第1話

文字数 10,131文字

 首都圏のベッドタウンの駅からちょっと歩いた奥まってるところにその店はあった。
 喫茶店ブルージー。装飾が基本的にこげ茶色でまとめられた小ぢんまりとしたジャズが流れる店だ。偏屈者の類で言ったらまだ若い部類に入るであろう店の主人は
 「ここはカフェなんて洒落た場所じゃねえんだ。」
 とバイトの少年によく言っている。噂ではどこかの外国人部隊にいたという立派な体躯の30代後半のこの店の主人は常連の爺さんたちに「軍曹」と呼ばれていた。いかつい出で立ちでも甘いものが好物だったので甘物の類は気合が入っている。そのゴツゴツした手で生クリームを搾る………パンケーキとその日に一種類のおすすめケーキが女性に人気があり、加えて密かに主人が厳めしい相貌でも笑うと可愛いと思われてることは本人の知る由はなかった。
 「おい、カレーを頼む。」
 はいと手際よく動いているのは高校生バイトの天葉翔(あまはかける)。一見すると眼鏡をかけた凡庸な姿だが清潔感と年相応の色気のある彼は隠れ美形として中高年女性に可愛がられてる。近所の商店街を歩いていて「喫茶店のお兄ちゃん!これ持ってきな!」などと声をかけられるのはまだ慣れないがその初々しい反応も彼の人気の秘密だ。
 そんなある初夏の日曜日、もうランチの時間も過ぎた頃合いで翔が昼休憩に入った。まかないとしてカレーを自分でよそうと狭い店内で空いていたボックス席でため息をつく。と、店の扉が開き鐘の音が店内に響いた。
 「いらっしゃーい………。」
 翔は入り口を見るとそこにはセミロングの同い年くらいの少女が立っていた。いや、見たことがある人だ。視線が交差して少女は笑い
 「こんにちは」
 と挨拶するとやっと翔はその少女が同じクラスの学年一位の成績の藤田夏野(ふじたなつの)という女子生徒だと認識した。何でここにいるのだろう?
 「初めての顔だな。」
 この店の主人………鬼頭重(きとうしげ)がニヤッと笑った。それは脅しなの?と見間違えるかと思う笑顔に翔は焦ったが夏野は面白そうに店内を見まわしている。
 「ボウズの知り合いか?」
 響くように返事が出来なかった。知り合いになるのか?話したことはない。
 「ここいいですか?」
 夏野がカウンター席を指さすと鬼頭が「ああ」と短い返事をした。
 「本日のケーキありますか?」
 「残念ながら終わっちまってるがパンケーキならあるぜ。」
 「じゃあそれと………」
 少しばかり逡巡して、
 「ブレンドコーヒーお願いします。」
 「あいよ」
 ちらりと鬼頭が翔を見ると、翔はハッと我に返りバツが悪そうにカレーを食べ始めた。

 何だったんだろう。あんな分かりづらい場所にクラスメイトが来るなんて。
 月曜日、学校へ向かうのも少しばかり憂鬱だった。翔の学校は進学校で基本的にアルバイトは禁止なのだ。バレたら親戚だって言ってやるからと鬼頭は言っていたが、それでも気分は晴れない。
 「おはよう」
 翔に友人と呼べる人はいなかった。いつも教室で本ばかり読んでいる。スマホは持っているけれど知識を得るのは本の方が効率が良かった。しかし、いつも着席するとすぐ自分の世界に入ってしまうのに今日は気もそぞろだった。多分昨日ブルージーに来たクラスメイトが気になるのだ。あれはクラスメイトの藤田夏野だったはず………。
 彼女は来た。しかし、昨日と比べ表情が暗い。時折友人と話をしながら微かに笑うが精彩を欠いていた。本当に昨日の彼女と同一人物なのか。そのまま結局一言も話をしないで授業は終わった。
 取り敢えず自分のことには首を突っ込む気がないのだろうと判断してブルージーへ向かったが、学校から駅までの道のりの川の土手っぷちで微かに自分を呼ぶ声がする。
 「!?」
 翔はキョロキョロしてようやく視線の先に声の主藤田夏野の姿を認めた。
 「天葉くん歩くのはっや!」
 「何………?」
 困惑する翔をよそに追いついた夏野がまくし立てた。息が上がっている。
 「あのカフェ行くんでしょ?私あそこの近くの塾行くから!」
 翔は一方的にブルージーに行くと決めつけら困惑して返事もせずにジロジロ夏野を眺めた。ややあってその不躾な視線に気づいた彼女は破顔して
 「アハハ!ビックリするよね!私学校では猫被ってんだ!」

