ハイキング

文字数 10,277文字

 滑り落ちた
 
「痛い」
 
 足に激痛が走った。右足だ。左足はなんとも無いが歩けるのか不安になった。恐る恐る靴を脱ぎ見てみると骨は折れていない様だが触ったり動かしたりすると痛い。たぶん木の根に滑った時に捻ったのだと思った。地上に出ている木の根は人が踏んだりしてツルツルになっている。そこに雨が降り濡れると滑り易くなっている。見えていれば踏む事はないが霧がでて視界が無くなれば致し方ない。運がないと諦めるしかないが困った。
 
「おーい、とし、課長が呼んでるぞ」
 
 同僚の山田が資料整理の為に使用していた会議室に来て伝えてくれた。俺は望月俊夫、二十七歳独身で大学卒業後この会社に入り五年が経過している。今では受け持った仕事は着々と進んでいて課長からの評価も申し分がない。課長の所に行くと来週末の有休届けについて聞いてきたので、ハイキングコースがある地元の山に森林浴を兼ねて、日頃の運動不足を解消する為に行く予定と説明した。課長からは承認がおりて気をつけて行ってくる様にと言われた。俺の趣味の一つはハイキングである。ハイキングの魅力はなんと言っても自然を堪能できる事だと思っている。特に山は上から見る景色、遠くの山々や海を展望することが出来て、気持ち良くなり地球に立っているって感じになる。同じ会社に早乙女さつきと言う女性がいて好意を持っている。彼女はまだお付き合いして間もないが、時々食事に行ったりしている。どっちかと言うとハイキングが一番かな、彼女に言えば怒られるに違いない。
 土日の休みは来週に向けての準備の為に車で郊外のショッピングモールに色々な物を買いに行った。最近はアウトドア派には喜ばれるグッズをたくさん売っているから有り難い。今回は山の天候を考えて雨がっぱを新調し少し長めのナイフや虫刺されの塗り薬なども用意した。また、ハイキングのコースも地図にて確認した。よし、これで万全の体制ができた。
 今週末はいよいよハイキングだ。幸いな事に仕事は何事も問題無く計画通りに進んだ。昼は同僚の山田と一緒に会社ビル内の蕎麦処に行って、ざる蕎麦を食べながら週末のハイキングの事を話し金曜日は休むからと仕事の協力を頼んだ。私のハイキング経歴は九年になる。大学に入って直ぐに勧誘がありワンダーフォーゲル部に入った。私個人は森林浴の魅力に惹きつけられたのが第一理由だ。友人とあちこちに行き更に深みにはまった訳である。会社に入ってからも一人で行くハイキングを年に数回は行っている。残念ながら今の会社には同じ趣味を持った人はいなく、大学での友人も仕事の都合で休みが合わない。
 さあ、今週は今日で仕事は終わり明日はハイキングだ。朝は雲一つない晴天に恵まれ幸先が良かった。日中仕事は滞りなく進み定時で会社が終わり、車での帰路夕焼けが綺麗に見えた。家に帰ってから母と夕食を食べてハイキングの準備をしていると父と弟が帰ってきた。二人とも俺と同じ会社員で母だけが家事に従事している。弟が明日なんだと言い気をつけて行って来てと話しかけてきた。ハイキングに行く山は自宅から車で約一時間掛かり森林浴では有名な所だ。又、裾野の奥には小池があり有名だ。故に駐車場が整備されていているので俺にとっては嬉しい限りだ。
 俺はいつも土日、祝日は避けて平日に来る様にしていて今日は金曜日、朝は早くから起きて山に向かっている。朝から午後にかけて森林を歩き早めに戻り近くの温泉にてのんびりする予定だ。少し前まで仕事が忙しく温泉も久しぶりだ。運動し温泉で汗を流しビールを一杯グビッと飲んで、美味しい夕飯を考えると嬉しさが込み上げてくる。ささやかな一時だ。車から必要な物を持ちハイキングに出発だ。平日なので人通りは閑散としていて森に入って直ぐは平坦で広い道に両側は杉の木が高い。深呼吸をすると森林の香りが身体いっぱいになりとても気持ちが良い。今日は晴天とはいかないが時々晴れで低めの雲が早く流れていた。
