貴女の瞳に私がいて 私の瞳に貴女がいる

文字数 18,111文字

 私は女性の身に生まれながら、彼女を好きになった。
 彼女と付き合ってもう六年以上が経つ。仮に、これが普通の人だったら、彼氏彼女のどちらかの家に同棲したり、週に決まった日だけ相手の家に通ったり、結婚を考えている関係なら一軒家で一緒に住んだりするものだろう。だけど、私達の生活はそのどれからも微妙に外れてしまっている。
 午後八時頃。会社から自宅に帰ってきた私は「ただいま」という挨拶もしないまま、玄関を上がった。二階にある自分の部屋に荷物を置いてから、薄着になってまた一階に降り、キッチンに向かう。
 キッチンの流し場で手を洗った後、今日の献立を思い出しながら夕食の準備を進めていく。準備と言っても大したものを作るつもりはなく、バターで煮込んだ肉のパスタに野菜の盛り合わせというシンプルなメニューだ。
 私が無理に凝った料理を作ろうものなら、主に味という結果がどうなるかなんて目に見えている。彼女なら私の作ったものはなんでも美味しいと言って食べてくれるだろうが、ただでさえ数少ない彼女の楽しみをこれ以上潰してしまっては可哀想だ。
 二人分の料理ができると、今度はお風呂場に向かった。
 今日は湯船に浸かりたい気持ちもあったが、お湯を張ってゆっくりする時間も惜しい。私はいつものようにシャワーを浴びて、湯船に浸かれない代わりに体を入念に洗う。髪、首、脇、腕、胸元、股下、脚、足の裏と丁寧に、けれども時間をかけ過ぎないよう、いつも使っている香りのボディソープで洗っていった。
 お風呂場から上がると、洗面台で髪をしっかりと乾かし、洗顔をした。そして、化粧を落としたばかりの顔にほんの軽く薄化粧をする。それから、洗面台横の籠に用意していた部屋着に着替えてキッチンに戻った。
 二人分の料理を盆に載せて、二階へ続く階段の裏に立つ。
 階段裏の壁側には一つの扉がある。その扉を開けて中の電気を点けると、下へと続く階段が電球の弱々しい光に照らし出される。
 私は足元に気をつけながらその階段を下りていく。そして下り切ってすぐにある扉の前まで来ると、一度立ち止まった。右手の壁に掛かっている鏡と向き合って、今一度自分の身だしなみを確認する。
 髪に乱れはない。顔や首回りに変な痣はない。衣服には髪の毛や埃も付いてない。外の臭いもちゃんと落ちている。よし、大丈夫。
 私は静かにノックをしてから扉を開けて、地下室へ入る。
「ただいま、唯(ゆい)」
 地下室の真ん中の床で女の子座りをしていた唯は、その手に持っていた写真――私一人だけが写った写真――から目を離して私を見ると、途端に飼い主の帰りを喜ぶ子犬のような笑顔になった。
「おかえりなさい! 咲希(さき)、今日は遅かったね」
 唯が立ち上がると、その左足に繋がれた鎖は小さな金属音を立てる。
 私は近くのローテーブルに料理の載った盆を置いて、唯に近寄った。
「ごめんなさい。仕事が長引いちゃって」
「ううん、ちゃんと電話もしてくれたし大丈夫だったよ。ほんとは、ちょっぴり不安になったけど、こうして唯の顔が見れたら不安も吹き飛んじゃった」
 私の体に正面から寄りかかりそうな距離感でこちらの顔を見上げてくる。唯の横髪や後ろ髪は寝起きのようにぼさぼさしており、よく見れば、肩に垂れた横髪の中にヘアゴムが絡まっていた。
 私は彼女の長い髪を指で弄りながらもまとめていき、後ろ髪と一緒にヘアゴムでしばってあげた。彼女は不安を感じるとすぐに髪を解いてしまう。腰まで伸びた黒髮は綺麗で可愛いけど、ちゃんとまとめないと邪魔になるよっていつも言っているのに。
「そう、それなら良かった。ほら、ご飯を作ってきたから一緒に食べましょ?」
 二人の間にローテーブルを寄せ、そこへ盆から料理の皿を移す。それから、部屋に食べ物の臭いがこもらないようにと部屋の換気扇を回しておく。
 牛肉のパスタを食べつつ唯との会話を弾ませながら、私は彼女の左足首の具合をちらりと見やる。
 自分で少し爪を立てて掻いてしまったのか、鎖を繋いでいる鉄の輪の当たっている肌がほんのりと赤くなっている。きっと、私の帰りが遅くなると知った途端、髪の毛先を触る感覚で鎖を弄ってしまったのだろう。一応、肌を傷つけないようにと鎖の輪には布のカバーを付けているが、それでも部屋中を不自由なく歩き回れるよう長さに余裕を持っているため、鉄の重みで肌の擦れてしまうことは避けられない。
 念のため、私は部屋の物が壊れていないか周囲を見回す。
 ワンルームよりやや広い部屋の隅に置かれたベッドはちゃんと整っており、枕や毛布が破かれている様子もない。洋服タンスや小型冷蔵庫、本棚、机も倒れた形跡はない。私は立ち上がって、「ちょっと暑いから、冷房の温度下げるね?」と言って、エアコンのリモコンを操作してみたがちゃんと動作している。テーブルへ戻るついでに冷蔵庫の中を確認するも、中はしっかり冷えており、飲料水や食料の蓄えも過不足なく丁度良い量を保っている。
