第1話

文字数 3,872文字

 そこは、ちょうど住宅街と繁華街との境目をなす国道に敷かれた横断歩道のたもとだった。
 和佳子は鬱々とした思いを抱えて信号待ちをしていた。
 彼女の横では、ストレスの原因である老父が細い杖をついて、風もないのに上半身を微妙に揺らしながら、おぼつかない姿勢を保っている。不意によろめいて倒れてしまうほど足腰が弱っているとは思えないが、長年の習慣で和佳子は父の肩を支えるように手を添えていた。
 このまま信号が変わらず、ここで永久に立ち止まっているほうが楽なのかもしれない、などという馬鹿げた思いが、ふと和佳子の頭をよぎる。
 父である哲三は、ここ数年でめっきり身体機能が低下し、認知症の症状も顕れ始めた。
 今朝も早くから「膝が痛い」とうるさく訴えるので、夫を送り出したあと、あたふたとかかりつけの外科医院に連れて行ったのだ。
 思いのほか患者が多くて、長い時間待たされたが、それはいい。そこでは顔見知りの看護師たちが、何かと気にかけてくれる。他愛のない会話でも気が紛れる。
 家に帰れば一人だ。閉ざされた空間で父とちぐはぐな会話を交わしながら、身の回りの世話を焼き、昼食を摂らせ、その他の家事を片づけて、日が暮れる。
 夜になっても、することは同じ。ただ、帰宅した夫が和佳子の仕事の対象に加わるだけ。それで一日が終わる。
 一日ならともかく、いつまでこんな生活が続くのか。どれだけ自分の時間を犠牲にしなければならないのか。それを考えると和佳子は、哲三との時間が耐え難いほど疎ましくなる。心底、気が滅入り、薄ら寒いような恐怖に近い感情を覚える。
 母が亡くなって五年。一人で哲三の介護を続けてきたが、そろそろ限界かもしれない。
 もともと和佳子は父親っ子だった。一人娘としてかわいがってもらい、和佳子も哲三の膝にまとわりついて離れなかった。父親から厳しい言葉で叱られた記憶さえほとんどない。
 思春期を迎えて、友だちが父親と距離を置いたり、あからさまに父親を厭う言葉を使っていても、同調する気になれなかった。さすがにべたべたまとわりつくことはなくなったが、哲三とは良好な父娘関係を保ってきたように思う。
 しかし、ここ数年のストレスの蓄積が、昔の楽しくほのぼのした思い出まで壊してしまいそうな気がする。このままでは父のことを嫌いになりそうで、そんな自分の心持ちも怖い。悪化のスピードを遅らせることはできても、病状の回復や好転の可能性はないという現実が、憂鬱に拍車をかけるのだ。

