第1話

文字数 4,975文字

 空模様が怪しくなってきたので、ちょっと様子をと、美子(みこ)が表に出ると、すでにぽつぽつと雨が降りだしていて、通りの先に、出前用のバスケットを下げてのんびりと歩く、門倉(かどくら)が見えた。   
 店から5分のアパートへ40分かけてハムサンドとアイスコーヒーを届けてきた門倉は、
濡れたシャツを拭き終えると、お詫びとでもいうようにポケットから折れ曲がった封筒を出した。
「なんか、うろうろしてたら、渡されたっす。なんか、大家っぽい感じのばあさんというか、おばさん、みたいな」
「なにそれ」
 美子が驚いた声を出すと、カウンターから店長の小寺(こでら)も出てきた。封筒の表には「マンダリン様」と書かれてあり、糊で封がしてあった。送り主は会田啓二(あいだけいじ)だった。
「会田啓二、会田啓二、あ、もしかして、あの、あいださん?」
美子と小寺は顔を見合わせた。会田啓二は、マンダリンの常連客だった。ただ、常連客といっても店にはたぶん、一度も顔を出したことはなくて、出前専門の客だった。
 マンダリンは昔ながらの喫茶店で、モーニングメニューが終わる午前11時から午後2時までランチメニューを出していた。その時間は忙しいので出前は断っていたが、何時になってもかまわないということだったので、ほぼ毎日、ランチタイムが落ち着く3時過ぎに、店から5分ほどの会田のアパートへランチを配達していた。
 会田からの注文がはじまったのは、ママがまだカウンターでコーヒーを点てていた頃だから、もう5年くらい続いていることになる。それが二月(ふたつき)前から何の音信もなくぴたりと止まっていたので、美子と小寺は、病気でもしたのかと心配していた。
「会田さんが、どうして手紙なんかくれたんだろ」
「未払いなんかもないだろ」
 美子が小寺に手紙を差し出すと、小寺は美子に封を切るよう促した。

前略、マンダリンさま いつもおいしいランチを配達して下さりありがとうございました。どれも本当においしかったです。
1、ミックスフライ定食
2、ハンバーグ定食
3、とんかつ定食
4、唐揚げ定食
5、チキンカツ定食
                                         早々
手紙に書いてあるのはそれだけだった。
「なにこれ」
手紙を読み終えると、美子は腕を組んだ。
 門倉が店に来る前までは、出前は美子の仕事だった。毎日、出前に行っても特にこれといった会話もなく、すぐにドアを閉めてしまう会田が、こんな手紙をくれるなんて美子には信じられなかった。
「ねえ、美子ちゃん、この数字、どういう意味だろ」
小寺は、手紙を指さして言った。手紙にはマンダリンのランチメニューが書かれてあり、それぞれに数字がふられていた。
「ランキングかな。会田さんの好きなメニューかもしれないね。でも、なんでこんな手紙」
「なんか、その人死んだって言ってたっす。遺品整理っていうか、そういうのやってたら、その封筒が出てきたみたいなことを大家っぽいばあさん、おばさんが言ってました」
門倉の言葉を聞いて、美子と小寺は言葉を失った。そのタイミングで、常連客が入ってきたので、小寺は手紙を封筒にしまい、
「たかが出前先にまで、こんな手紙くれるなんてさあ、律儀な人だったんだなあ。会田さん」
と、カウンターに戻った。
 