 そうした私の行動一つ一つを、唯の目がじっと追ってくるのを感じる。
「唯、喉乾いたでしょ? 麦茶で良い?」
「うん」
 私は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを手に取り、仕切りのない隣の空間にある洗面台へ移動した。
 そこに取り付けられた棚からコップを取り出し、ペットボトルの麦茶を汲む。そして、唯のところへコップを運ぶ前に、トイレと浴室に異常がないかを確認していく。とにかく水回りは水道管や排管に詰まりがなければ問題ない。
 手早く確認を終えた私は、唯の元へ戻ってコップを手渡す。
「ありがと」
 唯は小さく可愛らしいお口でちまちまと麦茶を飲む。
 テーブルを見ると、パスタと野菜を綺麗に食べ終わっていた。そのまま、食器を盆にまとめて運び、再び洗面台に立って食器洗いを始める。
「今日のパスタ、味はどうだった?」
 洗い物を続けながら声だけを向こうに飛ばすも、唯の答えは返ってこず、代わりに裸足で床を歩く音と鎖の擦れる音が近づいてきた。顔だけで振り返ると、案の定そこには唯がいて、私の背中から腰に腕を回して抱きついてくる。
「美味しかったよ。前よりちょっと上手になってた」
「嘘、絶対味が薄かったと思うけど」
「ううん、あれぐらいが私には丁度良いよ。どうせ、運動もしないし、味が濃いものを食べたら塩分の取り過ぎになっちゃう」
 唯は猫みたいに自分の頭を私の背中に擦りつけてくる。今日の分の寂しさを紛らわそうと必死に私の温もりを求めてくる様子は、どうしても愛おしくて堪らなくなる。同時に、彼女にこんな暮らしをさせるのはやはり間違っているのではないかと思えてくる。
 食器を洗い終えた後は、唯のお風呂の時間だった。
 この時間が唯一、地下室へ縛り付けている唯の鎖を外す瞬間だ。というのも、その鎖の鍵は普段私が管理しているからだった。本当は鎖を自由に取り外せるよう唯に鍵を持っていてもらいたかったが、当の本人が「それだと私を地下室へ閉じ込める意味がないよ。私、不安になったら絶対に咲希の事が恋しくなっちゃうし、それで咲希に迷惑をかけたくないもん」と断ったため、仕方なく私が預かっている。
 唯がお風呂に入っている間、すでにシャワーを済ませている私は洗顔だけをして、ベッドの上に座って待つ。
 ベッドの傍の壁には色んな写真が貼ってある。主に私の写真ばかりだけど、中には私と唯が一緒に写っているものもあり、その大半は私達が大学生だった頃に撮ったものであった。遊園地に遊びに行った時のものらしい写真もあったが、そのほとんどは私と唯以外の背景を執拗に切り取った不自然な形になっている。背景に写っている他人が邪魔だという。これを初めて見た時は、唯の事を怖く思ったこともあったが、いつからか怖いというよりも可愛い一面だと認識するようになっていた。
 お風呂から唯が上がってくると、彼女の左足にまた鎖を繋ぐ。
 そして、私は一度も一階に戻ることなく、この地下室で就寝を迎える。
 地下室に一つしかないベッドでは互いに身を寄せ合って横になる。お互いに吐息のかかる距離で話をし、目を見つめ合って愛を囁き、どちらかの瞼が下りるまでそれが続く。大体は唯が「私のこと好き?」とか「このまま、ずっと一緒にいてくれる?」とか「目を覚ましていなくなってたら泣くからね?」といったことを毎晩のように聞き、その口が睡眠という電池切れによって動かなくなってから、ようやく私も眠ることができるのだ。
 他の人ならきっと耐えられないかもしれないけど、私にとってはこれが幸せだった。こうして唯にしつこく愛を囁かれて、唯の香りに包まれて、ただ唯に好かれている時間が何よりも幸福なのだ。
 でも、こんな生活はいつまで続けられるのだろう。いや、いつまで私は続けるつもりなのだろう。
 お互いに大学を卒業してから、ここ数年間ずっとこの生活を繰り返している。二人の間では合意の上だとはいえ、これでは他人の目には私が唯を監禁しているようにしか見えず、彼女の自由を奪って束縛していると言われてもしょうがない。
 私だって罪悪感がないわけではない。唯と違って、私は普通の人間だから、自分の異常な行動にはちゃんと気づけるし、それを理性でコントロールすることだってできる。そもそも、私がこの地下室暮らしを彼女に提案したのも、自分の中で彼女の問題を色々と堪え切れなくなって悩んだ末のことで、それを唯があっさり受け入れただけなのだ。
 ああ、唯と付き合い始めたあの頃は、もっと普通な、健全な恋人同士になれると思っていたのに。