 一時間ほど歩くと山の裾野が終わりここからは登山コースになる。少し険しいけど所々から見える景色は素晴らしいものだ。その景色が見れるから険しく辛い事は我慢が出来る。ここからは尾根に沿って整備された山道を歩き、登りあり降りありの一周グルッと回ってくるコースだ。約四時間はかかるが良い運動になるから俺は好きだ。山の斜面には深緑の紅葉樹が繁り、山道下には泉から流れ出た水が溜まった透明度が良い小池がある。周りには柵、ベンチがありここで少し休憩だ。今頃同僚皆んなは仕事でセカセカしているんだろうなと考えると笑みが溢れてしまう。桜の木が植えられているので春には又別の景色が見られる。彼女をデートに連れて来たいな。取り敢えず今日泊まる民宿にチェックインが何時頃になりそうかを連絡しておいた。また、自宅の母にも電話して今は山の中にいる事を伝えた。母から俺がいる山は天気が変わり易いとの予報をテレビで見たと話があった。スマホの電源が少なくなったけどさほど気にせずにそのままバッグの中に入れた。
 登り始めてから二時間くらい経過すると山の中腹の開けた場所にでた。展望することが出来て、裾野や池、遠く街並みと山脈までもが見える絶景ポイントだ。俺は休憩そこそこに数名の年配の方が景色を眺めている横を通り先へと進んだ。ここからは一旦降りもう一度登る。降ったところには泉、沢があり少し下流には数軒の家がある。天候は少し雲が多くなってきたが、俺は先を進み沢へと降りていった。暫く行くと雲行きが怪しくなり急に雨が降ってきた。バッグから雨具を出し着ていると次第に雨足は強くなってきた。そこに留まり小雨になるのを待った。山の天気は変わり易いのは分かっていたがいつもより雨が強かったので少し驚いた。幸運な事に雷は遠かったので少し安心した。先程の年配の方々は引き返したのだろうか、こちらに来る気配がない。小雨になったので引き返すより先に行き沢向こうの道から降りようと考えた。引き返すとぬかるみの道を登るので時間も掛かると考えた。
 降りている時に霧も出始めて視界が無くなった。悪い事は続き地面に出ていた木の根を踏んだ時に滑って沢側の崖を滑り落ちた。あっと言う間だった。幸いに高くなくなだらかな崖だったので打撲も無く大事には至らなかった。と思ったが立ち上がる時に足に激痛が走った。足を挫いた様だ。これではしょうがないのでバッグからスマホを取り出し救助の連絡をしようとしたら圏外表示。仕方が無い、沢向こうの道には行く事は困難だから沢伝いに降り下流の家に行こうと考えた。今のところ沢の増水はしていない。雨もほぼ上がったが霧はまだ少し濃いが数十メートルは確認出来る。俺は雨と滑り落ちた時に服が濡れてしまった。着替えは持って来てないのでタオルで拭いてから木の枝を折り杖代わりにし、足に添木してタオルで縛って暫く天気の様子を見ていた。時計を見たら昼を回っていたので持ってきた弁当を食べた。こんな所で陽が落ちては大変になるので、食べ終わったら直ぐに、足の痛みを我慢してゆっくりと沢伝いに下流に向かった。途中は道無き道なのでせせらぎの中に入ったり土の上を歩いたりでかなり疲れてきたしもう直ぐ陽が落ちる。だいぶ時間が掛かったけれど先にぼんやりと明かりが見える。誰もいなく夜になってしまうのは不安になるが俺はホッと安堵した。そして、明かりに向かって歩き続けた。
 
