第1話

文字数 3,343文字

「わざわざこんなところまで人を呼びつけ」同僚はぐるりと喫茶店チェーンの店内を手振りで示し、「俺の休日を浪費させた理由が」憤懣やるかたないといったようすでかぶりを振った。「社内のマドンナにアタックすべきかどうかを相談するためとはね。まったく恐れ入ったよ」
 恐縮するほかない。同僚がこんなにおっかないやつだったとは。「すまん。コーヒー一杯ぐらいならおごるからさ」
「なあ、相談するまでもないってことくらいわかりそうなもんだけどな」
「どっちの意味でかな」ぼくはおそるおそる、「脈ありに決まってるということかな、もしかして」
 彼は目を見開き、口を半開きにした。1+1を理解できない人間をたったいま発見したとでも言いたげな表情だ。「念のためだが、いまのは本気じゃないんだろ」
「もちろん冗談だ」口が裂けてもそうだったとは言えない。
「わかってるならよろしい。周知の事実だが、あの娘は月平均三十人の男からディナーに誘われてる。お前がその有象無象に加わったところで三十一日まである月がちょうど埋まるようになるだけだぞ」
「ぼくはあいつらとはちがうぞ。純粋に彼女を愛してるんだ」
「みなさんそうおっしゃいます」ニヒルな同僚は伝票を指で弾き、見事ぼくの手もとに滑り込ませた。「じゃあ俺は帰るからな。実に無駄な時間だった」
「ちょっと待った」恥も外聞もなく袖にすがりつく。「せめて可能性があるかどうかだけでも教えてくれ」
 よほどぼくがみじめに見えたものらしい。同僚はため息交じりに着席してくれた。着席するや否やショルダーバッグから筆記用具を取り出すと、持参のメモ帳に猛烈な勢いでなにやら書き始める。ものの数秒で認め終え、指で弾いてよこした。

図1 お前の告白が絶対に成功しない理論的根拠
A〇―R→B●―R→(10, -1,000,000)
 |    
 D    D
 ↓    ↓
(0, 0)
 (-10, -100)

 ぼくは早速降参した。「説明してくれるんだろうな」
「この図はゲーム理論でいうところの展開型ゲームというやつだ。小学校で習ったと思うがね」
 少なくとも母校はそうしたエキセントリックな教育方針ではなかった。「いや、あいにくだけど」
 いまいましげにうなる。「プレイヤーAとBがいて、Aが白、Bが黒の丸で表現されてる。仮にAをお前、Bをマドンナとしようや。ここまではいいな」
「たぶんな」
「プレイヤーは行動に応じた利得を得る。両者とも完全に合理的なプレイヤーなのが大前提だ」
「合理的プレイヤー?」
 同僚の額に青筋が浮いたのをぼくは見逃さなかった。「1点と3点を得られる選択肢があったとする。合理的プレイヤーは必ず後者を得られるほうを選ぶ。まともな社会人が誰もがそうするようにだ」
「RとかDはどんな意味かね」
「Rは積極的、Dは消極的な行動を示す。今回のケースならAのRは告白する、Dはしない。BのRは告白を受ける、Dは受けない」
「かっこ内の数値は?」
「それぞれA、Bの順で得られる利得の具体的な数値だ」小さく肩をすくめた。「ま、俺が勝手に決めた恣意的なもんだがね」
「ということは」こめかみを揉みながら図と格闘する。「たとえばぼくが告白しない場合、両者とも0だからなにも得られない、というわけか」
「見直したよ。多少はものを考えられる脳みそがあるんだな」
 いまは耐え忍ぶべきときだ。当面の用が済んでからこいつを始末したって遅くはない。「おほめに与りまして光栄でございます」
「ここからが本題だ。図を見ればすぐにわかる通り、お前にしてみれば最終的にBがRを選択し、利得10を得るのが最善の手だな。だからお前はRを選ぶはずだ。つまり告白するしかない」
「答えは出たようだな」
「そう急ぐなよ。マドンナの利得を見るとどっちもひどいマイナスになってるな。これはお前と付き合うのはそれくらい悲惨だって意味だぞ」
「ちょっと待てよ。百歩譲って付き合うのは彼女にとって利益にならないのはわかるにしても、なんで告白を断ってるのに-100点の損失になるんだ」
 同僚は嘲笑的な笑みを浮かべた。「お前があんまり魅力に欠けた男なもんだから、彼女にとっちゃ風評被害になるんだよ。お前ごときに手の届く女だと思われちゃ沽券に係わるわけだ」
 いまは耐え忍ぶべきときだ。当面の用が済んだら始末すればよい。
「でもRを選ぶよりは一万倍もましだから、当然Dが選択される。お前はフラれる。ついでに傷心のあまりマイナス10点までついてくる」
「ええと、要するにどういうことなんだ」
「お前にとってもっともましな手を考えてみろ。くり返すがマドンナがDを選ぶのは確実だとして」
 必死になって図とにらめっこする。「告白せずに0点の利得を得る……?」
「よくできました。その選択こそゲームのナッシュ均衡だ」ぽん、と肩を叩かれた。「指をくわえて見てるのがいちばんってことさ」
 こんなペテンで納得できるはずがない。席を立とうとする同僚にかじりつく。「なあ頼むよ。なんとかならないかな」
 ウエイトレスを呼び止め、メニューの写真を指差す。「コーヒーのおかわりと、えびかつサンドイッチセットひとつください」じろりと睨まれた。「お前のおごりだからな」
 猛烈な勢いでメモ帳に記号と数字が書き連ねられていく。数秒で書き終わると、指で弾いてよこした。

