第1話

文字数 1,666文字

 私は空を歩いたことがある。
とはいってもスカイダイビングやバンジージャンプのように遊びに行った先でする特別な体験ではなく、日常と地続きになっている中で何の前触れもなく起こったのだ。

 あの日はいつも通り家までの通い慣れた道、見慣れた景色の中を歩いていた。いつものように帰ってからやること、寝るまでにやりたいことに思いを巡らせながらこれまた見慣れたトンネルに足を踏み入れた時に最初の違和感が起こった。

 纏わりついてくるひんやりとした湿り気のある風ではなく、澄んだ爽やかな風が頬を撫でていくのを感じたのだ。
不思議と恐怖感はなく「珍しいこともあるのだな」などと思いながら薄暗いトンネルの中を進んでいく。
いつもと違う爽やかさと心地よさに自然と足取りも軽くなる。コツ、コツ、と調子よく音を響かせていたところ、不意に周囲が開けたような感覚に包まれた。
 トンネルの中にいるはずなのに常に感じる圧迫感や薄暗さがなくなっている。
さすがにこれは見過ごすこともできなかったので何が起こっているのか分からないまま天井を見る。続いて緩やかな曲線を描いているはずの壁面。そして黒い地面が見えるはずの自分の足元へと視線を落とした。しかしいつも目にする無彩色の景色はそこになかった。

 いつの間にか私は広い空の中にぽつんと立っていた。
地平線の向こうまで見渡す限り何もなく、ただ私が一人ここにいるだけだ。
更に不思議だったのは、見上げた先、天井があったはずの位置より遥か遠くに本来立っているはずの地面が見え、本来地面があるはずの足元、その更に先にどこまでも果てしない空が広がっていることだった。
 夢のような現実味のない光景が目の前に広がっていたのだが、当然ながら私はごく普通の人間なのでフィクションの中で描かれるような特殊能力は持ち合わせていない。突然そういった力に目覚めて空を飛んだ訳ではないのは確かだ。

 しかしこんな状況は滅多にないので何が起こるか見てみたい。そう考えた私は一歩前へ踏み出した。
先程まであった足音と地面を踏みしめる感触はなく、本当に空を歩くとこんな感じなのだろうかと思いながら前へと進む。
髪を揺らし、頬を撫でる風はトンネルの中とは思えないほど心地が良く、このままどこまでも、それこそ空の果てまででも歩いていけるような気さえした。
 そんな気分に包まれている中、ふと「この状態で空から何か降ってくるとどうなるのか」という疑問が頭の中に浮かんだ。
直後、靴の裏や手に何か小さなものが当たる感覚があった。さすがにタイミングが良すぎるとうっすら思ったが、それよりも当たったものの正体が気になったのでしゃがみ込んで遥か下の方にじっと目を凝らす。
すると、どこか下の方から本当に小さな粒状のものが上ってくるのが見える。上ってきたそれらは私の体に当たって弾けたり遥か頭上にある地面へ吸い込まれていくように上っていくのだった。
まるで空から降る雨のような速度で動くそれを捕まえることは叶わなかったが、普通に暮らしていては絶対に見ることができないその幻想的な光景にしばらく釘付けになっていた。

 どれほどの時が過ぎたのか、上ってくる粒もなくなり静けさが戻ってきたところで再び立ち上がって歩き始めた。
おそらく出口があるだろうという方向へ、いつもより軽く感じる足と体でひたすら前へ進んでいった。
自分以外に物がないせいで本当に進んでいるのか判断が難しい空に包まれ歩いていると、すっかり忘れていたひんやり湿った空気とトンネル特有の圧迫感が戻ってきた。足音が反響して耳に入ってくる。

 気が付くと見慣れた景色の中に戻ってきていた。余韻も何もなく、さっきまでの体験が全て夢だったように感じるほどだった。
その後は特に何事もなくトンネルを抜け、今来た道を振り返る。
振り返った先にはコンクリートで作られた無機質なアーチ状の入り口があり、静かに黒い口を開けて佇んでいる。
 見慣れたそれを見てほんの少しの寂しさと安心感を覚えると共に、あの体験も悪くなかったなと噛み締めながらトンネルに背を向け歩き始めた。
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