 そこから翔のバイト先喫茶店ブルージー(夏野はカフェと言ったがそれはちゃんと否定した)に向かう道すがら話をしたことをまとめると、店の近所にある塾の帰り翔をよく見かけたこと、そしてブルージーを見つけたこと、しばらく考えて日曜日に決心して冒険みたいな気持ちで店に行ったこと………。
 「天葉くんもよくあんな大人っぽい店で働けるね!最初行くとき度胸要ったでしょ!」
 「別に……シゲさん………マスターがドア開けて『そこのボウズ』って言って入ったから。」
 「へーナンパされたんだ!」
 「ナンパて………あ、俺地元でチャリで通ってる。」
 「ふうん………あ、昼間進路調査票配られたよね?進路どう考えてる!?」
 どうも会話が噛み合ってないような………一方的に翔が圧されてる。
 「俺一応国立文系クラスだけど理系行こうかなって。」
 「えー理科どうするの!?選択入ってないよ?」
 「えと………独学。」
 元々翔は話をそんなにするタイプの人間じゃない。しかし、夏野の率直さに言葉を紡いでいくのが自分でも意外で案外気分も悪くない。同年代の人間と初めてまともに話が出来たみたいな心の頑なだったものが溶けたみたいなじんわりとした心持ちになった。
 そのまま商店街の裏路地に自転車を転がしながら、
 「じゃあこっちだから。」
 と言おうとした時、夏野が
 「バイト何時まで?」
 「8時半までだけど?」
 「あのさ………お金そんな持ってないからコーヒーとかも頼めないけど、塾終わったらお店に行ってもいい?」

 果たして夏野は8時過ぎにやってきた。
 「お嬢ちゃんいらっしゃい。」
 寸胴の中身をレードルでかき混ぜている鬼頭はやはりニヤリと笑いながら客を迎える。やっぱり普通の子じゃ怖がって逃げるんじゃないだろうか。そんな心配をよそに夏野は屈託なく洗い物をしている翔の近くのカウンターに座る。
 「マスターごめんね。私こういう店でコーヒー毎日飲めるほどお金ないんだ。」
 「シゲでいいよ。ボウズから聞いてる。夕メシはどうしてるんだ?」
 「塾の休み時間にコンビニのおにぎり食べてるよ。」
 そして、家に帰って夜食を食べる!と夏野は言った。せわしねえな。と鬼頭は応えた。
 「期待されてるからね………しゃあない。」
 こもってるほんの少しの哀しみのようなものに聡い翔は気づいたが、夏野の表情は変わらなかった。違和感は少しだけ心に留まったが直ぐに流された。
 「ボウズから聞いたぜ?学年一位なんだってな。」
 「うーん…そう!今んとこそうだけど…うーん…そこの人バイト漬けで学年五位だからね。私は精一杯やってキープ出来てるけど…。」
 ほう、とおどけたように鬼頭は言うと
 「お前結構頭がいいんだ?」
 と翔に声をかけた。丁度洗い物も終わったしもう上がろう。
 「もう上がります。」
 「返事もなしかよ!明日も頼むな。それと、」
 翔が鬼頭を振り返って見ると
 「嬢ちゃんに缶ジュースくらい奢ってやれ?勤労少年!」

 夏野は翔の最寄りから3駅行ったところに住んでいると言った。もうシャッターの下りた店も多い商店街の自動販売機で毒々しい色の炭酸飲料を買う。
 「そういうの糖分エグいって聞いたけど………。」
 「うん!記念に体に悪そうなの選んだ!いつもならほうじ茶選ぶ!」
 「ほうじ茶…。」
 「美味しいよ!ほうじ茶。」
 二人は並んで駅に向かう。
 「送ってくれなくても大丈夫だよ。」
 「マスター昔気質(むかしかたぎ)だからね。」
 「………ねえ、夏になる前に進路調査票書かなきゃいけないんでしょ?私どこにしようかな…。」
 「?まだ決めてないのか?それでその勉強へのモチベは何なんだ?」
 「………勉強のための勉強?」
 「勉強が好きなのか?」
 「ううん………違うと思う。やってないと不安で………。」
 「じゃあ………勉強だけしてれば人生どうにかなるとでも?」
 涼しい風が吹いて夏野は歩みを止めた。
 「本当にそうだよね………私たちって子供と大人の狭間でやれることが少ないっていうか………それでわかりやすく誰も止めない勉強にすがってる………。」
 何かあるんだと思いはしたが土足で心に踏み込むのは憚られた。
 「………自分がやりたいならやんなよ。心が望まないことは出来ないってシゲさんいつも言ってる。」
 「………うん。」
 それから駅に着くまで二人共無言だった。
 「じゃあね。ジュースありがとう。あ、電車来ちゃう!」
 夏野が階段を上がりきるまで眺めていたがそのまましばらくして翔はおもむろに自転車にまたがり家へと帰った。

