第1話

文字数 1,984文字

ぽつん、と足の甲に水滴が落ちてきて目を開ける。
「わっ……!」
とんでもない美少女が立っていた。
ベンチに座る私を見下ろしている。
「えっと……何、私に何か用……?」
彼女の髪先から水の粒が垂れる。
先ほどの滴りは彼女の汗らしい。
この酷暑で相当の汗をかいたのだろう。衣服が透けて肌にへばりついている。
なんというか──
えらく艶めかしい──
「い、一緒に……来てほしいところがあるんです……」
胸元で指をつんつんとさせる彼女。
「ひ、一人じゃ……心細くて……」
「はあ」
あまりにも弱弱しい声。断れば泣いてしまいそうだ。
「近くなら……」
「ほ、本当ですかぁ……!」
やったぁ、と風に舞う綿毛のようにはしゃぐ彼女。
そんなに嬉しいことなのだろうか。
♪♪♪、と着信音が鳴った。
「ごめん。電話」
少し離れ、通話ボタンを押す。
「先生、なんですかあの原稿は」
「……? 何か落ち度でも……?」
「ただのラブコメじゃないですか!」
「はぁ、それの何がいけないのでしょうか」
「忘れたんですか先生。リクエストはホラーです。もう一つのドキドキが欲しいんです」
「もう一つの……」
「ええ。生きるか死ぬか、逃れられない恐怖のドキドキです。かわいい女の子との日常話もいいですが、今はホラーです。先生ならきっと怖い話も書けます。お願いしますよ。もう暫く待ちますから」
要するに、没だ。
ホラーか……正直どう書けばわからないんだよな。
だから、要望を忘れたふりしてラブコメを押し通そうとしたのだが、駄目だった。
どうするべきか……。
いや、今は考えるのをよそう。彼女を待たせている。
ベンチに戻ると彼女がいなかった。
「こ、こっちです……!」
近くの池の前で、私に手を振っている。
そのはしゃぎように引っ張られるように急ぎ足で向かう。
「あの、本当にオッケーしてくれてありがとうございます。とってもとっても嬉しいです……」
「え、ああ、いいよいいよ。これくらい」
むしろ感謝したいくらいだ。こんなかわいい子と束の間とはいえ一緒に過ごせるなんて。
というか本当にかわいい。この子をモチーフにしたヒロインで一話書きたくなるくらいの可憐さだ。
「それで、来たけどどうするの? これで終わり?」
「い、いえ……、この中に行きます……!」
「中?」
「はい……池の中です……」
「え、何……泳ぐってこと? それはちょっと……」
暑さを和らげるために水浸しになりたい気持ちはあるけど、ねえ。
さすがに公園の池に飛び込む気は起きない。
「だ、大丈夫です……! 泳がなくてもいいですから……!」
「え?」
「一緒に行きましょう……!」
「ちょ、ちょっと、泳がなくていいって、何……」
!?
冷た!
彼女が私の手を握っている。それが氷漬けにされたみたいに冷たい!
何だこれ、人の体温じゃない?
どういうこと?
!?
ぐいっ、っと前に引っ張られる。池に向かって身体が傾く。踏ん張りがきかない。
ちょっと待って、落ち──
落ちた。池の中に。
と、とにかく上がらないと。
彼女がどういう意図で私と池に飛び込んだのかは知らないけど、さすがに付き合っていられない。
水面に顔を出し、地面に右手を伸ばす。
「!」
再び身体が水に沈む。水面下から彼女に左手を引っ張られたのだ!
いたずらにしてはひどすぎる。振り払おうとするが、万力のように握りしめられていて解けない。
それどころか身体が更に沈んでいく。引っ張られているのだ。彼女に。
早くこの手を解かないと、息がもたない……!
な、何か……!
空いている右手で衣服のポケットを探るが役立ちそうなものが何もない……。
乱雑にポケットを探ったせいで飛び出した名刺入れが開き、中の名刺がばらばらになって水中を漂う。
こんなに怖い思いをして、物語の題材にもできそうなのに。
もう文字に起こす機会は訪れそうにないなんて。
自分の名前の上に並ぶ作家という2文字がやけに滑稽に見えた。
ああ、もうだめだ──



「それで、その池に溺れた女の子の好きだった人が、先生に似ていたみたいです」
スピーカーから聞こえてくる編集の声に私は思わずドン、と机と叩いた。
「それじゃあ私は、人違いで幽霊に殺されそうになったってことか!」
名刺で人違いだと気付かれなかったらどうなっていたことか。
「良かったじゃないですか。おかげで、また新作を上梓できて。評判も上々ですよ」
「それは……まあ……そうなんだが……」
「連載も決まりましたし、この方向性でこれからも頑張っていきましょう!」
「簡単に言うが、ホラーを書くのは苦手なんだ。ネタが思いつかない」
「大丈夫です! 近辺のホラー情報集めておきました。また恐怖体験しに行きましょう!」
「あ、あんた! 人の命をなんだと思っているんだ!」
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