  ――――

 大学に入学したばかりの頃、私の昼食は弁当ではなく学食であった。
 ここの学食はコンビニ食よりも安くて量もあるので、基本お金に困る運命にある学生にはそこそこ人気がある。本当に食費を浮かしたいのであれば、自分で弁当を作ってくるほうが良いのだろうけど、朝早く起きて弁当を準備するのは面倒臭いし、何より料理の苦手な私みたいな人間には自分の作るものが信用できない。
 ただ、唯一の欠点といえば、昼間の時間帯がうんざりするほど混雑することである。
 人混みの嫌いな私は、食堂の混雑するお昼時を避けるよう一日の時間割を組んでいる。だけど、毎週の火曜日だけは必修科目と履修しておきたい科目の兼ね合いもあって、どうしてもその時間帯を避けられない。
 火曜日だけコンビニ食にしようかとも考えたけど、私と同じことを考える学生は他にもたくさんいるわけで。わざわざコンビニまで足を運んで、弁当やおにぎりやらの争奪戦に巻き込まれて、レジ待ちの列で時間を取られることになるぐらいなら、最初から食堂に狙いを定めたほうが労力も少なくて済むだろうと思った。
 入学から数ヶ月経ったある火曜日のお昼。
 分かり切っているとはいえ少しげんなりする混雑具合の食堂に来ていた私は、いつも頼んでいる手頃な日替わり定食を手に、空席を探しているところだった。
 今日は中々空席が見つからない。食堂に入った時から満席であったことは知っていたが、たいていは券売機の順番待ちやカウンターでの料理の提供待ちをしている間に空くから、こうなる事はあまり考えていなかった。事前に席取りをすれば良い話だろうけど、それは周りに迷惑になるからと食堂側が禁止している。それでも堂々と席取りをしている人達みたいに、残念ながら面の皮は厚くない。
 仕方がないと、私は空席を探すのを諦めて、食堂を抜けようとする。外への学食の持ち出しは所定の場所以内なら許可されているから、外のベンチで食べよう。
 食堂の中庭へと続く出入口に向かっていたその途中、視界の端で誰かが席を立ったような気がした。試しに見てみれば、丁度壁側の六人掛けテーブルの席が一つ空いたところであった。そして、今その席の一番近くにいるのは自分だ。
 私は駄目でもともとだと思い、空席の隣に座っている女性に声を掛ける。
「この席、座ってもいいですか?」
 右隣の友人と喋っていた女性は笑顔のまま振り返り、「ええ、どうぞ?」と答えた。
 私は内心タイミングの良さに他愛のない喜びを感じながら、「どうも」と軽く会釈をする。人混みは苦手だから外で食べても良いんだけど、座れる席があるんだったら学食はやっぱり食堂で食べたいものだ。
 定食の載った膳をテーブルに置き、ようやく手に入れた空席へ腰を下ろした時だった。
「うわっ」
 そう小さくか細い声が確かに、私の目の前から聞こえてきた。
 顔を上げると、私の真向かいの席に座っていた同い年ぐらいの女性と目が合った。こちらの目を見るなり、その女性は慌てた様子で顔を伏せる。前髪の陰になってしまうほど大げさに俯いてしまったので、どんな顔をしているかまでは窺えなかった。
 いったい、この子はどうしたというのだろう。彼女の反応から察するに、私のことを見て声を上げたようであったが、私が何かいけないことでもしたというのだろうか。
 彼女の隣に座っていた女性もその様子に驚いているようだった。私と同様のよそよそしい態度を見る限り、二人は友人ではないらしく、たまたま相席になっただけの間柄のようだ。それなら、相席になった他人が突然一人で声を上げたらびっくりするのも当然だろう。私だってびっくりした。
 かといって、こちらから「何ですか?」と問いただすのも変な気がしたので、とにかく深く考えないように努めながら日替わり定食に手をつけ始める。
 食事をしている間、私は常に視線を感じていた。
 その視線の正体は案の定、真向かいに座っているこの女性だった。前髪で顔が隠れているせいではっきりと分かるわけではないものの、自分の食膳からこまごまと食べ物を口に運びながら、時折前髪の隙間からこちらを盗み見ていることは疑いようがない。よっぽど私のことが気になるのか、長く綺麗な横髪が自分の食器にかかっていることにも気づいていないようだ。
 正直なところ、私は彼女の視線を気持ち悪いとは思わなかった。
 なぜなら、彼女の視線には湿っぽさというか嫌らしさというか、そういった陰湿な人間特有の感じ悪さが一切なかったからだ。むしろ、私に対する純粋な興味しかなく、そのおどおどした態度の割に一種の潔さがある。まあ、食事中にじっと見つめられることに関しては居心地悪いのも事実だけど。
 私はスマホを弄ることで目のやり場を確保しながら箸を進め、定食を残さず食べ終わると、席を立つ前にそれとなく彼女のほうを見てみた。
 驚くことに、彼女は自分の昼食を食べ終わっていなかった。私よりも前に食べ始めていたというのにまだおかずのコロッケが残っており、半分ほど残っている汁物はもう水と言っても良いほど冷めきっているに違いない。私の隣や彼女の隣に座っていた女性もとっくの前に別の人に入れ替わっているというのに。食べるのが遅いというレベルではない。
 私を見てくる熱心な視線はそれほど不快ではなかったが、熱心さそのものには少し背筋の寒くなる感じがした。
 ほんと変な子。私が気になるなら声をかけてくれば良いのに。どうせ、おおかた人見知りだから友達が少なくて、私を友達として引き込みたかったんでしょうけど、たぶんもう会うことはないでしょ。
 私は自分の膳を持って立ち上がると、彼女のほうを一度も振り返らずに食堂を後にした。
 それから、また次の週の火曜日、そのお昼。
 食堂に入った私は券売機の長い列に加わると、自分の番を待ちながら食堂内を見回した。
