第1話

文字数 3,801文字

「それで、蒼汰くんは今、私に別れ話をしているの?」
彼女、夏織の言葉に、僕はこくりと頷いた。
雰囲気の良い喫茶店で、その席だけは外の日差しが入らない席だった。僕が好きな亜麻色のロングヘアーが、彼女の顔にかかっていることもあり、表情が伺えない。
僕は、残念な気持ちになった。最後くらいは彼女の顔が見たかった。
年上の彼女は出会ったときから、きれいな人だった。アピールを退けられること数回、ようやく告白を受け入れてくれたのは二年前。大学生と社会人の年の差で、いつも精いっぱいな僕を微笑ましく見守ってくれる優しい人だった。
「就職も決まったし、新しい出会いを優先したいってことなの」
僕は彼女に答えられなかった。就職が決まった僕を祝う宴会をしてから、一週間も経っていない。彼女がそう思うのも無理もないことだった。
「最低、ひどいよ。でも、こんなことばかり言うからなの」
「夏織は悪くない」
「ねえ、悪いところ直すから。嫌だよ、蒼汰くん」
ハンカチは用意してあった。けれど、いざ予想通り彼女が泣き出しても、差し出すことはできなかった。

本当なら僕だって、別れたくない。けど、それを言うことはもうできない。

そう、思わず本音が漏れそうになったところで、声がかけられる。
「そうだな。でも、よくあることだろう」
背後の暗がりから、足音を立てて、その男は現れた。退廃的な雰囲気の美形な男だった。髪は少し長く、ばさばさと灰色の目にかかっている。
店内の数人が、彼の挙動を熱のこもった目で見ているのを、僕は忌々しくにらみつけた。
「おいおい、そんな目で見るなよ、同胞。これから長い付き合いになるんだからさ」
厭味ったらしく、芝居がかったように僕の肩に手をかける。僕は思い切り顔をそむけた。
その様子を、彼女は流れる涙をそのままに、驚いたように見つめていた。
「その人は誰?」
彼女の当然の疑問に、僕が答える前に、男が答えた。
「俺はあー、トムだ。通りすがりのイケメン」
「偽名ですよね。それに、貴方には聞いていない」
「それ以上、知る必要がないってことだ。そこまで言わせるなよ、カブトガニが」
カブトガニ!?と憤慨する彼女を置いて、彼は僕に言う。
「いつまで話している。さっさと終わらせて、こっちに来い」
彼女の顔色が変わったのが、視界の端で見えた。
「蒼汰くん、この男に脅迫されているの?」
「お前には関係ない」
「だから貴方には聞いていないのよ、ばかじゃないの!」
こうなると思っていた。だから夏織はトムと会わせたくなかった。僕はようやくのろのろと口を開いた。
「夏織ちゃんと別れようと思ったのは、僕の意思だ。気にしないでくれ」
彼女は信じていない目で僕を見ていた。絶望的な気分になりながら、僕は立ち上がった。
トムは満足そうに頷いた。
「それでいい。お前の食事を用意できるのは、もはや俺たちしかいない」
その言葉を聞いた途端、ぎらり、と彼女の目が光った気がした。
「異食症? それを満たすのに、この男の流通ルートが必要ってことなの」
ぶつぶつと呟く彼女は、いつもの口が悪い彼女ではなく、誇り高い医療従事者の顔を覗かせていた。出会ったときと同じ様子に、僕は眩しく目を細めた。
反対に、トムは彼女をおぞましいもののように見た。彼は何としてでも、彼女の心を折ることを決意したようだった。
「食事は人の血液。半年に一回、コップ一杯必要だ。逆に通常の食事はごみの味がする。負傷すれば都度、同量の血液を飲まないといけない」
「他の症状は?」
「日光にも流水にも負傷する。晴天も雨天も、素肌を出してはいけない。引き換えに非常に頑丈、剛腕」
夏織は熱心にメモを取り、トムは呆れたようにその様子を眺めていた。
「それじゃ、まるっきり、ドラキュラじゃない」
「カブトガニはやはりバカだな。惚れた男に秘密すら教えてもらえない」
僕はもう、耐えきれなかった。
いらだちのまま、タートルネックの首元をぐいと引き下げる。そこには、歯型が真っ赤な痕になってしまっている。横に立つ男からつけられた傷だ。これはもう治らない、らしい。まるで映画のような、わかりやすい傷だと自覚している。
「僕、ドラキュラになった。だから、別れてほしい」
夏織はぱちくりと瞬きをした。もう涙の跡も残っていない。
トムが、補足するかのように口をはさむ。
「事故だった。彼を助けるにはドラキュラにするしかなかった。先輩の俺なら同じくドラキュラとなった彼の面倒を見ることも容易だ」
「どらきゅら?」
ははは、と、彼女は信じられないことに笑った。
「夏織ちゃん?」
「何を真剣になっているの。つまり、感染症ね」
彼女は肩をすくめた。
「ちょっと症状が強烈だけど」
慌てて、僕はトムを見る。
一昨日の深夜、大学の友人と就職祝いの宴会を開いた帰り道、僕はこのドラキュラと出会った。誰もいない大通り沿いの歩道でのことだった。
銀色に輝いているような彼に目を奪われて、僕は、猛スピードで車道を走る車に注意しなかった。
車のドリフト音と焦げたタイヤの匂い、ハイビーム越しに見えた黒スーツの男の顔を覚えている。
車に轢かれ、四肢も欠けていたはずの身体を元通りにしたのは銀色の目をした、このトムと名乗る男だった。
自分自身、日常生活もままならないことで、人外になったことは理解している。スマホを握れば画面が割れ、丸いドアノブを楕円型にしてしまった。もう二度と、彼女と海とプールには行けないはずだ。
「蒼汰くんは自分が嫌になった?」
「そうだよ、夏織ちゃん。だから別れてほしい」
「私のことは?」
「大好き。当たり前じゃん。だから別れたくない」
「じゃあ、別れない。治療してあげる」
夏織は眩しい笑顔を、僕に向けた。
「世界にはどれだけ不可解な難病があると思っているの。ドラキュラっぽい症状もたくさんあるのよ」
トムさんも協力してください。そう、彼女が言うのと、彼が拍手するのは同時だった。
「良かったな。お前は大団円だ」
「トムさん」
「お前は俺の正体を知った。ドラキュラにしたのも俺だ。憎んでいいぜ」
夏織の顔を見ていた僕は、横に立つトムの顔を見ていなかった。
それよりも早く、爪が伸びた左腕を彼が振るったからだ。
視界が回る。違う、回転しているのは僕だ。悲鳴が聞こえて初めて、僕は自分が男に吹き飛ばされて、ガラスを突き破って路上に飛び出たことを知った。
久しぶりに青空を仰いで、顔と手が、じゅうじゅうと火傷に負っていく。
夏織が悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
ドラキュラの五感は鋭く、喫茶店の暗がりに立つ男の表情を伺うことは容易だ。
トムと名乗った彼は、ぼそりと言った。
「俺はこのままでいい。気にするな。ごめんな」
そう言い残すと、彼は暗がりから消えた。きっともう会えないのではないかと、僕はぼんやりと予感した。
ぱたぱたと夏織は、カーディガンを脱ぎ、簡易的な庇を作ってから、倒れる俺の前に座った。
「知っている? 献血の規定」
僕は彼女に胡乱気な目を向けてしまう。
「400mLを4ヶ月に1回。それ以上は断られる」
いつか褒めたノースリーブのワンピースから覗く、彼女の右腕は白かった。
「コップ1杯はせいぜい200mL。しかもそれが半年に一度」
ぎゅっと夏織は僕を抱き寄せる。ちょうど、柔らかな二の腕が口元に当たってしまう。途端に口内にあふれてくる、よだれのぬるさに吐き気がした。
「ちょっと吸っても、生存には余裕な量だってことよ」
彼女が何をさせようとしているのか。わかってしまった僕は嫌々と首を振った。どれだけ頭で否定しようとしても、全身の火傷を治そうと、身体が勝手に動き出す。
「気づいていた? あのトムって人と私の会話、話したがらない家族に付き添ってきた人との問診とそっくりよ」
まるでツンデレね、そう言う彼女の口はうめき声で止まる。
彼女の肩口に顔を埋めて泣く僕は、周囲からはさぞ滑稽に見えていることだろう。
ごめん、と言えたのは、五分後のことだった。口の中の甘い鉄の味は、どれだけ経っても、消えることがなかった。