図2 お前がマドンナと付き合える可能性のあるゲーム
A〇―R→B●―R→(10, -1,000,000)
 |    
 D    D
 ↓    ↓
(0, 0)
  A〇―R→(1, -1,000,000,000)
      |
      D
      ↓
     (-10, -100)

「さっきより長くなってるな」じっと目を凝らす。「フラれたあと、ぼくが新たになにかするってことかい、これは」
「そうだ。ケチョンケチョンにフラれたのち、お前はストーカーになるかどうかを選べる」
 片眉を上げて先を促す。「その心は」
「お前が彼女のアパート周辺を四六時中うろついたり、イカレてるとしか思えない病的なポエムメールをガンガン送ったとしよう。彼女は恐怖に満ちた日常生活を強いられ、たいへんな損失を被る。いっぽうお前が負け犬よろしく引き下がるなら、マドンナには平穏な生活が待ってる。このゲームのナッシュ均衡を述べよ」
「ちょっと待ってくれ」手振りで答えを言わせないよう牽制する。「ぼくのRに対してマドンナがDを選んだ場合、ぼくが得られる利得は1か-10。ここまでは合ってるかな」
 やつは満面の笑みでうなずいた。「その通り。ストーキング行為をやらかせばほんのわずかながら満足を得られるだろう。なにもしなけりゃ図1と同じでお前は傷心の身空だな」
「合理的なプレイヤーであるぼくは1の利得を目指してストーカーにならざるをえない」なんてこった。曙光が射してきたではないか。「彼女は一億点もの損失を出す破目になる。それならまだマイナス百万点のほうがましだ!」
 同僚はえびかつサンドにぱくついた。「おめでとう。A-R→B-Rが図2のナッシュ均衡だ。お前は彼女と付き合えるぜ」
「でもどうやってマドンナはぼくがストーカーになるような危ないやつだって知ればいいんだ。このゲームは双方が結果を熟知してる完全情報ゲームだからこそ成り立つんだろ」
「明日からでもいい、お前がストーキングをやらかすような根暗野郎だってことを暗に明に表現してやればいいさ」どんと胸を叩く。「なんなら俺がうわさを広めてやってもいいぞ」
「ぜひ頼むよ」感動で涙が止まらない。「恩に着る」
「俺たち友だちだろ。気にするなって」
 われわれは重厚な握手を交わした。交渉は成立した。

     *     *     *

 ほどなくして、同僚とマドンナは付き合い始めた。
 その手腕は実に見事だった。やつはぼくが彼女を狙っており、あらゆるストーキング行為をマスターした変態野郎だと警告した。それは同僚による帰り道の護衛サービスを正当化し、それがきっかけになったのだそうだ……。
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