 山小屋のお婆さん
 
 暫く歩いたが明かりは見えるがなかなか辿り着かない。遠いのか、いや俺の歩くスピードが遅いんだ。霧も出ているので距離感が分からない。仕方が無い、足が痛いからな。歩いている間にこの足の状態で来週会社に行けるんだろうか、課長や同僚になんで言えば良いのだろうか。皆んなに迷惑をかけてしまうな、こんな事ならハイキングに来なければ良かったと後悔の念に苛まれた。明かりに向かってやっと沢伝いに到着した。そこは一軒の家だった。山小屋の様だ、周りには家らしい物は無い、この小屋だけの様だ。ここはどの辺だろうか、もう一度スマホを取り出したら何も表示していない。しまった、スイッチを入れても電源が入らない。仕方なく助けをお願いしようとしてドアをノックした。再び雨足が激しくなってきた。これでは動かない方が良いな、誰かいたら出てきてくれ、心の中で祈っていた。
 
「トントン、トントントン」
「なんだえー」
 
 中から声がしたので、俺は道に迷ったと伝えた。すると、ゆっくりとドアが開き一人のお婆さんが出て来たので、俺は山に登り雨の中、木の根で足を滑らせて、沢に落ちて足を挫いた事を話し、助けをお願いしたいと伝えた。然し、あいにくこの家には電話が無く町に連絡が出来ない。この家は山の家で雨風を凌ぐ家の様だ。お婆さんは普段は下流の小池の近くに住んでいるが週末にはここに来て寝泊まりするとの事だ。昼間なら帰る事は簡単だけど暗くなるとそうもいかない。俺のスマホの電源も無く連絡の手段も無くなってしまった事を話して、一晩宿泊出来ないか聞いてみた。ここには電気も水道も来てなくて携帯用の明かりしか無く、布団も無いが、それでも良いか聞いて来た。俺は雨風が凌げれば有り難いと中に入らせて頂いた。中には入った所の居間と奥に二部屋があった。お婆さんはいつも居間に寝泊まりする様だ。
 俺は滑って捻挫した足を見せて湿布薬がないか聞いてみたが、お婆さんはここには何も無いとの事だ。仕方がなくタオルを湿らせて冷やしていたが痛みは治らない。多少は我慢するしかない。再び、俺は山を登り開けた中腹の所から降っていて、木の根を踏み滑って沢に落ちて、沢伝いに落ちた所からここまで歩いた事などを話した。そして、今日は下の小池の近くの民宿に泊まる予定だったが、連絡が出来なくて民宿に迷惑を掛けているんじゃないかと心配していると話した。お婆さんは夜だしこの雨だと無理だから明日にしたほうが良いと言ってくれた。
 
(大騒ぎ)
 
 そんな状況の中、旅館から俺の自宅に電話が入った。午前に携帯から電話が入りチェックインの時間の連絡があったけど、時間が過ぎて一時間も経つのに姿を見せず携帯に電話しても出ないとの事。家では母が電話を受けてからとてもびっくりして会社に行っている父にも直ぐに連絡した。父は早めに会社から戻り家から俺の携帯に電話したが出ない。両親は遭難したと判断し警察に相談した。若しかしたら安全な場所で留まっている場合もあるし、夜の捜索は二次災害の可能性が高い。翌日に連絡が無ければ捜索すると決まった。その夜両親は寝る事も出来ずにずっと起きていた様であった。テレビを見てはニュースに出てはいないか、電話がかかってこないかと心配でそわそわしていた。
 家で大騒ぎしているなんて知らずに俺はお婆さんと話をして時間を紛らわしていた。お婆さんは二十二歳の時に隣の県からこっちに嫁いで来た。お爺さんが二十七歳の時だ。親戚から紹介があって一度会ってはどうかとの事で渋々お見合いをした。お見合い当日は親戚の人の車にお婆さんと両親の四人でこっちに来た。場所は少し高めの料亭の一室を借りた。お爺さんの家は裕福な家だったので料亭の費用は全額持ってくれた。当時のお爺さんはスラッとしたハンサムな人で初対面の印象は優しい感じがした。お付き合いする内にどんどん惹かれてしまい誰にも内緒で二人で旅行に行った。その夜お爺さんったら優しくしてくれた。照れながら話してくれた。後に旅行に行った事が両親に知れる事になり大変怒られてお爺さんの家にも責任問題として話があった様だ。結婚してからはよく喫茶店に食事に行ったりした。お爺さんはスパゲティーが好きでいつも頼んでいた。スパゲティーが無い店では焼うどんの醤油味も好きだった。それから海にもよく行っていた。お爺さんは泳ぐのが得意で一人で沖の方に行ってしまい、お婆さんを浜辺に置いてしまった事が多かった。戻ってきたお爺さんを怒って困らせた。
 お爺さんは今から五年前に他界しお婆さん一人で住んでいるとの事だ。子供は男三人みな独立して県内に住んでいて今では孫やひ孫までいる。たまに孫がひ孫を連れて遊びに来てくれるからとても嬉しい。お婆さんの家は敷地が約百坪くらいあり南側の庭が広い。庭の半面に砂利を敷き詰めているが特に夏は草が直ぐに生えてくる。小さい時に抜かないと大きくなり種をばら撒いてしまうと後が大変になる。初夏から彼岸までは健康の為でもあり毎日少しずつ草を取っている。ここには畑があり里芋を植えていて、畑を耕したりしている。庭の一角には畑を作りネギ、トマトやキュウリを作っている。野菜は自家栽培しているのでほとんど買わない。栽培出来ない物だけを買う。年も八十を過ぎると食べる量も少なくお米も一日一合で十分で三合ほど一度に炊いて、一食分づつラップに包んで冷凍して食べる時にレンジで温める。肉や魚も同じで一食分づつラップして食べる時に炒めたり煮たりする。家は二階建てだけど皆んな家から出てしまったので一人では部屋が使いきれない。二階は天気が良ければ一、二時間窓を開けて空気を入れ替えるが、年を取ると膝が悪くなるので階段の登り降りが大変だと。また、寝床はベッドにしているので布団に比べて随分と楽になった。夏場は庭や家の中でも南側は暑くていられないから北側や寝室に行っている。逆に冬場は南側で暖をとっている。広い屋敷だけどあちこちに動いてすごしている。
 お婆さんはおにぎりを二つ持ってきたので一つ俺にくれた。聞くと夕飯と明日の朝食だそうだ。申し訳なかったがお腹が空いていたのでとても嬉しく美味しく頂いた。水筒は自分で持って来たから事なきを得た。お婆さんもここに来る時は必ず水筒を持ってくる。俺は足もまだ痛いし、長く歩いたし、だいぶ疲れているので奥の部屋で寝ませて貰った。夏の季節で良かった。山だからそんなに暑くはなかったし、服は濡れていたが脱いで部屋に干した。お婆さんから借りたタオルケットを掛けて。足はまだ痛みがあったが横になったら直ぐに眠りに落ちいった。
 