 そこで唐突に、和佳子の物思いは破られた。日々の否応ない修練で研ぎ澄まされた和佳子のアンテナが、哲三の不審な動作を捉えたのだ。
 和佳子たちと並んで同じように信号待ちをしていた女性に哲三がふらりと近づき、止めるまもなく声をかけていた。
「おお、美羽(みう)、こっちに帰ってきたんか。しばらく見んかったが」
 何気なく振り向いた若い女性は、見知らぬ老人から自分にかけられた言葉と悟ると、狼狽の表情も露わに胸の前で手を横に振った。
「えっ? わたし……違いますよ」
 哲三は、その女性を和佳子の娘、つまり哲三からすれば孫の美羽と間違えているらしい。しかし本人には、もちろん誤認の自覚はないだろう。
 確かに女性は美羽と同じ年頃であり、くっきりした目元は美羽と通じるものがあるが、全体としては似ても似つかない容貌だ。
「お父さん、美羽じゃないよ」
 和佳子は焦って哲三をたしなめた。おそらく効果はないだろうが、とりあえずそうするほかない。
「美羽はよそで仕事してるんだから、たびたび帰って来られないよ」
 それから女性に向かって、
「ごめんなさんね。孫と間違えちゃったみたいです。しばらく見なかった、なんて言って、先週帰ってきてたんですけどね」
 と、愛想笑いを浮かべて事情を説きつつ謝った。
 女性は戸惑いの色を浮かべて和佳子の話を聞いていたが、たちまち状況を理解したのか、意外な行動をとった。
 哲三に近づくと、
「美羽さんはお元気ですよ」
 と、いたわるような微笑みとともに穏やかに語りかけたのだ。
「お祖父さんのこと、心配されていましたよ」
 和佳子は、思いがけない女性の機転に感心しながら、女性をねぎらった。
「どうも、すみません。びっくりなさったでしょう」
 その途端、さらに予想しない事態が生じた。
 女性の笑顔が突然歪み、その瞳がたちまち涙でいっぱいになったのだ。
「どうなさったの!?」
 和佳子は驚いて、思わず女性の顔を覗き込んだ。
 女性は素早くハンカチを取り出して目頭に当てたが、目尻からこぼれた涙がひと筋、頬を伝って落ちる。
 すでに信号は変わり、人々の往来がまた始まっていた。
 その好奇の視線を気にして、和佳子は女性を気遣いつつ促し、通行の妨げにならないように歩道の端に移動した。
 孫との誤認に気づいたのか、それとも孫と思い込んでいる女性が涙を流しているからなのか、哲三も心配顔でおとなしく付き従う。
「具合でも悪くされたの?」
 和佳子はもう一度問いかけた。
 哲三の不躾な行動に驚いたというのはわかるが、人違いをされたぐらいで、路上でいきなり落涙するほどのショックを受けたとは思えない。それに女性もうすうす事情を察してくれたと思ったのだけれど。
 重ねて和佳子に問いかけられた女性は、ようやくハンカチを目から離して、
「実は先日、わたしの祖父が亡くなったんですが……やっぱり認知症を患っていまして……」
 と語り始めた。
 初孫だったこともあって、祖父は彼女をとてもかわいがってくれたそうだが、歳を重ねるにつれて病気がちになり、身体の不調に加えて認知能力の衰えから意志の疎通もままならなくなってしまった。たまに会ってもろくに言葉が通じず、会話が成立しないものだから、彼女のほうでも次第に祖父との接触が疎ましくなり、時には邪険な態度をとることさえあったという。
 それまでは頻繁に祖父母の住まいを訪れていたのが、めっきり足が遠のくようになり、そのうち認知症がさらに悪化した結果、祖父はさる施設に入所を余儀なくされることとなった。
「祖父が亡くなったのは、それから半年後のことでした。ちょうど仕事が多忙な時期と重なって、わたしは一度も面会に行けないまま……」
 語りながら再び感情が高ぶってきたらしく、彼女は少し言葉を詰まらせ、またハンカチを目頭に当てながら続けた。
「それで、お通夜の時に祖母から……わたしが昔、プレゼントした竹細工の孫の手を……小学生の頃に作ったものなんですけど、ずっと大事にしてくれていたと聞いて、すごく後悔して……」
 女性の涙の理由が和佳子にもわかった。
 彼女は哲三の姿に、亡くなって間もない自分の祖父を重ねたのだ。和佳子の釈明によって哲三が抱える事情を察し、思わず優しい声かけをしたものの、一方で自分の祖父に対する後悔が甦り、改めて悲しみが湧いてきたということなのだろう。
「その孫の手は形見にされたんですか?」
「いいえ。どうしようか迷ったんですけど、お棺に入れました。天国でも使えるようにって……」
「そう。お祖父さん、きっと喜んでいらっしゃると思いますよ」
 和佳子は、慰め励ますように女性の肩を優しく叩いた。
 哲三もいつになく神妙な表情で、ただ言葉を発することなく女性を見つめている。あるいは状況を理解できているのかもしれない。
 やがて、落ち着きを取り戻した女性は顔を上げ、涙の滲んだ瞳を和佳子に向けて、
「どうも大変失礼しました。ごめんなさい。それに出すぎた真似をしてしまって……」
 と、恐縮の表情を浮かべた。
「いいえ。出すぎた真似だなんて、そんなこと……」
 それから女性は哲三に向かって、
「どうか、お元気でお過ごしくださいね」
 と声をかけ、「それでは失礼します」と二人に一礼してくるりと背を向けた。
 彼女は横断歩道の方に向かいかけたが、ふと歩みを止め、思い直したように反対側にある小さな公園の中に入っていく。涙をこぼした跡の化粧崩れが気になったのかもしれない。
 女性の後ろ姿を見つめながら、和佳子は子供の頃のことを思い出していた。父の日に哲三に似顔絵をプレゼントしたことを。
 お絵描きには自信のなかった和佳子にしては、思いのほか上手に描けていたのに、完成直前に筆洗いの水をこぼしてしまい、力作が台無しになってしまった。悲しくて悔しくて泣きながら修正したものの、元には戻らず、満足にはほど遠い作品になってしまったが、哲三は喜んでくれた。
 それから何年か後の大掃除の時、押入れの隅から出てきたと言って、哲三が嬉しそうに広げて見ていたのを覚えている。
 何だか照れくさくて「もういいから、早くしまってよ」と、わざとそっけなくあしらってしまった。
 あの似顔絵は、まだあのままの状態で押入れの中にしまってあるのだろう。絵の中の哲三も、在りし日のままの姿を保ち続けて。
 でも、現実の哲三は老い衰え、父娘を取り巻く日々の生活も変わってしまった。あの穏やかな日常は、もう戻ってこないのかもしれない。でも……。
 ふと横に視線を向けて、女性の消え去った方角をぼんやりと眺めている哲三の横顔を見つめながら、和佳子は思った。
 今のこの生活がいつまで続くのかはわからない。ただ、あの女性とのささやかな邂逅のおかげで、少なくとも今日一日は優しい心持ちで接することができそうな気がする。そうやって一日一日を積み重ねていくしかないのではないか。
 和佳子は哲三の顔を覗き込み、ごく自然に穏やかな口調で、
「それじゃ、お父さん、帰ろうか」
 と、哲三を促した。

 ─了─
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