 今日も相変わらず人が多く、席の入れ替わりがあっちこっちで頻繁に起こっている。テーブルで談笑していた六人グループが席を離れると、そこへ仲の良さげな二人組の男女が座り、続いてチャラい男性四人のグールプが空席を埋めるように入り込んでくる。絶え間なく隙間の埋まっていくさまは、まるでどこぞのパズルゲームみたいだ。
 そうした人の入れ替わりを見ながら、自分の座れそうな席のいくつかに目星をつけていたところ、私はある違和感に気付く。
 誰かに見られている気がする。そう思った瞬間、私は彼女と目が合った。
 先週の火曜日、同じテーブルの真向かいに座っていたあの女性だ。彼女は食堂の壁側のテーブルに座っており、本来こちらへ背を向ける形になる席から振り向くような姿勢で、私のほうを見つめていた。周りの人はみんな自分の座っている席に体を向けているのに、彼女だけが周りとは違う方向を向いている。それが違和感の原因だった。
 それを真顔で見つめ返してやると、今度は彼女が私の視線に気付き、ひどく焦った様子で自分の席に向き直る。ご飯を食べている振りで誤魔化しているつもりなのだろうが、丸くなった背中には明らかな動揺が表れていた。
 その背中を数秒ほど見つめ続けていると、彼女は恐る恐るといった動作でまたこちらへ振り向いてくる。そして、私の視線がまだ自分に向けられていると知り、さっきよりもさらに身を小さくするように目を逸らした。
 また彼女に遭遇してしまったという驚きもあった。が、それよりも地味に驚いたのは、食堂に入って間もない私を彼女がすぐに見つけたという事実だ。
 こちらが気づいた時には、すでに彼女は私を見つめていた。彼女の座っている席は私の並んでいる列の券売機に対して背中を向ける形になっているのだから、普通私のことを見つけられるはずがない。それってつまり、私が食堂に入る前から、彼女は券売機のほうを気にかけていたってことになるのでは。私が来るかもって期待して?
 この日、彼女と相席になることはなかったが、それからというもの毎週の火曜日に食堂を訪れると必ず彼女の姿を見かけるようになった。当然のように、彼女も私の存在に毎回必ず気づいた。
 食堂に入ると視線を感じて、それに振り返ると彼女と目が合う。彼女はやっぱり人見知りな性格なのか、目を見つめ返せばすぐ慌てふためいて顔を背け、近くを通っても絶対声をかけてこようとはしない。その内、私を見ている時の彼女の顔がほんのりと紅くなっていることを知った。またその理由が、私に対する興味というより好意によるものだとも察してしまう。
 なんだか薄気味悪い。そんな感情は確かにあった。
 だけど、不思議と嫌な感じはしなかった。だって、彼女の好意には微塵も悪意が感じられなかったから。これが年の近い男性とか相性の悪い女友達とかだったら、他意や下心を疑っていたし、素直に真正面から「気持ち悪いんだけどやめてくれる?」と突き放していただろう。それに時々遠目に見える彼女の素顔はどこか子供みたいにあどけなくて愛らしく、ありきたりな言葉で言えば憎めなかったのだ。
 彼女との妙な出会いから数えて十何回目かの火曜日のお昼。
 食堂に入った私は、自然と彼女の姿を探すようになっていた。
 探せば当たり前のように彼女の姿は見つかる。彼女もまた当たり前のように私の姿を見つける。あいも変わらず彼女は私の視線を見つめ返すこともできないようで、一度俯いてしまったら声をかけてくる様子もない。
 だからといって、私から話しかけるつもりはなかった。彼女に行動を起こす気がなければ、こっちが余計なことをするのも野暮だと思っていた。それに好意からとはいってもこういうタイプの子と友達になるのは、ちょっぴり面倒な感じがしたのだ。
 カウンターでいつもの日替わり定食を受け取り、二席ほど空いている四人掛けのテーブルに向かっていた時だった。そこへ男性二人組が現われ、私より先にその空席を取ってしまった。状況的に横入りとかではないので取られたものは仕方ないと、私は別の空席を探すも、中々見つからない。
 今日は外で食べるしかないか。そう諦めかけた時、近くのテーブル席の一つが空いた。
 見ると、その席の真向かいにはあの女性が座っていた。一度も話したことがない顔見知りの相手と相席になるのはちょっと気まずくなりそうで躊躇ったが、外で食べるよりは室内で食べたい気持ちのほうが強くあったので、私は決心して彼女の前の席に腰を下ろす。
 彼女は身構えるように体をぴくりとさせ、長い髪で隠すように顔を伏せた。離れたところにいる時はこっちの一挙一動を見逃すまいと瞬きを忘れていそうな目で追ってくるのに、近づいたらこれだ。
 なんというか、人馴れしていない野良猫に逃げられたような気分になる。追われると逃げたくなるが、逃げられると追いかけたくなる心理とでもいうのか。こんな反応をされると、彼女がどんな顔をしているのか無性に知りたくなる。
 私は取り出したスマホの画面を見ながら、定食を食べ始める。
 スマホの画面から少し目を逸らせば、その先には彼女がいる。恐らく頬を紅くして私を見ているのであろうことは察せるものの、俯いて垂れた前髪がその素顔にベールをかけてしまっている。目鼻や口元の細かいところを見ようとするなら、やや下のほうから彼女の顔を覗き込まなければならない。
 私に好意を寄せるような女性の素顔が気になるとはいっても、さすがにそこまでする勇気はなかった。相手は友達でもなんでもない赤の他人だ。しかも、ここは食堂で同じテーブルに座っている人の目はもちろん周りの目もある。少なくとも私と彼女が知り合いだと周りに思われるような空気にないと、そんな恥ずかしい行動は取れない。
 自分でも気がつけば、スマホの画面なんかよりも彼女の様子が気になっていた時だった。
「あ、あの」
 とても細くて消え入りそうな声が耳に入ってきた。
 普通なら食堂の喧噪にかき消されてしまって聞き逃していたであろうが、私はその声をはっきりと聞き取り、自然と真向かいの女性へ目を向けていた。