 頭の中が大混乱
 
 私は課長に呼ばれて週末の出張について話をしていた。会議資料の準備は出来ているか等を聞かれたので、準備万端に出来ていると話してから自分の席に戻った。同僚には不在になるから宜しくと伝えた。今は繁忙期でないから大丈夫との事だ。それよりも出張の方はどうなのかと聞かれたので、何も問題がないと言って昼休みで少し寝た。
 私は今起きた所だ、まだ六時か、母が朝食の準備をしている。魚を焼いている匂いと味噌汁の様だ。今日の味噌汁は豆腐かなあ、それとも若芽なのか、どちらも母が作る味噌汁は美味しい。ベッドの中で暫くしてからスマホのアラームが鳴った。六時半起きないと今日は会社で重要な会議がある。資料をしっかりとチェックしないと課長に駄目だしをされる。さあ、起きて朝ご飯だ。テレビを見たら天気予報が流れていた、今日は良い天気だ、少々風が強い様だから車の運転も注意しないとならないな。流石に霧はない様だから安心だ。いつもの通勤途中の丘の所は霧がでる事が多い。朝食を食べ終わる頃に遭難のニュースが流れた。何でもハイキングで山に来て崖下に落ちて、近くにいた方から警察に連絡が入った様だ。詳細は雨で足元がぬかるみ滑って崖下に落ちた。霧が出ていて視界が悪く何も見えないからスマホで連絡した。幸いに繋がり連絡ができた。
 時間になったので会社に出勤の為に車を運転したらアラームが点灯した。マニュアル書を見たらエンジンオイルが無い様だ。これはいけない、直ぐにオイルを足して事なきを得た。そして会社に連絡して課長に子細を話したら今日は忙しく無いから休んで良いとの事、私は言葉に甘えて引き返し帰宅の途中だ。隣町の会社の方から丘を越している最中に後ろから来た車がかなり接近している。右車線にはみ出たり、横に並んで幅寄せしてきたり、パッシングされたりクラクションが煩く五分くらい煽り運転に合っていた。道が直線になった時に煽り運転車は私を追い越して行ったのでホッとした。同時にまた一台白黒の車がサイレンを鳴らしながら追い越して行った。あれ、どこにいたんだろう、さっきのコンビニか、私は思わず笑ってしまった。暫く行くと追い越していった車とパトカーが止まっていてキップを切っていた様だった、お疲れ様でした。
 サイレンが遠く離れたら、母が遠くの様ね何かあったのかねと言っている。私は夕飯を食べていて、何だろう事故かなあ、などと返事していた。食べ終わる頃に父が帰ってきたので、母が父に聞いたら、事故の様だと言った。お陰で渋滞して父は裏道を通ってきた様だ。最近事故が多いのでパトカーが数台走っていたと父が言うと私もそれは感じている。
 
