第1話

文字数 10,042文字

 私はどうして市役所にいるのだろう。見覚えのない書類を手にして市役所の廊下に立っているが、頭の中がぼんやりしていて記憶が曖昧だ。私が持っているこの書類は何だろう。どうして市役所に来たのだろう。
 どうして。どうして?
 頭の中は疑問で埋め尽くされていたが、私の足は勝手に動いて正面の窓口に向かっていた。手にしている書類を提出しなければならない、という意識だけがあった。しかし、役所の窓口はとても混雑している。すごい行列だ。その行列を見ていると、去年、茅野晴樹(かやのはるき)と一緒に行ったテーマパークを思い出した。映画の世界観を再現したテーマパークだ。どのアトラクションも最後尾は2時間待ち。テーマパークというものを初めて経験した私はその異様な光景に仰天し、かなり慌てた。テーマパークの機材かシステムにトラブルが起きてアトラクションが動かず、そのせいで混雑しているのではないかと懸念したのだ。その懸念を口に出すと、私の隣で晴樹は盛大に笑った。「実乃梨(みのり)は本当に純粋だな」と。

 市役所の行列に並んだままテーマパークの思い出を振り返っていると、私のすぐ前に並んでいるサラリーマン風の男性が、落ち着きなく周囲を見渡しながら呟いた。
 
「大きな地震がきたと思ったんだけど、夢だったのかもしれないな」

 どうやら独り言のようだが、私の耳にもはっきり聞こえた。その声を聞いた途端、思い出す。……そうだ。確かにSNSのトレンドに地震関連のワードが並んでいたのを見た記憶がある。けれど震源地は私が住む地域からはずいぶん離れていたので気にもしなかった。あの地震情報を見たのはいつだっけ?
 私は横断歩道の前で歩行者用信号が青になるのを待っていたはずだ。青になったから横断歩道を渡った。どこに行こうとしていたんだっけ。うまく思い出せない。でも、何故か思い出すのが怖い。
 市役所。私は市役所に行くはずだったのかな? 違うような気がするんだけど……、 

「婚姻届を取りに行ってほしいんだ」

 再び脳裏に蘇ってきたのは、晴樹の声だ。あれは昨夜。私の誕生日。その言葉を口にした時、晴樹は片手に缶ビールを持って、もう片方の手にはスマホを持っていた。くっきりした二重の目は少し眠そうに垂れている。
 缶ビールを置いた晴樹は、苛立ったように後頭部の髪を掻き毟った。広めの額が際立つアップバングは彼にとても似合っている。

「そろそろ入籍した方がいいだろ。同棲が長くなるのも嫌だし、実乃梨も今日で26歳になるし」

 晴樹は悪戯がバレた時の言い訳を連ねているみたいに付け加えた。それはたぶん、世の中の女性たちが理想とするプロポーズのシチュエーションからは程遠いだろう。だけど、私は嬉しかった。
 もし、晴樹が私の前に片膝をついてリングケースをパカッと開けたり、夜景の見えるレストランを予約して花束と共に指輪を差し出てきたりしていたら、私はその場から逃げ出していただろう。私にとっては理想のプロポーズだった。


「えー、皆様。只今たいへん混み合っておりますので、お手元の書類はこちらに提出をお願いします。提出されましたら椅子に座ってお待ちください。名前をお呼びします」

 市役所職員の声が響き渡った。その声に反応して視線を上げると、スーツを着た男性職員が書類を回収するためのボックスを手にして窓口の脇に立っているのが見えた。行列をなしていた人々は、我先にと書類をボックスに放り込もうとする。それは私も例外ではなかった。理由はわからないが、手に持っている書類を提出しなければ何も始まらない気がしたのだ。