「この時間、いつも食堂で見かけますけど、その、毎日学食を利用しているんですか?」
 顔は俯いたままだったが、前髪の隙間から上目遣いになった視線が一瞬だけ覗く。彼女が他の誰でもない私に話しかけているのは間違いなかった。
 まさか、彼女のほうから行動を起こしてくるとは思ってもみなかった。見る感じ、明らかに人見知りで奥手な性格っぽくて、初恋も二度目の恋も意中の相手へ想いを打ち明けることができないまま失恋していそうな子なのに。
 私は驚きを顔に出さないよう澄ました態度を取る。
「ええ、そうですけど」
 そんな質問しなくても、もうすでに分かっていそうだけど――そう意地悪な言葉が喉から出そうになったところで、私はぐっと堪えた。
 分かりきった私の返事に意味があったのかは不明だが、途端に彼女の恥じらうような素振りが大きくなる。
「そうなんですね。じゃあ、その、えっと、突然友達でもないのにこんな事をお願いするのも変かもしれないんですけど、これからは、私と一緒にお昼を食べてくれませんか? あっ、もちろん毎日とかじゃなくて良いです! 時々、ほんとに時々でいいので……」
 これには、さすがの私も戸惑いを隠せなかった。
 私との接点を作りたいという一心はよく感じられる。だが、それはあまりにも唐突ではないか。相手との距離を縮めるならもっとこう、当たり障りのない会話から始めて、趣味や話題とかで共通点を作っていくものなのに、いきなり今後の約束を取り付けようとするなんて。彼女は人見知りというより不器用なのかもしれない。
「ええっと、そうですね~」
 私は半笑いになりながらも慎重に言葉を選ぶ。
 彼女には悪いが、ここで「いいですよ」と頷くつもりはなかった。別に彼女とお昼を一緒にするのが嫌なわけじゃないけど、そうするぐらいなら他にいる仲の良い友人と時間を合わせて食堂に来たいし、わざわざ彼女を選ぶ必要もない。相手が下心ありありの男なら「嫌です」ときっぱり断ることができるのに。一生懸命に勇気を振り絞ったのであろう彼女を傷つけたくはない。
「時々だったら、まあ構わないというか。でも、私そろそろ自分でお弁当でも作ろうかなって考えてるんですよね。そうしたら、学食の利用も減るかもしれないし」
 ああ、なんて中途半端な断り方だろう。
 見ると、彼女は顔を見せなくてもそれと分かるように肩を落としていた。普通に一人で食べたいからとか言って断れば良かったのに、遠回しに避けるような言い方をして、結果的に私は彼女を傷つけてしまった。
 相手の沈黙が長引くにつれ居心地の悪くなるのを感じていると、彼女は急に何かを思い付いたように「あっ」と控え目な声を出し、わずかに顔を上げる。
「それなら、私がお弁当を作ります!」
 身を乗り出すような勢いに前髪が揺れて、素顔の一部が垣間見える。
 その時、無意識の内に私は片手を伸ばし、彼女の前髪を優しくかき上げていた。それは本当に反射的な行動であって、ちょうど何か光るものが見えたので拾い上げようとする感覚に近かった。
 初めて間近で見る彼女の素顔は、一言に可愛かった。
 やや低く垂れ下がった眉と目は生まれつきなのか、どこか自分に自信のなさげな表情をしているように見える。それと面が短く整っているせいも相まって顔つきとしては幼い印象だったが、長く綺麗に揃ったまつげと濁りのない黒い瞳の目元は大人らしく、思わず見入ってしまうほど魅力的だった。その目元のせいだろうか。彼女の瞳を見ていると心が妙に落ち着かなくなる。
 前髪というベールが剥がれて露わになった彼女の瞳に、私の姿が映っている時間はそう長くなかった。突然、彼女は私もびっくりするほど大きな声を上げて席を立ち上がると、顔から首元まで茹で上がったように紅く染めて、兎みたいに慌てふためきながら食堂を出ていってしまった。
 彼女の後ろ姿を呆然と見送った後、その場に残された私はふと冷静になる。
 周囲を見回すと、皆一様に怪訝がるような目つきを私に向けている。こちらの事情を知らない周りからすれば、私が彼女に何か悪いことをしてしまったように見えるだろう――実際に良くないことをしたから私はこんな状況に立たされているのだけど。薄っすらと聞こえてくる囁き声には「喧嘩? それともいじめ?」という憶測が混じっている。
 いたたまれない気持ちになった私は、まだ少し残っている自分の定食と真向かいの席に放置された彼女の食膳を返却口へ持っていくと、そそくさと食堂を後にしたのだった。
 その翌日から私は学食の利用を避け、コンビニ食を取るようにした。あんなことがあった後では食堂に行きづらく、例え人の少ない時間帯であっても私の精神的な抵抗感からなんとなく遠ざけるようになり、今後のお昼はしばらくコンビニ食になりそうだった。
 ただ、次の火曜日だけはもう一度食堂へ行かなければと思っていた。あの出来事で食堂に行きづらくなったのは私だけでなく、きっと彼女も同じなのだから、そのことについて一言でも謝っておきたかったのだ。もし、彼女も私のように食費を浮かせるために学食を利用していたのだとしたら、本当に悪いことをしてしまった。
 食堂での出来事から一週間後の火曜日。
 私は食堂の前まで来ると、中に入らず出入り口の外からさりげなく食堂内を見渡した。
 でも、彼女の姿は見当たらなかった。いくら人の入れ替わりが激しいお昼時であっても、今まで一度たりとも彼女の姿を見落とすことはなかった。それが見つけられないとなると、やはり彼女も食堂を避けているのだろう。あんなに熱心な視線で私のことを見ていたくせに。たったあれだけのことで私を諦めるっていうの?
 なんで、いないの。私は自分でもよく分からない少しの苛立ちを覚えながら、また別の日に探しに来ようと考え、食堂の出入り口に背を向けて歩き出そうとする。
 と、私は踏み出しかけた足をぴたりと止める。
 目の前には、探し求めていた彼女がいた。