「ピンポーン、ピンポーン」
 
 チャイムが鳴っている、誰か来た。母が玄関に出ると叔母さんが訪ねて来た。居間に通して何かと聞くと私の見合いの事で相手の写真を持ってきた。叔母さんは同じ町に住んでいて、パートでコンビニに行っている。聞くとコンビニによく来る娘で近くのアパート住まいで隣町の会社に行っているとの事。歳は私と同じ二十七歳、丸顔で可愛い感じだ。叔母さんには私の好みを伝えていたので私にぴったりの娘であった。直ぐに会いたいゆえの電話をしてもらい、今はレストランで食事をしている。彼女は小柄でとても可愛く私には勿体ないくらいのお嬢さんだ。直ぐにホテルの部屋にいき二人で話をしたら意気投合をしてしまった。いつの間にか寝てしまった。朝起きてレストランで朝食を取り会社に向かった。
 ホテルから突然彼女が来て釣れたか聞いてきたので、だめだめ何も釣れない、この池には魚がいないみたいだ。もう昼過ぎだよ、お弁当を持って来たので食べようとの事、私の好きな梅干しのおにぎりだ。今日は会社が無いのか聞いたら有休を取った。彼女が帰ろうと言ったので帰る事にした。帰りの車の中で森林浴の話しをしたら彼女も大好きとの事で森ガールだと盛り上がった。途中に喉が渇いたのでコーヒー店に立ち寄った。彼女も私と同じくコーヒーが好きなので良かった。
 昼食で同僚とレストランを後にして会社に戻ると課長が大慌てで電話をしている。何かトラブルの様だ。周りに皆んなが集まっている。課長が私を見るなり何かを言っている。何を言っているんだ。よく分からない。同僚も慌てているだけだ。一人の女性が課長の指示で急いで出ようとしたので、私は引き止めて何か聞いたら誰かが行方不明になったとの事だ。警察や自衛隊の協力を得て捜索する様だ。大変だ、私も急いで家に帰り母に言って準備をして課長の車に乗せて貰い海に向かった。なんで海なんだろうな。
 私は海の中に飛び込み泳いでいると後から課長や同僚も海の中にいる。水に濡れてしまい服はビショビショだ。話をしたいが声が出ない、どうしたんだ、課長も口をパクパクしているが何も聞こえてこない。すると、誰もいなくなってしまった。あれ、なんか音がする。シュッ、シュッ、シュッ、何かな包丁を研いでいるのか。気がつくといつの間にか海から出て板の上だ。動けれない、あれ手足が無い。なんで、待って待ってくれー。
 
 緊迫の時間
 
 わっ、俺は目を覚ました。夢か怖かった。なんて言う夢を見るんだ、疲れが溜まっているな。窓の外は明るくなっている。そうか一晩眠ってしまったのか。足、足はまだ痛い。そうだお婆さんはどうしたんだろう。すると居間の方から音がする。
 
「シュッ、シュッ、シュッ」
 
 え、何、包丁を研いでる様な音がする。まさか、急いで逃げないと。俺は青ざめて一旦部屋のドアの所に物を静かに置き、直ぐに入ってこれない様にした。俺は急いで半乾きの服を着た。借りたタオルケットでも防御は出来るだろう、しかしいったい誰なんだろう。お婆さんなのか。

「シュッ、シュッ、シュッ」

 まだ音がする。どうしよう、逃げられるか、足、足はまだ痛いし走る事は出来ない。お婆さんでも包丁がある、場合によっては大怪我になる。ドアの隙間から見えないか、隙間を探したが無い。

