第1話

文字数 1,903文字

 昨晩のバイト終わり、いつも通り道中の喫煙所に立ち寄ったときのことだった。
 周囲を簡易的なパーテーションで囲まれ、その中央に小さなベンチが一つだけ置いてある喫煙所。
 僕はパーテーションにもたれ、ポケットから煙草を取り出す。箱は少し崩れており、箱からはみ出ていた一本を口にくわえる。
 その時、僕の右肩をトントンと誰かが叩いた。見るとそこには一人の女性が立っている。
「ごめんなさい、火を貸してもらえる?」
 彼女の申し出に対して、特に断る理由も無かったので黙って火をつける。
 瞬間、その女性は僕の目の前から消えてしまった。
 身に着けていた衣服や手に持っていたハンドバックごと、まるで煙のように消えてしまったのだ。

 突然のことに混乱した頭で、可能な限り現実的な方向から彼女が消えた理由を考えてみる。
「彼女はとても急いでおり、火がつくや否やもの凄いスピードでこの場を離れた」
「彼女は幽霊で、最後に吸いたかった煙草を吸えたため成仏した」
「ただの夢」
 思いつく限りのものを考えてみたが、確実に夢ではないし、彼女がいくら素早く動けようが人間は消えない。
 僕の頭がおかしいか幽霊という線が有力だが、もしそうなのであればそれでもいい。混乱したこの頭になにか説明のつくものが欲しい。

 ひとまず落ち着つこうと、咥えていた煙草に火をつけた。吸った煙を体内に入れる、僕には何故かこのとき目を瞑ってしまう癖があった。
 次に目を開けた時そこに広がっていた光景は、見慣れたものと比べると少しだけ違和感のある場所だった。
「えっ?」
 辺りにいた人たちがざわざわと僕の周りに集まってくる、何が何だかわからなかった僕は、一度考えるのをやめておとなしく手に持った煙草の煙をくゆらせることにした。

 黙って煙草を吸う僕の周りには集まる人は少しずつ増えてきた。僕の体を揺蕩う煙のまわりを多くの人が囲む。動物園の動物はきっとこんな気持ちなのだろう。
 煙草を吸うことで少しずつ冷静になってきた頭が、周囲から情報を取り込んでくれる。
「1964年」「大阪万博」「進歩と調和」街に貼ってあったポスターにはそんな文字が大きく存在感を放っていた。
 短くなった煙草の火を消す。
 すると辺りは真っ白な空間に包まれ、段々と見えてきた景色には、元の喫煙所とさっき消えたはずの女性の姿があった。

「あなた、なんなの?」
  僕を見るなり、その女性はそう口を開いた。聞くところによると彼女も過去に戻っていたらしく、あたりは「阪神タイガースの日本一」で色めき立ちとても騒々しかったそうだ。

 僕たちは、二人が得た情報を照らし合わせてみることにした、共通点は煙草を吸ったことで過去に戻ったこと、そして煙草を消したことで現代に戻ってきたこと。
 僕はなんだか面白くなってきて、そしてそのこともどうやら僕たちの共通点だったようだ。
「不思議ね! けど確実に私たち過去に戻ったわよね」
 彼女は興奮気味にそう話す。それから僕たちは何度も煙草に火をつけて試した。火をつけるのは僕でないといけないらしかった。
 どうやら僕は1964年、彼女は1985年。その年代に変化はなく、煙草の火と共に現在と過去を行き来できるらしい。
「ねえ、煙草を交換してみない?」
 思い付きのような彼女の提案は新しい発見を生み、彼女の細い煙草を僕が吸うと1985年へ、僕の煙草を彼女が吸うと1964年へと、それぞれこれまでとは反対の過去へと向かうことができた。

 今度は様々な種類の煙草を買ってきて試してみることにする。消えたり現れたりする様子を見つけられても困るので場所を変えようと、ここから近いという彼女の家へと向かうことになった。
「僕たち何をやってるんですかね」
「さあね。でも面白いじゃん、こんなの初めて」
「ですね」
 彼女の家に着くまでの間、僕たちが交わした会話はそれだけだった。
 素性どころかお互いに名前も知らない僕たちは、そんなことなど気にかけないかのように時空を飛びまわる。

 明治、江戸、平成など比較的近しい年代の過去をめぐる中、ある一つの煙草に火をつけた時、縄文か弥生かはわからないがとにかく随分と昔に飛んでしまったときは、神として祀り上げられそうになった。

 一通り試してみたところで、僕は彼女の家を立ち去ることにする。彼女も別に引き留めることは無い。ただ明日も同じ時間にあの喫煙所で会う約束をした。
「この世のすべての種類を試そうよ!」
 家までの帰り道、別れ際にそう言った彼女の姿を思い出し、僕は心が高鳴るのを感じた。

 月明かりの下で、ポケットから煙草を取り出し一本咥える。火をつけた瞬間、僕の体は煙のようにふわりと消えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み