 次の日の朝、美子が出勤すると、小寺がカウンターでコーヒーを飲みながらが昨日の手紙を広げていた。
「おはよう、どうしたの」
「いや、なんか、気になってね」
「会田さんのこと」
「いや、まあ、会田さんのことなんだけど、このランキングがさ」
美子は手紙に目を落とした。
「1位から4位まではわかるんだけどさ、5位がね」
「5位」
「うちにはチキンカツ定食なんてないだろ」
 確かに。そういわれてみると、マンダリンの定食にはチキンカツはなかった。美子はしばらく考えて言った。
「とんかつ定食と間違ったんじゃないの。似てるし」
「それはないよ。だって、とんかつ定食3位にランクインしてるもん」
その日、美子は仕事の間中、チキンカツ定食のことが頭から離れなかった。会田からの注文ももちろんなく、門倉は暇そうにホールに立っていた。愛想はしないし、自主性がまるでない門倉だったが、長身で男前なので、立っているだけ絵になった。あれだけ華のあったママがいなくなってしまった今のマンダリンには、門倉のような子が必要だと思っていたので、門倉が立て続けにあくびをしていても美子はたいして腹も立たなかった。
 会田のことを考えながら、門倉のあくびを見ていると、門倉が美子に気づいて、近づいてきた。
「なんか、自分が迷ってた時、マンダリン食堂とかって汚っい店みたっす。中華屋かなんかかもしれないっすけど」
 門倉の言葉を聞いて、美子は門倉がさぼっていたのではなくて、迷っていたのかと驚いたが、
「なんで、もっと早く言わないの」
と、声を上げた。
 確かに手紙にはマンダリン様とだけあって、住所が書いてあるわけでもなかった。そんな近くに同じ名前の店があるとは思ってもみなかったから、名前違いの可能性なんて考えもしなかったが、そもそも同じ名前の店から同じように出前を取るなんて偶然があるのだろうか。美子にはどうしても信じられなかったが、チキンカツ定食がひっかかっていた小寺には随分、納得がいったようで、
「じゃあ届けてやらないとね。最後の手紙が間違って届いたらかわいそうだよ」
と、言った。
 いつものように5時に店を閉めると、3人で、もうひとつのマンダリンに向かった。たぶん、わかるっすといった、門倉についていくと、店から20分ほど歩いた隣町に、「マンダリン食堂」という古い食堂があった。
 喫茶マンダリンという屋号は、美大生だったママがつけた名前だった。由来はママがデッサンのときに何度書いても全然うまく書けなかったのが、マンダリン・オレンジだったからといういかにもママらしいもので、いつまでも無邪気でエネルギーに溢れていたママのイメージにぴったりだと美子は思った。
 食堂の正面には昔ながらのショーケースがあった。小寺は、ショーケースに並べられた年期の入った食品サンプルを一つ一つ指差し確認していた。
「美子ちゃん、やっぱり、ここだよ。あるもん、チキンカツ定食」
「せっかくだからさ、食べてこうか。門倉君も食べてきなよ、おごったげるからさ」
「おごりっすか。じゃあ、ご一緒します」
 店の中は、外よりももっと年期が入っていた。お客さんはいなくて70代くらいの夫婦が二人で切り盛りしていた。
 食事が済んだあと、美子は、マンダリン食堂のご主人に手紙を見せて、事情を説明した。
ご主人は、「そうですか、それは、それは」と、感慨深い表情を浮かべた。そして、
「でも、うちは出前はやってないんですがね」と、言った。
 
