第1話

文字数 1,989文字

『クロアチアのペトリニャでマグニチュード6.4の地震が発生しました』
 テレビに映し出されるそのニュースから目が離せない。崩れた壁、押しつぶされ原型を留めていない建物、亀裂が入り、大きくえぐれた道路、悲壮な顔で立ち尽くす人々。息をするのも忘れ、必死で状況を理解する。まさか、噓でしょ。混乱した頭でスマートフォンを開いた。
『クロアチアを経由してから帰る。帰ったら、すぐそっちに行くから』
 昨日届いたあいつからのメールを読み返し、またテレビの画面を注視する。もし巻き込まれていたら……。そんな嫌な不安が湧き上がる。
『大丈夫? 今どこにいるの? 地震あったみたいだけど、無事だよね?』
 慌てて文字を打ち、送信する。既読にならない。壁に貼っていた一枚のハガキを手に取る。世界のどこかで撮った写真をハガキ代わりに、前にあいつが送ってきてくれたものだ。裏にメッセージが添えられている。
『すごく綺麗なところだよ。和葉にも見せたくなったから、せめて写真で。いつか生で和葉も見るといいよ』
 そこは『一緒に見よう』でしょうが! と、当時文句を言った覚えがある。彼は写真家だ。一眼レフのカメラを片手に世界を渡り歩いている。前に、日本の景色でもいいじゃんと言ったことがある。世界的に蔓延したコロナウイルスの影響で、日本に帰れなくなった時のことだ。それでも、あいつは自信満々な声で言った。
「どこかにあるはずなんだ。ずっと探してる俺だけのユートピアが。それを見つけるまでは帰れないよ」
 ユートピア。現実には存在しない、理想的な世界。そんな所が現実の世界にあるわけがない。「馬鹿みたい」私がそう言うと、あいつは決まって「和葉は世界を知らないなぁ」と笑った。
 隣同士の家で、物心ついた時から一緒に過ごしてきた。近所の公園で一緒に遊んだ。しょっちゅう喧嘩して泣かされたし、仕返しして泣かせもした。それがいつからか年を重ねるにつれて、ほどよい距離感で過ごせるようになった。
「どこで何やってんのよ。メールくらい見なさいよ」
 悪態をついても、状況は何も変わらない。今回の撮影に出発すると言って来た時、行かないでと言えば良かった。素直になれば良かった。
 子供の頃は当たり前のように隣にいたのに、意識し始めた途端、あいつは世界を飛び回るようになった。きっと私のことなど、気にも留めていない。あいつは鈍感だから、私の気持ちに気づくはずもないか。流れていた7時台のニュース番組が次の情報番組に切り替わる。時計を見て、慌てて部屋を出た。
勤務中も、仕事が全く手につかない。上の空で入力ミスを繰り返し、注意される。いっそのこと早退してしまおうか。でも、一人の方が逆に不安で耐えられないだろう。まだ仕事と向き合っている方が気が紛れる。
 昼休みになっても、既読にはなっていなかった。電話をかけると、電源が切れているアナウンスばかりが流れる。地震に巻き込まれた最悪のシチュエーションが頭をよぎる。
――今どこにいるのよ。連絡してよ。あんたはただの幼馴染かもしれないけど、こっちはとっくにただの幼馴染なんかじゃないんだから。
 風景写真ばかり撮る彼は、人物写真、特に私を被写体にすることはなかった。『いつかユートピアが見つかったらね』と言いながら、今日までやって来た。約束を守らないまま、なんてことだけにはなってほしくない。
どうやったら連絡が取れるだろう。いっそのこと現地にまで行ってみようか。いても立ってもいられない。定時で仕事を上がろう。残った仕事は明日に回して、早く帰ろう。そして飛行機のチケットを取りに行かなくちゃ。荷物をまとめ、事務所を後にした。正門を出た辺りで、足が止まった。
「なんで、ここに? 大丈夫なの?」
「びっくりさせてごめん。和葉のお母さんに聞いたら、会社だって言うから」
 目の前にザックを背負ったまま、出かけた時と同じパーカーを羽織った薫がいる。
「電話、ずっと繋がらなかったのよ。連絡してくれてもいいじゃない。心配したんだよ」
「ごめん。水没してダメになっちゃった」
「クロアチアには行ってないの?」
「最初は予定通りクロアチアのビシェボ島にある青い洞窟に寄るつもりだったんだけど、これが出来上がったって言うから、予定を変えてすぐに帰ることにしたんだ」
 薫はそう言うと、ポケットから小さな箱を取り出し、私の目の前で開いて見せた。そこには指輪があった。小ぶりな石が中心で輝いている。
「結婚しよう。和葉と一緒に見たい景色があるんだ」
「もう、突然言われても困る……」
 強がる声が震える。見つめる薫の眼差しが優しい。
「嫌だった?」
「……嫌じゃ、ない。イエスよ! 私と一緒に見たい景色って、どこよ。ユートピアとやらが見つかったの?」
 指輪を私の手にはめた後、薫はこちらに向かってカメラのシャッターを切った。そして「内緒だよ」と言って笑った。
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