渡す人
文字数 4,619文字
三月八日の昼の天気は、僕の心情を投影したような、晴れかも雨かも分からない天気だった。
午後四時くらいにはだんだん人が集まっていた。
集まったとはいっても十五人くらいだった。
ただ椅子に座って、時々立ってお辞儀をする。機械のような僕の振る舞いに黒い服を着た大人たちは『泣きもしなければ退屈そうにしていて気味が悪い』と言っているような目をしている。
この匂いにも慣れてきた。時々臭うこの匂い。
僕は多分、この匂い結構好きだと思う。
遺影の周りを囲む白い花も昔母親に連れて行ってもらった花畑に咲いていたものと同じもののような気がする。
焼香と読経が終わった。
無駄に長くて退屈だった。
「渚くん」
心配そうに話しかけてきてくれたのは、引っ越す前に近所に住んでいたおばあさんだった。名前はもう覚えていない。
「忙しいのにご臨席してくださってありがとうございました」
ツギハギの敬語で返す。
「いいのよ…お父様にはお世話になっていたから…じゃあ…」
おばあさんは何を言えば良いのか分からず、気まずそうな様子で帰っていった。
僕の父親は最低最悪の父親だった。
もはや父親なんてものに当てはめていい人間でもなかった。
僕を産んだから父親と呼ぶしかない。僕にとって荒川浩一郎…いや篠田浩一郎という人間はその程度だった。
「あなたが浩一郎の…いらない子ね」
疲れて俯いているとまたもや声をかけられた。振り返ると、見た目に性格の悪さが滲み出ている女が立っていた。おそらく何番目かの…愛人だ。
「今日はお忙しい中…」
「そんな言葉いらないし聴きたくもない」
「………」
腹は立たない。何も感じない。
いらない子。正しくその通りだ。
「あなたも可哀想な子ね…両親に先立たれて、残ったのは一人」
「そうですね、運がないです」
「いっそのこと、あなたも死んじゃ…」
「おい!!!」
『あなたも死んじゃえば?』を言い終わる前に、すぐそばで眉間に皺を寄せて見ていた老人が割って入ってきた。おそらく庇ってくれたのだろう。二人は目の前でなんとも醜い口論を始めた。
僕はすっかり疲れてしまって、葬儀場を執り行なっていた建物の外に出た。
誰も僕に話しかけてこなかったし、誰も僕を追わなかった。
外は数時間前と一変して雨が降っていた。
別に雨が降っているから悲しくなるわけでもない。
親が死ぬのは二回目ということもあって何故か不思議と落ち着いていた。
死んだ相手に思い入れがないという理由が一番だろう。
上を見上げて、星を見つめようとした。
空は曇っていて、もちろん見えなかった。
流れ星は見えなかった。
◆
今年で一九歳。
二年前に成人年齢が変わって不動産契約は親の承認なしで行えるようになった。
そのおかげで僕は東京の小さなマンションの小さな一室に住んでいる。
格安な家賃の割に綺麗で僕みたいな高校卒業と大学入学時期の狭間にいる人間にとってはありがたい物件だ。
葬儀の色々を終えて家に着いたら時刻は午後十時だった。
思い入れのない父親の葬儀に一日を使ったと思うとなんだか気が重くなった。
机の上にはコンビニで買ったおにぎり二つが置いてある。
立ち上がって取りに行く気にもなれない。
代わりにスマホに手を伸ばす。
何も考えずにSNSを開く。
トレンドには人気アイドルグループの解散とか俳優同士の結婚が入っていた。
タイムラインも面白い動画だとか炎上している投稿だとかそんなものばかりだ。
その投稿を見るたびに心臓がドクンと跳ねる気がした。
心拍が上がって息が荒くなっていくのを感じた。
理由は分からなかった。
僕は立ち上がっておにぎり二つを冷蔵庫にしまった。
何も食べる気にならなかった。
ただ買ってみただけだったのかもしれない。
風呂に入ってただ体の汚れを落とした。
何も考えずにお湯に浸かっている間はなんだか楽だった。ただ何も考えられずに流れるだけの水が少し羨ましかった。
ドライヤーで髪を乾かしている時にあの女の言葉が反芻した。
実際は言葉に出していないのでただの僕の想像というのが正しいのかもしれない。
僕が生まれた意味。ただ生まれて母親だけの愛を受け、ここまできた。
そう考えたら僕の人生は世間的に見たらそこまで酷いものでもないのかもしれない。
ただの利己的な、かまってちゃんとも呼べて、烏滸がましくて腹立たしい被害妄想のようなものなのかもしれない。
