第1話

文字数 10,127文字

 四月になり、外は暖かくなってきた。三月まではあれほど寒かったのに、季節とは移り変わっていくものだと思う。着ているスウェットを脱ぎ、ジーンズを履く。シャツを羽織って、部屋から出ると、姉がキッチンで料理をしていた。
「おはよう」と姉は言った。
「おはよう」と僕も返事をして、洗面台へ行き、顔を洗う。
 両親が亡くなってから二年が経とうとしていた。
 一昨年の冬に二人で自家用車に乗っていたところに、信号を無視したトラックが衝突して、即死だったらしい。
 僕はその時感じたショックを今でも引きずっていた。けれど元々、感情には淡泊な方で、その点は姉と共通している。
 残された僕のために姉は東京で働いていたが、地元に帰ってきた。今は2LDKの部屋に二人で住んでいる。姉は地元の建設会社で事務をしていた。
「今日は晩御飯作っておいて」と姉は僕がリビングへやってくると言った。
「カレーでいい?」
「なんでもいいわよ」
 姉はそう言うと部屋に行った。リビングのテーブルの上に、みそ汁と焼き鮭が置いてある。僕はキッチンでごはんを炊飯器からよそい、テーブルで朝食を食べていた。
「行ってくる。今日は遅くなると思う」
「行ってらっしゃい」と僕は言った。
 幸い姉が社会人で、親の保険金や貯蓄もあったので、こうして二人で生活することができた。僕は姉が東京に戻れるように、社会保険労務士の勉強をしていた。大学に行けないと考えると、資格を取って就職するのが一番いいと思った。学校の成績は上の方で、地元の国立大学に進学する可能性もあったが、姉のことを考えると、それは選択肢から外した。
 僕の通っている高校は、この辺りでは一番偏差値の高い学校だった。だから来ている生徒もそれなりに落ち着いている人が多く、授業中も私語はほとんどなかった。
 僕は朝食を食べ終えると、シンクで二人分の食器を洗い、部屋に戻ると、学校に行く時間まで資格の勉強をした。
 勉強をしていると、国家には様々な法律があることを知った。周りで数学や英語を勉強している人たちと比べると、僕はみんなよりも先に進んでいるような気もした。でも同時に大学に行けないというのが、今は構わないけれど、後々後悔するのではないかと思った。

「大学なんて特に何もないわよ」
 姉はある日の夜、ビールを飲みながらそう言った。
「何もないって?」
 僕は風呂上りにコーラを飲んでいた。
「別に部活だってサークルだって大したことないし、講義を聞いていたって、特に役に立つこともないからね」
 姉はビールを飲み干すと、テーブルの上にあった煙草のケースから煙草を取り出し、火を付けた。
 両親が亡くなるまでは、煙草なんて吸っていたところは見たことなかったが、もしかしたら姉の中の何かが両親の死によって変わったのではないかと思った。
 姉が煙草を吸っている間、僕はテレビを見ていた。中東で起きている戦争のニュースだった。
 今の僕の方がきっと恵まれているだろう。僕はニュースを見るたびに、世界の深刻さについて考えた。地球温暖化、貧困、戦争、環境汚染など、数えればきりがない。

 朝、部屋には春の日差しが差し込んでくる。窓を開けると、涼しい風が吹き込んできた。そろそろ高校へ行く時間だったので、僕はバッグを持って部屋を出た。マンションの鍵をかけて、階段を降りていく。草の匂いがする。空には雲一つない水色が広がっていた。僕は駅までの道を歩き始めた。時折誰かとすれ違う。僕は時折吹く風に心地よさを感じていた。