深夜、静かな病室で、こっそりと輸血の針を抜き、咥えた。
事件の被害者として、夏織の勤める病院に担ぎ込まれた僕は、二日間の輸血を要する重傷患者として扱われている。
結局、夏織とは付き合い続けることとなった。どれだけ彼女のためを思っても、僕は自分の好きだという感情をごまかすことが出来なかったからだった。
考えることは、彼女とのこと以外にも、山ほどあった。
昨日の昼間、病院に運ばれてすぐ、僕が内定先の職場に自分のドラキュラとしての特徴を、難病の病状として報告した。
予想外に、返答はすぐにきた。
『採用。その症状があったとしても、何も問題はない』
それが内定先からの返答だった。
今、僕の手には、協議結果として改めて発行された採用通知が握られている。その隅には、走り書きが書かれていた。
『むしろ、大歓迎だ。日夜問わない働きに期待する』
夜の部分がやたらと強調されているのは、気のせいではないはずだ。
「どうなっているんだ、警視庁」
そう、僕が採用されたのは警視庁、東京の警察。
咥えていた針をそっと腕に戻す。輸血パックは空になっていた。外傷はもう、首の歯型を除けば、どこにもない。
「内定先がミステリアス、不安だ」
枕元には、彼女が持ってきてくれたスカーフが置かれている。僕はそれを首に巻き直して、眠くもない目を閉じた。ドラキュラと言えど、今日やれることといえば、その程度だった。
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