第1話

文字数 4,305文字

 夕焼けで真っ赤に染まった空に山が黒く見えた。
 ぎざぎざと尖った杉の山は、太陽を切り裂いて、内臓をぶちまけたように思えた。それは何度となく繰り返す三年前の記憶のせいだ。
 あの時、暗い闇の中で両親に手を引かれて歩いていた。
 父がそんなことをするのは珍しいが、何かいいことがあったのだろう。
 すぐ脇を流れる水路の水音がちょろちょろと聞こえていた。月は雲に隠れ見えないが、春の陽気は夜まで残って心地よい広がりを感じていた。
 町から離れて、柳の木の傍に通りかかった時、背後に何か音がして首だけで振り返った。
 遠くに提灯の明かりがぼんやりと見えた。闇に霞んでいた。
 突然に両親の手がふっと軽くなった。そのあと急に両親ともに前へつんのめったようで、僕は肩から引かれて倒れそうになった。
 両親の手には力もなくて、すっと闇の奥に離れて行った。僕は右足を前に踏ん張った。その場に留まった。自分の足袋がいやに白く見えた。
 ざさり、と二人が土に倒れる音がした。
 僕が足元から顔を上げると、腹を切り裂かれ臓物をはみ出させた両親がそこに倒れていた。息はあって、こちらを目玉だけで見ていた。
 「ぐあぇあ……」
 父の声にならない声が聞こえた。
 「ぁぁぅ……」
 母のかすれた息が途切れ途切れに聞こえてきた。
 僕は何が起きたのか全く分からなかった。
 ぐゅうるぅう
 目の前の闇から口と舌とが動く音がした。
 目を凝らすと、そこには黒い何かがいた。人間の形で父より一回りも大きかった。
 頭には太い髪が闇の中でぎゅるぎゅると鈍色に巻いていた。その髪束の間から赤い点がこちらを覗いていた。
 それと目が合うと、僕の瞳は大きく見開かれ、その形で世界に固定された。体も何もかもが動かなくなった。
 化け物は倒れた両親の間を通り抜け、こちらに歩を進めて来た。ゆっくりとした足取りで優雅ですらあった。僕はそれが他人事に思えた。
 月明りもない夜のことだが、それでも化け物の肩は筋肉に盛り上がって、体中が引き締まり、神経がぴんぴんと通っているのがわかる。動き一つ一つに意味があるかのようだった。
 僕はただ腹を切り裂かれた両親が、近づいてくる化け物の陰に隠れて見えなくなったということだけが、頭に浮かぶようだった。
 ふっと化け物の背後に何かが煌めいた。
 父が立ち上がり刀を上段に構えたのだ。父はそのまま刀を振り下ろした。
 腹に横一文字の穴が開いて、踏み込みは甘くなった。力は入らなかった。その一撃は化け物の膨れ上がった筋肉の上に弾かれた。
 父は苦悶の表情の中に驚愕の念も滲ませた。
 「ぐうぁぁ」
 今の一振りで体は捩れて傷は広がった。着物の血は闇の中に黒より黒かった。
 弾かれた刀は父の手から零れ落ちた。
 化け物を父の方を向き直った。軽く息を吐いたあと、すっと息を止めた。その瞬間、素早い動きで踏み込むと、どっんと音がした。地面が化け物の足指の形に凹んでいた。
 化け物の頭ががばっと首まで切り開かれた。
 ごりっ、と鈍い音がした。
 父の頭はなくなっていた。
 意思の消えた体が真っすぐ後ろへ倒れた。父の胸から上は裂けるような傷跡だけ残して消え去っていた。
 母は目の前に倒れて来た父を見て何かうめき声をあげた。そして、意識をなくしたようだ。
 そのとき、僕の目の端に煌めくものが見えた。父の脇差だった。
 柄は父の血に濡れていた。喰われる寸前に最後の力で僕に投げてよこしたのだろう。
 熱いものが僕の中に湧き起こって来た。
 これを気持ちなどと簡単に分類して言うことはできない。ただただ爆発させなければいけないということははっきりしていた。
 「はぁああああああ」
 僕は大声を出した。体が少し動くようになった。
 ぎこちなくしゃがんで脇差を手に取った。腰が定まらず、肩から震えて指先も固まっていた。それでも脇差を正眼に構えた。
 「父上、母上、父上、母上……」
 僕は何度も何度も繰り返した。
 息を吐いて、上がった肩を下に降ろした。何もしていないのに息が苦しい。膝が震える。
 化け物がゆっくりとこちらを振り向いた。
 首まで裂けた口は閉じて、また太い髪の毛の束が顔を覆っていた。額に小さく角が見えた。
 角!?