 彼女はいつものように変わらず私の目を見るのを恥ずかしがって、前髪を頼りにするよう顔を俯き加減にしていた。こうしてお互いに立って向かい合うのは初めてだ。イメージ通りというか、彼女の背は私の頭よりずっと低く、小動物のようにあどけない。その体の前で小さくまとめた両手には、少女趣味の布に包まれた四角い箱のようなものを持っている。
 とりあえず、せっかく会えたのだから先週のことを謝罪しておこう。
「えっと、この間はごめんなさい。気持ち悪かったですよね、急にあんなことをして……」
 そう申し訳ないという態度を見せつつも、私は彼女の出方を窺う。
 彼女は絶対に気持ち悪いとは思っていない。だって、あの時の反応はどう見ても、好意を寄せている相手に触れられて驚いたような恥じらい方だった。つまり、彼女の好意は私と友達なりたいといった友好的なものではなくて、もっと女の子らしくて純粋な感情というか、私自身も勘付いてはいるがちょっぴり整理できていないものだ。
「えっ、あんなこと?」
 彼女は一瞬何のことか分からないと言いたげな表情をしたが、すぐに思い出したように顔色を変えて、大げさな身振りで首を横に振る。
「そんな、全然気にしていません! あれは、私が勝手にはしゃいでしまったというか、私の個人的な問題なので……。そ、それよりも、その、今日は渡したいものがあって」
 彼女は両手に持っていたものを差し出す。
「これ、貴女のために作ったお弁当なんですけど、食べてもらえたら嬉しいです」
 それは予想通りと言えば予想通りだった。
 お昼時に食堂の前で持っている布包みの四角い箱となったら、弁当箱以外に何があるというのだろう。それに先週の食堂での会話の流れもある。一つ文句をつけるとするなら、私の弁当を作ってくるという彼女の提案を当の本人は快諾した覚えがないことだ。
 とはいえ、わざわざ作ってきてくれたお弁当を突き返すもの可哀想だし、そんなことをしてしまったら私は自分自身を一生恨みそうな気がした。
「そう、ありがとう。じゃあ、せっかくですし頂きますね」
 そう返事をしてお弁当を受け取った時、彼女はぱっと表情を明るくして、私の顔を真っ直ぐと見上げてきた。目元は前髪で隠すくせに、自分の感情は少しも隠せていない。本当に不器用な子。
 その後、私は彼女と一緒に近くの広場のベンチに腰掛けて、その手作り弁当を食べた。
 素直に美味しかった。栄養のバランスも見た目の配色も整っているし、何より私のために一生懸命に作ってくれたのであろう気持ちが十分に伝わってくる。料理下手な私なんか比べ物にならないほど彼女は料理ができるらしい。
 私がお弁当を食べている間、彼女はずっと私のほうを気にかけていた。それも当然だ。気になる相手に手作り弁当を食べてもらえているのだから、味の感想の一つや二つは聞きたくなるものだろう。それを察して、私が「これ、すごく美味しいね」と言えば、彼女は嬉しくて堪らないという喜びの色を体全身から振りまいてくる。
「もし、気に入ってくれたのなら、私いつでもお弁当を作りますから」
 緊張して息が細くなっているせいなのか、ところどころ舌っ足らずで掠れる、ほどよい高さの声。相手との駆け引きなんて知らない、自分の精一杯の気持ちを表現する彼女はどうしてこんなにも愛らしく映るんだろう。
 どうせ、今後は食堂になんて行けない。彼女が毎日お弁当を作ってくれるのなら食費は大きく節約できる。おまけにこの様子なら、頼みさえすれば朝も夜も私のために料理を作ってくれそうだ。でも、私にはそんな合理的な言い訳なんていらない。
 彼女の気持ち、そして自分自身の気持ちを確かめるため、私は彼女の手に自分の手をそっと重ねる。
「ねえ、貴女って、私のこと好きなんでしょ?」
 ――それも人としてじゃなくて、一人の女性として。
 そう問いかけると、彼女は核心を突かれたことで赤面を悪化させ、返答に窮するように動揺する。重ねた私の手から逃れようとする彼女の手をすかさず引き止めて、絶対に離れないよう絡め取る。
「私の勘違いじゃなければ、貴女は私を好きなはず。そして、私も貴女のことを、どうも好きになっていたみたい。だから、私達、一度付き合ってみたほうが良いと思うの。貴女はどう思う?」
 私は顔を近づけるようにして彼女の表情を覗き込む。思い切って大胆な行動に出てしまったが、私自身の気持ちに嫌悪感はない。思い返せばそれも当たり前のように思えた。これまで彼女に対するよそよそしい感情を抱いたことはあっても、はっきりとした「嫌い」という感情は一度も抱いたことはなかったから。
 彼女は視線も体も逃げ場をなくして、意を決したようにゆっくりと口を開く。
「わ、私も、そう、思います」
 この日を境に、私と彼女は恋人同士として付き合うことになった。
 彼女の名前は水崎唯(みさきゆい)だったので、呼びやすく親しみやすい下の名前で呼ぶことにした。唯と付き合ってみると、彼女はただの人見知りで不器用な性格ではなく、喜怒哀楽が分かりやすくてとても一途な子なんだと知った。
 例えばショッピングデートをした時、唯が自分のおめかしを褒めて欲しそうにそわそわしているのを察していながら、私はわざと素っ気なく振る舞う。それに物足りなさと寂しさを覚えて、彼女は少しずつ自信をなくしていく。その途中で私がやっと彼女の欲しがっている言葉をあげると、唯はそれまでの落ち込み具合を嘘のように忘れて喜ぶのだ。あまりにも分かりやすくて可愛く、いけないとは思いつつも意地悪をしたくなってしまう。あまりにも私にされるがままに振る舞うので、時には彼女の言うことをなんでも聞いてあげる日を作ったりもした。
 こんな言い方をするのはちょっと抵抗があるけど、基本的には私のほうに主導権があるような付き合い方だった。唯の一途さは本当にひたむきで、私が唯の前髪のことについて話をしたら、次の日から目元が見えるように髪留めなどで前髪を整えてくるようになったし、人前でベタベタするのを若干控えたいと言えば、私が良いと言うまではじっと我慢してくれることもあった。
