第1話

文字数 2,000文字

「今日こそ、お父さんたちが僕に内緒で何をしているのか見届けてやる」
小学1年の巧(たくみ)は、そう心に誓い、暗い応接間のひんやりする壁に背中を押し付けてしゃがんでいた。
夏休みがもう終わるとはいえまだ夏なので、夜でも蒸し暑く、壁の冷たい感触が気持ちよかった。

巧がそのことに気付いたのは、小学生になってからだった。
彼が寝た後、来客が何人かあり、階下の応接間で話をしているのだった。
巧が就寝するのは大体9時で、それから30分ぐらいして人が来訪する気配があった。
巧に配慮してか、客は呼び鈴を鳴らさずドアをノックしているらしかった。
気付いた最初のうちは「あれ、お客さん?」という疑問を眠気がすぐ包み込んだが、前回は夏休みに入っていて、朝いつもより遅くまで寝ていることと蒸し暑さでなかなか寝付けず、そのため階下の物音に冴えた頭で集中することになった。
夏で窓を開けているせいで、客たちの話し声はベッドに横になっている巧の耳元に届いて好奇心を刺激した。
それでも7歳という年齢には逆らえず、巧は客たちが帰る前に眠った。
その翌日、巧は母親に昨日の夜誰か来たでしょと訊いた。
母親は、とうとうサンタクロースの正体がばれたというような反応を示して言った。
「来てたけど、子供に関係ない大人の集まりだから、巧は気にしないで寝てていいのよ」

小学1年はやっと幼児から脱皮したところで、大人にはまだまだ遠いが、そんな風に差別されたことに巧はムッとした。
幼児ではない子供の能力でお父さんとお母さんの秘密を探って見せる。
夜の客人は月に一度、たいてい土曜の夜に集まることがわかっていて、前回から一月後の土曜の夜、巧は応接間の物陰に潜むことを決心した。
最近は巧が寝ているか電気が消えているだけで確認するので、部屋から抜け出したことがばれる心配はなかった。

応接間の電気が点いた時、ともすると居眠りしそうになっていた巧はハッとした。
巧は大きな観葉植物と壁の隙間にすっぽり隠れていて、見つかる恐れはなさそうだった。
父と母と40代くらいの男性と女性、それに70代くらいの男性が集まった。
母親がコーヒーを入れたカップを皆の前に置くと、客たちは礼を言って、それからバッグから何かを取り出した。
皆、同時にそれに火をつけ口にくわえた。
巧は儀式なのかと危ぶんだ。
皆が口から煙を吐き出したので、巧はそれが煙草だと気付いた。
一同は煙草を吸いコーヒーを飲みつつ、会話をした。
「別にニコチン中毒ってわけじゃないけど、要するに反動なんですよ。日頃煙草を吸っている生徒に注意して、煙草の害を酸っぱく教えていることへの」
母と同世代の女性が言った。教師なのだろうか。
「学校の敷地内は禁煙なんでしょ?」
「そう。学校でなくても、家では子供がいるし、外は生徒や保護者の目があるから、煙草なんて吸えないわ」
「私は病院で事務をしているけど、病院ももちろん禁煙。うちも子供の手前吸わないようにしてるの。
あら、敷島さん、それどうしたの?」
女性教師、敷島は、バッグから細長い棒状の物を取り出して見せた。
「煙管(キセル)よ。羅宇が赤く塗ってあって、花魁が使っていた物みたいなの」
「いいわね。江戸時代にタイムスリップできそうね」
巧の父親も中学校の教師をしていて、敷島の気持ちがよくわかると言った。
「そう。煙草が好きで吸いたいわけじゃないんです。だけど、生徒たちを指導して手本にならないとっていう重圧でね。何かでガス抜きする必要があるんです」
「私は呼吸器科の医者っていう立場上、煙草はご法度です。学生の頃ちょっと吸って、医者になってからはやめていたんですけど、やっぱり風穴が必要なのかな」
そう言ったのは、父の友人らしい40代の男だった。
「医者の不養生ね」
と母がクスリと笑った。
「私らの若い頃は、女性までポーズで吸っていたものです。まだ煙草の害がそれほど知られてなかったんでしょうね。けれど、妊娠中の女性や赤ん坊によくないってんで、ベランダで吸いましたよ。いわゆるホタル族」
「近頃では受動喫煙が取りざたされて、煙草の煙が隣まで流れることが問題になって、ホタル族も肩身が狭くなっているようですよ」
70代の男性は自治会長をしているようだったが、どういう縁故でこの集まりに加わっているかは謎だった。

あの夜から25年の歳月が過ぎ、巧は社会人となり、結婚してマンションに住んでいた。
時折煙草を吸うことがあり、今ではあの夜応接間に集まって煙草を吸っていた人たちの気持ちも理解できる。
しかし、今日を限りに煙草とは縁を切るつもりだった。

リビングにおいてある観葉植物(それは実家にあるのと同じサンスベリアだった)に彼は話しかけた。
「あの時、君の仲間は煙草の煙で汚れた空気を一所懸命きれいにしてくれていたんだな。僕も、きれい好きの君に負担をかけて悪かった。でも今日でおしまいだよ。これから生まれてくる赤ん坊のためにね」

(了)


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