「いったい何がどうなってるんだろう……。大丈夫だからな。すぐ終わるよ」

 私の前に並んでいるサラリーマン風の男性が再び呟いた。ずいぶん独り言が多い人だなと思ったら、そうではなかった。彼の傍らには小学生くらいの女の子が寄り添うように立っていて、不安そうに男性の上着の裾を摘まんでいる。男性は女の子に向かって必死で話しかけ続けているのだった。親子かもしれない。普通なら親子の会話は微笑ましいものだが、何故か私の胸の内に仄暗い感情が広がる。親子は明らかに自分たちが置かれている現状を把握しておらず、そして、それは私も同じなのだ。
 やっと私の順番が来て、書類をボックスに提出する。しかし、何かが解決したわけではない。自分が何故この場所にいるのか、それどころか、どうやってここまで来たのかも思い出せない。記憶が欠落しているというより、見えない力に記憶を押し止められているような感覚だ。
 居ても立ってもいられなくて、窓口で書類を回収している職員に声を掛ける。

「あのー、すみません」

「順番です。まずは書類を提出して。椅子に座ってお待ちください。大規模災害が発生してしまったので混み合っています」

 まだ何も聞いていないのに、職員は私の話を遮って機械的に答えた。今は災害の対応に追われているようだ。ろくな答えが得られそうにない。そもそも、市役所の職員が私の置かれている状況を詳細に説明してくれるのだろうか?
 書類を提出した人々の大半は窓口の前に備え付けてある椅子に腰を下ろしていたが、落ち着きなく歩き回っている人もいた。年齢は様々だ。
 ぼーっと突っ立っているわけにもいかないので、私も空いている椅子に腰を下ろす。思いがけず座り心地が良い椅子だった。深く腰を下ろすと、もう二度立ち上がれないのではないかと錯覚しそうなほど身体がくったりと沈み込んだ。今なら何か思い出せそうな気がして、記憶を辿ってみる。……そうだ、思い出した。今日は仕事が早く終わったんだ。だから、普段なら夜にしか気が付かないスマホのメッセージ通知にも早めに気が付いた。

「おめでとう、実乃梨! 結婚式のスピーチなら任せて!」
 
 スマホの液晶画面に表示されている柏木萌果(かしわぎもえか)からのメッセージは、彼女の性格そのままに明るい。萌果は学生時代からの友人で、親友といってもいい。インドアな私とは正反対のアクティブな性格をしているが、萌果のおかげで私の世界はいつも広がった。私と晴樹が出会ったのも萌果のおかげだ。萌果と一緒に参加したバーベキューパーティーの会場で、私は晴樹と出会ったのだ。バーベキューなんて絶対に行きたくないと言い張る私を、「新しい世界が拓けるから! 」と、萌果は強引に引っ張っていった。
 そんな経緯があるから、晴樹からプロポーズされたことを萌果にも報告した。すると、気が早い祝いのメッセージが返ってきたというわけだ。

「ありがとう、萌果。でも、結婚式はしないかも」

「えー! なんで? 派手にやろうよー」

 職場の休憩室で萌果と数往復メッセージのやり取りをし、ついでにSNSを開く。「地震」とか「震度7」とか不穏なワードが並んでいたが、震源地は遠かったので私の住む地域に直接の影響はないようだった。もともと、この地域は地震等の自然災害が少なくて、大きな地震に遭遇したことは一度もない。田舎なので交通の便は不便だが、私は自分が生まれ育った土地が好きだった。
 だから、地元を出るという選択肢は最初から無くて、今は自宅近くの工場で事務員をしている。本当は正社員として働きたかったのだが、高卒では難しく、まだ契約社員だ。大学には行きたかった。だが、女手ひとつで私を育てていた母にこれ以上世話をかけたくないという気持ちが勝った。早く自分でお金を稼げるようになりたかったのだ。実際、母娘2人で暮らすにはじゅうぶんな給料を貰えた。私が晴樹と同棲するようになってからは、母ともあまり会わなくなった。母と晴樹は反りが合わなかったからだ。

「まあいいや。結婚祝いはするからね。おめでとう! またねー」

 萌果とのメッセージのやり取りが途切れたのを確認し、帰り支度を済ませて職場を出た。
 職場から晴樹と同棲しているアパートまでは徒歩で十数分。運動不足なので、散歩にはちょうど良い距離だと思っている。このままお気に入りの猫カフェまで足を伸ばすのもいいなと考えながら、私は横断歩道を渡った。
 ……記憶はそこで途切れている。
 思い出そうとしても、脳がそれ以上は働かない。不安だけが募る。