夜更かしをする気にはなれなかった。
ベッドはいつも通りの柔らかさで、僕の疲れと負の感情を吸い取ってくれた。
ため息も出ない。
これで正真正銘。
僕は一人きりになった。
◆
東京に住んでいるというのに珍しく小鳥の囀りで目が覚めた。いつもは工事の騒音で目が覚めるというのに。
カーテンを開けると、腹立たしいほどの晴天だった。昨日の雨曇がどこかに行って、代わりに快晴を連れてきた。
顔を洗って歯を磨く、パンを焼いて私服に着替える。
気は相変わらず重かった。我ながら歳一九にして両親が他界するのはなかなか珍しいのではないだろうか。悲劇のヒロインというわけではないけど。
昔から誰かの死は僕にとって珍しいものじゃなかった。
叔父の死も祖母の死も幼い頃に経験していたし、自分の母親も二年前に他界している。
死は悲しいものだけど、全ての死が悲しいわけじゃなかった。ほぼ話したことのない祖父の死はちっとも悲しくなかったし、篠田浩一郎の死も全くと言って良いほど悲しいと感じることができなかった。
母が死んだ時は、悲しかった。もう二度と会えないと思うと胸が苦しくて涙が溢れた。
なにより寂しかった。僕一人だけをおいて僕の知らないどこかに行ってしまうことが何より辛かった。
『本日のお天気。昨夜の大雨が嘘のような快晴で日中を通して春らしい天気と言えるでしょう…』
出会いの季節とはよく言うものだ。
別れと出会う季節じゃないか。
少し焦げたトーストをたいらげて、どこへいくでもなく、僕は快晴の街へと赴いた。
◆
最寄駅の地下の割と大きな地下モールにはレストラン、服屋、本屋から骨董品店と本気になればここだけで一日は潰せるであろう量のお店が開かれていた。
僕は出勤前のサラリーマンや酔っ払いにぶつからないようにそのモールを彷徨った。
引っ越してから何回もここには来ているはずなのに二ヶ月くらいも間を開けていると、見慣れない店が見慣れた店の代わりになっていた。
彷徨うこと数十分。
とある場所で足が止まった。
それは本屋でも、骨董品店でもなかった。
ただの非常階段の入り口だった。
その階段の二段目に座っている白髪の女に目が留まった。
二日酔いか、体調不良か、なんでもいいがどうしてそんなとこに座っているんだ。
いや、そんな理由で足が止まって、目に留まったんじゃない。
白髪の女は顔を上げた。そして不機嫌そうな顔で僕を見て、立ち上がった。
「何?」
シンと冷えた声が体を駆け抜けた。
「死人みたいだ」
「…不幸があったのね」
全てを見抜かれた気がした。
「悲しいの?」
「寂しいのかもしれない」
「一人は寂しい?」
「あんな人混みで、寂しさを紛らわせようとするくらいには、多分」
「寂しいことは悪いことじゃない」
「寂しいこと程辛いことはないよ」
母親が死んでから、自分としてのパーツが抜け落ちていているような気がする。
マザコンだとか、愛情不足とかそんなのじゃない。
ジェンガの一番下の積み木の一つのような、ジグゾーパズルの最後の一つみたいな。
僕にとっての母親は。
父親がほぼいなかった僕にとって母親は。
「その人に会いたい?」
「会っても、別れたら、また辛くなる」
「みんなそう言うよ…ちょっとついてきて」
彼女は近づいて、僕の右手に触れた。
そのまま強く何回も握った。
そして僕の手を引いて、そのまま改札を抜けて電車に乗った
僕はただ電車に揺られた。
一時間くらいして、彼女が再び僕の手を引いてとある駅で降りた。誰もいない来たこともない駅だった。
「ちょっと歩くよ」
彼女はそれだけ言って、あとは何も言わなかった。話しかけようとも思わなかった。
駅を出ると、見渡す限りの田園風景が広がっていた。
引っ越す前の家の周りの田んぼを思い出した。
その道をまっすぐ歩いたり、右に曲がったりして、民家が立ち並ぶところに来た。
彼女が誰と電話していたのは覚えている。
「よし、ついた」
顔を上げると、小さな古い大きな民家があった。
「すいませーん、電話した燈扇です〜」
彼女は古い木の扉を軽く叩いた。とうぜんというらしい。
「はーい」
出てきたのは年老いた老婆だった。
「ご依頼ありがとうございます」
「こちらこそわざわざありがとうございます。さ、どうぞ」
老婆は僕にも笑いかけてくれた。老婆の歓迎をありがたく受けて、トーゼンさんと一緒にその民家の中へと入った。
