第1話

文字数 1,955文字

 コンビニで買ったおにぎりがしょっぱかった。具の代わりに小さなおじさんが潜りこんでいて、ぼくにかじられた頭を痛そうにさすっていた。
「シャケでなくてすまなかったね」
 ぼくは驚いた。大人に頭をさげられるのもおにぎりの中におじさんがいるのも、小学生にとっては未知の体験だった。
「人生というのは選択の連続だ。しかし自らが望んだゴールに誰もがたどりつけるわけじゃない。生まれ故郷の川を目指して泳いでいたシャケが、漁師に釣られておにぎりの具にされてしまうみたいに」
「じゃあおじさんは、どこを目指していたの?」
「ハンバーガーの中かもしれないし、中華まんの中かもしれない。正しい道を選択したはずなのに、別の道があったのではと不安になることだってあるから、あるいは最初からおにぎりの中を目指していたけど、今になって違うと感じているだけなのかもしれない」
 そう言ったあとで、おじさんはおにぎりの中からぴょんと飛びだした。さっきまでいたコンビニにまた戻って、今度はツナマヨの代わりに潜りこむのだという。
「大人になればわかるさ。私の気持ちが」
 そんなわけないだろ、とぼくは思った。
 だけど実際はおじさんの言うとおりだった。

 正しい道を選んだはずだ。地道に勉強していい大学に合格して、厳しい競争を勝ち抜いて誰もが知っている有名企業に就職した。
 なのにぼくは今、違うと感じている。おにぎりと言えばシャケ、おかか、ツナマヨ。それが間違いなしと言われていたからなんとなく選んでいたけど、別の可能性があったのではないかと不安になってくる。
 気がついたときには、都内のおにぎり専門店を巡っていた。明太チーズ、じゃこ七味、豚カレーツナマヨなんて際物まである。ぼくはまたたく間に無限の可能性に魅了されていった。
 おにぎりとは白飯と具材が織りなす小宇宙だ。
 日毎に違う具材を試してみると、漠然と抱えていた不安さえも霧散していく。ぼくが求めていたのは別のゴールじゃなくて、選択そのもの。普段と違う道を散歩することで気づくような、新たな発見だったのだ。
 あのときのおじさんも同じ気持ちだったのか。
 本当は違うかもしれないし、答えなんて誰にもわからないかもしれない。
 ともあれ再会は、しかるべきタイミングでおとずれた。
 ベトナムに出張して、現地の日本料理店に足を運んだときのことだ。からからに乾いた白飯のような目をした女の子が、敵兵を絞め殺すような手つきでおにぎりを量産していた。
 彼女が作るおにぎりに愛はなかった。具らしきものは入っておらず、かといって米本来の優しい奥深さを味わえることもなく、炭水化物と塩化ナトリウムの塊でしかなかった。
 ぼくは当然、文句を言った。
 しかし女の子はからからに乾いた白米の目で、冷淡にこう返した――本場の味なんて知らない。お金が必要だから作っているだけ。
 人生とは選択の連続だけど、彼女には具材を選ぶ自由さえない。
 教えてあげたい。無限の可能性を。
 そう思ったとき、目の前に新たな道が開けてきた。

 ぼくは会社をやめ、件の日本料理店で働くことにした。
 白飯と具材が織りなす小宇宙。日毎違う具材を試すことで気づく、自ら選択することの大切さ。ただの塩おにぎりでさえ、心を込めて握れば『愛』という具材が内包される。
 からからに乾いていた女の子の目は、炊きたてのごとくほかほかになった。彼女の父親は日本人で、この料理店の共同経営者だったけど、自分が幼いときに事故で亡くなってしまった。だから昔から貧しくて、食べられるものがあればなんでもよかったと。
 暖かいベッドの中でおにぎりのように結びつきながら、彼女からそんな話を聞いた。予感らしきものがあって、ぼくはこう言った。お父さんの写真を見せてよ。
 おじさんと再会したのは、そのときだ。
 志半ばで道が途絶え、おにぎりの具材になることで未練を晴らそうとしている。まさしく漁師に釣られたシャケだった。
 ぼくはその境遇に涙し、いっそう心をこめておにぎりを握るようになった。
 大丈夫ですよ。あなたが選んだ道は正しかった。おじさんの墓前で、そう祈りながら。
 炊きたてのご飯のような目をした女の子はぼくのお嫁さんになり、やがて豚カレーツナマヨにも負けない具材を宿した。こうして生まれた愛の結晶は乳離れするやいなやおにぎりを食べてすくすくと育ち、小学校に通うころには昔のぼくそっくりになった。
 いや、食いしん坊ぶりはぼく以上かもしれない。罰当たりなことにお義父さんの墓前にお供えしていた塩おにぎりまで、ぺろりと平らげてしまうのだから。

「でも、食べていいって言われたよ」
「誰に?」
「おにぎりの中にいた小さなおじさん」
 その言葉を聞いたとき、ぼくは笑った。
 故郷の川に戻ってきてくれたのですね、お義父さん。
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