「こんにちは。ちょっとだけいいですか? 」

 椅子に深く凭れて考え込んでいると、涼やかな声が聞こえた。まさか私に話しかけているのだろうか。視線を上げると、窓口の行列でサラリーマン風の男性と一緒にいた女の子が目の前に立っていた。

「ぶしつけなお願いですけど、髪を結んでくれませんか? 」

 年齢に相応しくない慇懃無礼な口調の少女は、肩まで伸びた髪を揺らしながら、淡いグリーンのヘアゴムを私の目の前に差し出してきた。見ず知らずの相手に自分の髪を触らせようとするなんて、最近では珍しいほど無防備な少女だ。もっと警戒心を持った方がいい。というか、私自身が思いっきり警戒してしまっている。小さな少女に対して、どのように接したらいいのかわからない。幼い少女の髪を結んであげるなんて、やったことがない。
 困り果てて周囲を見渡すが、少女の父親らしき人物は椅子に座って頭を抱え込んでいた。他に少女の身内らしき人物はいない。
 
「お父さんは疲れてるみたい。それに、いつもお母さんが髪を結んでくれてるんです。……結んでくれませんか」
 
 丁寧に説明する少女の礼儀正しさが、強引さに拍車をかけていた。躊躇いもせずヘアゴムを差し出してくる少女の無防備さに、私は少しだけ苛立つ。大人達から大切に保護され可愛がってもらうことが当然の権利であると本能で知っている。そして、それは事実だ。たとえ見ず知らずの子供であっても、守ってやりたくなるくらい子供は可愛い。そうでなければ世の中は成り立たない。

「松風さん。松風実乃梨さん」

 少女の手からヘアゴムを受け取ろうとした瞬間、市役所の職員に名前を呼ばれた。素早く手を引っ込めて立ち上がる。

「ごめんね。あとでお母さんに結んでもらって」

 そう言い残して立ち去ったあとの、少女の表情は確認することができなかった。
 何故か子供は苦手だ。嫌いではないが、接し方がわからない。私にも幼い少女だった時代があったはずなんだけど、髪くらいは自分で結んでいた気がするし、赤の他人に頼んで結んでもらうなんてことはしなかった。自分の幼少期と見知らぬ少女を比べても無意味なのはわかっているけれど。

「松風実乃梨さんですね。こちらへどうぞ」

 いかにも役所の職員といった厳格な出で立ちの中年女性に案内され、椅子が並んだ待合スペースを横切る。今度はどこに連れて行かれるのだろう。不安と疑問だけが頭の中をぐるぐる回っているけれど、突き詰めて答えを出すのが怖い。それに、この場所は何かがおかしい。市役所の待合スペースは人で溢れているが、窓の外には不自然な草原が何処までも広がっている。人の気配が無い。世界中の人間がこの建物内に押し込められてしまったかのように。
 待合スペースから立ち去る間際、背後で別の職員が声を上げるのが聞こえた。

「突然のことで動揺されている方も多いかと存じますが、死者の皆さんはお静かにお待ちください。気持ちの整理をする時間は後ほどございますので、椅子に座ってお待ちください」

 これは夢だと早く確信したかった。そうでなければ、他に説明がつかない。


+++


 案内されたのは、小さな会議室のような場所だった。部屋の中央に設置されているミーティングテーブルを、6つのパイプ椅子が囲んでいる。「おかけください」と促されたので、手前の椅子に座る。折り畳み式のパイプ椅子は冷たくて、まるで就職面接のような圧迫感に襲われた。

「松風さんは、現在のご自分の状況は理解しておられますか? 」

 向かい合った椅子に座りながら、職員は尋ねた。私に話しかけているけれど、職員の視線は手元の書類に向いている。いよいよ就職面接みたいだ。緊張感に呑み込まれそうになりながら、「いいえ」とだけ答える。

「松風実乃梨さん。享年26歳。職場からの帰宅途中、脇見運転の車に轢かれて死亡。そして、ここは死後の世界、いわゆる冥界と呼ばれる場所です。ご理解いただけましたか? 」

