもできるじゃん。今、遊ばないと損だよ!」
「…………」
「ねえ、世界の話題から取り残されていいの?」
「世界……」
「お姉ちゃんが言っていたけどね、日本って『取り残されると這い上がれない社会』なんだって」
「…………」
「ずっと隅の方にいることになるよ」
「別にいいし」
「私はよくないの」
「…………」
「私は将棋、嫌なの」
「なんで?」
「ダサいから」
「…………」
「中学にあがるとね、クラスで会話ができなくなるよ。いいの?」
「別にいいよ」
俺は『世界』という言葉に焦ってしまった。トレンディドラマが流行っている。この前にKが楽しそうに語っていた。確かに俺は、その時にその輪に入れなかった。
”流行りの歌を覚えなければならない”
”世界の片隅にいてはならない”
”このままだと、誰も振り返らない”
その圧力は非常に強かった。このままだと、孤独になってしまう。
それから俺は、あまり入りたくもない『世界へのカーテン』をめくり、突撃していった。しかし、その中心にいた男子達には、嫌悪感を覚えさせた。無理やり輪の中に溶け込もうとしたからだろう。ただの、邪魔駒だった。暫くして、俺はイジメに遭った。寄ってたかって、ボコボコに殴られている。ただ、一回だけだった。俺がすぐに、その中から出たからだろう。その後、気付くとイジメは無くなっていた。
少し前から塾に通い始めた。新しい知識が勉強できて、俺は嬉しい。そして、将棋が好きな友達ができた。それほど強くないが、棋界に精通している。ときどき俺に、将棋の雑誌を貸してくれた。
最近、羽生という、若き天才が台頭してきた。それだけでなく、同じ年の棋士たちも強い。『羽生世代』と言われている。彼らは圧倒的、いや暴力的な強さだった。次々と先輩棋士を駆逐している。将棋界でうねりができていた。棋界では、羽生の七冠王が意識され始めている。ただ、俺の小学校では話題にもあがらない。あの世界からすると、盤上の世界は端っこだった。
羽生、いや羽生世代は将棋に人生観を持ち込まなかった。新しい考え方である。彼らは勝負師たちを否定した。
勉強方法も画期的で、パソコンを使って棋譜を編集している。棋譜とは、対局の手順だ。それは、盤上で棋士が『見えない血』を流して作り上げた芸術品だ。
時代は変わる。棋界の重鎮である米長は、羽生世代に教えを請うた。焦っていたのだろう。兎に角、俺の中で羽生はヒーローだった。
「将来の夢は?」
朝一番の授業で、担任が黒板の前で生徒に尋ねた。
「チャンピオン!」
「漫画家!」
「カメラマン!」
男子が次々と叫んだ。それにつられて、女子も叫ぶ。
「アイドル!」
俺は「名人」と、叫んでいない。
その日はビデオ上映会だった。太平洋戦争前後を舞台にしたドラマである。主人公は朝鮮半島で暮らしていた、李という名前の女性だ。しかし、ある日に李は奴隷のように日本に連行される。そして、強制労働させられた。戦争末期になると、空から爆弾が降ってくる。家は焼かれ、家族は死ぬ。李は火傷になる。戦争が終わると、日本人と再婚して、子供ができた。そして、幸せに暮らす。また、ところどころに明るい笑いのシーンがあった。
上映が終わると、担任の先生が語った。
「絶望的な状況でも、頑張れる人がいる」
俺の隣にいる太った女子が泣いていた。担任は頷いていた。
「何か感想はあるか? なんでもいいぞ」
棚橋はボヤいた。
「暗くて、つまらんかった」
「なんだと!」
「じゃあ、聞かないでよ」
「棚橋! あとで職員室に来い!」
給食の時間に棚橋は帰ってきた。全然気にしていない様子だ。気付くと俺の前に立ち、手をマイクの形にしている。何かに期待しているようだ。「将来の夢は」と尋ねられた。
「無いよ」
「将棋のプロは?」
「…………」
「プロになりたくないの? こんなに将棋が好きなのに?」
「プロは難しいんだよ」
「ふーん」
「…………」
「私はお嫁さんかな? 馬鹿だから、高校に通えないかもしれないし」
「…………」
「『誰の?』って聞かないの」
「俺は結婚しないから」
「なんで?」
「子供好きじゃないし」
「子供、関係ないよ」
「どうせ世界は滅亡するから」
「嘘!」
「…………」
俺が昼放課に廊下を歩いていると、棚橋が明るいロックを歌っていた。とても楽しそうである。どこかで聞いた曲ではあるが、歌手の名前すら全然知らない。そのまま俺は、トイレへ向かった。
「将棋がなくても、誰も困らないよっ」
気付くと、後ろに棚橋がいた。笑顔で俺の目を直視している。
