第1話

文字数 4,018文字

 「多摩警察です」
 木曜日の朝、一本の電話で生活が一変した。
「息子さんが痴漢の容疑で逮捕されました。今日は、取り調べがあるので泊っていただくことになります。明日、検察に移送されます。そこで検事が拘留するのかどうかを決めます」
電話の声はさらに畳み掛けた。
「七十二時間は面会できません。確固たる証拠があって逮捕してるんです。被害者の方が手をつかんでるんですよ」
 そんなの確固たる証拠って言えるのか? 間違って他の手を掴んだかもしれないし、満員電車が揺れて当ってしまっただけかもしれない。リュックが当っていたかもしれない。勘違いの可能性があるのではないか。頭の中を疑問が駆け巡って、止まらなくなった。女性の言うことだけが通るのが、痴漢事件。男性は一方的に不利だという報道の記憶が思い出されて、怖くなった。
「明日になれば、釈放になるか拘留になるか分かりますから」
電話は一方的に切れた。

 どうしようかと考えた挙句、夜遅くなって パソコンで弁護士事務所を検索、刑事事件専門の事務所にメールを出した。既に二十一時過ぎ。明日連絡があるだろうと思っていたら、意外にも二十一時半に電話がかかってきた。
「ご依頼いただければ今から接見に行きます。経費は総額で四十万くらいだと思います。お母さん、着手金は十万と消費税。それも含めて経費は分割でもいいですよ。振込はいつでもいいんです。依頼すると言ってもらえれば動きます。痴漢事件は発生から二十四時間が勝負なんです」
私は考える余裕もなく答えた。
「お願いします」

 弁護士はすぐに長男に会いにいってくれた。日付が変わった零時過ぎ、接見内容の覚書メールが届いた。そこには、息子が弁護士に話した内容が書かれていた。
『 事件の朝、三十分近く寝坊した。慌てて電車に飛び乗り、新百合ヶ丘駅で、新宿行きの急行に乗り換えた。 作業資料が読めていなくて、そのことで頭がいっぱいだった。向ケ丘遊園の手前でいきなり左手首をつかまれた。つかんだ女の子の手は右手だった。女の子のとなりに、四十代くらいの男性がいて、次の駅で降りるよう助言された。女の子は多分高校生。顔は覚えていない。スカートの中に手を入れられたと言っているが、自分として覚えがない。警察での取り調べは、写真と指紋をとられ、事情聴取をされた。普段の生活や出身地をきかれ、電車の中で何があったのかときかれた。警察からは「罪を認めれば帰宅できる」と説得されたが、認めるとやっていない痴漢で犯罪者になってしまうと思い、調書には否認でサインをした。職場に迷惑をかけるし音信不通になっている友人や仲間に申し訳ない。早く連絡をとれるようになりたい』
 被害者の女子高生は後ろ向きのまま、右手で息子の左手をつかんでいる。息子は右利き。女子高生の右側後方にいたらしい。 女子高生の真後ろには四十代の男性。触っていたのは、この男性の右手ではないのか? 割り込んで、電車を降りるよう助言するのも怪しい。頭の中を疑惑がよぎった。

 次の日の朝、弁護士の指示で、神田の弁護士事務所に向かった。辿りついた事務所は都心の綺麗なオフィス。しばらく待っていると弁護士が来て、名刺を渡してくれた。着手金を支払って、差し出された身元引受人の書類にサインし、これを含むいくつかの書類が、川崎検察庁に送られて裁判官の裁定を待つことになった 。釈放か拘留か。

 私には被害者としての体験がある。息子が保育園入園前の生後六か月の頃、東急田園都市線の鷺沼駅から河田町の大学病院まで、息子を連れて通勤していた。その通勤途中、痴漢に遭った。
相手はスーツ姿のサラリーマン。私は長女を妊娠中。更に両手に息子を抱いていた。満員電車の中、車両の隅に追い詰められ、ただ赤ちゃんに危害を加えられる事のないように、それだけ考えながら、手の感触に耐えた。その後何年間かの間、スーツの男性が傍に立つと恐怖を感じるようになって、通勤時間が地獄のように感じた。そして二十二年後の今、その赤ちゃんが痴漢容疑で逮捕される事態になった。今度は加害容疑者の家族。

 同じ日、十五時半を過ぎた頃弁護士が電話をくれた。
「残念ですが、息子さんの拘留が決定しました」
息子は、川崎検察庁で十日間拘留の決定を受けてしまった。被害者の女子高生は、絶対に間違っていないと言い張っているらしい。
電話を切って程ない十七時頃、息子の持ち物を引き取ろうと、多摩警察の生活安全課に電話をかけた。電話の最後に刑事さんに確認された。
「お母さん、今日この後はずっと自宅にいらっしゃいますか」
三十分後 刑事が三人訪ねてきた。
「息子さんの部屋を見せてください」
家宅捜索。目前に立つ刑事をみて、ドラマだと思ってきたことが今起こっている現実なのだと、理解するのに数分かかった。息子の部屋の中からパソコンとipadAir、アンドロイド端末の三台を押収して捜査官は帰っていった。