 そうした彼女の言動には、ふとした拍子に心のすっきりしない感情を覚えることもあった。だけど、彼女の私に対する純粋な愛情を感じると、それも些細なことのように忘れられた。夏場の外出で貧血気味になる私をいつも気遣ってくれたし、冬場には寒さの苦手な私のためにマフラーを編んでくれて、どんな時でも私が寂しさを感じている日には一秒も欠かさず傍にいてくれた。
 そうやってお互いの愛もようやく理解し合えるようになったと思えた、大学三年目を間近に控えたある時期。その頃から、唯の様子がちょっとずつおかしくなり始めた。簡単に言えば、異常なほど嫉妬深くなっていたのだ。
 長く付き合っていると、当然だがお互いの交友関係も目につくようになってくる。大学内で私と友人が喋っているところを唯に見られると、そのことについて毎回のように問い詰められた。話し相手が男性か女性かなんて関係ない。ひどい時は、ちょっと目が合っただけの他人に対しても嫉妬することもあり、「もしかして、私には秘密で親しくなっているのでは」と疑ってくるのだ。数回に渡って自宅へ唯を招いた時、家具の配置や持ち物の種類が変わっていただけで「誰かとこっそり会っているのではないか」と聞かれた日には、私はそのヒステリックさにうんざりしていた。
 日に日に、それらの嫉妬の頻度が増していくので、さすがの私もイライラが抑えられなくなって、唯に怒りをぶつけるようになった。私が怒りを露わにすると、元々素直な性格の唯も反省して、怒っているこっちが申し訳なくなるぐらい悲しそうな顔になって、「もう二度としないから、私を嫌いにならないで?」と言ってくる。それで私が許してしまうのも状況を悪化させた原因の一つなのだろう。唯は自分でも嫉妬深い感情を抑え切れないらしく、一時期の私達の喧嘩はほとんど常習化していた。
 彼女への不満が爆発した際には、私から別れ話を切り出すこともあった。それを聞くと、唯はしおれた花のように大人しくなって、意外にもすんなりと別れ話を受け入れる。それ以降、彼女が連絡してくることもなければ私の目の前に姿を見せることもなくなる。でも、そうなったら、今度は私が耐えられなくなるのだ。彼女にひどいことを言ってしまったという罪悪感に加えて、彼女との楽しく過ごした記憶や時間を思い出して、もっと彼女に寄り添ってあげるべきではないのかと考える。嫉妬深い時は確かに異常だが、トラブルもなく普通にしている時には本当にただ可愛い女の子なのだ。唯を愛している私の気持ちは少しも変わらない。結局は私のほうから折れて、元通りになる。
 こんなはずじゃなかった。もっと健全で、時に誰かへ自慢したくなるような関係になれるはずだった。どうすれば、付き合いたての頃みたいに、彼女は嫉妬に狂ってヒステリックにならず私もイライラすることがなくなるのだろうか。
 そんなことを常に考えながら唯と付き合い続けて、大学卒業が近づいてきた頃だった。 
 私の頭に一つの解決策が思い浮かんだ。
 それは一軒家の自宅にある地下室へ唯を住ませることだった。他界した両親から譲り受けた一軒家の地下室なら、唯は私以外の誰とも会わずに済み、他人に対する嫉妬の念を覚えることもなくなる。外の世界から完全に隔離すれば、私も彼女の言動についてある程度安心できるようになる。仮に誰かが自宅を訪れたとしても、彼女はそれを知ることもないし、私もそれに対して神経質になる必要はないのだ。
 私がこの同棲方法を提案すると、唯はあっさりと二つ返事で了承した。
 自分の嫉妬深い性格とそれによる異常な言動を薄々自覚し、私に迷惑をかけているという負い目を少なからず感じていたからだろう。また、彼女は「咲希だけを見続けることができるのなら、むしろ嬉しいくらい」と前向きな発言をした。そして、最も重要なのは、お互いの気持ちが一致してしまったことだ。唯は私に嫌われたくなく、私は唯を離したくなかった。
 大学卒業後、私は唯を養うために就職し、唯は自宅の地下室に移り住んだ。
 それから毎日、私は唯のために時間を作った。唯は堪え切れなくなって衝動的な行動を起こさないよう地下室に鎖で繋がれているのだから、私から彼女のところへ会いに行く必要があったのだ。私は自分の時間を、彼女は自分の自由を犠牲にしたが、そのおかげで私達は喧嘩することがなくなった。また以前のように、愛を囁やき合ったり笑い合ったりするようになり、満ち足りた幸福を感じられるようになったのだ。
 ただ、私には少しの罪悪感があった。決して広いとはいえない地下室の世界に唯を閉じ込めて、本来ならもっとたくさんの楽しい体験ができたはずの自由を奪っているのではないか。もし、私が唯と付き合ったりしなければ、唯と別れることができていれば、彼女は普通の生活を送れていたのではないか、と。
 唯の性格について、何人かの友人に相談したこともあった。もちろん、私達の関係を直接明かしたりはせず、あくまで他人事の話題としてだ。すると、大体返ってくる答えは「病院に相談したほうが良い」とか「絶対に別れたほうが良い」というものだった。つまり世間は唯のことを精神的な病気だと決めつけ、頭のおかしい子だとレッテルを貼ってしまうのだ。
 それは違う。唯は病気でも何でもなく、そういう人間なのだ。ただ、ちょっと他の人より感情の振り幅が大きく、迷惑をかける頻度が多いだけで病人扱いをして遠ざけるのは、人間のエゴというものだ。確かに唯の性格にイライラすることもあったけど、私はそれもひっくるめて彼女を愛している。もし、彼女の性格を病気だと認めて矯正してしまったら、それはもう私の知っている唯ではなくなってしまう気がする。
 私も唯も現状に大きな不満はない。それどころか、幸せすら感じている。だから、これで良いんだ。そう自分を納得させ、私は時々湧いて出る罪悪感をもみ消していった。