 鬼なのか?
 鬼かと思うと逃げ出したかった。しかし、足の裏が地面に張り付いて動かない。僕は肩が固まって肘だけで刀を何度も振った。鬼を威嚇したつもりだった。
 それを見た鬼は嘲るように舌を出した。長く尖った舌は首の下まで伸びた。ひゅゅう、と音を立てて口の中へと消えた。
 僕は全身ががくがくと震えて来た。関節の固まった体の震えはどんどん大きくなり立っていられなくなってきた。
 鬼は口を大きく横に開いた。笑ったようだった。
 ぅくききくきぅきぃ
 鬼はゆらゆらと体を左右に揺らしながら、まるで陽炎のように近づいてくる。特殊な歩法らしく目が追い付かない。
 鬼は近くまで来ると、右手の指の爪を伸ばし、僕の腹めがけて右から左に横薙ぎにした。
 僕は恐ろしくてただ後ろに尻餅をついた。
 鬼の爪が脇差に当たった。ギィンと音がした。
 僕は鬼の攻撃を防いだ。
 鬼はそれが気に入らなかったらしく、
 ぎぅおおおぅ
 と吠えた。
 僕はその声に顎ががくがくと震えて、体の感覚も何もなくなった。
 「うわぁぁあぁぁあぁ」
 ただただ叫んだ。
 鬼は今度は右手の三本の指すべての爪を伸ばした。そう思うと三本の指が六本の指に分かれたした。
 鬼は右手を振りかぶった。
 ドズ、ドズ、ドズ
 がら空きになった鬼の胸に何かが突き刺さった。それは太い鉄釘のようだった。
 ぐぅぅぅ
 鬼は唸るとさらに足に向けて飛んで来た追撃を避けるために後ろに飛び退いた。
 「また出たか」
 振り返ると闇の中から小柄な老人がぬるりと出て来た。
 束髪にして十徳を着ている。町医者だろうか。
 その後ろから僕と同い年くらいの年恰好の少年が手に鉄釘をもって現れた。少年は小さく飛び跳ねて調子を取っている。
 「二人もやられたか。遅くなってすまないな」
 老人は僕の肩に手を置いた。
 僕は他人に触れられて、体の震えを吸われたように感じた。立ち上がった。
 「恭介、ちょっと相手をしておれ」
 老人は鬼を顔で指して少年に合図した。自分はすうっと滑るように動くと僕の両親の傍へと近づいていった。
 鬼は老人を攻撃しようとして、三本指の爪を刀ほどにも伸ばして切りかかった。老人はそれをすり抜け、倒れている二人の元へとたどり着いた。
 鬼が老人に切りかかり隙が出来たところを、恭介と呼ばれた少年の鉄釘が襲う。釘は鬼の背面、肩甲骨のあたりに二本、ドスドスと突き刺さった。
 何故、刀でも切れない鬼の体に釘が刺さるのか不思議だった。
 鬼は釘が刺さってもさほど痛手ではないようで、少年を無感情に振り返った。筋肉にぎゅうと力を入れると刺さった釘が抜けて飛んだ。そうして一瞬足首を回したかと思うと、陽炎のような歩法で恭介へ近付いていく。さらに速度を色々に変えて、揺らめく幻影は幾重にも広がった。そうして、急にどっんと音がして、鬼は少年の目の前に出現した。
 鬼が少年を挟むように両手を翳すと、十二本の指から爪がぎゅんぎゅんと長く伸びた。
 それを恭介は鬼の懐に飛び込んで躱す。いつの間にか両手に握られていた刀で鬼の股から顔まで切り上げて、そのまま背負い投げのように振り返り、宙を突き刺していた十二本の鬼の爪を切り飛ばした。