 高校に着くと、下駄箱で靴を履き替えて、階段を上る。公立の昔からある高校だったので、建物は大分古く感じた。でもそれが、趣があっていいような気もする。
「よう」
 後ろから声がしたので、振り向くと、田中修がいた。
「野球部、勝ったんだろ?」
「もう知ってたんだ。誰から聞いた?」
「春川から」
「そっか。お前あいつと仲いいもんな」
 修は野球部に所属している僕のクラスメイトだった。春川も野球部だが、僕と春川は一年生の時に同じクラスだった。
 この間から始まった新しいクラスで僕の高校二年が始まろうとしている。
 教室に入り席に着くと、皆がグループになって話をしていた。僕は席に座り、修が僕の前の席から振り返ってこちらを見ていた。
「文芸部って文化祭で何をやるの?」と修が聞いてきた。
「一応冊子を作って出すだけかな」
 僕は両親が亡くなった後、この高校に進学した。特に入りたい部活もなかったので、一番楽そうな部活を選んだ。それが今所属している文芸部だった。
 部員は、三年生が二人、二年生が僕を含めて二人、一年生が今年何人入ってくるかといったところだった。
 チャイムが鳴ると、修は席を立ち、自分の席に戻った。三十代半ばくらいの英語の女性教師の松井先生が入ってくると、教室は静かになった。
 朝のホームルームが始まり、今日の欠席者を先生が言った。新入生の部活動勧誘についての注意事項を話した後、ホームルームは終わった。僕はぼんやりと窓の外の風景を眺めていた。

 その日の授業が終わると、僕は廊下を歩いていた。文芸部は図書室の横の資料室を部室に使っている。資料室の前には一人の女子学生が立っていた。僕は鍵をポケットから取り出して、「新入生?」と声を掛けた。
「一年の佐々木加奈です。よろしくお願いします」
 丁寧に彼女は言った。鍵を開けて中に入る。壁には本棚があり、たくさんの本が収納されていた。加奈はバッグを床に置き、椅子に座った。
「紅茶でも飲む?」と僕は聞いた。
「はい」と彼女は言った。
 ポットでお湯を沸かし、紙のカップに注ぎ、ティーバッグを入れた。窓を開けると涼しい風が吹き込んでくる。
「どうして文芸部に興味を持ったの?」
「私、将来は小説家になりたいんです」
 彼女はそう言うと一口紅茶を飲んだ。正直文芸部はそれほど熱心に活動している部活ではない。でも特にやることもないので、小説を読んで、発表したり、小説を書いて、短編集を作ったりしていた。確かに小説家になりたいなら、いい部活だと思う。
 加奈はバッグからノートを取り出し、僕に手渡した。一ページ目を開くと、そこには小説が書かれていた。僕は椅子に座って彼女の小説を読んだ。確かに小説家になりたいだけあって、しっかりした文体で小説が書かれている。
「上手いね」と僕は言った。
 小説を読み終えると、顧問の斎藤先生がやってきた。五十代くらいの国語を教えている男性教師だった。
 斎藤先生は加奈の向かいに座ると、話を始めた。加奈は小説について語り始めて、中々知識があるなと僕は感じた。
「賞には応募したことあるの?」と先生は聞いた。
「何度か一次選考に通ったことがあります」
「それはすごい」と斎藤先生も関心したようだった。
 午後の資料室の中で、一通りの説明を終えると、同学年の部員の立花玲奈が部屋に入ってきた。
「新入生?」と彼女は僕に聞いた。
「小説家志望みたい」
「へえー」
 僕らはいつも通りの活動を行うことになった。今、一緒に読んでいる本について話をして、内容を確認し合った。僕は社労士の勉強もあり、あまり読んでいなかったが、読んだところまでの内容について話をした。
 加奈はノートを出して、その様子をメモしていた。外の日が暮れる頃、僕らは解散した。玲奈以外の他の部員は来なかった。三年生の二人は受験もあり、予備校があると聞いていた。もし加奈が入れば部員は五人になる。なんとかこの部活動は存続していくことができるだろう。