「ガタン、ワーッ」
「コラー、逃げちゃうじゃないか」
 
 助けてくれ、俺は思い切って部屋から勢いよく出て大声で叫びながら家からも急いで出ようとした。お婆さんは何かを持っている。まずい、早くしないと。ん、なんだ。お婆さん、殺虫剤を持ったお婆さんじゃないか。俺はヘタレ込んでしまった。緊迫から安堵って落差が大き過ぎるではないか。聞いてみるとお婆さんは朝起きたらゴキブリがいたので殺虫剤の缶を持ってきてシュッシュッとしていたとの事だ。この山小屋は弁当を持ってきて食べるので、よくゴキブリや虫が出るとの事だ。
 俺は安堵も束の間、昨日の事を思い出し、連絡したいがお婆さんの家までどの位掛かるか聞いた。そうしたらなだらかな道だけど遠いから二十分くらいだ。足が痛い俺なら一時間くらいみた方が良さそうだ、お婆さんに一緒に行って貰いスマホを充電したいとお願いした。外に出ると天気は見違える様に快晴になっていた。木の杖を突きながらゆっくり歩いてお婆さんの家に向かった。整備されている道なので歩き易く沢の中とはえらい違いだ。家に着くとお婆さんの話し通り敷地が広く、中に入れさせて貰いスマホを充電し始めた。同時に民宿に電話をして子細を伝えた。民宿の方は安堵してくれ家にも電話する様に話してくれた。俺は家に電話をすると母がでて声がするなり泣く声が聞こえてきた。民宿の方や家族には申し訳なく思う。母は父と相談の上で警察に電話して息子が無事である事を伝えた様だ。
 俺はスマホの位置情報を父にメール連絡して迎えに来てもらう事にした。弟の車で来て父が俺の車を運転して帰る事になった。二時間くらいして父と弟が来た。父はお菓子を持ってきてお婆さんに息子が迷惑をかけた事に礼を言って、俺の車のある駐車場に向かった。今日は土曜日なので朝から賑わっていた。裾野の奥の小池はパワースポットだし、有名な漫画に出てくる所でもある。弟はこれからデートだと言い家に帰らずに彼女のアパートに行くのでここで別れた。俺の車を父が運転して家に帰る。途中昨日の出来事を詳しく話したところ笑いながらよく頑張ったと言ってくれた。そして、家では母も弟も皆んな慌てふためき心配で眠れなかったと聞いた。母には申し訳ない気持ちでいっぱいであった。家に帰るなり母がお帰りと言ってくれた。今日と明日は医者が休みだから市販の湿布薬を貼る事にした。母がコーヒーを入れてくれて、昨日の出来事を母にも話したところ、よくも無事で帰って来たなと言っていた。いやいや、捻挫をしたから無事ではないと返答したところ母は大笑いをした。たぶん安堵の気持ちなんだろうなと思った。もうお昼になるのでご飯にした。昨日からのゴタゴタで食材が買って無いから出前を頼もうとなり近くのお店に出前を頼んだ。俺は大好きなかつ丼を頼んだ。朝から何も食べて無い。お婆さんは何か食べたかな、俺が朝のおにぎりを貰ってしまったし。午後はソファーで一眠りした。起きた時にシュッシュッシュッと聞こえて来なくて良かったよ。あれは怖かったな。夜は久しぶりの感じで湯船につかり今までの疲れを吹き飛ばした。日曜日は山地図や航空写真をみてどこをどの様に行動したのか確認をした。そうしたら、なんと沢に滑り落ちたところからお婆さんの山小屋まではかなり距離があり、よく歩けたなあと自分でもびっくりした。その山小屋は航空写真にもちょこんと写っていて、お婆さんに世話になったなあと一人振り返っていた。だけど、お婆さんの殺虫剤はまいったな、生きた心地がしなかった。明日同僚にも話してみるか。
 週明けの月曜日の朝会社に電話をして課長に先週金曜日ハイキングでのトラブルについての子細を話した。課長はびっくりして聞いてくれて足の状態を心配してくれた。これから病院に行き診察して貰い、結果を再度連絡する事にした。それから近くの整形外科に行きレントゲンを撮ってみたら骨には異常がなく、捻挫の様であり湿布薬を貰った。沢の中など長い時間歩いて移動したから少し悪化している様だが二、三日安静にしていれば出社可能との事だ。再度会社に電話して課長に診察結果詳細を伝えた。今は繁忙期でなく忙しくはないから有休を使い今週一杯休む様に話しがあった。私は言葉に甘えて一週間休む事にした。同僚には申し訳なく思っている。
 その後、俺は時々お婆さんに会いに訪れている。お婆さんはまだまだ元気そうで、俺は行くたびにお菓子を手土産に持って行く。色々な話しをしたり時には彼女を連れて行ったりしていた。民宿にも立ち寄り迷惑をかけたのを詫びて、ハイキングの際は必ずこの民宿にしていて女将さんと話しをしたりしている。。課長や同僚からは少々揶揄われているが、今後もハイキングに行こうと考えている。同僚ではシュッシュッシュッが会社の笑い話になっている。
 
 ザーッ
 山道一人、雨が降ってきた、灯りだ
 トントン、トントントン
 なんだえー
 お婆さん、一晩泊めて下され
 はいはい
 夜、音がする、シュッ、シュッ、シュッ
 包丁を研いでる、音が?
 急いで逃げないと
 ガタン、ワーッ
 コラー、逃げちゃうじゃないか
 殺虫剤を持ったお婆さんでした。
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