夜道

文字数 1,890文字

 閑静な住宅街に犬の遠吠えが響き渡る。

(遅くなっちゃったな……)

 友人との飲み会を終えた西村裕子は歩きながら深い溜息を付く。
 薄茶色のブラウスに白いコートを羽織り、薄緑色のズボンの下には黒いスニーカーを履いている。
 小さい手には薄肌色のバッグが握られている。
 冷たいそよ風が吹き、長い黒髪は横になびく。

(早く帰ろう……)

 裕子は早足で歩を進める。
 塀に囲まれた通りはとても暗く、点々と立っている電柱の防犯灯がその下を大きく照らしている。
 裕子が一本の電柱を通り過ぎた時だった。
 生暖かい風が吹き抜けると同時に電柱の方から何かの気配を感じた。
 足を止める裕子。
 しかし、後ろの気配は消えない。

(何だろう……)

 ゆっくりと振り返る裕子。

「え?」

 裕子はビクッと体を震わせる。
 防犯灯の下には一人の女性が立っていた。
 赤いワンピースに身を包み、青白い足元には何も履いていなかった。

(どうしよう…… 声、掛けた方が良いのかな……)

 辺りを見渡す裕子。
 しかし、周囲に人の姿は無い。
 もう一度、女性を見る裕子。
 俯き気味の顔には長い黒髪が垂れ下がり、表情を伺う事が出来ない。
 裕子の心に『不安』という感情が沸々と沸き起こる。

(ごめんなさい……)

 女性に背を向けた裕子は足早に曲がり角を曲がる。
 少し先で立ち止まり、ゆっくりと深呼吸する。
 『不安』と言う感情が段々と消えていくのを感じる。

(大丈夫だよね……)

 深呼吸を終えた裕子は目の前の電柱に視線を移す。

「えっ?」

 裕子は目を見張った。
 電柱には先程の赤いワンピースに着た女性が立っていたのだ。

「何で?」

 急いで曲がり角に戻り、先程の電柱を見る。
 その電柱に女性の姿は無い。
 裕子は女性の立っている電柱を見る。
 女性は俯いたまま微動だにしない。
 裕子の背中に微かな悪寒が走る。

(違う人だよね……)

 そう言い聞かせながらゆっくりと歩き出す。
 電柱に近付いた瞬間、血生臭い匂いが裕子の鼻を襲う。

(何、この匂い……)

 裕子は鼻を手で覆う。
 女性に近付く度、裕子の心臓が高鳴っていく。
 女性の横を通り過ぎる時、裕子は横目で女性を見る。
 赤いワンピースに長い黒髪。
 明らかに先程の女性だ。

(気のせいよ……)

 高鳴る鼓動を抑えながら裕子はすぐに走り去った。

(何なのよ…… もう……)

 走り終えた裕子は近くの電柱で息を整える。
 息を整え終えた裕子は前後の電柱を見る。
 そこに女性の姿は無く、裕子はホッと息を付く。
 ゆっくりと歩き出す裕子。
 その時、血生臭い匂いが辺りに漂う。

「どういう事?」

 周囲を見渡すが女性の姿は無い。

「あ、あっ、あ……」

 その時、謎の声が彼女の耳元を襲う。
 心臓を掴まれた感覚に陥る裕子。
 『振り向くな!』と言う言葉が頭を駆け巡り、振り向くことが出来ない。

「あ、あっ、あ……」

 しかし、声は消えない。
 身体が小刻みに震え出し、冷や汗が湧き出て来る。
 耐えられなくなった裕子は勢い良く声の方を向く。
 
「いやぁ!」

 裕子は地面に倒れ込む。
 そこには赤いワンピースを着た女性が立っていた。

「な、何なの?」

 声を震わせる裕子。

 ピチャ…… ピチャ……

 ワンピースの裾から何かが滴り落ちる。
 裕子は裾を注意深く見る。
 それは血だった。
 深紅に染まった血が滴り落ち、裾の下で血溜まりを作っていた。

「血? 何で?」

 その時、裕子の頭に何かが走った。

「まさか…… そのワンピース……」

 裕子はゆっくりと見上げる。
 その瞬間、女性もゆっくりと顔を上げる。
 裕子は息を飲んだ。
 女性の顔はおびただしい血の量で真っ赤に染まっていたのだ。
 目は穴が開いたように黒く、顔全体にナイフのような切り傷が広がっていた。
 誰がどう見ても生きている人間には見えなかった。

「あ、あっ、あ……」

 女性は痛々しそうに歩き出す。

「嫌! やめて!」

 裕子は倒れながらも勢い良く後ろに下がる。
 女性は目から血を流しながら迫って来る。

「お願い…… やめて……」

 声を震わせる裕子。
 その時、裕子の背中に何かが当たる。

「何?」

 裕子は後ろを向く。
 そこには看板が立っていた。

「看板?」

 その瞬間、前方の気配が消えた。

「えっ?」

 慌てて前を見る裕子。
 そこに女性の姿は無かった。

「あれ?」

 立ち上がった裕子は辺りを見渡す。
 しかし、いつもと変わらない夜道がそこにあった。
 裕子は看板を見る。
 看板にはこう書かれていた。
『〇月〇日 午前十二時頃
 ここで通り魔事件がありました』
 看板の下には花束や缶が置かれている。

(もしかして……)

 裕子は静かに手を合わせる。
 そよ風が小さく吹き抜けた。
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