 翔の家はごく普通の両親が共働きの家族だったが翔が生まれた当初は家事や育児のいざこざで両親は揉めに揉めたという。物心つく頃には家事の当番やら雑用その他色々なことにルールが出来て家族が皆無口な性質だったから家は静かでよく本を読んでいた。両親は大学出だけども就職に苦労して翔は上の学校へ行くにもまずは公立でないとと考えている。
勉強は中二の時に通信制の予備校に入った。ネットで色々な質問が出来るので暇な時は検索してもわからない疑問に思ったことを表計算ソフトに打ち込んで過ごし、予備校の講師に勉強以外のことも質問するので講師の方もほうほうの体で、
 「こっちは受験のノウハウを教えるのが専門だからね!こども電話相談室じゃないよ!」
 と言われて
 「それじゃあ勉強って何のためにやってるんですか?」
 と至極真っ当なことを質問して画面の向こうの人は「ちょっと待ってて」と言い現れたのは事務服姿の女性だった。
 「こんにちは。私は学歴がなくて講師とか出来ないけど質問に答えるよ。」
 彼女は勉強は人生を豊かにするためにするけど世の中には本音と建前があることなどを話し、図書館の使い方を教えた。
 「君が欲しがってるのは多分教養だね。ネット検索する時にも必要だから図書館で好きな本読んでみなよ。幸い君の成績ならトップ合格とか野望がない限り志望校は平気だと思う。」
 塾には行ってなかったし模試では真ん中より少し上くらいの成績だったが予備校に入って劇的に成績が上がった。その時の志望校より何ランクか上がったからゴリゴリの進学校に入学することになった。
 そういえば入学式の生徒代表は藤田夏野だったよな………。
 そんなことを漫然と考えながら翔は自転車を漕いだ。