 加奈とは帰り道が途中まで一緒だった。バスに乗る生徒もいたが、僕らは電車で通学していた。玲奈とはバス停の前で別れた。僕らは駅までの道を歩いていた。街灯が道を照らし、空には月が浮かんでいる。加奈の隣を歩きながら、なんとなく居心地のよさを感じていた。
「どうして小説を書こうと思ったの?」と僕は何気なく聞いた。
 加奈は少しの間、沈黙していたが、「話すと長くなりますよ」と言った。
 僕らの歩いている道の横には川が流れている。水面は流れによってわずかに揺らめいていた。
「教えてよ」と僕は何も考えずに言った。
 加奈は川の方へ歩いて行った。僕も付いて行った。河原に彼女は腰を下ろすと石を掴んで川に向かって投げた。ポチャンと音がした。
「私、小学生の頃にいじめに遭っていたんです。こんな風に川があったんですが、後ろから押されて、顔を沈められたり、弁当の中に砂を入れられたりしました。お母さんが早く起きて作ってくれた弁当を仕方がないから、トイレに流したんです。数人の男子が加害者でした。私に向かって石を投げたりもしていました」
「それは酷い」と僕は言った。
「でも長くは続きませんでした。小学校の高学年の時だったんですが、加害者の中でも首謀者だった男子が先生にばれて、酷く怒鳴られたんです。彼にとってはショックだったみたいで、不登校になりました。すると私をいじめていた人たちが何もしなくなっていきました。中学校に進学しても一番の加害者の男子は不登校になっていました」
「でもそれはよかったんじゃないの?」
「私としては気分が晴れましたよ。でも誰の中にもそう言った攻撃性はあるような気がするんですよね。私は被害者でしたが、不登校になった男子に少しだけ同情しているんです。多分彼は高校にも進学していないと思います。数日学校に来たこともあったんですが、一人でじっと机に座って、顔はやつれていました。他の男子生徒にからかわれて、また学校に来なくなったんです」
「その時の体験を書きたいっていうこと?」
「私の小説のテーマはいじめと絶望です。人間の中にある残虐性と、人生が絶たれてしまう絶望を描こうと思っています」
「そっか」と僕は言って、川に向かって石を投げた。加奈と話をしているとすぐに時間は経っていく。僕はその時、淡い感情に気づいていた。もしかしたらこれは恋に変わるのではないかというような、小さい火花のような気持ちだった。
 僕らは駅まで歩いていき、そこで別れた。

 次の日、部室の中で一人本を読んでいると、もう一人の男子部員の山口さんが部屋に入ってきた。シャツのボタンを外し、黒いティーシャツが見えている。山口さんはポットで紅茶を淹れると僕の向かいに座った。
 山口さんは学年一位の成績で、東大を目指していると言っていた。この高校からは毎年数人の東大合格者が出るので、多分山口さんは東大に行くことになるだろう。
 僕は数学の問題を解いていた。文芸部は特にすることもないので、こうして勉強することも可能だった。
「昨日、新入生来たんだって?」
 山口さんはポケットからガムを取り出し、口にくわえた。
「佐々木加奈さんっていう小説家志望の人が来ました」
「へえー。面白そうだな」
 山口さんはガムを噛みながら、テーブルに肘を付き、部屋の中を見ていた。
「昨日帰りに話をしたんです。テーマはいじめと絶望みたいですよ。人間の中にある残虐性を描きたいとか」
 僕がそう言うと山口さんは頷きながら、何かを考えているようだった。
「人間って残酷だと思うか?」と山口さんは僕に聞いた。
「残酷になる時もあるんじゃないですかね。今も中東では戦争が起きているし」
 僕がそう言うと山口さんは紙コップに入った紅茶をすすった。
「人間は残酷だよ。歴史がそれを証明しているじゃないか。カンボジアのポルポト、ドイツのヒトラー、ソ連のスターリン。国家のトップに立つような人間が行ってきたことを考えればそれはわかる。そして一見何の危害も加えないような市民が、彼らに加担しているんだよ。今はこうやって平和な日本に生きているけどね。八十年前は戦争をしていたんだ」
「確かにそうですね」
「だから俺は時々考えるんだよ。どうして世界はこれほど厳しく残酷なのかってね。考えても答えは出ない。だから俺は彼らに共感しようと思っているんだ」
「共感?」
「そう。頭では理解できないから、彼らの身になって想像してみるんだ」
 山口さんはそう言うと鞄から一冊の文庫本を取り出した。
「それは?」と僕は聞いた。
「ドストエフスキーの罪と罰だよ。もう何度も読んできたから、内容は覚えているけどね。なぜかたまに読みたくなるんだ」
「山口さんは作家にはならないんですか?」
「書いてみたことはあるよ。でもそこまでの才能はないみたいだ。俺は東大の法学部に入って、官僚か弁護士になろうと思っている。俺の実力だと頑張ってもそれ以上にはなれないだろうな」
 彼は顔も整っていたし、女子学生からも人気があると聞いていた。僕には何となくその理由がわかった。彼は僕らよりも一回り大人びて見えるのだ。
「山口さんは、今は彼女いないんですか?」
「知りたいか?」と息を潜めて、彼は言った。
「はい」と僕は頷いた。
「立花玲奈だよ」
 彼はそう言った後に、にやりとした。僕はその瞬間少しショックを受けた。でもクールな山口さんとクールな玲奈ならお似合いかもしれないなと思った。
「山口さんは玲奈のこと好きだったんですね」
「俺の好きは他の人間の好きとは多分違うと思うけどね。まぁ興味があるくらいかな」
 山口さんはそう言うと文庫本のページを開き、読書を始めた。僕は数学の問題をその日解いていた。日が暮れる頃、僕らは部室を後にした。もしかしたら僕は玲奈のことが好きだったのかもしれないと思った。でも今は新入生の加奈に少しだけ惹かれている。彼女が文芸部に入ってくれるのを祈ろうと思った。