内装は田舎の家と言われて想像する、障子を開ければ庭と繋がっている家だった。
老婆はお茶を出してくれたあ。
老婆の名前は幸田幸枝。今年八十三歳。
年金で暮らしていて、旦那さんが数年前に亡くなってからは一人で暮らしているらしい。
「この子と二人でしているの?」
「はい、アルバイトです」
僕は勝手にアルバイトされた。
「あっはっは。なるほどねえ」
彼女は久しぶりに若い二人組と話せることをとても嬉しがっていた。
トーゼンさんも楽しそうに幸枝さんと談笑していた。
◆
「………そろそろご依頼の件、お願いしてもいいかしら」
「わかりました」
「年寄りのくだらない話に付き合ってくれてありがとうねえ。それじゃあお願いします」
老婆は改まってトーゼンさんと僕に深くお辞儀をした。
ご依頼の件とは言っているがなんの依頼だろうか。工事用具は持っていないし…。
「では…名前を教えてください」
「空です」
空?人の名前だろうか。
「本当によろしいですね」
「はい、お願いします」
トーゼンさんは立ち上がってお札とライターを取り出した。お札には既に『空』の文字が刻まれていた。
彼女はそのお札にライターで火をつけた。
不思議なことにそのお札は燃え盛ることなく、一瞬にして青色の灰となって、風に乗って庭の方へと飛ばされた。庭の方を見ると
犬が座っていた。
柴犬。
年寄りの犬だと言うことが僕にでもわかった。
犬なんて飼っていたのか。気が付かなかった。
老婆は立ち上がってその犬の元まで寄ると、愛情いっぱいに抱いた。
老婆は数分間、その犬と戯れている。
まるでもうその愛犬と会えないかのようだ。
「寂しいっていうのはね」
トーゼンさんは独り言のように言った。
「悲しいを言い換えただけなのよ。
悲しくなければ寂しくもならないし、寂しくならなければ悲しくもならない」
「…どうすれば消えるんですかね」
「なくならないわ。一生。死ぬまで。
好きだった玩具から愛した人、何かを失ってない人間なんてこの世に一人もいない
厄介なことに、この世は本当に大事な物ほど失くしたらもう拾えないようになってる」
彼女は自分に言っているようだった。
老婆の方を見た。
犬はいなかった。
「…幸枝さんは。今、拾えたんですかね」
「拾って渡すのが、私の仕事よ」
午後四時くらいにはだんだん人が集まっていた。
集まったとはいっても十五人くらいだった。
ただ椅子に座って、時々立ってお辞儀をする。機械のような僕の振る舞いに黒い服を着た大人たちは『泣きもしなければ退屈そうにしていて気味が悪い』と言っているような目をしている。
この匂いにも慣れてきた。時々臭うこの匂い。
僕は多分、この匂い結構好きだと思う。
遺影の周りを囲む白い花も昔母親に連れて行ってもらった花畑に咲いていたものと同じもののような気がする。
焼香と読経が終わった。
無駄に長くて退屈だった。
「渚くん」
心配そうに話しかけてきてくれたのは、引っ越す前に近所に住んでいたおばあさんだった。名前はもう覚えていない。
「忙しいのにご臨席してくださってありがとうございました」
ツギハギの敬語で返す。
「いいのよ…お父様にはお世話になっていたから…じゃあ…」
おばあさんは何を言えば良いのか分からず、気まずそうな様子で帰っていった。
僕の父親は最低最悪の父親だった。
もはや父親なんてものに当てはめていい人間でもなかった。
僕を産んだから父親と呼ぶしかない。僕にとって荒川浩一郎…いや篠田浩一郎という人間はその程度だった。
「あなたが浩一郎の…いらない子ね」
疲れて俯いているとまたもや声をかけられた。振り返ると、見た目に性格の悪さが滲み出ている女が立っていた。おそらく何番目かの…愛人だ。
「今日はお忙しい中…」
「そんな言葉いらないし聴きたくもない」
「………」
腹は立たない。何も感じない。
いらない子。正しくその通りだ。
「あなたも可哀想な子ね…両親に先立たれて、残ったのは一人」
「そうですね、運がないです」
「いっそのこと、あなたも死んじゃ…」
「おい!!!」
『あなたも死んじゃえば?』を言い終わる前に、すぐそばで眉間に皺を寄せて見ていた老人が割って入ってきた。おそらく庇ってくれたのだろう。二人は目の前でなんとも醜い口論を始めた。
僕はすっかり疲れてしまって、葬儀場を執り行なっていた建物の外に出た。
誰も僕に話しかけてこなかったし、誰も僕を追わなかった。
