本編

文字数 3,783文字

 ────僕は、君を、決して忘れない。


「僕はさ、千奈津ちゃんのことが大好きなんだよ。どうしようもなく好きだから」

 ぽつりぽつりと、窓の外を滴が玉となって流れる。
 いつだって磨かれている窓は曇り一つなく、外の景色を額縁に入れたように切り取っている。
 最近は梅雨に入り、雨の日が続いていた。千奈津はこの窓からよく景色を眺める。晴れの日も雨の日も雪の日も、この窓の外に見えるありふれた景色を眺めるのだ。

 ここは里中(けい)が住むマンションの一室。ビルやマンションが建ち並ぶエリアに建てられた、七階建ての単身者用賃貸マンションだ。
 慧と千奈津が付き合い始めたのは一年程前。二人が務める会社の入社式で出逢ったのが始まりだった。
 千奈津は十人いる新入社員の中で、一際目立つ存在だった。明るく溌剌とした様子は周囲を元気にし、悩みを打ち明ければ一緒に悩んでくれる。悲しいことは一緒に泣いてくれるし、楽しいことは何倍にもして笑わせてくれる。そんな千奈津を慧が好きになるのは必然だったのかもしれない。



 ***

「お邪魔します」
「どうぞ。散らかっているけど」

 少し照れたような表情を浮かべて、千奈津は慧のマンションを訪れた。靴を脱ぐ時に、焦茶色の髪がさらりと肩から流れ落ち、俯き気味に伏せられた顔には長い睫毛の影が落ちる。
 ああ、綺麗だ、と慧は溜息を零した。
 まるでデッサンモデルをするために創られたような整った顔と均整の取れた体型。背は高すぎず小さすぎず、慧にとってはちょうどいい高さに思えた。
 靴をきちんと揃えた千奈津を十畳程あるリビングへと案内した。

「綺麗じゃない」
「千奈津ちゃんが来るから片付けたんだよ」
「そうなんだ。ありがとう」

 これくらい大したことじゃないよ、と慧は笑う。
 今日は入社半年で行われた研修の報告書を二人でまとめるため、慧のマンションを使うことにした。
 慧は千奈津から受け取ったケーキを冷蔵庫に入れ、千奈津の好きなコーヒー豆を挽く。キッチンからカウンター越しに見える千奈津は、ソファーに座って、少しソワソワしているようだ。

「すぐにコーヒー持っていくから、待ってて」
「ありがとう。いい匂いするね」

 それはそうだろう。この日のために慧は千奈津の好きなコーヒー豆の種類を聞き出し、お洒落に見えるようにコーヒーミルまで購入していた。
 同期の中だけでも千奈津を狙っている男がいるのだから、上司を含めるとそのライバルの多さは無視出来ない。誰かに取られてしまう前に、慧のものにしなくてはいけないのだ。
 だから、余裕があるフリをしながら、僕も必死なんだよ、と他にも考えている作戦を思い起こして、クッと笑いが漏れてしまった。キッチンにいる慧の小さな笑いは千奈津には聞こえなかったようで、ホッと胸を撫で下ろす。

「どうぞ、美味しいといいけど」
 この時のために、何度も練習したコーヒーだ。慧自身はうまくできたと思っているが、こだわりのある千奈津に美味しいと言わせられるだろうか。
「うん、美味しい」
「よかった」

 カップを両手で持ち、少し緩んだ表情で言った千奈津の様子に、慧の心臓は痛いほど高鳴る。どんな表情も好きだが、やっぱり千奈津は笑った顔が一番可愛い。この笑顔が皆に向けられるのは面白くないが、千奈津は誰にでも平等に笑顔を向ける子だ。今はまだ妬いても仕方がないことだろう。



 それから、二人はノートパソコンと資料を広げ、相談し合いながら報告書をまとめていった。勤務時間外にやるように言われたこと、営業部の新入社員は慧と千奈津の二人しかいなかったことが、この好機を得た要因だ。慧にとってはラッキーとしか言いようがない。
 途中、千奈津が持ってきたケーキを食べ、報告書も上手い具合に仕上げることができた。千奈津にいいところを見せようと、いつも以上に頭をフル回転させた慧の努力の賜物である。

「そろそろ帰るね」
「うん、またコーヒー飲みに来てよ」
「ふふ、ありがとう」

 両頬に笑窪を作って笑う千奈津を、慧は危うく抱き締めそうになった。
 まだ早い。焦っては駄目だ。慎重に千奈津を手に入れなければ。

 その日から約半年をかけて、慧は千奈津の気を引いては距離を縮め、頃合を見て口説いた。
 慧の告白にいい笑顔を見せてくれた時には、歓喜で涙を流しそうになった。
 慧は決してイケメンと呼ばれる類の人間ではない。中肉中背で、平凡な顔つきをしているし、何か突出した特技があるわけでもない。
 ただ、「優しいね」と誰にでも言われる好青年であった。慧はその「優しい」ところを最大限に活用し、周りも牽制することで千奈津を得ることができたのだ。