 左足で踏み込み、右足が這うように追う。その右足が着地と同時に全身に爆発が起こり切り上げ、それから鬼に背を向けるように振り返る。今度は左足が鬼の股の間に入るほど下がって、腰がすとんと落ちる。落ちると同時に刀は振られる。力を入れた様子もないのにこれ以上ないというほどの速度で刀身は軌跡を描く。
 僕にはそれが雷が下から上、上から下へと二度落ちたかのように見えた。
 ぐおぉおおぅ、がが、がきがぁ
 鬼が呻いた。
 しかし、切られた体に髪が生えて、それが肉となって元へと戻っていく。
 そしてすぐに首から裂け目が生じて少年に噛みつこうとしていた。
 「浅かったか」
 恭介は鬼の腹を蹴って距離を取りながら呟いた。
 「お前もまだまだ甘いな」
 両親の確認を終えた老人が立ち上がって言った。
 目の前の出来事に見とれていた僕は、突然声がしたように思って驚いた。
 鬼も老人の存在を忘れていたようで、はっとそちらにも意識を向けた。恭介はその隙を逃さずに鋭く踏み込んだ。地面すれすれに剣を振った。その一太刀が鬼の右足首を半分まで切った。
 鬼は自分の重みで前にずり落ちて、恭介が切った傷がさらに開いた。黒い血のようなものが出た。
 鬼は自分の髪の毛を一本抜いて息を吹きかけた。すると髪の毛は先の鋭い軟体動物になり、鬼の皮膚に突き刺さった。それは肉の中を移動して、足首に辿り着くと、今度も切られた傷を治してしまった。
 「わしがやるか」
 老人がどこかから出した刀を構えた。辺りの空気が変わった。
 周囲が霧に包まれて、頬をその微細な粒子が打つような気がした。
 鬼も何かを察知したらしい。
 先ほどのようには切りはせず、爪を飛ばして牽制を始めた。
 老人はそれを納刀したままに躱している。
 老人がそろそろ終わりにしようかと、ぐっと何かを練り込んだのがわかった。その場の重力が一気に増したような気がした。
 老人は少し俯いて、きゅっと小さく踏み込んだ。
 その瞬間を待っていたのか、鬼は僕に向かって背中の皮膚の中から爪を飛ばしてきた。
 僕の目には鬼の爪と老人のあっという顔とが同時に妙にゆっくりと見えた。ああ終わるのだなぁ、と僕は思った。
 ギィィン
 老人が僕の目の前にいた。
 鬼が飛ばした爪を弾いて、刀を仕舞う動作だけが余韻となって見えた。
 鬼は柳の木の傍に立っていた。老人が僕を守る隙を突いて移動したのだ。
 ぅくききくきぅきぃ
 鬼は笑った。
 そして闇に掻き消えた。
 「ふぅ。駄目じゃったか」
 老人は淡々としていた。
 「師匠、すみませんでした」
 恭介が謝った。
 老人はそれに目で頷いてから、
 「わらし。お前の両親は助からんようじゃ。すまんかったな」
 苦いような顔で言った。
 僕にとってはこの世界に来て、突然できた両親だった。しかし、大切に育ててくれていた。有り難かった。
 闇に血。何もできない自分の記憶。
 僕はもうあんな思いを絶対にしたくない。
 剣を振って硬くなった手のひらを見た。
 あの時の鬼に出会ったら今の僕は切れるだろうか。
 僕はまた素振りに戻った。
 その剣が僕の目の中で鬼の額をざっくりと割っていた。
 夕陽が最後の赤をどろどろ引きずって沈んだ。

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