 まるでニュース原稿を読み上げるアナウンサーだ。まったく感情がこもっていない。まさか滂沱の涙を流しながら告げてくれとは言わないが、もう少し感情を込めてくれてもいいのではないか。「死亡した」という重い事実を告げているのだから。おかげでちっとも実感がわかない。「ご理解いただけましたか」と問われても、この状況をすんなり理解できる人なんているのだろうか。
 私がいつまでも答えないでいると、職員はその無言を「ご理解」だと勝手に受け取ってしまったらしい。鷹揚に頷いて「では、続けます」と言った。

「松風さんへの今後の対応ですが、例外的措置が認められます。本来なら、死者の方々はこの冥界で選別され、前世で目に余る悪行を働いた者は、一旦は地獄送りになり、その後、存在自体が無になります。前世でつつがなく人生を過ごした者は、別の存在に生まれ変わります。ですが、松風さんの場合は例外的措置の対象者になりますので、前世とは異なる世界に転生し、松風さんの人格そのままで人生をやり直すことが可能です」

 自分が置かれている状況はかろうじて理解した。しかし、まだ受け入れてはいない。にも関わらず、職員は次々と新しい説明を繰り出してくる。気持ちの整理がつかないまま、情報だけが増えていく。冥界の選別。地獄。生まれ変わり。私の場合は例外的措置。人格はそのままで前世とは異なる世界に転生して人生をやり直す……。

「それって、異世界転生ってことですか? 」

 例外的措置、という遠回しで小難しい説明ではなく、今の私の状況をたった一言で言い表せる便利な単語だった。私自身は漫画やアニメにあまり馴染みが無かったが、そんな私でも知っているくらい、この単語は世の中に浸透していた。

「異世界転生……。言葉としては間違っていませんが、エルフもドワーフもいませんし、魔法で無敵にもなれませんよ。この場合の異世界は、あなたが暮らしていた世界とは別の世界という意味合いです」

 職員は今にも溜め息を吐きそうな、うんざりした表情で説明した。もしかしたら、何度も似たような説明を繰り返しているのかもしれない。「例外的措置」の説明をする度に「異世界転生ですね!? 」と、きらきらと瞳を輝かせて期待に満ちた声を上げる人もいるのだろう。その人たちと同じ扱いをされたのだと思うと気恥ずかしかった。

「ちなみに、エルフやドワーフがいる世界も一応あります。ですが、松風さんの場合は、前世とできるだけ同じような環境の方が適していると思います」

 職員が真面目な表情でエルフとかドワーフとか口にするものだから、話の内容を理解するのに少し時間がかかってしまった。理解すると同時、遠回しに適応能力が無いと言われているような気がして落ち込んだ。人間ではない生物が蔓延っている世界に適応できるわけないじゃないか。
 そんなことより、異世界転生なんて、ますます現実感がない。夢なら早く終わってほしい。死んだなんて信じられない。痛くも苦しくもなかった。やっぱりこれは夢なのだろう。

「ともかく、この例外的措置の条件は、3つです。死因が不慮の事故であること。前世で目立った悪事を働いていないこと。そして、死亡時の年齢に見合った幸福を使い終えていないこと」

「え? 幸福? 」

「はい。そうです。人生において幸福の総量は決まっています。松風さんは26歳で死亡されましたが、それまでに使用した幸福が少なすぎるんです」

「……ちょっと待って。それって、私が不幸な人生を送ってたってことですか? 」

 聞き捨てならない。誰がどう判断したのかわからないが、私は自分を不幸だとは思わない。
 確かに私は、大富豪と結婚して豪邸に住み、毎日のようにアフタヌーンティーやエステに通って週末は家族でバカンスとか、そんな人生は送っていなかった。だけど、そんな生活を送れるのは一部の人間だけだ。
 私の父親はアル中のろくでなしだったから、私が小学生の時に、母は逃げ出すようにして父と離婚した。当然、裕福でもなかったし、童話のシンデレラみたいに隠れた美女ってわけでもない。平凡な見た目だ。だけど、誰しもそんなものではないか。笑顔の裏で何かしらの事情を抱えて毎日を生きている。それを不幸と呼ぶのなら、世界中の人間は不幸だ。ほとんどの人間が「例外的措置」の対象になってしまう。

