第1話

文字数 2,000文字

 石をぶつけられた人間は、痛くて泣くのではない。
 
 当時、このことに気づく大人は、わたしの周りにはいなかった。彼らは強張った顔で「まあ可哀想」と口元に手を当てるだけで、わたしの涙の訳を深く知ろうとはしなかった。

 あの頃を思い返すといつも同じ光景が頭に浮かぶ。わたしは小銭と便箋を握りしめて石段を登っている。ぴったり百段を上がりきると木々に囲まれた視界が開けてお堂が見える。廃寺という言葉を知ったのは随分と後になってからだったけれど、とにかくそこに人の気配があることは滅多になかった。

 わたしは毎度、小銭と折りたたんだ便箋を賽銭箱に放り込み、目を瞑って手を合わせた。そうして便箋に書かれた内容――呪詛の言葉を内心で唱えた。

(〇〇ちゃんが、みんなの前で恥ずかしい思いをしますように)

 不思議なことに願いはいつも現実になった。わたしの上靴を隠した女の子の体操着がなくなり、わたしを死人扱いした男の子が幽霊に遭遇した。わたしの髪を切った先輩は何者かに丸刈りにされ、わたしを犯人扱いした先生は痴漢の容疑で捕まった。

 便箋に具体的な望みを書いたことはなかった。「こんなことをされた。あのコは地獄に落ちればいい」と、愚痴と告発の合の子のような文章ばかりを書いた。幼気に気を回し、文字数が多い時はお供えする十円玉を百円玉に替えたりした。

 因果応報という言葉を知っていたわたしははじめ、一連の出来事はまさにそういうものだと思っていた。悪いことをするから罰が当たるのだと純粋に信じていた。それでも何度目かの願いが叶った後には神様がこんなにわたしばかり贔屓してくれる訳がないと少し怖くなった。真実を想像する勇気も自ら戦う強さもなかったわたしは、当時使用していたファンシーな便箋に逃げ道を見て、これは「妖精さんの仕業」だと思い込むことにした。妖精さんはわたしのわがまま――たとえば、サンタさんにせがむようなお願い――は一度も聞いてくれなかったけれど、

には大抵手を貸してくれた。

 

は次第に周囲に浸透し、いつしかわたしがこの世に存在することを咎める者はいなくなった。高校生になる前、わたしは一度、妖精さんに感謝の手紙を書いて賽銭箱に入れた。無論、返事はなかった。

 そしてわたしは世界を健全に保ったまま成人し、社会に出て、恋をし、結婚した。

 今、わたしは自宅で夫の帰りを待っている。今日ほど彼の帰りが待ち遠しい日はなかった。

 だから、携帯電話が鳴った時、その着信音にわたしは気勢を削がれた気がした。

「探偵さん?」

 電話の主は以前、夫の浮気調査を依頼した探偵さんだった。

 少し前のことだ。優秀な探偵さんはすぐに決定的な証拠を掴んでわたしに提出した。世界中の誰が見ても退屈と感じるだろう、陳腐なポルノ。

 その後、気がつくとわたしはあの廃寺を訪ねていた。

 いつの間にかお堂は取り壊され、更地になっていた。当然、賽銭箱もなかった。わたしはバッグに入っていた手帳に殴り書きし、そのページを破いて四つ折りにした。かつて賽銭箱があった場所に四つ折りの紙をそっと置き、財布から適当に引き抜いたお札を一枚添えた。わたしは目を瞑り手を合わせた。

(あの人が、苦しんだ末に死にますように)

 風の気配を感じて目を開けると紙もお札もどこかへ飛んでいってしまっていた。そこには最早何もなかった。

 あれから数日。当然のことながら、妖精さんは現れなかった。幼き頃、わたしの気持ちを汲んでくれた唯一の存在。大人になった今となっては、あれは長い夢だったんじゃないかと記憶の方を疑いたくなるほどだけれど、子どもの前にしか現れないのならそれはそれで素敵だなとも思った。

 もうわたしは大人なのだ。自分のことは自分でやらねばならない。

 探偵さんが電話を鳴らしたのは、まさにそういうタイミングだったのだ。

『ご主人は今日、帰らないかもしれません』

 探偵さんはなんだか申し訳なさそうだった。

「そう」

『以前お伝えしていた弁護士の件、都合つきました。後ほど資料お送りしますね。その、お悔しいとは思いますが、』

「悔しい?」

『あ、いえ』

 探偵さんにとってはある種、失言だったのかもしれない。でも、おかげでわたしは思い出した。

 石をぶつけられた人間が、なぜ泣くのかを。

 彼らは痛くて泣くのではない。
 
 悔しくて泣くのだ。

 そうだ。わたしは悔しかった。あの時も、今も。
 
 携帯電話とは逆の手に握っていたものがあった。目を落とすと、刀身に雫が零れた。ああ、せっかく研いだのに、と思った次の瞬間、あっけなく堰が切れた。涙の溢るるに任せ、わたしはわんわん泣いた。あのポルノを目にしてから、初めて。

 やがて嗚咽が治まった頃にはその切っ先から妖しい光は失われていた。

「ねえ探偵さん」

 とっくに切れたと思っていた電話はまだ繋がっていた。

『はい』

「慰謝料って、いくらくらいもらえるのかしら」


〈了〉


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