 インターネットで調べても会田の生活圏と思われる地域に、マンダリンと名のつく店はなかった。会田が家の店から出前を取ってくれていたのは事実なのだから、やっぱりこの手紙は家に出されたものと考えるのが自然なのだろうと、美子は思った。このチキンカツ定食さえなければ、すんなりと会田からの手紙をうけとることができるのになあと手紙を読み直していると、ふいに小寺がコーヒーポットを持ったままカウンターから出てきた。
「美子ちゃん、チキンカツ定食をやったことがあったんだよ。1回だけ」
「どういうこと」
「朝から、めちゃめちゃ混んだ日があったじゃない。のどかホールで健康器具だか、マッサージ機だかのイベントがあった日。その日、仕込みがなくなっちゃって、俺、買いに行ったんだよ。近くのスーパーに」
確かに、半年前くらいに近くのホールでイベントがあって、朝から閉店時間まで中高年のお客さんで店が埋め着くされた日があった。あの頃はママが入院していて、門倉君もまだいなかったから、小寺さんと二人で必死に店を回した覚えがある。
「会田さんのオーダーは、とんかつ定食だったけど、スーパーもとんかつ売り切れで、仕方なくチキンカツを買って出しちゃったんだ」
「軽く、詐欺っすね」
小寺の懺悔を聞いていた門倉は表情を変えずに言った。
「そこまでいう?」
「でも、カツなんてどれも同じじゃないっすか。衣ついてたら全部カツっていうか」
「俺、ひどいことしちゃったよな」
「詐欺っすからね」
「美子ちゃん、俺、どうしよう」
「とりあえず、お線香だけでも上げさせてもらったらいいんじゃないの。でも、たぶん一人暮らしだっし、遺品整理したっていうから、身寄りもないのかもね」
 たかがチキンカツ、されどチキンカツ、小寺は見た目に似合わず気にしいなところがあるから、どうやって慰めようかと美子が悩んでいると、門倉が、
「なんか、大家のばあさん、おばさんが、会田って人は昔、やっちゃったみたいなこといってました」
と、言った。
「やっちゃった?」
「なんか殺人犯的なこと言ってたっす」
 会田は、美子がランチの入った紙袋を手渡すと、いつも無言で会釈し、ズボンのポケットから代金を取り出した。お釣りを渡したことは一度もない。約5年間、支払いはいつもちょうどぴったりだった。

1、前略 春音さま いつも悲しませてばかりでごめんなさい。あなたのことを幸せにしたかったのに、いつもなぜか全部うまくいかなかくて、悪い方向にばかりいってしまいました。でも、あなたのことが心から本当に大切でした。許してください。早々
2、前略 母さん、迷惑ばかりかけてごめんなさい。もっとちゃんとしたかったのだけど、いつの間にかこうなってしまいました。もし、保育園の頃からやり直せるなら、きっと、少しは自慢の息子になると思う。次は踏み外さないように気をつけていきますので、許してください。早々
3、前略 あなたの大切な人を殺めてしまってごめんなさい。一生信じてもらえないと思うけど、本当に僕は、彼を殺す気はありませんでした。今でもあの日のことを夢に見て、僕は彼が生きていたらいいなと思う。許してください。早々
4、前略、マンダリンさま いつもおいしいランチを配達して下さりありがとうございました。どれも本当においしかったです。早々
 
 美子は直感した。たぶん、会田さんが本当に書いた手紙は4番だけだ。その4番の手紙さえも会田さんは出せなかったのだけれど、偶然にも届いてしまった。
 結局、会田さんの人生最後の手紙は近所の喫茶店への手紙になってしまったということだ。でも、人生の最後に出す手紙の相手が、近所の喫茶店だったら、何が悪いというのだろう。
 美子は、真剣なまなざしで小銭を数え、ポケットにしまう会田の姿を想像して、心の中で、「会田さん、おつりの仕度もありますので、大丈夫ですよ」と言った。

「美子ちゃん、チキンカツやろうか。とんかつあるからあんまり出ないかもしれないけど」
「追悼的なやつっすね」
「門倉君、なんとかならないかな、その言い方は」

そういうわけで、マンダリンでは、この春からランチメニューにチキンカツ定食が追加されることになった。
 あれから、会田から出前の電話がかかってくることはなかったが、出前ノートの「あ」のページには会田の住所と電話番号がそのまま残っていた。マンダリンの出前ノートは開店以来ずっと同じ一冊の大学ノートで、データを更新したりするような、まめなスタッフは誰ひとりいなかったからだ。
 美子は出前ノートを眺めながら、このノートに書いてあるお客さんの内、いまどのくらいの人が元気で暮らしているのだろうかと思った。
 珍しく門倉が出前から適切な時間で戻ってきた。美子は出前ノートを閉じて、門倉が下げてきたコーヒーカップを受け取った。
「お、今日は早かったじゃない。もう昼だし、まかない何にする?チキンカツいっとくか」
「いや、おれとんかつがいいっす。鳥より、豚派なんで」
「衣ついてたらなんでもいっしょっていってたくせに」
 コーヒーカップはきれいに洗われていて、中にオレンジのキャンディーが3つ入っていた。
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