「……不幸という言い方は適切ではないかもしれませんが、平均的な水準には達していないとみなされますね。人生を取り戻してもらうための救済措置とも言えます」

 淡々と回りくどい言葉を華麗に駆使する様は、まさにお役所の職員って感じだ。否定もしていないけど肯定もしていない。だけど、限りなく肯定。

「こちらの書類に署名をお願いします。手続きを進めますので」

 職員はテーブル上に書類を差し出してきた。小さい文字がびっしり並んでいるが、読む気にもなれない。この書類にサインをすれば、問答無用で異世界に飛ばされてしまうのだろうか。

「嫌です。署名なんてしません」

「どうしてですか? やり直せますよ。それとも、ファンタジーな世界でエルフに転生する方がいいですか? ご希望なら、考慮はします。相応の手続きが必要なのでお時間をいただきますが」

「違います。私は自分の人生に満足してました。この人格のまま異世界に転生するくらいなら、元の世界に戻りたい。友人や恋人に会いたいんです。異世界なんてわけわかんない場所に行けるんなら、元の世界にも行けるでしょ? 」

 この冥界という場所で、悪人や善人の選別をしているだけならまだ納得できる。でも、人間が幸せだったかどうかを勝手に決めているなんて、どうしても納得できない。幸せの形なんて人それぞれだ。私は結婚が決まって幸せの絶頂だった。それなのに、前世で不幸だったから例外的措置が適用されますとか言われても。まさか、プロポーズされた直後に死んでしまったから、まだその幸せが書類に反映されていないとか? 有り得る。目の前にいる職員もそうだが、さっきの窓口の混雑ぶりにしても、いかにもお役所仕事って感じだ。

「私はめちゃくちゃ幸せでした。このまま彼と別れたくない。せめて、さよならを言いたい。何とかなりませんか」

 話しているうちに、晴樹の笑顔が脳裏に蘇ってきた。曖昧だった記憶が次第に鮮明になってくる。今朝も、晴樹は「いってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれた。私も「ただいま」と、笑顔で帰るはずだったのに。本当にもう無理なのだろうか。

「生き返ることは不可能です。松風さんの肉体は既に火葬済みですから。……ですが、条件つきで現世に戻ることはできます」

 答えた職員の表情には諦めと疲れが滲んでいる。休日に上司から電話がかかってきた時、私もこんな表情をしていたなと思い出して申し訳なくなった。けれど、あとには引けない。

「どんな条件があっても構いません。戻りたいです。お願いします」

 深々と頭を下げる。沈黙が落ちてきた。今までクレームや無茶な要望を誰かに押しつけたことは一度もないと思う。頭を下げながらも、私は緊張していた。よりによって、この得体の知れない場所で初めてクレームめいた要望を突きつけるなんて。とんでもない事態が起きたらどうしよう。

「……先程の椅子に座ってお待ちください。準備ができましたら名前をお呼びします」

 職員が冷静な口調で答えたので、安堵して顔を上げる。「ありがとうございます」と礼を述べたが、職員は既に私の姿が見えなくなってしまったみたいに手元で書類を整理していた。もう話は終わったらしい。
 立ち上がって部屋を出ていく間際、ふと、気になって職員に問い掛ける。

「あの……他の人たちも転生するんですか。窓口に来てた……」

 大規模災害が起きたせいで混み合っていると窓口の職員は言っていた。たぶん、窓口に並んでいたのは、地震の被害に遭った人々だろう。私の前に並んでいた父娘も、きっとそうだ。
 職員は私の言わんとすることを理解したらしく、視線だけを上げて機械的に答える。