「だからなんだ?」
「必要ないよ。やめたら?」
「バスケも必要ないじゃん」
「バスケはスポーツだもん」
「…………」
この頃はバスケットボールの漫画が流行っている。ここの学区の市立中学校は、バスケットボールの強豪校だ。棚橋は既に入部することにしている。
「おっさんだね! 将棋なんて、いつでもできるじゃん。今、遊ばないと損だよ!」
「…………」
「ねえ、世界の話題から取り残されていいの?」
「世界……」
「お姉ちゃんが言っていたけどね、日本って『取り残されると這い上がれない社会』なんだって」
「…………」
「ずっと隅の方にいることになるよ」
「別にいいし」
「私はよくないの」
「…………」
「私は将棋、嫌なの」
「なんで?」
「ダサいから」
「…………」
「中学にあがるとね、クラスで会話ができなくなるよ。いいの?」
「別にいいよ」
俺は『世界』という言葉に焦ってしまった。トレンディドラマが流行っている。この前にKが楽しそうに語っていた。確かに俺は、その時にその輪に入れなかった。
”流行りの歌を覚えなければならない”
”世界の片隅にいてはならない”
”このままだと、誰も振り返らない”
その圧力は非常に強かった。このままだと、孤独になってしまう。
それから俺は、あまり入りたくもない『世界へのカーテン』をめくり、突撃していった。しかし、その中心にいた男子達には、嫌悪感を覚えさせた。無理やり輪の中に溶け込もうとしたからだろう。ただの、邪魔駒だった。暫くして、俺はイジメに遭った。寄ってたかって、ボコボコに殴られている。ただ、一回だけだった。俺がすぐに、その中から出たからだろう。その後、気付くとイジメは無くなっていた。
少し前から塾に通い始めた。新しい知識が勉強できて、俺は嬉しい。そして、将棋が好きな友達ができた。それほど強くないが、棋界に精通している。ときどき俺に、将棋の雑誌を貸してくれた。
最近、羽生という、若き天才が台頭してきた。それだけでなく、同じ年の棋士たちも強い。『羽生世代』と言われている。彼らは圧倒的、いや暴力的な強さだった。次々と先輩棋士を駆逐している。将棋界でうねりができていた。棋界では、羽生の七冠王が意識され始めている。ただ、俺の小学校では話題にもあがらない。あの世界からすると、盤上の世界は端っこだった。
羽生、いや羽生世代は将棋に人生観を持ち込まなかった。新しい考え方である。彼らは勝負師たちを否定した。
勉強方法も画期的で、パソコンを使って棋譜を編集している。棋譜とは、対局の手順だ。それは、盤上で棋士が『見えない血』を流して作り上げた芸術品だ。
時代は変わる。棋界の重鎮である米長は、羽生世代に教えを請うた。焦っていたのだろう。兎に角、俺の中で羽生はヒーローだった。
「将来の夢は?」
朝一番の授業で、担任が黒板の前で生徒に尋ねた。
「チャンピオン!」
「漫画家!」
「カメラマン!」
男子が次々と叫んだ。それにつられて、女子も叫ぶ。
「アイドル!」
俺は「名人」と、叫んでいない。
その日はビデオ上映会だった。太平洋戦争前後を舞台にしたドラマである。主人公は朝鮮半島で暮らしていた、李という名前の女性だ。しかし、ある日に李は奴隷のように日本に連行される。そして、強制労働させられた。戦争末期になると、空から爆弾が降ってくる。家は焼かれ、家族は死ぬ。李は火傷になる。戦争が終わると、日本人と再婚して、子供ができた。そして、幸せに暮らす。また、ところどころに明るい笑いのシーンがあった。
上映が終わると、担任の先生が語った。
「絶望的な状況でも、頑張れる人がいる」
俺の隣にいる太った女子が泣いていた。担任は頷いていた。
「何か感想はあるか? なんでもいいぞ」
棚橋はボヤいた。
「暗くて、つまらんかった」
「なんだと!」
「じゃあ、聞かないでよ」
「棚橋! あとで職員室に来い!」
給食の時間に棚橋は帰ってきた。全然気にしていない様子だ。気付くと俺の前に立ち、手をマイクの形にしている。何かに期待しているようだ。「将来の夢は」と尋ねられた。
「無いよ」
「将棋のプロは?」
「…………」
「プロになりたくないの? こんなに将棋が好きなのに?」
「プロは難しいんだよ」
「ふーん」
「…………」
「私はお嫁さんかな? 馬鹿だから、高校に通えないかもしれないし」
「…………」
「『誰の?』って聞かないの」
「俺は結婚しないから」
「なんで?」
「子供好きじゃないし」
「子供、関係ないよ」
「どうせ世界は滅亡するから」
「嘘!」
「…………」