  ――――

 オフィス内、あちらこちらからキーボードのタイプ音や電話応対の声が聞こえてくる。
 自分のデスクで仕事をしていた私は、パソコンの画面から視線を外し、肩の凝りを解すついでに壁掛けの時計に目をやる。
 時刻は午後六時過ぎ。あと数十分で退社できる定時だった。
 今日は朝から気温が低く、冬の時期でもかなり冷え込んだ一日だった。地下室は暖房が効くとはいえ唯も多少の寒さを感じて、一人寂しく私の帰りを待っているに違いない。確か彼女はお鍋料理が好きだったはず。帰りにスーパーにでも寄って食材を買い、夕食はすきやきにでもしよう。それなら、さすがに料理の苦手な私でも下手なものにはならない。きっと、唯も喜んでくれる。
 そんなことを考えながら、自分の仕事を切り上げる準備をしていると、私の上司が青ざめたような顔色をしてこちらに近寄ってきた。加齢臭が服に移ったら家に帰って困るから、あまり近づかないで欲しいなと思っていたところ、彼は重苦しい声でこう耳打ちをする。
「斎木さん。どうやら、あなたの家が火事のようで、今消防から連絡が……」
 それを聞いた途端、私はたぶん冷静さを失ったのだと思う。
 気づけば、私は炎の燃え盛る自宅の前に立っていた。真冬の夕時の中、上着も手袋も荷物も会社に忘れた状態で自宅が燃えるのを見ていた――持ち物は全て会社に置いてきていたのに、なぜか大学の時に唯が編んでくれたマフラーだけは忘れず手に握り締めていた。
 近隣住民や野次馬、消防車やパトカーなどで慌ただしい現場。
 どうして火事なんか、ストーブやこたつは使っていないし、家の戸締まりだってしっかりしていたはずなのに。私は近くの消防士にこの家の住民であることを告げ、失火の原因を聞いてみると、どうやら事故ではなく、愉快犯などの第三者による放火らしかった。周りを見てみると、私の家だけでなく、二、三軒の隣家も燃えている様子だった。
 私はその場に唯の姿がないことを知ると、消防士の制止を振り切って自宅へ入っていった。
 必死の思いでなんとか地下室に辿り着く。
 地下室には煙が入り込んでなかったものの、家を焼く炎のせいで頭がくらくらするほど熱くなっていた。その地下室の中央に、唯は力無く倒れていた。
 私は急いで駆け寄って、彼女を抱きかかえる。
「唯! ねえ、唯! 早く起きて!」
 私の声が届いたのか、唯は薄っすらと目を開ける。だが、地下室を満たす熱のせいで意識がはっきりとしていないようだ。とにかく、ここから彼女を連れ出さないと。
 そう思って、彼女の左足を縛る鎖を外そうとして、その鍵が手元にないことに気づく。そうだ、鍵は二階の自室にある。それを持ってこないと。
「待って、咲希、行かないで?」
 立ち上がろうとした私の腕を、唯が引き止める。
「私、たぶんここで死んじゃうの。だから、お願い、私を一人にしないで?」
 今にも泣きそうな顔の唯を見て、私は彼女を抱き締める。
「ごめんね、唯! やっぱり、こんなおかしな生活は早く止めるべきだった。そうすれば、唯がこんな目に遭うこともなかったのに」
 唯の言う通り、私が鍵を取りに二階へ行ったとして、この地下室へ戻ってこれる保証はなかった。行き帰りの途中で、家を確実に灰へと変えていく炎に私もやられるかもしれないし、体力の尽きた唯が意識を失うかもしれなかった。鎖を壊そうにも、熱せられた鉄の輪はとても素手でどうにかできそうな状態ではない。
「ううん、そんなこと気にしなくていいよ。私のほうこそ、いつも我儘ばっかり言って、いつも迷惑かけちゃってごめんね? 私、咲希に嫌われるのが怖くて、不安で仕方がなかったの」
 唯の呼吸は次第に浅くなっていく――私自身も酸欠に陥りかけている。
「また、我儘言っちゃうけど、良いかな? このまま、私と一緒に死んでくれる? 咲希が生きてたら良いと思ってたけど、やっぱり離れたくないの。私、初めて好きになった人を離したくない」
 私は即答できずに一瞬躊躇った。だけど、唯を失った後に一人で生きていくことを思ったら、どうしようもない不安に襲われた。普通に考えれば、死ぬことよりも唯と離れるほうが怖かった。
「うん、いいよ。一緒に死のう? 私も唯を失いたくない」
 唯は最後の力を振り絞るように笑みを浮かべる。
「嬉しい。本当は今、すごく、キスして欲しい。だけど、私、今唇がカサカサだし、あっちに行ったら……」
 彼女が言い終わる前に、私は唯の唇にキスをした。
 ああ、思えば、唯とキスをしたのはこれが初めてだ。なんでもっと前から、いっぱいキスをしておかなかったんだろう。本当はまた遊園地に行ったり、旅行に行ったりしたかった。二人だけの結婚式だって挙げたかったのに。
 薄れゆく意識の中、私はウェディングドレスを身にまとう唯の姿を、ぼんやりと思い浮かべたのだった。

                                       了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

●斎木咲希(さいき さき)……

 主人公。

 真面目で仕事もできる上に要領も良い。

 エリートとしての道も歩めたが、唯と出会って彼女との時間を大事にしたいという思いを優先し、就職先はプライベートとのバランスも取れて給料もほどほどに良い会社を選んだ。

 自分は普通の人間だと思っているが、潜在的に相手に依存してしまう体質を持つ。

●水崎唯(みさき ゆい)……

 ヒロイン。

 思い遣りのある心優しい性格。

 好きになった相手にだけ極度の人見知りが表れ、その相手と仲良くなるにつれて人見知りが解消すると同時にしおらしさが出てくる。嫉妬深い一面がある一方、従順的な気質もあり、自分の中で納得できる範囲で咲希の言う事をなんでも聞いてしまう。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み