 店は水曜日が定休日だったので、鬼頭は自由に使っていいと翔に店の合い鍵を渡してくれた。
 「掃除はちゃんとやってくれよ?」
 翔と夏野は毎日のように会っていた。学校では素知らぬ顔だが夏を過ぎる頃にはお互いをかなり知ることになった。
 夏も終わろうとした頃、コンビニでアイスを買い二人で並んで食べながら夏野は深刻な顔をして
 「ちょっと聞いてくれる?」
 とわざわざ翔に話していいか訊いてから話を始めた。いつもマシンガントークなのに。
 夏野には10歳年上の兄がいたが、もう10年以上引きこもっているらしい。そのことを知った時も翔の反応はごくフラットなものだった。そんな翔を見て夏野はほっとしたのか息を長く吐くと、翔はそれを見て
 「引きこもりなんてよくあることだ。」
 と言った。
 「ウチ、両親が他人にはごく普通の幸せな家族だって見せたがってて…本当は修羅みたいなんだけど………。」
 夏野がぽつぽつ話した内容はこうだ。父親は亭主関白でもその自覚がなく自分は進歩的な人間だと信じ込んでいた。感情に支配されるのは弱さのせいだと信じ、合理的に行動することを正義と信じ、それ故に生ずる情緒の不安定さを世の中は金だと信じ込むことでバランスを保っていた。他人より自分が優れていると思い込みたがったので、外向きには面白くていい人を演じている。同時に彼らを見下してもいたが本人に他人を見下してる自覚はなかったろう。家ではよく他人をこき下ろしてご満悦だったが、多分生まれた時からの全能感を引きずってるだけだ。母親は夫に「愛とかは大切じゃないの?」と聞いたら鼻で笑われたらしい。そんな母親も自分で自分の責任をとることが出来ず、家族への愛情の発露とみなされている料理を作るのが苦痛らしい。それはそうだろう、愛情を鼻で笑う男に何故世話を焼いてやらなければならないのか。父親は金を稼いでくれば自動的に愛情が手に入ると信じていたし、そのことを深く考えたこともない。機嫌が悪くなれば怒鳴り散らして相手を黙らせる。ただそれだけだった。
 母親は毎日イライラしていた。特に女である夏野に対してそれは顕著で、何故同じ女なのにあんたはのうのうとしてるのかと目に殺気をまとわせて執拗に夏野を攻撃した。主に家事をやれと一見正論のようであったが父親への反発、世間からの家族観の押しつけ、夏野は母親が何故それらと戦わないで攻撃が自分に来るかわかっていた。家族の中で一番言いやすい人間に言ってるだけだ。弱者だからだ………そんな母親の卑怯さに反発し抵抗し怒りを心に溜めた。溜め続けていた。母親は夏野が悪いから母さんはこうなのよと思い込んで責任を逃れようとしていた。
 兄はどうだったろう?父親は芸能人を見ては馬鹿にしていたし彼らを見下していた。世の中なんて結局下らないんだよ価値がない。弱いのは自分が悪い。何故そのような世界で子供を持つことにしたのか。その理屈で言えば子供は弱いから価値がないんじゃないか?それとも自分の血を継いでいれば価値があるのか?こんな、機嫌が悪くなったら怒鳴って己が家族にどう思われているのか気にもしないで自分の世界が自分を中心として動いてると思ってる愚かな愚かな生き物の血なんて………!
 兄は高校にはどうにか合格した。しかし心は持たなかった。夏休みを待たずに部屋に引きこもってしまうことになった。夏野は5歳だった。
 「ウチの家族はね、皆あの家から逃げたいの。でも出来ないから人のせいにするの。」
 黙ってずっと話を聞いていた翔は最小限の相槌だけで夏野は泣きもせず、
 「ごめんね!何か話暗いね………。」
 微かに翔は笑って
 「言いたいことはそれだけ?」
 と言った。二人は歩いて緑の濃い公園に辿り着いていた。夏野は地面の模様を眺めながら
 「ううん………。」
 翔に向き直っておもむろに口を開くと
 「ごめんね。私見ちゃったんだ。ずっと黙ってたけど。」
 「何が?」
 蝉が鳴き始めた。とにかく暑苦しく空気に咽そうだ。
 「あのね………ブルージーに初めて行くより前にシゲさんのこと見たことあるの。翔と一緒だった………一緒にラブホに入っていった………。」
 蝉の音が止んだような気がした。

 まだ夏野がブルージーを知らない頃、勉強のために塾へと通い人生を投げてしまいたかった頃、疲れた頭で道の先の方に二人連れの男が見え、あの体の小さい方あれはクラスメイトではなかったかと思い無意識について行った。住宅地に至ろうかというところにラブホテルがあり二人連れは何の躊躇もなくそこへと吸い込まれてゆく。驚いてボケっとしていた脳が急に覚醒して心臓がドキドキいって汗が噴き出た。まだ夏野が知識として知ってるのは男女のそういうことだけだしそれしか知らない。男同士なんて友人の妄想あるいはネットに載ってる記事にしか存在しないものだと思っていた。しかし夏野は気づいた。もしかしてあのクラスメイトの男の子は男であって男じゃないかも知れないと。話がしたい学校じゃない場所で。
 それから学校で天葉翔という名前を確かめ何度か尾行じみたことをしてブルージーという喫茶店を知った。翔の相手はそこの主人であった。

 「………翔はゲイなの?」
 夏野は声を絞り出した。翔は視線を落とすと
 「いや………多分違うと思う………女性とそういう事したことないからわからないけど。」
 「そっか………。」
 「好奇心………っていうか世の中に黙って従ってやるかって反骨心もあるし、正確にはわからない………。」
 「シゲさんの恋人なの?」
 「まさか。違う。あえて名付けるならセフレ。」
 翔は笑うと
 「あの人モテるよ。男にも女にも。」
 不安そうに夏野は翔を見つめた。
 「そんな顔しなくていいよ。明治に入るまでこの国はそういうのは普通のことだったんだから。」