外は数時間前と一変して雨が降っていた。
別に雨が降っているから悲しくなるわけでもない。
親が死ぬのは二回目ということもあって何故か不思議と落ち着いていた。
死んだ相手に思い入れがないという理由が一番だろう。
上を見上げて、星を見つめようとした。
空は曇っていて、もちろん見えなかった。
流れ星は見えなかった。
◆
今年で一九歳。
二年前に成人年齢が変わって不動産契約は親の承認なしで行えるようになった。
そのおかげで僕は東京の小さなマンションの小さな一室に住んでいる。
格安な家賃の割に綺麗で僕みたいな高校卒業と大学入学時期の狭間にいる人間にとってはありがたい物件だ。
葬儀の色々を終えて家に着いたら時刻は午後十時だった。
思い入れのない父親の葬儀に一日を使ったと思うとなんだか気が重くなった。
机の上にはコンビニで買ったおにぎり二つが置いてある。
立ち上がって取りに行く気にもなれない。
代わりにスマホに手を伸ばす。
何も考えずにSNSを開く。
トレンドには人気アイドルグループの解散とか俳優同士の結婚が入っていた。
タイムラインも面白い動画だとか炎上している投稿だとかそんなものばかりだ。
その投稿を見るたびに心臓がドクンと跳ねる気がした。
心拍が上がって息が荒くなっていくのを感じた。
理由は分からなかった。
僕は立ち上がっておにぎり二つを冷蔵庫にしまった。
何も食べる気にならなかった。
ただ買ってみただけだったのかもしれない。
風呂に入ってただ体の汚れを落とした。
何も考えずにお湯に浸かっている間はなんだか楽だった。ただ何も考えられずに流れるだけの水が少し羨ましかった。
ドライヤーで髪を乾かしている時にあの女の言葉が反芻した。
実際は言葉に出していないのでただの僕の想像というのが正しいのかもしれない。
僕が生まれた意味。ただ生まれて母親だけの愛を受け、ここまできた。
そう考えたら僕の人生は世間的に見たらそこまで酷いものでもないのかもしれない。
ただの利己的な、かまってちゃんとも呼べて、烏滸がましくて腹立たしい被害妄想のようなものなのかもしれない。
夜更かしをする気にはなれなかった。
ベッドはいつも通りの柔らかさで、僕の疲れと負の感情を吸い取ってくれた。
ため息も出ない。
これで正真正銘。
僕は一人きりになった。
◆
東京に住んでいるというのに珍しく小鳥の囀りで目が覚めた。いつもは工事の騒音で目が覚めるというのに。
カーテンを開けると、腹立たしいほどの晴天だった。昨日の雨曇がどこかに行って、代わりに快晴を連れてきた。
顔を洗って歯を磨く、パンを焼いて私服に着替える。
気は相変わらず重かった。我ながら歳一九にして両親が他界するのはなかなか珍しいのではないだろうか。悲劇のヒロインというわけではないけど。
昔から誰かの死は僕にとって珍しいものじゃなかった。
叔父の死も祖母の死も幼い頃に経験していたし、自分の母親も二年前に他界している。
死は悲しいものだけど、全ての死が悲しいわけじゃなかった。ほぼ話したことのない祖父の死はちっとも悲しくなかったし、篠田浩一郎の死も全くと言って良いほど悲しいと感じることができなかった。
母が死んだ時は、悲しかった。もう二度と会えないと思うと胸が苦しくて涙が溢れた。
なにより寂しかった。僕一人だけをおいて僕の知らないどこかに行ってしまうことが何より辛かった。
『本日のお天気。昨夜の大雨が嘘のような快晴で日中を通して春らしい天気と言えるでしょう…』
出会いの季節とはよく言うものだ。
別れと出会う季節じゃないか。
少し焦げたトーストをたいらげて、どこへいくでもなく、僕は快晴の街へと赴いた。
◆
最寄駅の地下の割と大きな地下モールにはレストラン、服屋、本屋から骨董品店と本気になればここだけで一日は潰せるであろう量のお店が開かれていた。
僕は出勤前のサラリーマンや酔っ払いにぶつからないようにそのモールを彷徨った。
引っ越してから何回もここには来ているはずなのに二ヶ月くらいも間を開けていると、見慣れない店が見慣れた店の代わりになっていた。
彷徨うこと数十分。
とある場所で足が止まった。
それは本屋でも、骨董品店でもなかった。
ただの非常階段の入り口だった。
その階段の二段目に座っている白髪の女に目が留まった。
二日酔いか、体調不良か、なんでもいいがどうしてそんなとこに座っているんだ。