 その日家に帰ると、電気が付いていた。キッチンでは姉が料理をしていた。僕は鞄を部屋に置きリビングへ行った。テレビでは戦争のニュースがやっている。僕は加奈や山口さんが言っていたことを思い出していた。
 姉と向き合って夕食を食べる。なんとなく僕は緊張してしまう。姉は黙々と食事をしていた。
「来週の日曜日何か予定ある?」と姉は僕に聞いた。
「特にないよ」
「じゃあお墓参りに行かない? 今年はまだ行ってなかったから」
 姉はそう言うとビールを飲み干し、僕のことをじっと見ていた。
「来週の日曜日ね。わかった」
 僕はキッチンで二人分の食器を洗った後、部屋に戻った。スマートフォンを開くと玲奈からメッセージが来ていた。僕が彼女に返信をすると、玲奈から着信があった。
「もしもし」
 彼女は電話に出た。
「山口さんと付き合っているの?」と僕は聞いた。
「その話? そういえば話したことなかったっけ? てっきり知っていると思ってた」
「今日、山口さんから聞いて驚いたよ」
「まぁそんなことはどうでもいいんだけどさ。新入生の佐々木加奈ちゃんと今度お花見に行こうと思って」
「お花見?」
「今週の日曜日」
 お墓参りは来週だったので大丈夫そうだった。
「わかった。買い出しとかどうする?」
「とりあえず私と啓介で何とかしよう。部員全員揃うみたいだから」
 僕らはお花見の予定を二人で立てた。電話が切れると僕は窓を開けた。涼しい風が部屋の中に吹き込んでくる。僕はぼんやりと玲奈のことについて考えていた。しばらくの間、部屋で社労士の勉強をした後、風呂に入った。

 日曜日の朝、窓の外では鳥の鳴き声がしている。タオルケットから出て、窓を開けると、少し暖かい風が吹き込んでくる。それは僅かに草の匂いをまとっていた。今日はお花見の日だった。加奈も来るようだったから僕は楽しみにしていた。
 姉は服を買いに行くと言っていたので、部屋には誰もいなかった。僕は洗面台で顔を洗い、歯を磨いた後、キッチンで紅茶を淹れた。シリアルが残っていたので、それを皿に開けて、牛乳を注いだ。テレビを点けると天気予報がやっていた。今日は一日晴れらしい。
 出かける支度をして、マンションの部屋から出る。階段を降りていくと一人の女性とすれ違った。駅前での道を歩いていき、改札を抜けて、ホームで電車を待った。
 電車は十分後にやってきて、玲奈と待ち合わせをしている駅に向かった。駅に着くと、電車を降りて、改札を抜けた。玲奈は白のワンピースを着て、帽子を被っていた。僕は彼女に手を振った。
「じゃあ行こうか」と玲奈は言って、僕らは歩き始めた。
 ここには大きな自然公園があって、たくさんの桜が咲いているらしい。僕らは駅から歩いて五分程のショッピングセンターに入り、必要だと思われるものを買った。レジャーシート、飲み物、お菓子、サンドイッチなどを買って、公園までの道を歩いて行った。
 玲奈が連絡をすると、公園の入り口に三年生の山口さんと藤井さん、加奈が待っていた。
「今日は誘っていただいてありがとうございます」と加奈は言った。
「文芸部の存続が掛かっているからね」と藤井さんが言った。
 藤井さんは大人しい性格の三年生の先輩で文芸部の部長だった。山口さん程ではないが、成績も良く、地元の国立大学を志望しているらしい。
 僕らは話をしながら、芝生の上を歩いた。他にも多くの人がレジャーシートを敷いてお花見をしていた。
 僕らは手ごろな場所を見つけると、そこにレジャーシートを敷き、みんなで座った。山口さんと藤井さんは話をしていて、僕は加奈と玲奈と三人で話をしていた。山口さんと玲奈は付き合っているはずだが、あまり親しそうにはしていない。いったい二人きりになった時、どうしているのだろうと疑問に思った。加奈はジュースを飲みながら、笑っていた。玲奈は加奈と気が合うようで、二人で仲が良さそうにしていた。
「そういえば加奈は入部するの?」と僕は聞いた。
「初めから入部するつもりでしたよ」
「よかったな。啓介」と山口さんが言った。