 幼稚園児の頃から男女の恋愛じみたことは始まってた。翔には本当にどうでもいいことだったし一緒に遊んでた女の子もそういうことに興味がなかったからまだ平和だった。しかし母親やその友人にに「好きな子はいないの?」と訊かれるのが面倒だった。何で男女一組で特別な関係にならなければいけないのか。
 「子供を作るから。」
 答えはそんなものだったかもしれないが、親を見ていても王子と姫の童話を読んでもいまいちよくわからなかった。正直に言うと白ける。母は父に対してイライラしてることが多い。そして母親の持っている少女マンガを読んで、そこに描かれてるヒーローの現実離れしていることやヒロインの浅慮(せんりょ)に呆れた。
 「どうせ付き合うなら心が強い女がいいな。」
 そういうのはエンターテインメント作品にはなかなか登場してくれなかった。当然である。恋愛ものは作者の救って欲しい感情の暗喩(メタファー)なのだ。弱くてすがる方になれば楽だろう。そのうち女性同士の恋愛を描く百合作品を読むようになりその流れで男同士のBL作品も嗜むようになった。余計に男女って何だろうと疑問が湧く。
 ある日たまたま歴史を調べていて「小姓」という存在に辿り着いた。戦国時代、織田信長と前田利家の関係は有名だ。稚児、陰間、衆道………全部男色関係の言葉だった。そこで今の日本の恋愛という概念は西洋から持ち込まれたものだと知った。現代の男からしたら受け………ボトムになったら男としての沽券(こけん)にかかわるというのは社会からはみ出した者への残酷な視線であることに気づいた。常にボトムにされていた女に対しての無意識の差別であった。そして明確な宗教を持たない日本人の人としての基本は社会………世間に帰属するという信仰みたいなものがあるようなのだ。はみ出すのを異様に怖がる。しかし世間というものそれは人間として生きるにはほんの一面でしかなく一方で人間とは多面的な存在だ。
 俺はそういう命題に向き合わなくてはいけないんじゃないか?
 翔は無意識にそう思っていた。高校生になる頃には哲学や数学や心理学その他色々なことから知識を得たことで精神的バランスを欠いてしまったんじゃないかと思った。社会に迎合したくて怖くて仕方がなくなった。孤独と戦うとはそういうことだ………。経験は圧倒的に足りてない、暗闇を走ってるようなものだ。でも自分の人生を降りるわけにはいかないし誰もその道を行けないのなら自分が行こう。答えを求めて本やネットで調べ物をしまくる毎日………女の人に助けてもらいたいと思いながら同時にそれはどういう心理なのかと自分を疑い続け………鬼頭重に出会った。
 直近の答えはわかった。普通の男でなくなれば世の中を俯瞰して見られる。

 「じゃあ何?普通じゃなくなるためにシゲさんとそんな関係になったの?」
 「まあそんなとこ。女の子と違ってリスクが少ないし誘われてやらない選択はなかったよ。」
 呆れたような顔で夏野は翔を見た。翔は続ける。
 「女の人に助けてもらってたんじゃよくいる孤独を売りにして女を引っ掛けるジゴロみたいなやつになると思う。やらなかったら新たな視点は得られなかったからもっと辛かっただろうね。」
 「新たな視点はどんな感じなの?」
 「女の子の気持ちがわかった。」
 夏野は顔をしかめて
 「それって元からそういう()があったんだと思う。君はバイだ。」
 「だろうね。でも大体の男にはそういうのあると思うよ。どっちつかず。社会のせいで抑圧されてるし自分が差別してるものになりたくはないでしょ。」

 翔が感じていた断絶した崖の正体は落ちてみれば5センチほどの溝みたいなものだった。皆そんな溝に怯えているのだ。

 夏が過ぎてゆく。自分の名前の季節だけれど今まで夏はあまり好きじゃなかった夏野だったが今年は天葉翔というユニークな少年と仲良くなって楽しいと思えた。ずっと訊きたかったことを訊けたことが心を軽くしていたし世の中は思ったより自由かもしれないと思った。そんな夏野に気づいた母親は怖い顔してお前は自分のやりたいことだけしかしないと怒鳴ってきたが気にならなかった。そんな言葉で縛られるのは真っ平よ。
 9月1日新学期が始まる。夏休みは夏期講習をお盆期間も入れていてほとんど家にいなかったが、翔のいる今は放課後が楽しみだったからあまり好きではない学校でも気分が明るい。そんなせわしないけど少し楽しい朝、夏野が洗面所で髪の毛にブラシを通し学校へ行こうと振り返ったら気配もなく兄が立っていた。
 「!?びっくりし………」
 「お前やっぱ俺のことバカにしてるだろう!知ってんだぞ!!」
 彼はそのように突然絶叫して妹………夏野の髪を鷲掴みにしたのだ。
 「な………!」
 平手で何度か顔を叩くと壁に打ち付ける。何かを叫んでいるのか泣いているのかわからないが理解不能な言葉をまくし立てる。まるで獣のようだった。何事かと母親が慌てて来たが大人の男の力では女は敵わない。
 新学期の学校ではいつまで経っても夏野が来ないので翔は昨日は元気そうだったのにどうかしたのかと胸騒ぎがした。家庭の事情が事情だけに。メッセージも既読にならない。気を揉みながら始業式は終わりHRが終わると急かされるように学校を後にする。

