やっと会えた

文字数 1,997文字

 紀子が妊娠してからなんとなく仕事に精が出なくなった。それは単純明快な怠惰ではなく、心配と不安が混在した面倒くさい感情だった。
 そしてなんとか、紀子は元気な男の子を生んでくれた。こんな嬉しいことはない。名前は俊太郎と名付け、目元が俺によく似ていると勝手に思っている。
 それは3年という月日が過ぎた頃だった。それは新月の夜で、特に、闇という忘れていた感情を呼び覚ますのには丁度いい夜でもあったと思う。看護師をしている紀子は急患が入ったとかで日付が変わったぐらいに家を出た。紀子の支度する音に目が覚めた俊太郎。俺は二人でババ抜きでもしようと考え、カードを持ってきた。まだ3歳とあってか、そろってもいないカードを捨てたりするのだが、俺は俊太郎が楽しそうにしているのでそれに乗っかることが多い。
 俺が飲み物を取ろうと冷蔵庫の前に来た時、背後から饒舌な俊太郎の声が聞こえてきた。それはお経を読むお坊さんのようだった。
 「久しぶりだな元気にしてたか覚えているか俺のことを紀子を悲しませるようなことをしていないかもう一度お前の顔を見れるなんて本当に嬉しいよなぁ雄介ぇ」
 落語家がまくしたてるような口調。冷蔵庫の冷気のせいだと言ってもいいだろうか。足の末端から徐々に上ってくる冷たい空気。振り返ってもいいのか? 大丈夫なのか? 
 俺の顔を見れて嬉しいとか言っていたが俺はずっと冷蔵庫の前にいたはずだ。果たしていつ俺の顔を見たというのか。
 そうか。俺はハッとした。ずっと見ていたのか……
 「こっちを向いてくれよ一体今どんな顔をしてるんだいさぁこっちを向きなよ雄介ぇ」
 あいつは俺の名前を呼ぶとき、語尾の「介」を引き延ばす癖があった。
 意を決して俺は俊太郎の方に顔を向けた。するとそこには満面の笑みを浮かべた可愛らしい俊太郎の顔があった。しかしその俊太郎の小さな口元から出てくる声は太い青年の声に変わっていた。
 「久しぶり雄介ぇ俺のこと覚えているかまぁ絶対忘れることなんか出来ないよなその脳裏にびったりと焼き付いているもんな」
 俊太郎の仮面をかぶったそいつは更に続ける。
 「痛かったなぁあれは俺お前のこと友達だと思ってたんだだけど俺は死んだなんでなんだなんで俺が死んでんだなぁ雄介ぇ教えてくれよどうして雄介は俺を殺したんだ?」
 それを聞いているうちにじわりじわりと高校時代の記憶が眼前に広がった。
 気持ちのいい汗の香りと甘くて血にまみれた美しい懐古。
 俺と啓介は二人とも紀子のことが好きだった。紀子は愛らしい女子生徒で、それだけでなく発育の良い体をしていて、だいたいの男子生徒は紀子に好意を向けていた。それでも紀子は特別な好意を俺たち二人だけには返してくれた。つまり俺たちと紀子は互いに特別な仲だと気づいていた。
 多くの貴族がかぐや姫に求婚し、そんな好意を彼女はもてあそぶかのように振る舞った。そんな場面を重ねてしまうぐらい、俺の中にはもどかしさが溜まっていった。どうして男として生まれてきたのだろうなんてことも考えた。女として生まれていたらこんな支配欲に悩まされることもないのに。
 分かってるさ、啓介。でも俺の中の肉欲は卑しいだけに純白なんだ。
 もっと他の方法もあったと思う。それでもだめだったんだ。紀子の気持ちが少しずつ啓介に傾いていくのを横で見ていると、だんだん俺の中で、飼いならせない猛獣が猛り狂っていったんだ。
 啓介を殺してしまったとき、俺は完全にそこらの雄と変わらない生き物になっていたんだ。そして啓介の死体が見つかる前に俺は紀子を誘った。そしたら紀子は処女だったんだ。
 啓介の死体が見つかって、警察が俺たちのところに来て、その時俺は心から願った。どうか俺を捕まえてくれって。だがよ、啓介。警察は俺を哀れんだんだ。親友を亡くした可哀そうな子だと。
 警察は俺を見つけてくれなかった。
 霊安室で啓介の硬直した顔を見た時、正直何も感じなかった。でも紀子は横で泣いた。紀子はただ泣くだけだった。そんな紀子を俺は包容して、涙をふき取ってあげた。それも啓介の死体の前で。死んだのが俺だったら、紀子は泣かないのではと思った。強く思った。
 それから俺は啓介を忘れようと紀子を求めた。けれど求めれば求めるほど、啓介を強く感じたんだ……


 夜ということもあって、これはただの夢だったのではないかと思った。いつの間にか俊太郎は一人でトランプと遊んでいる。疲れているのだろうか、アルバムを見返したときに襲ってくるあの謎の疲労感。それが今まさに訪れた。
 そろそろ寝ようかと俊太郎のトランプを取り上げると悲しそうな顔をよこしてきた。あぁなんだ、俊太郎の目元、俺に似ていないじゃないか。俺はフッと笑った。
 突然、俊太郎は無邪気で怖い笑顔、白い小さな歯を見せた。
 新月の夜、月明かりの無い、暗い部屋で、紀子の香りが途絶えたように感じた。

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