 僕らは昼になるとサンドイッチを食べた。買ってきたフリスビーで僕と加奈と玲奈は遊んでいた。藤井さんと山口さんは桜の木の下で本を読んでいた。穏やかな世界が続いている。
 フリスビーに飽きると、山口さんが持ってきたボールとバットで野球をした。
「中学までは野球をやっていたんだ」と山口さんは言った。
「どうして高校ではやらなかったんですか?」
「肘を故障してね。それで駄目になった。だから勉強に打ち込むことにしたんだ。それでいつでも勉強できる文芸部に入った」
「今は何の勉強をしているの?」と藤井さんが聞いた。
「数学は一通り終わったから今は問題を作っている」
「解くんじゃなくて?」と玲奈が聞いた。
「受験勉強を極めようと思ってね。もちろん大学レベルの勉強もしているけど」
 山口さんが投げた山なりのボールを加奈は引っ張って、玲奈の頭上を越えた。バットを置いて走っていく加奈はなんだか楽しんでいるようだった。
 夕方になるまで僕らは遊んだ。
「そろそろ帰ろうか」と山口さんは言った。
「今日はありがとうございました。来週からよろしくお願いします」と加奈が言った。
 駅までの道を僕らは歩いていく。夕日が山の向こうへ沈んでいこうとしていた。玲奈は僕の隣を歩き鼻歌を歌っていた。
「まさか山口さんと付き合っているとはな」と僕は言った。
「ショックだった?」
「別に」
 僕がそう言うと玲奈は笑った。僕は何とも言えない気持ちだった。正直に言えば僕は彼女が山口さんと付き合っていると知ってショックだったのだ。でも玲奈は僕の気持ちには気が付いていないかもしれない。
「どうして付き合うことになったの?」
「なんでだろうな。気が付いたら自然と」
「そういうものなの?」
「まぁね」
 駅に着くと、僕らは改札を抜けて、途中で別れた。僕と加奈は家の方向が一緒だったので、同じホームへ行った。三人は向かいのホームへ行き、電車がやってくるのを待った。電車がやってくると、僕と加奈は車内の端の方に座った。
「啓介先輩はどうして文芸部に入ろうと思ったんですか?」
 僕はその時、両親のことを話そうと思った。
「実は両親を事故で亡くしてるんだ。だから僕は大学には行かない。文芸部なら資格の勉強ができると思ってね」
「そうだったんですか。聞いちゃまずかったですか?」
「そんなことないよ。来週は姉とお墓参りに行くんだ」
 僕はそう言って、電車の揺れを感じていた。駅で停車すると加奈はそこで降りて僕らは別れた。僕は席の端に座り、手すりにもたれながら、窓の外をじっと見ていた。

 加奈は次の週になると、正式な部員となった。文芸部の部室の中で、熱心に彼女は小説を書いていた。僕はしばらく参考書を読んだ後、窓の外の風景を見ていた。桜が咲いている。どこかそれが物悲しく思える。両親を事故で亡くしてから、悲しみを感じることが多くなった気がした。
「疲れました」と加奈は言って、僕の立っている窓際まで来た。
「今度は何を書いているの?」
「主人公はリストカットをしている女性です。彼女の悲しみを描こうと思いました」
「いいテーマだと思うよ」
 僕はそう言った後、部室を後にした。もし今死んだら何を思うのだろう。両親はどんな気持ちだったのだろうか。
 夜、部屋で社労士の勉強をしていると、鍵でドアを開ける音がした。
 僕はキッチンへ行き、「ご飯できてるよ」と言った。
 姉は無言で洗面台へ行き、手を洗っていた。二人で向き合って座り、先ほど作ったシチューを食べた。
「今週の日曜だけど、大丈夫?」と姉は聞いた。
「大丈夫だよ。朝早く行く?」
「午後からでいいと思う」
 僕らはその日、夜まで話をした。姉と話をするのは久しぶりだった。彼女は僕のことについて語った。
「いろいろあったけどさ、なんとかなると思うよ」と姉は言った。
 風呂に入った後、部屋に戻り、ベッドに横になった。頭の中で考え事をしているとすぐに眠くなった。