「千奈津ちゃんは、その景色が好きだね」
 今日も慧のマンションの窓の外を眺めていた千奈津に声をかける。
「窓の外の景色も好きだけど、この窓枠を含めた景色が一枚の絵画を見ているようで好きなの」

 なるほど、と思った。普通は景色と言えば、窓の外に広がる風景を見るものだろうが、千奈津はこの窓枠も含めて楽しんでいるのだ。こういった感受性豊かなところも、千奈津のいいところであり、慧の好きなところでもある。

「じゃあ、晴れの日と雨の日、どっちの絵画が好き?」
「断然、雨の日。この窓には雨粒がよく当たるから、昼間でも幻想的に見えるの」
「そうなんだ」

 流石に天気を変えることはできないから、雨の日は意識して、マンションに呼ぶことにしよう、と頭の中の千奈津メモに加えた。
 慧も千奈津も穏やかな性格をしているため、喧嘩といえるものは一度もしていない。いつも二人で笑っていた。
 慧が「好きだよ」と言うと、千奈津は眉尻を下げて笑ってくれる。千奈津は恥ずかしがって、なかなか「好き」とは言葉にしてくれなかった。それはいい。それは、よかったのだ。
 慧にとっては、千奈津が自分だけを見てくれていたら。

 そう。見てくれているだけで、よかったのに。

 千奈津は少しだけ余所見をした。



 ***

「金曜日、荒川さんとどこに行っていたの?」

 千奈津をソファーに座らせ、その前に膝立ちになった慧が穏やかな声で話しかける。

「どこって、ただ退勤する時に一緒になっただけよ。どこにも行ってない」
「でも、その日は予定があるって言ってた」

 ジリッと慧の身体が千奈津の方へ近づく。

「あの日は友達とご飯に行ったの」
「友達……本当は荒川さんと二人でご飯を食べに行ったんじゃないの?」

 また少し、ジリッと近づく。

「違うよ、晶と会ってたんだよ」

 ふるふると首を振る千奈津の表情は、いつもの笑顔が消え、戸惑いと言い知れぬ恐怖とで強ばっている。

「晶って、本当に女の人? 晶なんて、男の名前でもあるよね」
「高校からの女友達だよ。前に話したことがあるでしょ?」
「他の人が噂しているのを聞いたんだ。千奈津ちゃんには彼氏がいないって。どうして? 僕は千奈津ちゃんの彼氏じゃないの?」

 ジリジリと擦り寄った慧の身体は、千奈津の膝に触れた。

「彼氏!? 私はちゃんとお断りしたよ」
「嘘だ。僕が好きだって言ったら、笑ってくれた」
「ちゃんと『ごめんなさい』って言ったわ!」

 慧の手が、千奈津の両手を握り締める。その瞬間、千奈津は我に返り、その手を振りほどこうとしたが、思いの外強い力で握られてしまい、離してもらうことができない。

「ここにもよく来てくれたでしょう」
「他にも人がいたわ!」
「僕は千奈津ちゃんだけを呼んでいたはずだよ」

 最初の一度だけ、千奈津は一人でこの部屋に来た。その後は他の同期の人も一緒に来ていたが、慧には千奈津だけが大事で、千奈津だけを見ていた。

 他の奴ら?

 そんなもの、知ったことか。誰が来たかすら覚えていない。千奈津はここに来て、この窓から外を見ていただろう、と慧は言う。
 慧の静かで、異常な怒りに千奈津の身体は震え始める。

「里中くん、離して」
「離したくない」
「叫ぶわよ!」
「この部屋、防音になっているから、いくらでもどうぞ」
「やだ、お願い、離して! 帰らせて!」

 強く強く両手を振るのに、慧の手は千奈津の手を離さない。
 千奈津の眦に滴が浮かぶ。

「かわいい」
「何言ってるの! お願い、もう帰りたい!」

 身体を乗り出して、千奈津の目元に唇を滑らす。千奈津はビクッと身体を跳ねさせ、止まらない震えが更に酷くなった。

「ずっとこの部屋で、あの絵画を見ていればいいよ」

 慧がちらりと向けた視線の先には、千奈津が好きだという窓がある。
 いらない、帰る、警察呼ぶわよ。あらゆる言葉を叫ぶ千奈津に、慧は人生で最高の笑顔を見せる。

「千奈津ちゃん。大事に大事にしてあげる。これから、ずっと。僕が生きている限り」

 激しく首を振る千奈津の身体を押し倒し、慧の手がゆっくりと首にかかった。


 静かになったリビングに、慧の息遣いだけが響く。
 かわいい千奈津は大人しくソファーに座り直して、窓がよく見える位置にいる。
 かわいい声は捨てがたかった。
 笑顔が一番好きだったけど、それも仕方がない。

「僕はさ、千奈津ちゃんのことが大好きなんだよ。どうしようもなく好きだから。だから、千奈津ちゃんはずっとここに座っていて。これでもう僕のことも、この絵のことも忘れられなくなるでしょう?」

 スッと千奈津の頭を撫でる。
 ああ、髪の手入れも忘れてはいけないな。
 そう呟いた慧はリビングの掃除を始めた――。




 *終*
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