いや、そんな理由で足が止まって、目に留まったんじゃない。
白髪の女は顔を上げた。そして不機嫌そうな顔で僕を見て、立ち上がった。
「何?」
シンと冷えた声が体を駆け抜けた。
「死人みたいだ」
「…不幸があったのね」
全てを見抜かれた気がした。
「悲しいの?」
「寂しいのかもしれない」
「一人は寂しい?」
「あんな人混みで、寂しさを紛らわせようとするくらいには、多分」
「寂しいことは悪いことじゃない」
「寂しいこと程辛いことはないよ」
母親が死んでから、自分としてのパーツが抜け落ちていているような気がする。
マザコンだとか、愛情不足とかそんなのじゃない。
ジェンガの一番下の積み木の一つのような、ジグゾーパズルの最後の一つみたいな。
僕にとっての母親は。
父親がほぼいなかった僕にとって母親は。
「その人に会いたい?」
「会っても、別れたら、また辛くなる」
「みんなそう言うよ…ちょっとついてきて」
彼女は近づいて、僕の右手に触れた。
そのまま強く何回も握った。
そして僕の手を引いて、そのまま改札を抜けて電車に乗った
僕はただ電車に揺られた。
一時間くらいして、彼女が再び僕の手を引いてとある駅で降りた。誰もいない来たこともない駅だった。
「ちょっと歩くよ」
彼女はそれだけ言って、あとは何も言わなかった。話しかけようとも思わなかった。
駅を出ると、見渡す限りの田園風景が広がっていた。
引っ越す前の家の周りの田んぼを思い出した。
その道をまっすぐ歩いたり、右に曲がったりして、民家が立ち並ぶところに来た。
彼女が誰と電話していたのは覚えている。
「よし、ついた」
顔を上げると、小さな古い大きな民家があった。
「すいませーん、電話した燈扇です〜」
彼女は古い木の扉を軽く叩いた。とうぜんというらしい。
「はーい」
出てきたのは年老いた老婆だった。
「ご依頼ありがとうございます」
「こちらこそわざわざありがとうございます。さ、どうぞ」
老婆は僕にも笑いかけてくれた。老婆の歓迎をありがたく受けて、トーゼンさんと一緒にその民家の中へと入った。
内装は田舎の家と言われて想像する、障子を開ければ庭と繋がっている家だった。
老婆はお茶を出してくれたあ。
老婆の名前は幸田幸枝。今年八十三歳。
年金で暮らしていて、旦那さんが数年前に亡くなってからは一人で暮らしているらしい。
「この子と二人でしているの?」
「はい、アルバイトです」
僕は勝手にアルバイトされた。
「あっはっは。なるほどねえ」
彼女は久しぶりに若い二人組と話せることをとても嬉しがっていた。
トーゼンさんも楽しそうに幸枝さんと談笑していた。
◆
「………そろそろご依頼の件、お願いしてもいいかしら」
「わかりました」
「年寄りのくだらない話に付き合ってくれてありがとうねえ。それじゃあお願いします」
老婆は改まってトーゼンさんと僕に深くお辞儀をした。
ご依頼の件とは言っているがなんの依頼だろうか。工事用具は持っていないし…。
「では…名前を教えてください」
「空です」
空?人の名前だろうか。
「本当によろしいですね」
「はい、お願いします」
トーゼンさんは立ち上がってお札とライターを取り出した。お札には既に『空』の文字が刻まれていた。
彼女はそのお札にライターで火をつけた。
不思議なことにそのお札は燃え盛ることなく、一瞬にして青色の灰となって、風に乗って庭の方へと飛ばされた。庭の方を見ると
犬が座っていた。
柴犬。
年寄りの犬だと言うことが僕にでもわかった。
犬なんて飼っていたのか。気が付かなかった。
老婆は立ち上がってその犬の元まで寄ると、愛情いっぱいに抱いた。
老婆は数分間、その犬と戯れている。
まるでもうその愛犬と会えないかのようだ。
「寂しいっていうのはね」
トーゼンさんは独り言のように言った。
「悲しいを言い換えただけなのよ。
悲しくなければ寂しくもならないし、寂しくならなければ悲しくもならない」
「…どうすれば消えるんですかね」
「なくならないわ。一生。死ぬまで。
好きだった玩具から愛した人、何かを失ってない人間なんてこの世に一人もいない
厄介なことに、この世は本当に大事な物ほど失くしたらもう拾えないようになってる」
彼女は自分に言っているようだった。
老婆の方を見た。
犬はいなかった。
「…幸枝さんは。今、拾えたんですかね」
「拾って渡すのが、私の仕事よ」