「いいえ。この冥界では、自然災害は不慮の事故に含まれませんから。よほどの悪人でない限り、存在はリセットされて生まれ変わります」

 その答えを聞いた瞬間、ヘアゴムを差し出してきた少女の姿が私の脳裏を過ぎった。まだ自分で髪も結べない幼い少女。そして、椅子に座って頭を抱えていた父親。彼らにも人生を取り戻す権利があるのではないか。私だけが例外的に人生を取り戻せるなんて理不尽だと思った。
 部屋を出て窓口の前に戻る。さっきまであんなに混み合っていたのに、窓口の前はずいぶん閑散としていた。先程の少女は、まだ椅子に座っている。落ち着きなくヘアゴムを手の中で弄んでいる少女の傍に、父親の姿は見当たらなかった。肩まで伸びている少女の艷やかな髪は、自分で結ぼうと努力したのか、毛先があちこち乱れている。そんな少女の姿を目の当たりにした瞬間、「あとでお母さんに結んでもらって」などという無責任極まりない言葉を吐いて立ち去った先刻の自分を呪った。少女の母親は、この場所に来ていないのだ。なんという残酷な言葉を放ってしまったのだろう。
 少女の傍に歩み寄る。しかし、どう声を掛ければいいのかわからなくて、無言のまま少女の隣に腰を下ろした。考えてみれば、私の人生において、幼い少女と親しく接する機会はほとんど無かった。

「……髪、やっぱり結ぼうか。下手でもいいなら」

 遠慮がちに申し出てみたが、少女は視線だけを上げて首を横に振った。そして、私にというよりは、自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと声を発する。

「お父さん、名前を呼ばれたからいなくなったんです。……お母さんがもうすぐ帰って来るから、おうちで待たないといけないのに」

 「いなくなった」という言葉が私の胸を唐突に抉った。独りでこの場に取り残された少女は、自分の境遇をどこまで理解しているのだろう。誰かに説明されたのだろうか。少女の横顔に悲痛さは漂っていないが、ひたすら戸惑いが浮かんでいる。
 この父娘がどんな形で死を迎えたのかはわからない。だが、父親が地震について語っていたから、被災したことは確かだ。母親は未だに夫と娘を探し回っているかもしれないし、もしかしたら、母親自身も重篤な怪我を負っているかもしれない。しかし、彼らはもう家族の行く末を知ることができない。知る術も無いまま、人格も肉体も心も、すべてリセットされて別の存在に生まれ変わってしまう。ここで終わり。どんな慰めの言葉も共感も無意味だった。

「――さん。――さん」

 しばらくして、窓口の職員が名前を呼んだ。「はい」と快活な返事をして少女が立ち上がる。きっと、授業中に教師に名前を呼ばれた時もそうしていたのだろう。容易に想像できた。

「ありがとうございました」

 少女は、何故か私に礼を言ってから立ち去った。私は驚くばかりで何ひとつ返す言葉を思いつかず、ただただ少女の背中を見送った。もう二度と戻ってこない背中。
 ……私は贅沢なのかもしれない。あんなに小さな少女までもが自分なりに人生と決別しているのに、私は「特別措置」すら拒み、現世に戻りたいなんて無茶な要求をした。そんな要求はさっさと撤回し、素直に異世界に行けばいい。松風実乃梨という人格を保ったまま全てをやり直せる。何も考えない方が楽に決まっている。現世の人間にさよならを言いたいなんて、ただの自己満足だ。だけど、どうしても単純に考えることができない。私は幸せに生きてきた。他の誰かに不幸だと決めつけられるのは我慢ならない。せめて、自分なりに納得したい。肉体も未来も記憶の一部さえも消えてしまっているのに、どうして感情は消滅してくれないのだろう。
 今更ながら、これは夢ではないのだと思い知る。
 職員が名前を呼ぶ度に、無機質な建物内から人が消えていく。あんなに長かった行列も、混み合っていた窓口にも、ほとんど人がいなくなっていた。いったいどこに行ってしまったのだろう。視線を巡らせる。どこからどう見ても役所にしか見えない建物内には、スーツ姿の職員だけが居残っていた。ガラス窓の向こう側に広がるだだっ広い草原だけが、非現実的だ。
 
「松風実乃梨さん。お待たせしました」

 職員が名前を呼んだ。他の誰でもない私の名前。そういえば、名前の由来を両親に尋ねたことは一度もない。特に知りたいとも思わないまま、その機会は永遠に失われた。気付けば涙が流れていた。
 「はい」と掠れ声で返事をして立ち上がる。この場から去ってしまった人々は、既に他の誰かになってしまったのだろうか。涙を流す暇があった分だけ、私は幸せなのかもしれないと思った。
 
【続】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み