 「いらっしゃ……おう…どうした?早えな。」
 ブルージーはちょうど昼時の忙しい時間だったが鬼頭は目ざとく翔のいつもとは違う様子に気づいた。翔はキョロキョロ店内を見回したが求める人の姿はなかった。
 「夏野が学校に来なかった。昨日は元気だったのに。」
 「嬢ちゃんは兄貴が引きこもりなんだっけ?」
 「昔は暴れてたって言ってた………。」
 どちらにせよ他人の家庭の問題だ。警察も基本的に不介入。翔は夏野の家の正確な場所は知らなかったし向こうだってそうだろう。二人の接点はここブルージーなのだ。
 お客さんが一人二人といなくなり夕方になった。そんな中ひっそりと夏野がやってきたのだが………。
 ガーゼが左頬に貼り付けられ痣がいたる所にあり右目が腫れ唇の端が切れて瘡蓋(かさぶた)が出来ていた。鬼頭と翔の顔を見るなり不安そうな目を見開いて唇を引き結ぶと安心したように泣き始める。
 「おいボウズ。バックヤード連れて行ってやれ。」
 店のバックヤードは整理整頓されてはいたが狭く奥の方に古いスツールが置いてあったので翔は泣いている夏野をそこへと座らせ彼女が落ち着くのを待った。しばらくするとぽつぽつと話し始める。
 「………朝、突然兄さんが叫び始めて殴られたの………母さんだけじゃどうにもならなくて………近所の人が警察を呼んで………それで………。」
 ここまで言い終えると夏野は大きな声を出して子供のように泣き始めた。
 「何なの………?私何かした?何か悪いことした?………」
 繰り返し繰り返し同じことを言いながらぼたぼたと涙を流している。翔はしゃがんで夏野の左手を両手で包み込むように握っていた。夏野はしゃくりあげ始めた。
 「嬢ちゃん何だって?」
 店内に戻ってきた翔は目を伏せがちにして
 「兄さんが暴力をふるったみたい。」
 「待ってろよ。ココアとパンケーキ作ってやるから持って行け。」
 それから夕食の時間帯になり店は混み始め、夏野のことは心配だったが翔は接客に追われた。
 「もう上がっていいぞ!」
 鬼頭の声とほぼ同時にゆっくり夏野は店に出てきた。泣きすぎて目は腫れていたけれど真っ直ぐ前を見つめて、何か言葉をかけなければと思っていた翔は一瞬動きを止めて夏野の顔をじっと見る。
 「嬢ちゃん………いや、夏野。お前さん何か決心したようだな?」
 鬼頭の言葉だった。それを受けてか夏野は唇を引き結び一回深く呼吸をし静かにハッキリと言い切った。
 「こんな世の中変えてやる………そのためなら何でもする。この世を変えるなら何かしらの作家になるのが一番効率がいいと思うけど………そんな才能はないから。」
 もう一息すると続けて、
 「政治家になる。そのために法律の勉強することにする!」
 ヒュウと鬼頭は口笛を吹いた。
 「ボウズ………いや、翔。お前は言いたいことないのか?」
 力強い眼差しを夏野に送り翔は言った。
 「俺も手伝う。どうなるかわからないけどそれが正しい気がする。」
 二人の会話に鬼頭は破顔して
 「いいぞ若人よ!未来に幸あれ!」
 店内に笑い声が響き夏野と翔は少しはにかんだ
 「反逆だ。その意志に乾杯しよう。」
 いつも仕事終わりの時に飲もうと一缶だけ冷やしてある缶ビールを取り出すと、
 「今この瞬間にお前たちの人生の始まるんだ。覚えとけよ。」
 プシュッという乾いた音がブルージーに響き渡った。
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