 その日の夜、息子の飼っているうさぎは、声にならない声を上げながらケージの端を噛み続けて私を困惑させた。息子のいない部屋はいつもより大きな広い部屋に感じられて、恐怖なのか不安なのかわからない感情が湧いてきた。

 夜が明けたらすぐにでも面会に行きたかったが、面会の申し込みができるのは七十二時間後。土日は担当者が不在で、月曜日にならなければ面会できず、持って行く事が許可されるものも、当日の朝しか確認できない。どうすることもできず、息子の着替えと数枚の1000円札と好きだった新書本を数冊並べてみた。
 事件から五日後、息子に面会できた。
思いのほか元気そうで、「ジャンプ買って来て」 という声は、小さい頃と変わらない。それなのに、息子との間を分厚いガラスが隔てていることに、不安と一緒に大きな違和感を感じた。
着替えと大好きだった「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の単行本を差し入れ、最初の面会を終えた。それから三日間、出勤前に息子を訪ねてからオフィスに通った

 面会が始まって四日目、出勤前に会いに行こうと多摩警察に連絡をすると、息子は検察庁に呼ばれていて、面会できなかった。検察官の取り調べを受けていると思うと、仕事も手につかず、ただオフィスに座っていたとき、携帯が鳴った。画面に目をやると息子の名前。本人からの連絡だった。
「家に帰っていいって言われた」
慌ててメールを確認すると弁護士からの連絡が入っていた。
「既に連絡があったかもしれませんが、本日、釈放の手続きが取られたそうです」


 無事職場復帰を果たした息子は、平穏を取り戻し、家族を揺るがせた痴漢事件はいったん収束。しかし弁護士からのメールには、事件がまだ終わっていない事実が書かれていた。
「担当検察官に確認したところ、現在、捜査続行中であり、最終的な処分結果について答えることはできない。二週間ごとくらいに連絡を貰えれば、その時の状況についてお話しすることは可能との話しでした。最終的な処分確定までは、もう少々時間がかかりそうです。随時、確認してご連絡いたします」

 大人になりきれず、子供たちを犠牲に過ごしてきた。私のところに生まれてなかったら、もっと裕福な家に生まれていたら、こんな事件にも遭わずに済んだんじゃないかと思いが巡る。
もしも起訴になってしまったら、その先の人生にどんな影響を及ぼすのか、親としてどうやって守って行けばいいのか、不安がいろんな形に姿を変えて心を苛んだ。

 事件から二か月近くが経ったころ弁護士から連絡が入った。
「先ほど、確認したところ、本件については、不起訴処分としたとのことです。本件は終了となります。お疲れさまでした」
書面も何もなく。弁護士からの一通のメールだけ。処分は被疑者には代理人に告知。被害者には書面通知というルールだと弁護士が教えてくれた。

 電車で痴漢の容疑をかけられた時、ネットにはいろんな対処法が書いてある。
振り切って逃げる。
反対に名誉棄損で訴えると言う。
自分で警察に電話し言いがかりをつけられていると訴える。
当事者になってみるとどれも有効な方法ではないような気する。

 体験から思う最良の対応は、感情的にならず電車をおりて、駅の事務所におとなしく同行し、
職場には電話をして、痴漢に間違えられてしまったので出勤ができなくなった事実を伝える。
家族に連絡する。家族は無実を信じて、速やかに、刑事事件が得意分野の弁護士を探して依頼する。二十四時間以内に弁護士が本人に接見できなければ、起訴される確率が上がる。
駅事務所に行くと、そのまま警察に留置されるので家族には会えなくなり、伝言も差し入れも七十二時間は受け付けられない。会えて事情が聴けるのは弁護士だけ。弁護士がいればお互いの伝言を伝えあう事ができる。
 取り調べには否認を貫く。警察からは「罪を認めれば帰宅できる」という説得があるが、認めると、やっていない痴漢で犯罪者になってしまい一生前科一犯を背負うことになる。
 痴漢は女性の言い分だけが通りがちだが、現在は科学捜査が進んでいて容疑者の手のひらに、
被害者の衣服の繊維片が付着しているか否かなどの科学的な捜査が行われる。女性側が触ったといっても、容疑者の手から繊維片が検出されない場合は、間違っているかも知れないという疑問が検事に報告される。拘留四日目からは家族と面会できる。家族の信頼と支えが、起訴を免れるための大きな力になる。
 逃走して無実の罪で命を落とすより、逮捕されて不起訴を目指した方がいい。亡くなってしまったら無実を訴えることすらできなくなってしまう。

 小さい頃、ポチャッとしたかわいい男の子だった息子。よく笑った。色取り取りの折紙で鶴を折って一緒に遊んだ思い出。いつの間にか大人になって、手の中から去って行った。温もりは覚えている。犯罪者と呼ばれなくてほんとうに良かった。

 いつかこの事件が、家族の中でいい思い出になると信じていたい。
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