 日曜日になると、姉と昼食を取った後、部屋を出た。太陽が遠くに輝いている。姉は着ているコートのポケットに手を入れながら、町を歩いていた。
 電車に乗って、両親の墓場まで向かった。途中の駅で人が降り、車内の人は入れ替わっていく。
 駅に着くと、僕らは電車を降り、商店街を歩いた。姉はたまたま見つけた花屋で買い物をした。お供え用の花だった。
 花束を持ちながら、僕らは寺のある場所まで歩いて行った。
 両親の墓は寺の墓場の隅の方にあった。姉は花束を供えると、手を合わせた。僕も同じようにした。目を開けると姉は泣いていた。僕はその時、両親のことを思い出していた。
「伝えたいことは山ほどあったんだ。でもそれは全て黙っていることしかできなかった。様々なことを知ることになった。だからこうして手を合わせるしかできない」
 姉はそう言って、両親のことを祈っているようだった。僕はその時、自分の中にある空白について考えていた。いつかはわからないが僕にも死ぬときが来る。その時に何を思うのだろうか。

 帰り道は夕方の太陽が辺りを照らしていた。僕らは駅に向かって歩いていた。途中でハンバーグの店があったのでそこで夕食を食べることにした。店内に入ると、厨房があり、そこで肉を焼いていた。僕らは二人掛けの席に案内された。ハンバーグ定食を注文すると、僕はテーブルの上に置いてある水を飲んだ。
「さっき言ってたけど、伝えたいことがあったの?」と僕は聞いた。
「人間何かしらあるじゃない。言いたくても言えないようなことが」
 僕らはハンバーグの定食が運ばれてくるとそれを食べた。一体姉は何を伝えたかったのだろう。僕は両親の墓の前で考えていたが、答えは見つからなかった。

 夜になって、街灯の光が町を照らしている。駅まで着くと、姉と一緒にスーパーで買い物をした。家までの帰り道を僕は考え事をしながら歩いた。その時、加奈の横顔が頭を過った。最近彼女のことを考えることが多い。もしかしたら僕は彼女のことが好きなのかもしれない。
 家のドアを開けて中に入る。姉はすぐに風呂場へ行った。僕は部屋に戻り、社労士の勉強を始めた。
 加奈からメッセージが届いていた。
「私も山口さんみたいに学年トップになりたいです。来週勉強を教えてください」
「山口さんと話したの?」
「受験についていろいろ教えてもらいました」
 僕らはそんなメッセージのやり取りをした。ふと立ち上がり、窓を開けた。四月の夜に桜の花が咲いているのが見える。その時、昔家族でこんな風に夜桜を見たことを思い出した。断片的な記憶がそこだけ残っていた。僕の目には涙が滲んだ。様々なことがあるだろうけれど、これからも生きていかなければならないのだろう。大人になった時、自分は何を考えているのだろうか。
「明日は数学を教えてください」と加奈からメッセージが来た。
「わかった」と僕は返信をした。
 姉が風呂から出てきたので、僕は風呂に入った。シャワーを浴びながら、この先のことを考えていた。辛いことは多いけれど、生きていくのも悪くないかもしれない。加奈はいじめられていた頃、何を考えていたのだろうか。考えているうちに僕も小説を書きたくなってきた。風呂から出ると、ノートパソコンを開き、小説を書き始めた。文章は無意識のうちに浮かんでくる。僕は自分の全てを書いてみたくなった。そこにどんな意味があるのかはわからないけれど、春の夜に、キーボードをひたすら打ち込んでいった。窓の外の風が部屋に吹き込んできて、涼しさを感じた。
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